XXVII-iii. Sibylla Pseudostellae III
「これから得ることになる、まだないもの」
【黄昏】の左側には、濁った沼地、暗鬱な【憂いの沼】の図像が現れた。
【黄金の杯】の左側には、静謐な後光の差す【車輪を抱く女】の図像が現れた。
またしても対照的な雰囲気のカードだ。劇作家がいるならまあまあの演出だとテオドロスは思う。
それにしても、【憂いの沼】とは随分な結果だ。一度沈んだら二度と抜け出せないような絶望的な行き詰まりを連想させる絵柄で、未来として喜ばしいものとは思えない。絵は全体が暗く、葦一本生えていないどんよりとした沼地の、泥だまりのような鈍色のどろりとした水面から、沈んだ犠牲者のものと思われる右手が一本、突き出している。既に手首まで沈んでいるその手は、何かを掴もうとしているようにも、既に力が抜けているようにも見える。掴まれるようなものは周囲には何一つないので、沈み切るのは時間の問題だろう。
テオドロスに言わせればこれは、ただの占いだ。それも、背後に陰謀家がいることがいかにもな茶番の結果など、ただ面白がるか、向こう側の意図を探って次の展開に活かす材料以上の価値はないだろう。
当然、アランもそんなことは分かっているはずだと、テオドロスは思っていたのだが、どうやら雲行きが怪しい。アランは、【憂いの沼】のカードを見るなり頭を抱えて俯いてしまった。
極端に自信家で快活な時期と、極端に悲観的で陰鬱な時期を交互に繰り返す病があるが、テオドロスはそれと似たものをアランに見出している。βとαそれぞれの世界における彼のあり方だ。どちらの世界にいるかで、アランは性格ががらりと変わる。他のインディゲナにもなかなか見られない性質で、昔からテオドロスにはそれが面白くてならない。
しかし、どちらでもないというこの場所では、どういうことになるのだろうか。これまでの様子を見るに、αの方の陰鬱な状態に近い、というよりそれそのもののように見える。アランの性格のスイッチは、場によるというより、その場で発揮できる力に依存して変わるのではないかとテオドロスは考えていた。それが正しいなら、やはりこの場ではアランは無力なのだろう。
《α世界》でのアランの暗さは、年を追うごとに酷くなってきていた。年々影が薄くなり、気が付いたらいなくなってしまいそうな、いつの間にか失踪するか、どこかで首を括って死んでしまっていそうな、そんな危うい雰囲気を、テオドロスはこの友人からずっと感じている。出会ったときからそうだったのだが、ここ最近はいよいよ駄目そうという運びになってきた。そこでテオドロスは自分の妹の監視という役割をアランに与え、そのうち妹のユリアにも監視してもらうようなつもりで、そこから色々を経て、例の駆け落ち騒動と現在の状況に落ち着いたわけだった。
ところが、薔薇色の恋の火を灯してみたところで、夜はやはり夜というか、真昼のように暗がりが晴れることはないもので、悲観が楽観にがわりと変わるようなこともない。テオドロスの見たところでは、アランはやはり何かに絶望しているようであるし、《β世界》での快活さでさえ、根本的な絶望の裏返しというか、一種の自棄のような乾いた芝居に見えてきてしまうのだった。
というわけで、アランは未だに目を離したら身投げしそうな危うい状況にあり、それをユリアの存在が繋ぎ止めているという、非常に弱点の分かりやすい状況にある。ルパニクルスのヒューマノイドが言った『四人全員が無事に帰還するために』ユリアが役に立つという話も、魔女の攻撃が精神攻撃であるなら、テオドロスには納得がゆく。つまり、一番危ういのはアランなのかもしれない。
そこで出てきたこの【憂いの沼】だ。しかも、未来の位置に。死にそうな顔をしているアランに、巫女は言う。
「【憂いの沼】。底なしの絶望、袋小路、二度と取り戻されない喪失。誰もが終わりを迎えます。遅かれ早かれ、消えるにせよ、眠るにせよ」
アランは黙って聞いている。ユリアは心配している。巫女は続ける。
「往古、この地に楔が打たれるより前に、ある習慣がありました。災いを退けるおまじないです。【穢れの長子】と呼ばれるものですが、聞いたことがおありでしょうか」
これまでとは少し毛色の変わった話だ。問われているのはアランだが、彼はその語に聞き覚えがなかったので、首を横に振る。巫女は「そうですか」と頷き、話を続ける。
「この習慣について伝え聞くものは、もう多くはありません。古い、古いお話です。【穢れの長子】は災いの子。厄災の担い手とされました。一人の【穢れの長子】が死ぬときは、その子が穢れを引き継ぎます。実子がなければ、くじを引いて子を決めたそうです。ただし、【穢れの長子】が殺されたときは、殺した者が、その穢れを引き継ぐとされました」
ユリアもテオドロスも、そんな話に聞き覚えはなかった。伝説伝承の類だろうか。巫女はさらに続ける。
