1 お菓子を届けただけなのに ☆
北の夏は短い。涼しく過ごしやすいのは良いのだが、秋から冬へは飛ぶように移り変わってしまう。そして、春の訪れまでがとても長い。
虚弱な身の上では四の月でも暖炉の火が欠かせないし、出歩くにも毛織りの上掛けが必要だ。
だいたい、五の月の終わりごろから八の月の初旬が四季でいう「夏」で、自分にとっても過ごしやすい気候なのではないだろうか。
それはつまり、世間ではやや暑いということ。暑気当たりという言葉も聞くくらい。じっさい、今日は外を歩けばさすがに夏日だと感じるのだ。なのに。
(どうしてこのひとたち、こんなに元気なのかしら……)
「セイッ」
「やあぁぁ!」
石畳の修練場に野太い声が反響する。おそらく、外気温を越える熱気に満ちている。
周囲を三階建ての兵舎に囲まれている真四角の空間は、現在、むくつけき兵士らの体術訓練の場と化していた。間隔をとり、基本的に一対一で行われる自由組手のようだ。アイリスには縁遠いものだが、このなかに自分と同じ顔の弟が混じっているのが今も信じられない。視線を揺らし、弟を探す。
「ええと。ルピナスは」
「あそこですよ、アイリス嬢。いま、隊長に転がされました」
「! まぁ」
うっすらと砂煙がけぶる向こう側、比較的年若い者たちが順に並び、年長者に組み手を挑んでいる一角がある。
兵舎に辿り着き、案内を買って出てくれた北公騎士団参謀長のロランドは、やや身を屈めてもうすぐ十五歳になるアイリスの目線に合わせてくれた。
ちら、と手にしたバスケットに視線を流される。
「お届け物は、弟ぎみのお着替えと差し入れのお菓子でしたか」
「えぇ」
アイリスは、こくり、と首肯した。
暦は一年を十二に分けたうち、七の月になったばかり。
北都アクアジェイルの地はにわかに夏らしさを帯び、陽は燦々と照って外出には日傘が手放せなくなっている。
近頃、たまたま体調の良い日が続くアイリスは、昨夕なんとなく時間が空いたときに作ったカップケーキをたっぷり持参している。
公邸の敷地内に建つ兵舎へは、居住塔から徒歩十分。侍女を供に散歩がてら、騎士見習いとなったばかりの双子の弟の様子を案じて見に来たのだ。
(だって最近のあの子、生傷が絶えないんですもの)
北公子息である弟ルピナスも、厳正なる軍規に従いここでは下っ端。
この四の月からは本格的に剣術や体術の訓練が課されるようになったらしく、毎日よれよれの格好で帰ってきては擦り傷が増えてゆくのを見かねての、アイリスなりの大冒険だった。(※着替え一式が入った包みは侍女が持っている)
アイリスは、ちょっと残念そうに両手に抱えたバスケットをロランドに差し出した。
「訓練中ですし、わざわざお声をかけていただくほどの用でもありませんわ。ロランド様。申し訳ありませんが、これを……」
――あとで弟に渡していただけますか。
そう告げるはずだった言葉は、中ぶらりんのまま固まった。
修練場のなか、弟ほどでもないが、まだ細身の部類に入る、すらりとした体躯とオレンジがかった赤毛の印象的な少年がいる。
日焼けした顔や、軍のお仕着せである半袖の訓練衣からのぞく腕の筋肉は間違いなく弟を上回るだろう。背の高さも。そんな彼が嬉しそうに紫の瞳を細め、こちらに走ってきた。
「アイリス! 来ていたのか」
「はい。サジェス殿下」
――驚いた。
よく見つけられましたね? と、つい感心してしまう。
ここは修練場を見下ろせる一般開放席とは違う。等間隔に並ぶ柱に支えられた日除け・雨避けの庇が張り出す、兵舎の外回廊。長い長い濃い日影の端っこだ。
ふつう、明るい陽の下にいては見えにくいはずなのに。
なお、少年が動いたことで、観客席で見学(?)をしていたらしい、フリルたっぷりの日傘の一団からはざわめきが漏れていた。気のせいだろうか。そこからの視線が地味に痛い。
兵たちは動じず、まだ訓練のさなかにあるのだが。
自身が台風の目である自覚は一切ないらしい少年――サジェスは、アイリスの持つバスケットの掛け布を無邪気にめくった。
「うまそうだな。これはアイリスが?」
「はい。……あっ、だめです殿下。お毒味もなく」
止める隙もなかった。
指でつまんでカップケーキの一つを奪われ、あっという間に二口で完食。包み紙だった油紙は丁寧に折り畳まれ、ズボンのポケットにしまわれてしまう。流れるような一連の所作に、呆然と目をみはった。
いちおう、喉に詰まりにくいよう、しっとりと焼き上げた。きちんと冷ましてから氷室の魔法具でもある厨房の冷蔵室で一晩寝かせ、香り付けとつや出しに果物のリキュールを刷毛で塗っている。ちょっとブランデーケーキのような仕上がり。自信の一品だった。
とはいえ、あまりの食べっぷりにおろおろしてしまう。
(水は……しまったわ。こんなに夏日になるなら、差し入れは冷やした果実水のほうが良かったかしら)
アイリスの心配をよそに、ぺろりと唇を舐めとったサジェスは「うまかった」とだけ告げ、素早くバスケットの取っ手を持ち上げた。
(!)
アイリスはそこでようやく我に返り、はっと手を伸ばす。
「殿下、いけません。それは」
「わかってる。ルピナスへの差し入れだろう?」
「あ、はい」
「よければ、俺が届けよう。すまなかったな。断りなく食べてしまって」
「いえ……」
こちらの顔を窺い、伸ばした手を紳士的に、場違いなほど恭しく戴かれてしまう。まるで夜会のように。
が、サジェスの瞳はいたずらそうに煌めいており、台詞とは正反対ににこにこしているので、これは形式上の謝意だな……と受け取ったアイリスは、ふるふると頭を振った。
「大丈夫です。どうか、お気になさらず。昨日は体調が良かったので、ご覧の通りたくさん焼いてしまいました。些少ではありますが、第一隊の皆様には行き渡るかと」
「そうか」
にこ、と笑み深められ、握られていた指を離された。ほっとしたのも束の間、今度はにやりと悪い顔をされてしまう。
アイリスは訝しげに眉をひそめ、首を傾げた。
「殿下?」
「ありがとう。では、午後はこれを賭けてトーナメント戦でもどうかと小隊長に立案してみよう」
「え、そんな大げさなことをなさらずとも――あっ、もう!」
「行ってしまわれましたね」
「…………はい」
みるみるうちに赤い三つ編みの揺れる背が遠ざかる。
やがて、見習い騎士らに訓練を付けていた男性にバスケットを示し、何ごとかを掛け合う姿が見えた。
男性からは遠目に会釈をされ、アイリスも困り顔で会釈を返す。
隣ではロランドが溜め息をつき、アイリスと後ろに控えた侍女を交互に見つめていた。
「では、着替え一式は私が。ルピナス様に必ずお届けしましょう」
「……いたみいります……」
侍女を促し、手荷物をロランドに預けさせて空を仰ぐ。
目に染みるほどの晴天。もくもくと立つ白い積乱雲が、この上なく夏を感じさせる。
手ぶらとなった帰路。
どことなく嵐の気配を察し、兵舎を出たアイリスは、そさくさと自身の住まう塔へと足を返した。