IV. Die Fräulein
「お嬢様! ミラベルお嬢様!」
女中の呼ぶ声を振り切って、ミラベルは全力で走っていた。両手と背中には大荷物である。両腕が千切れそうだ。それでも、この荷物を手放すわけにはいかなかった。これはあたしが買ってもらったものだ。特別なお気に入りだけ悩みに悩んで選りすぐって、これだけはどうしても手放すわけにはいかない。家の連中なんかには渡さない。絶対に、これだけはあたしのものだ。腕が千切れそうな痛みも我慢して、この日のためにずっと練習していた補助魔法を総動員して、全力で、全速力で勝手知ったる庭を駆け抜ける。今日逃げなければ、もう後がない。あんな怖い怖いところへ生贄に差し出されるなんて、絶対に嫌だった。あたしは生贄じゃない。そんな勝手なことは絶対に許せない。許せない許せない。本当はこっそり逃げ出すつもりだった。あの継母のやつが、「お転婆なミラベルちゃん」のためにこんな罠みたいな、罠そのものの探知魔法をかけて屋敷のまわりを見張っているだなんて、いややっぱり少しは想像していたとはいえ悔しくてたまらない。でも大丈夫だ。あたしにはこの補助魔法がある。どんなに重い荷物を持っていたって、誰よりも速くどこまでも遠く走り続けられる自信がある。それに本当に地平線の彼方まで行かなくちゃいけないわけじゃない。あの噴水まで、あの場所まで行けば、きっと。もしだめだったら、何も起こらなかったらなどと考えている余裕はなかった。今日は十七歳の誕生日だ。だから絶対に大丈夫なはずだ。絶対に行けるはずだ。ここを遠く遠く離れて、誰の手にも届かない場所へ。大おばあさまが嘘なんてつくわけがない。ミラベルは走る。走る。走る。茂みを抜け、花壇も踏み散らし、靴が泥まみれになっても、枝に引っかかって自慢の髪が抜けても、かまっていられずに全速力で走り抜ける。太い棘で左腕に大きな傷ができたことにも、気がつかなかった。誕生日のドレスをかぎ裂きの血染めにしながら、ミラベルは走り続けた。もうすぐだ。もうすぐ、庭の北の果て、森と混じる境界の領域にある忘れられた枯れた噴水に着く。そのあたりに着いたはずのところで、噴水のあったはずの場所を見てミラベルは思わず悲鳴を上げた。
「なんで! なんでなんでなんで何これ?」
噴水があったはずのところは更地になっている。噴水のあったところだけがきれいに、むき出しの茶色い土で真っ平に均されているのだ。もうそのまま突っ込もう。もう森の方まで突っ走ろう。走って走って走り抜けて地平線の彼方にまで行くのだ。ミラベルは走った。走って走って走り抜けた。破れかぶれに走り続けた。あたりが急に薄暗くなっても、まわりの景色が分からなくなっても、それでも思い切り駆け抜け続けた。そして、彼女は何者かに猛烈な勢いで衝突し、ぶつかった相手を荷物込みの重量とそのすさまじい勢いで思いきり前方へ吹っ飛ばした。
とんでもない衝撃でぶつかって転んで床に転がって初めて、ミラベルははっと我に返った。今何かに、誰かにぶつかった気がする。あの勢いでぶつかってあたしはこんなに体中すごく痛くて、相手は大丈夫だろうか。それよりもこの薄暗い硬い床の場所はどこだろう。ミラベルがゆっくりとあたりを見回すと、そこは、薄暗い石の廊下、赤い敷物が敷かれ蝋燭の明かりに照らされた廊下だった。ミラベルの荷物があたりに散乱し、ミラベルが転がっている場所の前方に、黄色いコートの女性が転がって起き上がるところだった。黄色いコートの女性——サンドラは見事な受け身で起き上がってから心底驚いた様子で言う。
「なんなの? 貴女どこから出てきたのよ。もう、すごい勢いでなんだかぶつかってきて、ああ、ちょっと、貴女、大丈夫なの?」
ミラベルは地面にお尻をつけた格好のまま、サンドラに謝る。
「ごめんなさい。あの、あたしほんとにほんとにすごく急いでて、前なんか見てなくて、あの、いきなり真っ暗になってもずっと走り続けちゃったから、その、あのほんとにごめんなさい」
