XXVII-ii. Sibylla Pseudostellae II
巫女は端に寄せられていたカードの束――初めに四枚を抜き出した残り――を手に取ってよく混ぜた。そこからまた四枚を抜き出して、絵柄を伏せた状態で並べてゆく。アランとユリアが見ている景色では【黄昏】のカード、ロランが見ている景色では【黄金の杯】のカードが置かれている四方に、裏向きのままの四枚が並べられることになった。巫女は彼女から見て右手側の一枚に手をかけて言う。
「これは過ぎたもの、失ったもの」
過去を示すカードが裏返される。
アランが見たのは、華やかな花輪を高く捧げ持って跪く子どもの後ろ姿を描いた絵だ。花輪は、その子によってどこかに捧げられようとしているようにも、たった今誰かから下賜されたようにも、どちらにも見てとれる。【祝福】のカードだ。明るい印象のカードだが、それが失われたものということなら、良い意味にはならない。
巫女はアランに言う。
「【祝福】。幸いを願い願われる護り。失った加護を示します。失ったものとして珍しいものではありません。誰でも――いえしかし――」
言い淀んで、巫女はふと顔を上げ、宙に何かを探すように視線を彷徨わせる。意識のどこかに何を見つけたのか、彼女は確信を持って先を続ける。
「ええ、そう。貴方は一度【祝福】を失いました。一度は。後で別のものを得られたとしても、失われたものは失われたもの。同じものは決して戻りません。貴方の失くしたものは、ほら、思い出せますか?」
女が祈るように両手を合わせると、爪の先から灰色の煙が幾すじか、古い蜘蛛の糸のようにふわりとと立ち昇った。煙は寄り集まって束になり、女の指先を離れて卓の上の宙にわだかまった。生き物のように渦巻きながら、ぼんやりとした影のような、何かの姿を形作ろうとしている。
ぐるぐる、ぐるぐると渦巻き、次第に出来上がるその形。胸から上の人の姿、灰色の人の姿だ。眼窩が、鼻が、顔がある。その顔はできたばかりの灰色の瞼を閉じ、生気のない頬、口元に表情はない。煙の筋でできた灰色の長い髪が、まるで水中にあるように揺らめき、先の方は宙に溶けている。
煙の糸が描き出したものは、灰色の胸像だ。それは、女性の姿をしていた。
アランはその像に釘付けになっている。彼の表情には、いかなる感情も浮かんではいない。ただ、彼はその像を見つめ、煙が象った薄墨の眼窩、閉ざされた瞼が開くときを、恐れていた。期待していた。
煙色の像は目を開けない。代わりに、わずかに口元を動かして何か言おうとする。だが、その声は、誰にも聞こえてこなかった。
呆然としているアランをよそに、ユリアがぽつりと呟く。
「なぜあなたが」
ユリアの言葉のようであって、彼女の声ではないようにないように聞こえた。
巫女が目を細めて、楽しげに言う。
「声を、貸していただきましょうか」
灰色の像が崩れ、渦巻く細い煙に戻った暗い流れがユリアの頭頂から入りこもうと――テオドロスにもアランにもそう見えた―――する。
ようやく我に帰ったアランが、間一髪それを制した。
「死霊め、私のものに触れるな」
アランはその場から動かず、ただ鋭い言葉を発しただけだ。だが、ユリアに乗り移ろうと近づいていた渦巻く煙状の何ものかは、それでただちに霧散した。
アランは両手で自らの顔を覆って悲しそうに続ける。
「塵すら残らなかったものは、煙にはならない」
巫女は口元に謎めいた笑みをたたえ、同情とも悪意ともつかない柔和な調子でアランとユリアに言う。
「これが口寄せの最後の機会でしたのに」
アランはいつもの無表情に戻り、巫女には何も言い返さなかった。ユリアは今の出来事をどう受け止めたものか決めかねて下を向く。
【祝福】のカードが引かれ、巫女が煙の胸像を呼び出し、それが消えて今に至る顛末を、テオドロスはすべて見ていた。煙の胸像がどんな顔立ちをしていたかも彼は見ていたし、それが今は亡き誰であるかも、概ねの見当は付いていた。テオドロスがアランの母親とすれ違い程度の面識を持っていたのは、もちろん彼女が亡くなる前で、そのころのテオドロスは本当の幼子だった。しかし、彼は自分の子ども時代のことを、かなり遡ってよく覚えている。少なくとも、彼自身にはそういう自覚がある。