「ですから誰もが、【穢れの長子】を殺すことを忌んだでしょう。自らが穢れを負うことになるからです。しかし、海を越えてやって来た人間たちは、そうではありませんでした」
巫女の話が創作でなければ、建国期についての知られざる伝承だ。テオドロスは関心を持って耳をそばだてる。アランは話の方向性を察した。ユリアはまだどこへ転ぶか分からないこの話に不穏なものを感じている。
「彼らは一人の【穢れの長子】——不幸にして他の誰よりも強い力を持って生まれた、特別な若者を誘惑して利用し、この地に楔を打ち込みました。方法はわたくしたちにも伝わっていません。そして、そうした後に、彼の力を恐れて殺したのです。これも、どのようにして殺したのかは、伝わってはいないのですけれど」
はぐれた悪魔だと、テオドロスは思う。何の確証もないが、話を聞いて彼はそう思った。他のどの悪魔よりも強い力を持って生まれたというその悪魔を殺したのは、ルパニクルスの差し金だろうか。入植者たちは、特殊な力を使う先住民に自分たちだけでは太刀打ちできなかったはずで、その中で最も強い力を持つような相手を殺す力があったとは考えにくい。『楔を打った』後、はぐれた悪魔を殺したのなら、そのときにはもう彼がいなくても問題ないほど完全に、先住民と入植者の力関係が逆転していたということなのだろうか。
アランは別のことを気にしていた。穢れが引き継がれるなど馬鹿馬鹿しい話だが、【穢れの長子】が殺されたのなら、話のうえでは殺した者が次の【穢れの長子】になるはずだ。だとすれば、伝わっていないという『どのようにして殺したか』は重要なのではなかろうか。一体誰が穢れを引き継ぎ、【穢れの長子】を継承したことになっているのか。もっとも、【穢れの長子】に実子がなく他殺でもない場合に後継者を決めるくじ引きが行われなかった場合、その継承はとうに絶えてしまっていそうなものだが。
ユリアは話の続きを気にしている。この話が、この不吉な占いの結果とどう関わりがあるのだろうかと。
巫女は一休みして、話を続ける。
「【穢れの長子】の話はここまでで、楔が打たれてからは、もう、わたくしたちの伝承の時代は終わり、帝国の繁栄が続きました。先ほど申し上げた通り、こんな古い習慣について伝え聞いている者は少ないのです。【穢れの長子】と聞いても、何のことか知らない者が大多数でしょう。しかし、ほとんど無自覚に共同体の中に残されている考え方もあります。それは、《穢れた者を殺した者は、自身が穢れた者となる》という不文律です。いえ、それよりも歪んだ形で受け継がれています。
正確には、この不文律には一つ但し書きが加わるのです。殺された者に《実子がない場合は》と」
これで話の方向性は決した。ユリウス家の仕事――ないしは、それに準ずるレベルの冷酷な政府筋の仕事――に関わるインディゲナは現に穢れとして排斥されている。穢れた者を殺すことは忌むべきこととされている。ただし、その穢れた者に実子がいない場合は。実子がいれば、穢れはその子が継ぐことになる。実子がいるなら、その親を殺しても殺した者は穢れない。すなわち殺してもよいとなるかはともかく、少なくとも心理的な障壁は下がるだろう。
アランにとってこの話には二通りの意味合いがあった。一つは、自分がいなければ母親は殺されていなかったかもしれないということだ。そのこと自体は、もう昔から何度も反復して慣れきった思考だ。しかし改めて別の側面からそれを突き付けられたことによって、彼の心は少なからず傷を深めた。もう一つは、もし実子を持てば自分も誰かに殺される可能性が高まるということだが、それはアランにとってはどうでもよいことだった。
ユリアは話の中に何度も出てくる『実子が継ぐ』と言う概念にうんざりしている。血の話はもうたくさんだ。ただ親子関係というだけで、その事実以上の何があると言うのか。
巫女は彼らの反応に関心がない素振りで淡々と言う。
「少々外れた話をいたしました。いえ、思い立ったものですから。きっと必要なことなのでしょう」
焦れたユリアが巫女に問う。
「未来についてはこれだけでしょうか」
誰でもいつかは死ぬ、で終わりなら、誰にでも当てはまることで、大した結果ではない。これからもっと酷いことを聞かされるのではとユリアは恐れていて、そんなことは早く終わらせてほしかった。
しかし、巫女はごくあっさりと「これだけです」と返し、【憂いの沼】から続く話を終わらせてしまった。
淀んだ沼よりは澄んだ光のある絵柄の【車輪を抱く女】の方はどうなったかというと、こちらもやはり晴れ晴れとはしない空気で、しかしまた違った味わいの展開となった。
【車輪を抱く女】に描かれているのは左斜め横を向いて椅子に腰かけている一人の女だ。妊娠してでもいるのか少し腹部が膨らんで見える。女の前には大きな車輪が一つあり、それは一部が壊れているようだ。女は椅子に座ったまま少し前屈みになり、床に置かれたその車輪を両腕でそっと抱いていた。幸福そうに微笑する女の背後には後光が差し、絵の全体が静謐で神聖な印象だ。