サンドラは右手を掌を前にして出し、取り乱しているミラベルを制止して言う。
「はい、分かったから。ちょっと落ち着きなさい」
それから、サンドラは尻もちをついて座っているミラベルの目の高さに合わせて跪き、ミラベルのぼろぼろの白いドレスと血を流す切り傷だらけの肌を見て、心配そうに言う。
「ひどい恰好よ。そんなに急いでどこへ行くつもり?」
ミラベルは少し考えて答える。
「たぶん、ここ。あたしはきっとここに辿り着きたくて、急いで走っていたんだわ」
サンドラは驚く様子もなく、「そう」と頷く。そしてミラベルに聞く。
「今ぶつかったので、どこかひどく痛むところはある? 骨は折れていないかしら? 手を貸してあげたら立ち上がれそう?」
サンドラはそう言って立ち上がり、今度は握手を求めるような形で右手をミラベルに差し出す。ミラベルはその手にありがたくつかまって身体を起こす。サンドラの手は、ミラベルの思いのほか大きくて掌は硬い。ミラベルは起き上がってから、身体を動かしてみて痛いところがないことを確認し、そしてサンドラに礼を言う。
「ありがとう。どこも折れてはいないみたい。あなたにぶつからなかったらもっとひどい怪我していたと思う。あの、あなたの方は大丈夫かしら?」
サンドラは答える。
「私はとっても驚いたけれど大丈夫よ。ほんとに、背中から破城槌で殴られたかと思ったわ」
本当に驚いたという様子でそう言うと、サンドラはミラベルを頭からつま先まで眺めて言う。
「貴女、その傷はなんとかしないといけないわね。よかったら私の部屋までおいでなさい。私はサンドラよ」
ミラベルは「いいの?」と驚きながら名を告げる。
「あたしはミラベル。サンドラ、迷惑をかけてごめんなさい」
するとサンドラはこう言う。
「私もここへは最近いきなり来たばかりだから、貴女の世話を焼きたくなったわ。それだけだから気にしないでね」
それからサンドラは、あたりに散らばっているミラベルの荷物を見て言う。
「これもいったん私の部屋へ運びましょう」
サンドラがそう言うと、たちどころに煙色の従僕が一人現れる。驚いているミラベルと、その手があったかという顔をしているサンドラに、従僕は礼をして言う。
「クレアローゼ様のお部屋はディスベル様のお部屋のお隣にご用意しました。お荷物をお運びいたします」
サンドラはミラベルの顔を見て、「ディスベルは私。クレアローゼは貴女?」と聞く。ミラベルはサンドラに頷きを返し、少し心強い気分になって従僕に言う。
「ありがとう。大切なものだから、気をつけて運んでちょうだい」
その様子を見てサンドラは、ミラベルが人を使うことに慣れた階級の娘だと知る。従僕は手際よく荷物を拾い集めると、その量も重さもものともせず、廊下を滑るように先へ進んでゆく。サンドラとミラベルはその後に続く。ミラベルは体中の傷の痛みを改めて認識し、辟易する。薔薇の茂みや選定されたばかりの庭木にまで、構わず突っ込んだからだ。
サンドラの部屋の前へ着くと、従僕はその扉の一つ向こうの扉まで進み、そこで立ち止まってミラベルの方を向いて言う。
「クレアローゼ様のお部屋はこちらです」
ミラベルは従僕に言う。
「荷物を中へ入れておいて」
従僕がミラベルの部屋の中へ消えると、ミラベルはサンドラを見あげる。サンドラは、自分の部屋の扉を開けて、ミラベルに言う。
「とりあえずこちらへいらっしゃい。あの人が何か説明してくれるわけじゃないから」
部屋があるならこちらへ来るなと言われなかったことに安堵しながら、ミラベルはサンドラの部屋の中へ入る。サンドラの部屋の中は、サンドラが初めて来たときとほとんど何も変わっていない。机の上に奇妙な時計と白い封筒があるだけだ。サンドラはコートを脱いで衣装掛けにかけると、ミラベルをソファーに座らせて言う。
「いいところのお嬢さんが、そんな傷だらけになってどうしたの?」