テオドロスは、煙の胸像はアランの母親の姿をしていたと思った。しかし、真偽はもう確かめようもない。
また、テオドロスにとっては、アランとユリアが体験した煙の胸像の一幕は、今の最大の関心事ですらなかった。というのは、円卓の彼から見て右手側では、占われる対象として《アランが選ばれた場合》とは別に《ロランが選ばれた場合》が展開しており、そちらではより劇的な事態が発生していたからだ。
巫女が最初のカード――《ロランが選ばれた場合》なので【黄金の杯】――の右手側のカードを裏返したとき、ロランが見たのは、青白い花々で着飾った若い女のカードだった。背景は星の散りばめられた夜空と花咲く森のような風景だ。月はない。女は一人で、控えめな花束を両手で低い位置に抱え、やや向かって右側を向いている。彼女の衣装は、全体が植物の蔓か蜘蛛の糸のようなものでできているように見える。小花の花冠で飾られた蜘蛛糸のベールで顔を隠し、背中には背景を透過する薄い四枚羽が生えている。【妖精の花嫁】のカードだ。何を言われても何も感覚しない心づもりで、ロランは意識の焦点を無に置く。
そのカードを前にして巫女は言う。
「【妖精の花嫁】ですか。幻想、夢想、疲れた者の逃れの場、【海の雫】ロスマリヌス」
【海の雫】。【妖精の花嫁】を飾っているのは、海の雫という語源を持つローズマリーの花と、いかような象徴にもとれる蜘蛛の糸だ。確かにロランは、海への道を魔女に閉ざされ、魔女の血によって束の間の逃避としての幻想――ああ、夢魔の魅惑――を失い、地獄の蜘蛛の網めいた生家の地を出奔してきた。
連想遊びにしても出来過ぎだ。どうせ、初めからこのカードが出るよう仕組まれていたのだろうと結論付け、ロランは巫女の言葉を聞き流す構えだ。巫女は続ける。
「花嫁のベールは蜘蛛の糸です。この世で最も強い繊維は、蜘蛛の糸だとご存じですか? そう、貴方はいつまでも気が付かない」
ロランは反応しない。巫女の言葉を聞いていて、聞いていない。しかし、彼は今、無性に、何かが気になりだしている。自分で何を気にし出しているのか、彼自身にもまだ分からない。無性に、何かが気になる。自分の手首のあたりが気になる。左手。特に左手首だ。卓の上にのせている両手の、左の手首が無性に気になる。
左の手首にそっと――巫女にそれと気付かれないよう目の端だけ――目をやっても、特に何も変わりはないように見える。いつものコートの袖があり、袖口があり、見慣れた自分の左手がある。手首に何かが絡みついていたりはしない。左手の指先をほんの少し動かしてみる。ごく普通にぴくりと動かすことができた。何も問題はないはずだ。それなのに、一体何がこんなに自分で気になるのか、ロラン自身には分からない。
何かが気になるがそれが分からないというその感覚が気に食わないロランは、卓の上から何気なく左手を引こうとしてみた。
【逃げるな】
彼の脳裏に忌まわしい魔女の声が響いた瞬間、左手首にとてつもない激痛が走った。
地獄のいかずちが骨を抉ってそこで爆発したような痛みだ。これまでに感じた痛みの中でも有数の感覚と完全な不意打ちに、彼は思わず低い声を漏らす。苦痛で身体が硬直し、遠のきかけた意識をまたその苦痛が引き戻す。そして状況を認識する。彼の左手首を上から貫いたのは、落ちては消えてしまう雷ではない。まだそこに頑丈に突き刺さったまま、どう見ても消えそうにない黒い鉄の杭だった。
重たく太い、楔のように角のある黒い鉄杭が、ロランの左手首を刺し貫き、卓の天板に釘付けている。杭の長さには余りがあるが、楔状なのでほぼ釘と同様固定される形だ。
手首どころか腕から指先にかけて、痺れるような感覚と耐えがたい苦痛が広がる。痛みと痺れ以外の感覚は全く消失しているようにも感じられた。指に力が入らない。痛い。訳が分からない。度を超える苦痛は、いつも理不尽なものだ。