このカードを前に、巫女はゆっくり話し始める。
「【車輪を抱く女】。抱き止められる変転。壊れたものへの愛着。兆し。再び繰り返されるもの。終わらなせないもの。そして、ああ――」
巫女はそこで言葉を探すように瞑目した。カードから離した右手の指先が、手元に置いたままの短剣の柄に触れる。彼女はそれで何かを確かめたような顔をして、目を開ける。
どうせろくなことではないのだから、勿体ぶらずに早く言えと、口には出さないがロランは苛立っている。
巫女は机上の曖昧な場所に視線を落としたまま、誰の方も見ずに呟いた。
「貴方は、継承を断つことができなかったのですね」
だったら何か、それがどうした、早く先を言ってよこせと怒鳴りつけたいところだったが、ロランにはもうそんな無駄なことをする気力がない。今の彼の望みは、ただこの茶番を早く終わらせてここから出ること、苦痛から解放されることだ。
どうせ、魔女が手紙でよこした場所へ彼が行かなければならないというのは決定事項のようなのだ。この占い女の占いでどんな結果が出て何を代償によこせと言われても――それが支払えるものか、素直に支払うかはともかく――結局どうにかしてそこへ乗り込むことになるのだろう。
どうせそうなら、もう何とでも言えばいいのだ。左手だけでなく右手も釘付けようと言うならそれでもいいと思うくらい、彼はとにかく早く解放されたかった。もちろん、まだ残っている冷静な頭で考えれば、それでいいはずはないのだが。
思うことすべてを内に抑えて黙っているロランに、哀れみのような眼差しを向けて巫女は告げる。
「貴方に取り憑いているものは厄介な暗雲。海は荒れ、貴方はそこへ沈むことさえできない。確かに、貴方は愛されてはいるのでしょう。執着の糸が絡みつき、しかしそれは、決して貴方の幸福を願うものではない。ただ、存続を望むものです。これからも、何度も、何度でも、糸は貴方を転ばせようとする。都度、必ずもう一度立ち上がらざるを得ない呪いを残して」
暗雲。海。この女は何をどこまで知っていて、どういった意図でこのような言葉を伝えるのだろうか。巫女の意図はロランには分からない。だが、巫女にこう言わせている魔女の意図なら、彼には推測がつく。もちろん、彼を苦しめるためだ。何度も何度でも捕まえてやるという、意志を示して苦しめるためだ。わざわざ一度死んだふりをしたのも、後で復活して失望させようという新しい嫌がらせの試みに違いないのだから。
魔女への憎悪をつのらせるロランの口から、暗く抑えた一声が漏れた。
「何度でもぶち殺してやる」
凄みのある一言だ。巫女は怯まず、これまでと変わらない静かな調子でロランに問う。
「貴方はなぜ自殺しないのですか」
その問いへの答えをロランは持っていない。しかし彼は巫女に即答した。
「それで終わる気がしないからだ」
そう吐き捨ててから、ロランは自分自身の言葉を振り返って驚く。確かに、それで終わる気はしない。死んでも――
脳裏にちらりとよぎった気がするその考えはあまりにも恐ろしい考えだったので、彼はそのことを今それ以上考えるのをやめた。魔女の雲の中で何を見せられたとしても、何を考えさせられたとしても、動揺するのは――特に恐れや不安、悲しみ、絶望、本当は怒りも、その他どのような感情であれ――常に悪手だ。雲を抜ければすべて幻かもしれない。
巫女は沈んだ顔でまた目を伏せる。次の言葉は曖昧な温度の予言と忠告だった。
「代償はきっと支払われましょう。しかし、貴方は、自分がそれを支払ったとは思わないことでしょう。今も、将来も。
どうか、わたくしの侍者の贈り物を、『幸運の印』を大切になさい。呪いも含みもない品であると、ここを出た暁には分かるでしょうから」
巫女の台詞の何かが《劇作家》の気に障ったのか、それとも単なる気まぐれなのかは分からない。ただ、巫女の言葉が終わるや否や、ロランの左手首に突き刺さっている鉄杭に、見えない金槌の一撃が降ってきて彼を苦しめた。
軽い一打だが神経に障る衝撃だ。無理なところに無理なものが割り込んできて周りの骨が軋んでも、ロランは辛うじて声を出さなかった。酷い責め苦には違いないが、プライドを保てる地獄なら、まだ彼の考えうる最悪よりましだ。
杭はわずかに深く刺さり、ロランが思わず身体を動かしてしまったこともあって、広がった傷口から新しい血が湧き出す。
巫女はそれを見て両手で顔を覆い、自らを落ち着かせるように長く細く息を吐き出してから、冷静に立ち直った。彼女は何も見なかったようにして淡々と先を促す。
「失礼いたしました。余分なことを話しすぎたようで。さあ、続きを。次でおしまいです」
伏せられたカードは残り一枚となった。過去、現在、未来とめくってきたなら、次は何なのか。【黄昏】ないし【黄金の杯】の上側、巫女に一番近い位置に伏せられたカードだ。巫女は勿体をつけることもなく、さっさと手を伸ばしそれを表にした。