ミラベルははっとしておびえた様子で尋ねる。
「あたしの家のこと知ってるの?」
サンドラは慌てて否定して言う。
「いいえ、知らなくても分かるわよ。そのドレス、今はぼろぼろだけれど、すごくいいものでしょう?」
ミラベルはほっとして胸をなでおろしながら言う。
「このドレスは気に入らなかったからもういいのよ」
サンドラはふっと微笑んで言う。
「そういうところもお嬢さんらしいわね」
サンドラは懐の鞄を少し探って中を確かめてから、部屋の西側の扉を指してミラベルに言う。
「汚れちゃってるから湯あみしていらっしゃい。使い方分かるかしら? 私は聞くまで分からなくて、聞いてから結構驚いたのよね」
驚いたってなんだろうと思いながらミラベルが立ち上がると、サンドラは浴室まで先立って行き、扉を開けてミラベルを中に入れ、蛇口とシャワーの使い方から教える。
「ここをこう捻るとなんとここからお湯が出るのよ。ここで熱さを調節できるの。こっちは冷水、こっちは熱湯。火傷するほど熱いから気をつけて。これでお湯を浴びながら、この白い桶に入って身体を洗うの。身体を洗う石鹸はこっち。それでね、この入れ物は髪の毛を洗う洗剤らしいわ。ここを一回強く押すと一回分ずつ出るから使ってみたらいいわ。私使ってみたけれどけっこういい感じ。髪を洗い終わったら、今度はこっちを濡れた髪につけてちょっと置いてから洗い流すの。ぜんぶ覚えた?」
目を丸くして聞いていたミラベルは、黙って頷く。サンドラはミラベルが頷くのを見て、今度は大判で厚地のきれいな布と同じ布でできた羽織を渡して言う。
「ぜんぶ洗い終わったら、この布で身体を拭いて、こっちの着物を着ておしまい。濡れた髪はこの櫛で梳かしながら拭く。それでちゃんと水気が切れてから、この着物を脱いでいつもの服を着るの。それと、お湯を浴びたら傷にしみると思うけれど、ちゃんときれいに洗いなさい。石鹸は勘弁してあげてもいいけれど、せっかくきれいな肌なのに、土が入ったまま塞がったら嫌でしょう」
ミラベルは人からそんなふうに指示されるのは初めてだったが、おとなしく「はい」と返事をする。それを確認してから、サンドラは「分からないことがあったら言うのよ」とミラベルに言い残して浴室を出てゆく。見慣れない浴室に一人残されたミラベルはちょっと心細くなりながらも、着ている服を脱ぎ、教えられた興味深い工程をきちんとやってみる。お湯も石鹸も本当に傷にしみるので涙目になりながら。
ミラベルが厚地の羽織を着て浴室から出てくると、サンドラはミラベルをまたソファーに座らせる。ミラベルは左腕を抑えながらサンドラに言う。
「ちゃんと洗ったけど血が止まらなくて服を汚したわ」
サンドラはその傷を見て「最初に止血剤をあげるべきだったわね」と言い、鞄から出した紙包みの中の粉を一つまみ指先に取る。そして「痛くないから大丈夫よ」と言ってミラベルの一番ひどい傷にさらさらと振りかける。するとまたたく間に流血が止まり、ミラベルがまた目を丸くして言う。
「すごい。サンドラはお医者様なの?」
サンドラは「違うわ。むしろお世話になる方」と否定しながら傷口の血を濡らした布で拭い、別の紙包みから別の粉をまた一つまみ取って、同じ傷口にさらさらとかける。それから、開いたままの傷口を両手でぎゅっと押さえて閉じる。ちょっと痛かったがミラベルは我慢する。しばらくしてサンドラが押さえた手を離すと、なんと傷口はきれいになくなっていた。最初からなかったかのようで、跡も何も残っていない。ミラベルはあっと驚いて言う。
「回復魔法だ。回復魔法なんてあたしでも使えないのに」
回復魔法という言葉に、サンドラはふふっと笑いながら否定して言う。
「違うわ魔法なんかじゃない。これは、リノリアの女性兵士がみんな玉の肌でいられる便利な発明」
兵士と言われミラベルはまたサンドラを見る。コートを脱いだその服装と顎のあたりで切りそろえられた銀髪を見て、なるほどと思いながら言う。