どこから湧いて突き刺さったのか分からない、この黒い楔状の鉄杭の造形に、ロランは見覚えがあった。これは、彼が初めて人型のものを――彼の父親を――殺した後、最後の気休めのおまじないとして、その死体を棺の底に縫い留めるために、その腐った心臓を渾身の力で貫いた鉄杭と、ほぼ同型のものだ。長さは少し短いようだが、太さはそのままで、釘なら頭に当たる部分に波打つような装飾がある。皮膚から突き出て余っている部分から推測するに、おそらく全体に紋様の刻み目が施されている。もし、過去のものと同様の呪物であるなら、この鉄杭はこの天板から決して抜けない。この種の呪物自体は、ロランがかつて仕事をしていた世界では、それなりにはありふれたものだ。かの魔女の特有の魔術ではないが、わざわざこれを調達してきて使うのはとんだ意趣返しには違いない。
ロランは心の中で魔女を呪い、激しく罵倒した。口には出さない。今、声を出せばそれは悲鳴になってしまいそうで、そんな情けないことはしたくなかったのだ。
熱くさらさらとした血が天板を覆う布地を少しずつ濡らし、暗い、温い染みがゆっくり、ゆっくりと広がってゆく。滑らかな布地は元々が濃紺なので、布地に染みた血液の色はあまり目立たない。しかし、突き出た鉄と裂かれた皮膚の間から脈動に合わせて溢れ出る血の色は鮮やかで、医者が瀉血で抜くような赤黒い血ではなかった。
これは出してはいけない種類の血だと、痛みで明後日へ行きそうな意識の中、ロランは思う。楔が蓋になっているおかげで、流れ出る血の量はさほど多くはない。
机の天板から杭を抜けないなら、天板を叩き壊すか、手の方を持ち上げて上から引き抜くしかないのだが、後者は考えただけで気が遠くなる。傷口は広がるだろうし、血が噴き出しておそらく容易には止められない。すべてうまく運んでどうにか帰れたとしても、この左手はもう二度と使えない可能性が高い。
そこまで考えて気力の限界に達した彼は、いったん、すべてを諦めて思考を放棄し、ただ黙して苦痛に耐える一個の存在となった。
テオドロスはロランほど注意散漫にはなってはいなかったので、鉄杭がどこか上の方から黒い矢のように飛んできて、ロランが動かしかけた左手首のちょうどよい場所――そこに釘を刺すとちょうどよく磔にできる――を的確に貫くところを、目撃していた。鉄杭の先端が皮膚も肉も神経も一息に理不尽に貫いて円卓の天板に突き立ったときの音、力強いような案外と軽いような少しこもったような音が、テオドロスには妙に印象深く感じられた。その瞬間は静止画とともに、彼の記憶に深く刻まれる。
ホラー物のフィルムで悪魔退治か黒魔術にでも使われそうな、禍々しい鉄の杭がどこからか飛んできて人の手首を釘付けにするとは、テオドロスの感覚でも唐突かつ暴力的で、魔術か手品の匂いのする不気味な展開だ。もちろん、彼も驚いて目を見張りはしたが、驚きはすぐに警戒と探求心に変わる。鉄杭の着地点である見事に貫かれた手首を見、どこから飛んできたのかと彼はすぐ上を見上げたのだが、見えるのは天井だ。何か仕掛けがあるのかないのか、彼には分からない。どこかに隠された隙間があって、そこから射出したのだとしても、一体どのようにして狙いを定めたのだろうか。飛んできたものは銃弾でもクロスボウの矢でもなく、もっと重そうで軌道の制御が難しそうな楔状の鉄杭なのだ。魔法のような不思議の力の類なのか、テクノロジーなのかは分からないが、狙って命中させたにせよ、たまたまそこに当たっただけにせよ、恐ろしい攻撃手段には違いないと思い、テオドロスは感心してしまう。
巫女はどうしたかというと、彼女は意外なことに、たった今起こった事態について明らかに狼狽している様子だった。蜘蛛の糸の話をして、『貴方はいつまでも気が付かない』と言ったときには、次に具体的に何が起こるか、把握していなかったのだろうか。
巫女は目を丸くして動揺を顕わに早口で言う。
「あら、あら、ああ、どうしましょう。あの、こんなことは——」
巫女の背後にいる少年は、一見うわの空といった様子で、動じていないようにも、何か他に気がかりなことがあってそれどころではないようにも見える。しかし彼は、今この部屋の中で起こっていることを、確かに知覚していた。彼は、この先起こることを巫女ほどは知らず、客たちよりは少し知っている。