「総括」
【黄昏】の上には【螺旋階梯】が現れ、【黄金の杯】の上には【黒衣の女帝】が現れる。
テオドロスに言わせれば、どちらも吉兆ではありそうにない。『総括』がこれというのは、ここからどう話が広がるのか、見物のしがいがあると彼は思う。
【螺旋階梯】には、上下に切れ目なく続く二重の螺旋階段が描かれ、片方には下りの行列が、もう片方には上りの行列が、一定の間隔で途切れることなくそれぞれの階段を上り下りしている。行列に描かれているのはどちらも同じ白い服装、白い帽子をかぶった特徴のない人物たちだ。上りの者たちは一様に楽しげな表情で、下りの者達はまた一様に悲しげな――恨めしそうにも見える――表情に描かれている。階段の終端は、上下ともに見切れていて、どこまで続くかは分からない。階段は黄色で、背景は無を表すような白地だ。
巫女は【螺旋階梯】について、はじめ何もコメントをしなかった。代わりに、彼女はこのカードを前に、アランに本題の絡む質問をする。
「6000番台の中でも、今回ご所望のβ-6793へのパスは、容易にはお通しできないそれなりの事情があります。貴方は、ご存じなくて?」
アランは沈んだ声で答える。
「分からない。おそらく、私はその事情を知らされていない」
巫女はまた「そうですか」と軽く相槌を打つと、ようやく【螺旋階梯】に少し言及する。
「快哉は上へ、怨嗟は下へ。どこまでもどこまでも。β-6793は今、深く深く、この世界の最奥に近い、遥か下層に引きずりこまれています。もちろん、比喩的な話ではありますが。下へ、下へ行くほど、怨嗟は溜まるもの。あそこへのパスは、この【螺旋階梯】の下り階段と同じ。今や怨念が渦巻いています。都市の怨嗟に、心当たりがおありでしょう、貴方には」
アランは下を向いて黙ってしまう。巫女は構わず続ける。
「怨念が犠牲を求めるのです。同胞の血を。誰かを通すなら、誰かが死なねばなりません。一度パスを開けるたび、一人。ねえ、貴方には、そうする覚悟がおありでしょうか? 今回いらしたお客様、四人のうち、怨念の求める犠牲の資格があるのは二人だけ。分かります? それがどなたか」
二人、と言われたときだけ、アランはふと顔を上げて、巫女に反論した。
「この中には一人しかいない。同胞の血が入り用なら、資格を満たすなら私一人だ」
巫女は気味の悪い微笑みを浮かべて頬杖をつき、アランを眺める。彼女は言う。
「いいえ。貴方と深く関わり合いになったことで、その資格を得た者がもう一人います」
巫女はユリアを指して言う。
「【水鏡】のお嬢さん。貴女は本当に鏡のよう。稀有なことに、貴女は力を得ました。隠していてもわたくしには分かります。貴女にも、生贄になる資格があるのですよ」
ユリアは絶句している。自分に生贄の資格があることにではない。それは、巫女が『犠牲の資格があるのは二人だけ』と言い出したときから、ユリアも想定していたことだ。ユリアが固まってしまているのは、アランかユリアのどちらかが死ねと言われているらしいこの状況と、そうなった場合に起こりうる最悪の想定のためだ。
ユリアが狼狽しているうちに、彼女の最悪の想定は実現しかけていた。アランは穏やかな口調で巫女に言う。
「一度パスを開けるたび一人。それなら犠牲は一人で済む。行きと帰りという概念はないはずだ。私が生贄になろう」
あまりに自然で穏やかな言い方だ。ユリアは、それを止めようとして、無駄を悟る。その場にいる他の誰も無視して、アランにだけ告げるつもりで、彼女は呟いた。
「私も死ぬから。こんな世界、もう疲れた」
巫女は「分かりました」と言って、ぱんと両手を打つ。彼女は侍者の少年を近くに呼び寄せ、その場の全員に聞こえるような声で、厳かに、彼に問う。
「裁定を。此度の請願、如何にしようか? 裁定は汝の内に」
その少し前。
「【黒衣の女王】。亡き者たちの女王。亡者たちを統べる者」
《ロランが選ばれた場合》の方でも、もう一方と同様に、結局は生贄が必要だという結論のやりとりが展開していた。ロランが問われたのは「貴方は亡霊に遭遇したことがありますか?」で、彼の答えはもちろん「ある」。それなら話が早いとばかりに、β-6793への通り道に渦巻く怨念怨霊亡霊の類へと話は進み、やはり『同胞の血』――インディゲナの誰かが犠牲になること――が必要だという話に落ち着く。
しかし、では誰をという話になったとき、アランは全く候補にも挙げられなかった。ユリアに生贄の資格があるという話も、こちら側ではされていない。
ロランは初めからテオドロスのつてに頼ることを期待している。テオドロスなら、そんな生贄も用意できるに違いない。現に、生贄の話になってロランがテオドロスに無言で視線を向けると、テオドロスはうんと頷いて見せた。うん、問題ない、そういう意図の頷きだ。
ロランは巫女に詳細を確認しようと尋ねる。