「サンドラは兵隊さんなのね。男の人みたいな恰好をしているのは、制服を着ているからなんだ」
サンドラは「そうよ、気がつかなかった?」と笑って肯定する。それからミラベルの残りの傷も同じ要領できれいになくしてしまい、紙包みを鞄に片付ける。サンドラに優しくしてもらう間に、ミラベルは恐ろしい運命からどうやら逃れられたらしいという安堵感を強く感じて、なんだか泣きそうな気分になる。ミラベルはサンドラに言う。
「サンドラ、あたしね、すごく怖いところから逃げてきたのよ」
サンドラはミラベルの隣に座り、「そう」と静かに相槌を打つ。ミラベルが「それでね——」と言いかけたところで、部屋の扉が四回叩かれる音がする。ミラベルは青い顔をしてびくっとする。サンドラは「怖かったら貴女は隠れてらっしゃい」と小声で囁き寝台の奥を指さして立ち上がり、ミラベルが隠れたのを見届けてから、扉の外の人物に応答しに行く。サンドラが扉の内側から「誰だ」と誰何すると、聞いた覚えのある女の声でこう返ってくる。
「ルパニクルスから派遣されて参りました説明係でございます。クレアローゼ様にご用があって参りました。クレアローゼ様はそちらにいらっしゃいますでしょうか」
サンドラはすぐに扉を開けず、こう質問する。
「封筒の開封を指示する針はどのような針か?」
女の声は答える。
「長い針でございます」
どうやら本物らしいとサンドラは扉を開ける。灰色の妙な服を着た説明係の女は、サンドラに最初と同じ質問を繰り返す。
「クレアローゼ様にご用があって参りました。クレアローゼ様はいらっしゃいますか?」
サンドラは少し迷ってから、「待っていて」と女に声を掛け、一度扉を閉める。それからベッドの向こうに隠れているミラベルのところに行き、小声でこう尋ねる。
「貴女がどうしても逃げたい相手は、ルパニクルスからの使者?」
ミラベルが違うと首を振ると、サンドラはミラベルに言う。
「それなら、私が知っている『ルパニクルスから派遣されてきた説明係』は中に入れてもいいわね?」
ミラベルは一瞬躊躇してから、自分の服装を見てサンドラに言う。
「これって下着みたいなものでしょう? 部屋へ運んだ荷物の中に着替えがあるから、会う前に着替えたいわ」
娘らしい恥じらいを微笑ましく思い、サンドラは頷いて言う。
「分かったわ。部屋に戻って着替えるまで待たせておくからもうしばらく隠れていて」
サンドラは扉の方へ戻る。待たせておくと言ったってあの扉を通らなければ荷物のある部屋には行けないのにどうするのだろうとミラベルが考えていると、サンドラは説明係の女を部屋に入れ、なんと浴室へ入るよう促し、その扉を閉めた。それからミラベルのところに戻ってきて言う。
「もういいわよ、部屋へ戻って。話はそのまま向こうで聞く?」
ミラベルは質問で返す。
「ここへ戻ってきて話を聞いてもいいの?」
サンドラはこう返す。
「別にいいわよ。私がいてもよければ。たぶん私は一度聞いた話だけれど」
ミラベルは「ありがとう。すぐ着替えて戻ってくる」と言って立ち上がり、扉の外へ消える。ミラベルがいなくなってから、サンドラは説明係の女を浴室から出し、部屋のソファーへ案内した。形式として二人掛けをすすめるが女は断り、「客人は説明を受ける方ですから」と言って一人掛けの方に座った。それから女は立っているサンドラを見あげ、「クレアローゼ様のお隣に座ってさしあげてください」と言う。サンドラが二人掛けに座り、女に「私にしたのと同じ話でしょう」と言うと、女はこう答える。
「おおむね同じですが、クレアローゼ様の場合はそれほど長いお話にはならないかと思われます」
では私のときは長いお話だったということか、とサンドラは思う。女はサンドラに聞く。
「気晴らしにはもう行かれましたか?」
サンドラは答える。
「行ったわ。なんだか小汚い恰好の男に絡まれて落ち着かなかったけれど。まあちょっと面白そうなところね」
説明係の女は、小汚い恰好の男については何も言わず、当たり障りのない返答と別の問いを返す。
「そうですか。それではこちらもご紹介した甲斐がありました。浴室は使われてみていかがでしたか?」
サンドラはうんと頷いて言う。
「あれはとてもいいわね。はじめは色々戸惑ったけれど、使い方を教えてもらって助かったわ。どうしてあれだけですぐにお湯が使えて、温度の調節までこちらでできるのかしら。どこかに焚いたお湯が溜めてあって、それを水と混ぜているのだと思うけれど、贅沢な設備ね」
女が答える。
「水回りに関しては、皆様驚かれることが多いです。使い方についても説明が必要なことが多くて、【探索】のご説明の後に水回りのご説明をするのがすっかり私の定番です。せっかくある素晴らしい設備は、ぜひ皆様に使っていただきたいですから」
サンドラは「さっきも驚いている子が一人いたわね」とミラベルのことを思い出しながら返す。「クレアローゼ様に水回りのご説明をしてくださったのですか?」と女は尋ねる。サンドラは答える。
「貴女の受け売りだけれど。自分がした説明で相手が驚いているのは面白いわ」
説明係の女は、「まあ」と言って笑みを零す。そして「説明係の醍醐味を体験されましたね」等と言う。そんな話をしているうちに、ミラベルが戻ってくる。ミラベルが着ているのは、橙色のウエストがぎゅっと絞られたデザインのドレスだ。いったいどうしたのか、洗ったばかりで濡れていた長い髪はすっかり乾いてふわりときれいに髪飾りでまとめられている。靴も靴下も来たときのままで汚れを落としただけなので、ミラベルにとっては完全に間に合わせの恰好だったが、十分に華やかな姿だとサンドラは思う。ミラベルが部屋に入ってくるのを見て、説明係の女はさっと立ち上がり、礼をする。ミラベルが言う。
「お待たせしてしまってごめんなさい。私がミラベル・ユーフィリア・クレアローゼです。よろしくお願い申し上げます」
そう言って優雅に一礼する。どこにもぎこちないところはないのだが、サンドラは糸の付いた操り人形の【令嬢】を想起する。説明係の女はもう一度丁重な礼をして言う。
「結構なご挨拶をどうもありがとうございます。私はルパニクルスから派遣されて参りました説明係でございます。この度はクレアローゼ様をこちらへお招きした理由をご説明させていただきたく参りました。こちらディスベル様のお部屋でございますが、ディスベル様のご了承もいただいておりますので、どうぞお掛けくださいませ」
ミラベルは会釈してサンドラの隣に座る。説明係の女も腰掛けると、まずミラベルにこう確認する。
「クレアローゼ様。今回のご説明においては、少々個人的な話題が出ることもあるかと存じますが、問題はありませんでしょうか」
サンドラは傍らでそれを聞きながら、個人的なという言葉がこの発言の中でどのような意味で使われているのかがはじめ分からなかった。ミラベルは迷いなく返答する。
「問題ありません。サンドラになら何を聞かれても私は構いません」
ああ個人的とはそういう使い方をする言葉なのかと、サンドラは理解する。説明係の女は「承知いたしました」と頷いて、次はこう切り出す。
「畏れながら、もう少し気楽な話し方をしていただいて結構です。私は、クレアローゼ様が今お考えのような、何か大きな権威を持つ存在ではございません。私はただ、派遣された説明係です。ここの使用人のようなものと思っていただいて結構です。どうかお楽になさってください」
ミラベルは難しい顔をして何か考えて、それから右隣のサンドラの方をちらりと見る。サンドラは言う。
「私もそう思うわ。貴族社会のお作法はどこでも面倒くさいものだと思うけれど、この人の前でそれをしないからといって何か不利益を被ることはないはずよ。この人は仕事でこの係をしているから」