「つまり、どこかにあるその通り道を開けてもらうときに、おたくの同胞――インディゲナを一人、生贄に連れて行けばいいんだな」
巫女は「はい」と頷いてから、複雑な顔をして黙する。彼女は溜息をついた。彼女はロランに、感情の読めない声色で尋ねる。
「本当にそれでよいのですね」
想定している手順が合っているか確認したいのはロランの方だ。彼は苛立って言い返す。
「よくねえのか? いいんだろ。じゃあ決まりだ」
巫女は「分かりました」と言って、ぱんと両手を打つ。彼女は侍者の少年を近くに呼び寄せ、その場の全員に聞こえるような声で、厳かに、彼に問う。
「裁定を。此度の請願、如何にしようか? 裁定は汝の内に」
巫女がそう言った瞬間、テオドロスは、二つに分かれていた時空間がわずかに――言葉にしがたい感覚だがあえて言うなら――近づいたように感じた。彼は他の三人の認識が何か変わったか知りたかったが、観察に留め、これまで通り沈黙を守る。
テオドロス以外の三人は今まで通り、反対側のものには意識を向けていない様子で、巫女と侍者の挙動に注目していた。
巫女は侍者に裁定を求めた。では、β-6793へのパスを開けてほしいという請願に対し裁定を下すのは、巫女の託宣ではなく、侍者の少年のほうなのだろうか。なぜ。
皆が、巫女の発言に同じ疑念と驚きを感じている。地下組織側のやり方に少しは通じているアランでさえ同じだ。彼の知っている範囲では、巫女の侍者にそんな権限はなかったはずだ。
巫女の言葉を受けて、侍者の少年は俯き加減に前へ進み出る。青い帯がなくなったので、緩い完全な白装束になっている。
巫女は椅子を引いて少し後ろへ下がった。侍者は彼女の前まで歩み出て、座っている巫女に背中を向ける形で、そこに跪く。
侍者は下を向いたまま、やや震える声で、こう言った。
「分かりました。お客様をお通ししましょう。対価は今夜、今夜が私の最後の夜です
――みなさまに、祝福が、ありますように」
最後はほとんど涙声のように聞こえた。
侍者の言葉を最後まで聞いた巫女は、背を向けて跪いている侍者の肩越しに手を伸ばし、机上の短剣を手に取った。
巫女が短剣の刃を少年の首筋に当てたのを見て、ロランはつい、「おい」と彼女に話しかけてしまった。けっして動揺しているわけではない。彼は落ち着いて、ごく真っ当なことを巫女に尋ねる。
「それが、今回の願いを叶える犠牲か?」
アランとユリアは、向かい側にロランがいたことを今の彼の発言でようやく思い出し、彼の左手の惨状にも初めて気付いて驚く。
巫女は刃を動かさず、ロランの問いに答えた。
「ええ、そう。犠牲は穢れなきものに限られます。同胞なら誰でもよいなど、あれは嘘ですの。占いを見て、この子が今宵を終わりと定めるか否か。裁定は、初めからわたくしの侍者の内にありましたのよ。彼が断れば、それまで。
そのように、託宣によりあらかじめ決まっていたことです」
少年は斜め下の床を見つめ、両手を胸の前に組み、首元に刃を当てられたままおとなしくしている。
短剣を順手に持つ巫女の右手は、やや震えていた。
アランは巫女の手元と全体の雰囲気を見て、この巫女は侍者の喉を掻き切るような血生臭い仕事にはあまり慣れていなさそうだと思う。無抵抗な相手でも、切れ味のよい刃でも、確実に喉の血管を裂いて速やかに失血死させるのは、案外難しい仕事だ。彼はそれをよく知っている。
案の定、巫女は一度失敗した。刃を押し付ける力が足りず、そこそこ深い傷は付いたが、太い血管には到達していない。少年は痛みに驚いて小さな叫び声を上げ、そのままの姿勢で我慢しようとしたが失敗して、床にうずくまってしまう。
巫女は短剣を握ったまま固まっている。
髪の毛でも掴んで引き戻してさっさと掻っ切ってやれば、苦しみを長引かせずに済むものをと、アランとロランは同時に口惜しく思う。ユリアは目を覆って指の隙間から恐々と見ている。テオドロスは興奮している。
少年は首の傷からだらだらと血を流しながら、掠れた声で「痛い、巫女様、おとうさん」と呟いた。
巫女は床にうずくまる少年を見下ろして、短剣を力なく持ったまま「ああ、だめ。やっぱりだめ、どうして、どうしたら」などと戯言を並べている。もうこの女は何の役にも立ちそうにない。
ロランは巫女を怒鳴りつける。
「やれ! こいつは覚悟したんだろ? 半端にやったなら最後までやってやれ。ほら早く!」
巫女は泣きながら一言「だめです」と言ったきり、短剣を震える手から取り落としてしまった。
ロランは見かねて動く方の右手を動かし、自分の左腰の舶刀を抜いた。アランが驚いてロランを見る。ロランはアランに問う。
「この女が殺らなきゃ生贄にならないのか?」
判断のつかないアランは巫女を見て「どうなのか」と問う。巫女は涙声で、「いいえ、どうか代わってください。早く楽にして。この場で喉を裂いて殺し、窓の外に投げ捨てれば、届きます」と答える。