サンドラが「そうだったわね?」と言って説明係の女に確認すると、女は「もちろんでございます」と答えて頷く。ミラベルはなおしばらく前を向いて黙っていたが、ようやくふっと息を抜く。そして女に言う。
「ほんとにいいのね? あたしは『お転婆なミラベルちゃん』よ。後で怒られたりしたら、暴れ返すわよ」
そう言ってソファーの上にわざとふんぞり返って見せる。サンドラはそんなミラベルを見て女に言う。
「このお嬢さんは本当に怖いわよ。何もしていなくても背中に破城槌をぶつけられたくらいだから」
女は少し面白かったらしく笑みを漏らしながら言う。
「クレアローゼ様がこちらへいらっしゃったときのことは、存じ上げております」
それから、急に深刻な顔になって立ち上がり、サンドラに深々と謝る。
「誠に申し訳ございませんでした」
サンドラは「やっぱりそうだったのね」と悔しそうに言ってから、女にこう言う。
「私にぶつけて止めなかったら、この子もお城のどこかの壁も結構ひどいことになってたでしょうし、私は私で少し目が覚めたから、これはこれでよかったんじゃないかしら」
女は恐縮して言う。
「そのように言っていただけると本当に助かります」
ミラベルはまたうなだれている。サンドラはミラベルに言う。
「だからあなたはその『お転婆なミラベルちゃん』のまま全力で生きてたらいいわ。こんなところにまで来て、貴族らしくしてなくたっていいじゃない」
そしてサンドラは説明係の女にもう座るよう促す。女は礼をしてまた席に着く。ミラベルはどきどきしながら女に真剣な質問をする。
「説明係さん、あたしはもうあの家には戻らなくていいのかしら」
女は真面目に答える。
「はい。これからするお話を承諾していただければ、クレアローゼ家の娘として搾取される必要はなくなります。いつかヴァーゼル王国を訪れることがあったとしても、あくまでも客人としてであり、そこに長期間滞在し続けなければならないことはありません。またお一人で行くということもないのです。」
サンドラが驚いたことに、ミラベルは話を先回りしてこう聞く。
「それは【探索】と【崩壊期】に関わるお話?」
女は驚く様子もなく、「はい、そうです」と肯定して続ける。
「クレアローゼ様は【探索】と【崩壊期】についてはいくらかお聞き覚えがあるようですね。私がこれからいたしますお話というのは、ご想像の通り、【崩壊期】の進行を阻止するために、クレアローゼ様にも【探索】に加わっていただきたいというお話なのですが、正式なお返事をお聞きする前に、お願いする内容を今一度確認していただきたいのです。ご自身の永遠に関わる選択となりますので、決して後悔することがないよう、きちんと内容を確認していただきたいのです」
ミラベルはこくりと頷く。女は話し始める。
「では、クレアローゼ様。あなたがひいおばあさまからお聞きになった【崩壊期】とは、どんなものでしたか?」
ミラベルは暗唱するかのように答える。
「あたしたちのいる世界だけでなく、他のたくさんの世界も包括する一つの軸を持つ総体の力が、衰退してゆくこと。【崩壊期】の段階が進むと【瘴気】が発生して、生き物の影を複製して生き物を滅ぼすの。すべての生き物が滅ぼされて影だけになった世界は、基盤が力を失って消滅する」
女は頷いてこう言う。
「はい、素晴らしい回答でございます。では、その【崩壊期】の進行を防ぐための【探索】では、どのようなことが行われますか?」
ミラベルはどこから答えようか少し迷うが、すぐにまた諳んじるように話し始める。
「選ばれた人間が永遠の時をかけてすべての世界をめぐる。すべての世界においてそれぞれの地の【守護者】をそれぞれの方法で活動化させ、瘴気に対抗させる。基盤を崩壊から守ってもらう」
女はさらに問う。
「では、【守護者】はどういった姿かたちをしていますか?」
ミラベルは答える。
「定まっていない。たいていは意思のない機構。まれに意思表示する何ものか」
女はまた問う。
「【探索】の参加者が永遠を行くためにルパニクルスが施す措置は何で、それはどのようなものですか? 【探索】から脱落した場合、その措置はどうなりますか?」
ミラベルは淀みなく答える。
「【定着】という措置。生命の砂時計の砂の落下を止め、生命のうつろいを【探索】の開始時点で固定する。そして使徒は永遠となる。この措置により、使徒は狭間の城ーー『お腹が空くことも喉が渇くこともない楽園のお城』に間借り人として永遠に【定着】することができ、城を拠点に各地を【探索】する任に就く。【探索】から脱落した場合、【定着】は解除され、狭間の城からも追放されて、元来た時代の元来た場所へ戻される」
サンドラはミラベルの回答ぶりに感心しながら、複雑な話だったから私にもおさらいになっていいわねと思う。ミラベルが言い終えて、ふうとため息をつくと、女は微笑んでこう言う。
「はい、すべて完璧な回答でございます。ここまでで何か聞いておきたい疑問点などはありますか?」
サンドラは「はい」と言って質問する。
「大おばあさまはどうしても教えてくれなかったのだけれど、どんな場合に【探索】から『脱落する』のかしら」
女は答える。
「【定着】は砂時計の砂の落下を止める措置ですが、砂時計そのものが割れてしまえば、中の砂はこぼれてしまいます。つまり怪我をして亡くなった場合には、【探索】から脱落することになります。また、亡くならないまでも大怪我をしたり、心に大きな傷を負われて継続不可能となった際にも、脱落することになります」
それを聞いてミラベルはさらに聞く。
「それじゃあ、大おばあさまはどうして脱落したの?」
女は答える。
「たいへん痛ましいことですが、ミレニア・オルカスタ・クレアローゼ様と【探索】の旅をともにしていた方々は、ミレニア様を除く四名全員が脱落してしまわれたためです。ミレニア様ご自身も心に傷を負われ、【探索】の継続は困難と判断されました。将来クレアローゼの家系にお生まれになるご息女の中に、ミレニア様が認めるほどの強力な魔女がいらした場合は、選択肢として【探索】のことをご案内していただきたいとお願いのうえ、お戻りいただいたのです」
ミラベルは衝撃を受ける。あの優しい大おばあさまに、そんな悲しい過去があったなんて思いもしなかった。大おばあさまは大魔女だったので、強力な魔女として認められたことは嬉しかったが、【探索】の厳しさも心に迫る。それでも、逃げ出してきたばかりのあの恐ろしい家に戻るという選択肢はミラベルにはありえない。【探索】を引き受けるしかない。サンドラもまた、色々と思い巡らす。説明係の女は問う。
「他にご質問はありますでしょうか?」
ミラベルは質問する。
「あたしは誰と一緒に【探索】をするのかしら。あたしを入れて五人でしょう? サンドラは一緒よね?」
女は答える。
「はい、ディスベル様はご一緒です。規定では五名ですが、今回は見かけ上六名です。顔合わせは正式に決定してからとなります」
ミラベルはサンドラが一緒と聞いてよしと喜ぶ。ミラベルはサンドラの薄いグレーの瞳と涼しい佇まいが大好きだった。サンドラは、故国で自分を慕ってくれていた後輩たちを思い出し、懐かしく切ない気持ちになる。ミラベルは見かけ上六名が気になったらしく、女に尋ねる。
「『見かけ上六名』ってどういうこと?」
女は答える。
「【探索】の規定で二名一緒で一人分の枠となる方々がいます」
ミラベルはふうん、と言って「夫婦とか?」と女に聞く。女は答えを濁す。
「単に夫婦や双子であればこのような扱いにはならないのですが、事情のある方々です」
ミラベルはちょっと不安そうに言う。
「あたし、みんなと仲良くなれるかしら」
女は「もちろんです」と言って自信ありげに言う。
「必ずお友達になれますよ。皆様、様々なご事情があり、癖の強い顔ぶれではありますが、必ず仲良くなれるはずです。協力してやってゆける組み合わせかどうかは、ルパニクルスが【探索】の参加者を選定するうえでかなり上位に置かれた選考基準ですから。請け合います」