とはいえ、ロランは今、重たい円卓に左手を釘付けられていて、身動きが取れない。そんなロランの様子を見、アランは少し考えて、巫女が落とした銀の短剣を床から拾った。床で泣いている少年の衣服の端で、アランは刃の血を拭い、切れ味を軽く検分する。
問題はなさそうだと見るや、アランはうずくまっている少年の髪を掴み、俯いた状態で固定すると、首の左側の的確な位置に完璧な角度で刃を当て、迅速に掻き切った。流れるような手際の良さだ。
俯かせていたため、血は床へと、勢いよく噴き出す。見る間に床中が血でひたひたになり、少年はあっという間に絶命した。
アランの技にロランは感心し、テオドロスは拍手を贈る。ユリアは目を丸くしていて、複雑な気持ちでいた。頼もしく思う反面、彼女はアランのことが心配だったのだ。殺しを見て恐ろしいとは、彼女は思わなかった。
巫女が呆然とした様子で言う。
「窓の外へ。亡骸を投げ捨ててください。地の底へ届きましょう。それで終わりです。それで……」
アランは少年の軽い身体を抱き上げて、巫女の言う通り、窓の外へ放った。窓の外には月夜だけがあり、底にはただ暗闇が広がっていた。
その暗闇に、底知れぬ暗闇に、血の赤で斑に染まった白い布地をはためかせながら、少年の亡骸が落ちてゆく。どこまでもどこまでも落ちてゆくように見えて、暗闇に呑まれて見えなくなった。
亡骸が部屋から消え、アランが席に戻ると、巫女は椅子に座ったままうなだれ、顔を両手で覆っていて、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」と繰り返し呟いている。
場に複雑な空気が満ちる。もう、時空間の分割のような不思議な事象はこの部屋では起こっていないように、テオドロスには感じられた。
とりあえず、目的は達成したということだろうか。そう思ったロランは、舶刀を鞘に収め、鉄杭で円卓に釘付けされた左手首をどうするか、真剣に考え始める。この鉄杭はおそらく呪物で、そうであれば、円卓の天板からは絶対に抜けない。天板を割ったり削ったり切ったりで壊すことができれば別だが、もしそれができなければ、杭の上の方、太くなっている方から無理やり手首を引き抜くしかない。
ロランは、右手で天板を軽く叩いてみた。返る音は鈍く頑丈そうだ。テーブルクロスの下に手を突っ込んで、天板の裏側から触れてみても、簡単に壊せそうな代物ではないと分かる。ならばやはり――。
ロランはうんざり顔で言う。
「尊い犠牲のおかげで目的地への道は開けてもらった。行き方はきっとアランが知ってる。ここへ来た用は済んだか、これで。そろそろお開きだな?」
巫女はさっと顔を上げて、強い口調でロランを――いや、アランをか?――罵った。
「貴方のせいです」
場が静まり返る中、巫女は続ける。
「わたくしの大切な、可愛い侍者がいなくなったのは、二度と誰にも会えなくなったのは、貴方のせいです。貴方に、殺されたのです。貴方のせいで。貴方さえ来なければ……」
それを聞いたユリアとロランがほぼ同時に強気な声を上げる。
「それがどうしたって言うの?」
「それがどうした」
自分と一緒に言い返したのがユリアだったことに、ロランは少し意外性を感じた。アランは黙っていたが、二人の言葉を聞いてようやく顔を上げた。テオドロスは改めてユリアを頼もしく思い、アランの自殺防止の監視人には充分だろうと、自らの采配に納得する。
しかし次の瞬間、部屋の中には再び重たい悪意が満ちた。香炉から立ち上る煙がぐるぐると渦巻き、窓から吹き込んできた一陣の風が、部屋の中をぐるりと一周したかと思うと、ロランの左手首の鉄杭がもう一段深く、がんと打ちつけられる。衝撃が断裂した神経に響くうえ、もう骨が限界で砕けそうだ。今度は彼も声を出して呻き、机に伏した。
痛みのこと以外考えられず悶絶しているロランの上から、巫女に憑依した魔女の妙に艶かしい声が、薄気味悪くこだまして聞こえてくる。
「ロリー、その手首はもうだめだね。かわいそうにねえ。かわいそうなロリー。ああかわいそうだ。かわいそうだからさあ、まあ、ちょん切られてから血が止まるまで、そうさね、十日だけ待ってやろう。十日経ったら、おいでな。
約束の場所には、おまえ一人でおいで。いいや、クレアローゼの娘を連れて来い。【運命の魔女】だか【箒星】だか、とにかくミレニアの血縁がいただろう? 話がしたい。連れておいで。でなけりゃ、何も教えてやらない。大丈夫さ、殺す気はないよ」
だめ押しのように、ロランの手首の鉄杭をもう一度深く打ち付けてから、魔女の気配は唐突に消えた。
ロランは、呪いの言葉を吐きたくてもそれどころではない。痛い。痛い。痛い。痛い。どうせもう、これは元通りにはならない。もう、さっさと切り落としてしまったほうが、ましなのではないか。切り落としたい。今すぐ。もう切り落とそう。
ロランは気力を振り絞り、もう一度舶刀を鞘から抜きかける。