ミラベルはそれでも少し不安だった。元いたところでは友達なんて一人もできなかったからだ。それでもとりあえず頷き、女に言う。
「分かった。それなら大丈夫ね。もう質問はないわ」
女は一礼して言う。
「承知いたしました。それではクレアローゼ様、以上の内容をすべて承知したうえで【探索】にご参加いただけるということで、ご意志はお変わりないでしょうか」
ミラベルは迷いなく答える。
「変わりません。私ミラベル・ユーフィリア・クレアローゼは【探索】に参加します」
その答えを聞いて女は言う。
「はい、それではクレアローゼ様、あなた様は【定着】され、たった今から永遠を行く【探索】の参加者となりました。誠にありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします」
ミラベルは「はい、ありがとう」と言ってから、ああそういえばという雰囲気で女に問う。
「もう人の組み合わせが決まっている状態でここに招待されているなら、誰かが断ったときのために補欠で呼ばれてるような人もいたりするのかしら? あたしはそれが自分で、やっぱり順番が来なくて帰れって言われるのが怖かったんだけれど」
女は答える。
「いいえ、そのような方はいらっしゃいません。必ずご承諾いただけるよう、中枢機構の計算のもと計画的に動いておりますので、予備の必要はないのです。今回も、こちらにお呼びいたしましたのはお二人を含む四名様と、元々ここに滞在していらした二名様だけです。クレアローゼ様が確定されましたので、これで全員確定です」
ミラベルはへえそうだったんだと安心しているが、サンドラはそれを聞いて少し怖い話だと思う。なにしろ承諾されないということが文字通り、あってはならないのだ。サンドラが聞いた限りでは五名というのは鉄則のようだったし、今回のように“見かけ上六名”が発生したにしても、減る方向で“見かけ上五名”は許されないようだった。ここへ呼ばれた人間は、必ずこの話を承諾させられることになる。自分やミラベルのように、始めから選択肢がないような人間ばかりが集められているのだろうか? それでも、もし断ったらどうなる? サンドラは聞いてみる。
「ねえ、そんな一発勝負みたいなことをやっていて、ちょっとリスクが大きすぎない? もし、誰かが断ったらどうするの?」
女は穏やかに答える。
「きちんと計算さえしていれば問題は発生しません。断られない条件をあらかじめ作っておき、それをご提示するのです。ご提示の仕方は説明係の腕の見せどころですが、私が寄与する要素など、全体にとって無視してもよいほど小さなものです。説明係の腕前がなくとも、必ず、私どものご提案は断られません。中枢機構が計算した『断られない条件』ですから」
サンドラはさらに尋ねる。
「『断られない条件』は、呼ばれる方にとっては『断れない条件』ではなくて?」
女は答える。
「視点を変えればそのようになるかもしれませんね。人間が求めるもの、逃げ出したいものは、本当にお一人お一人それぞれですから。それらすべてをきちんと計算して条件を組むのが、中枢機構です」
それと、と言って女は続ける。
「ディスベル様が今ちらりと考えられたように、私どもが苦しみを生むかたちでどちらかの世界に干渉したことは近年ございません。中枢機構が未熟であった頃には、悲しみがもたらされたこともございましたが、それは過ちと判断されております。結果が苦痛であれば、いかに多くの喜びを生んだ決断であっても失敗と判断されます。納得いただけましたでしょうか?」
女に問われ、サンドラは頷く。説明係の女は、ミラベルに例の時計と白い封筒を渡し、その使い方と教え、ついでに使用人の呼び方と洗濯かごの使い方を教えて、礼をして去っていった。