するとテオドロスが意外な速さで飛んできて、ロランの右腕を意外な力で掴んで止めた。テオドロスは何か言おうとして、その前に巫女の顔を見た。
魔女の憑依から我に返っていた巫女は、テオドロスに言う。
「もう、口を開いても大丈夫です」
それで沈黙の勧めから解放されたテオドロスは、改めてロランに言う。
「うん、そこ痛いよね。すごく痛いよね。そりゃあ、痛いだろう。今までよく落ち着いていられた。でもね、ばっさり切っちゃうのはどうかと思うな。切っちゃってもくっつけられるかもしれないけれど、たぶんちょっと大変になるし……」
ロランは舶刀を抜くのをやめて鞘に戻し、テオドロスに言う。
「早く帰りたい。この机ぶっ壊すの手伝ってくれないか」
テオドロスは肩をすくめて聞き返す。
「机を? そりゃ難儀だねえ。それよりさあ、杭を机から抜こうよ」
ロランは疲れ切った様子でテオドロスに返す。
「呪物だ。どうしたって抜けねえのさ。机を壊すか、俺の手を上から抜いて今以上にぶっ壊すか、いっそ叩き切るかのどれかだよ」
テオドロスは巫女の方を見て気楽に尋ねた。
「机、ぶっ壊していい?」
巫女は渋い顔をして「壊さずとも片付ければ……」と言うと、円卓の上に両手を置いて、瞑目した。すると、一瞬、陽炎のような揺らぎがあり、その後に円卓は部屋から消失した。天板の上に置かれてあった占いのカードや燭台は一緒に消失したが、最初に封筒に入れて配られたカードと封筒は残り、ふわりと浮き上がって巫女の手元に収まる。
ロランが侍者の少年からもらった『幸運の印』こと、少し血に汚れた薄青の帯も残った。
薄青の典雅な帯は、元の持ち主だった少年の首から迸った血でまさしく血の海になっている床へ落ちてゆきかける。ロランは右手でそれを捕まえ、丸めて雑に懐に――それでも失くさないよう考えた場所に――突っ込んだ。彼の左手首には、まだ鉄杭が刺さったままだ。円卓がなくなったことにより、天板による抑えが外れて、傷からの出血量はかなり増している。床に血が滴って、少年の血の海に混じる。
ロランは右手で傷より上の方を押さえつつ、心底ほっとしていた。あとはこの地獄の鉄杭を手首からどう抜くかだが、魔女の【雲】の領域に違いないこの場所から離れさえすれば、彼にも解呪のやりようはある。
テオドロスは巫女の『片付け』のやり方を羨ましがっていた。
巫女は回収したカードをまた一枚ずつ封筒に入れ直し、各人に配り直す。絵柄を気に入っていたテオドロスは喜び、最初と同じようにカードの出所についてまた巫女に質問していたが、巫女は「これは買えないもの、それももう揃わないカードですの。占いには使えませんから」としか答えない。
巫女はまるで手土産のように封筒を渡しながら、各人に短い言葉をかけていた。その言葉は、大抵、存外に温かいもので、少なくとも先ほど『貴方のせいです』と咎めたときのような棘は誰にも感じられない。
「杯は新しく満たすことができます。あそこへ行くなら、これも、貴方の役に立つでしょう。あの帯と一緒に、どうか」
ロランは黙って封筒を受け取り、懐にしまった。
「わたくしはわたくしのホームグラウンドで、貴方を丁重に扱いました。もし、不運が巡り、逆の立場に立ったときには、どうか、温情を」
テオドロスはにっこり微笑んで、「ありがとう」と礼を述べた。温情については、言及しない。
「【黄昏】は夜の始まり。慈悲の子よ。貴方は血塗られたユリウスのしもべ。しかし、【穢れの長子】は貴方ではなく他にいます」
アランも黙って封筒を受け取り、少し身を屈めて形式的な礼をした。
「今宵の鏡に映ったことは、虚実が半々。よく見抜きました。見抜いた自覚はないのでしょうが。この【水鏡】は餞別です」
ユリアはどう返してよいか分からず、言われた言葉の意味について聞き返すべきか迷ったまま、「ありがとうございます」と封筒を受け取った。
それぞれが封筒を受け取ると、巫女は最後に、窓の外を見ながら、明らかに皆に聞こえるような独り言を言った。
「あの場は神秘の濃い領域。内側の離宮は、もはや誰の統制下にもない。いえ、あれは……」
わざと聞かせるつもりで話しているのだろうに、しばらくその先が続かないので、早く帰りたいロランが後ろから促す。
「あれは、なんだって?」
巫女は振り返り、それ以上は言えないとばかり首を横に振る。彼女はぼんやり夢を見ているような表情で、たった今の発言を打ち消した。
「いえ、いいえ……。忘れてくださいな。これ以上は思っても言うなと……。あれは誰、いえ、どうか忘れて」
侍者はもういないので、帰りは巫女が手ずから部屋の扉を開けた。
ロランは椅子から立ち上がる際にふらついたので、テオドロスが支えて立たせる。立ってしばらくすると眩暈が治まったので、ロランはテオドロスの助けを断り、一人で歩いた。だいぶ気分が悪くなってきていてぎりぎりのところだが、まだ倒れるような失血量ではないはずだ。
巫女は部屋の外まで見送りはせず、客が全員部屋から出ると「全員が階段を上りきるまでは、振り返らないように」とだけ告げて、誰にも聞き返されないうちにばたんと扉を閉ざしてしまった。
四人はなんとなく顔を見合わせる。『振り返らないように』と巫女は言った。まるで旧大陸時代の古い古い神話のような忠告だと、四人全員が同じ神話の同じエピソードを想起している。言葉を交わすことは禁じられなかったので、テオドロスが冗談めかして言う。
「誰か振り返るのがお約束だけれど、誰が振り返るか決めておく?」
きっと半分は冗談ではないので、それを察したアランがテオドロスを牽制して言う。
「死者を連れ帰る目的で来たのではない。自分自身がここから出なくてよいのなら、振り返れ」
ロランはこりごりだと思う。テオドロスはにやりと笑った。
帰りはまた暗がりの道だ。テオドロスは忘れずにフラッシュライトを取り出して電源を入れると、先陣を切って歩き出す。残りの三人は彼の後に続いた。
もう一つの扉を抜け、元来た通路、巫女の言う『廊下』を歩く間は、行きのときと同じく、誰も口を利かなかった。衣擦れと足音だけが響く中、突き当りの上り階段まで進み、軽い足取りのテオドロスを先頭に段を上る。
テオドロスは振り返りたいという強い誘惑に駆られたが、彼も、冥府下りの詩人の失敗を愚かなことだと解釈する一人だ。アランの言葉から、振り返ったらどうなるのかの推測もついている。それでも、という不思議な欲求を軽く振り払って、テオドロスはあえて振り返らなかった。
テオドロスは巫女の忠告を守ったまま最後の段を上り終え、他の三人の足音が止まるまで待ってから、まだ振り向かずに後ろへ尋ねる。
「みんな上り切った?」
後ろの三人がそれぞれ「上り切った」旨を答える。
そこで振り向くと、テオドロスがだいたい想像していた通り、四人の後ろにはもう下り階段など存在しなかった。これで完全に、元の間層通路に戻って来たようだ。四人は辺りを見回して、思い思いに緊張を解いた。血の足りないロランはふらふらと壁の方へ寄り、休憩のつもりでそこにもたれかかる。
テオドロスは懐から端末を取り出し、それがオンラインになっていることと現在地の座標を確認してから、後ろの三人を見渡して呑気に言う。
「誰も振り返らなかったらしい」
テオドロスを無視したユリアが、ロランの怪我を気遣いつつ、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「一体どうされたのですか?」
全体の状況を把握しきれておらず、すぐには説明の言葉が出てこないロランに変わって、テオドロスが返す。
「うん、それはちょっと後でね。後で皆で情報交換をしようか。なんだか複雑そうだから、後で」
鉄杭に貫かれたままのロランの左手首は、絶えず新しい血を流し続けている。彼はもう片方の手で左腕を押さえて圧迫していたが、流血の止まりそうな気配はない。
テオドロスはロランに近付いて、杭の刺さっている傷口をよく眺め、真面目な顔でこう言った。
「早くなんとかしないとまずいよね、これ」
帝都の市民階級の医療水準では、これだけではまだ死にそうな状況ではないのだが、それは適切に治療をすればの話だ。
まずいのは分かり切っているロランが「ああ、実はそうなんだ。だから早く帰りたい。さっさと帰ろう」と言うのを、テオドロスは半ば無視して続ける。
「とりあえず一旦外へ出ようか。一番近い階段のある出口でいい。そこにホテルのハイヤー呼ぶから。うちの系列の病院なら、たぶんなんとかなるだろう」
ロランは「大げさな話だな」と言ってあまりよい顔をしない。テオドロスは楽しそうに笑って彼に尋ねる。
「病院は嫌い? 僕も嫌い。でも、たぶん、大昔の人の想像よりはだいぶましだと思うよ。どうかなあ」
ロランは言い淀む。笑われたことは癪だったが、とにかく彼は自分の見解を話した。
「いや、そのな……。ちょん切らないで済んだってどうせ、もう動かねえだろこれ。刺さってるもんを引っ張り出して血を止めるくらいなら、自分でできるさ」
フィクションか戦場かと、テオドロスはますます面白く感じたが、笑うのはやめた。代わりに、眉を顰めて首を傾げ、尋ねる。
「痛そうだねそれ。麻酔の概念、ある? 全く元通りになるかは医者の腕前次第だけれど、現代の技術ならまあ、なんとかなると思うよ。それでも、ひとに任せるのは嫌かい?」
左手はもう使えないものと覚悟していたロランは、少し希望を持って聞き返す。
「どうにかなるのか?」
テオドロスは簡単に頷いた。
「うん。なるけど急いだ方がいい。時間が経つだけ厄介になる」
ロランから「分かった。任せる」という言葉を引き出すと、テオドロスは「承知」と答えて手配にかかる。この座標から最も近くて、かつ梯子を上らなくてよい出口は、検索ですぐに見つかった。ホテルへ帰る方向とは異なるので、アランとユリアとはここで別れることにした。
「アラン、ユリア、君たちは先に戻っていてくれ。色んな話は後。じゃあね」