彼は巫女の侍者であり、その役割を果たすときの他は、その場にいないも同然の存在として振舞わねばならない立場だ。巫女も少年には一瞥もくれない。
テオドロスはまだ静観している。ロランは下を向いて静かに苦しんでいる。テオドロスは、苦しそうではあるが全く騒がないロランの姿を見て、この人は精神力がよほど強いのか、苦痛の感受性が比較的鈍いのか、それとも自分の解剖学的見解に誤りがあるのか、と考えつつ、自分はどうするのが得策か思い巡らす。
まず、鉄杭を今すぐ手首から抜くのは、良い考えではなさそうだ。それはテオドロスにも分かる。ロランを助けたいのなら、まず天板から杭を外し、手首には刺さったままの状態で、どこか適切な手当てのできる場所に連れてゆくべきだ。ロランはテオドロスにとってまだ興味の尽きない客人の一人であり、かつ、帝都の危機的状況下に展開されているゲームの大切な駒でもある。これが夢でないのなら、予後のためにもなるべく早く治療をするべきだろう。
では、この会合を早めに切り上げることは可能だろうか。それを検討するためには、何かショックを受けている様子の巫女と話をしたいが、今、【沈黙】を破ることが本当に適切なのか、テオドロスには今一つ確信がない。出方によっては何かこちらの不利になる――今以上に不利になる――地雷を踏む可能性もあり、彼はこういった局面では案外と慎重だった。
テオドロスはアランに意見を求めたかったが、アランとユリアは、別の時間空間でその時間空間の巫女と別のやりとりをしている。アランもユリアも、向こうの巫女も、こちらのロランの惨状をまるで認識していないように見える。もしかするとロランにも、向こうの二人は認識されていないのだろうか?
短い間に考えて、テオドロスはその場に座ったまま、黙って手を上げてみることにする。その手をめがけて例の鉄杭が飛んでくるかもしれないスリルは受け入れることにしたのだ。
しかしテオドロスが手を上げようとすると、なぜかそれを察知したロランが彼の方を見て、青白い顔でぼそりと「黙っていろ」と言う。テオドロスは首を傾げ、無言のうちに理由を問おうとするが、理由はロランにも分からなかった。魔女の雲に巻かれて眠っていた直感が一瞬、蘇ったような感覚だった。その感覚も罠なのかどうかは、この場の誰にも分かりはしない。
ロランは苦痛の中で呼吸を整え、血走った眼で巫女に続きを促した。
「おい、続きは? ……早くしろ」
先ほどまでうろたえていた巫女は、それを聞いて何か覚悟したように瞼を閉じ、再び目を開けると別人のように平静に戻った。テオドロスはどういうわけか、彼女が今、どこかから戻って来たような印象を受けた。
落ち着きを取り戻した巫女は、手首を貫かれて苦しげなロランのことも、『これが口寄せの最後の機会でしたのに』と言われて思い思いに沈黙するアランとユリアのことも、まるで意に介していないような冷酷な表情で、厳かに告げる。
「過ぎたものは占われました。次は、今あるもの」
巫女は、【黄昏】または【黄金の杯】である最初の一枚の四辺に置かれたカードのうち、今度は彼女から見て奥側の一枚を裏返した。
テオドロスが見ている《アランが選ばれた場合》では、【黄昏】の手前のカードは【芽吹いた枝】だった。
同じく、《ロランが選ばれた場合》では、【黄金の杯】の手前のカードは【血染めの剣】だった。
対照的な印象の図像だ。
【芽吹いた枝】の方は、晴れた空の下、井戸のある石畳の広場に五人の若者が横一列に並んで立っている絵で、若者たちはそれぞれ一本ずつ、木の枝のような棒を持っている。向かって右から三番目の長髪の若者が持っている枝にだけ、緑の若葉が芽吹いていて、他の四人のものは枯れ枝のようだ。芽吹いた枝を持つ若者の表情は明るく、驚いているようにも見える。残りの四人は、悲しげな者、芽吹いた枝の若者を横目で見る者、無表情の者、そっぽを向いて微笑しているように見える者、と様々だ。全体的に、雰囲気は明るい。
【血染めの剣】は反対に物々しい。板金鎧で全身を覆った四人の騎士たちが、四人とも全く同じ姿勢で抜き身の剣を右手で天へ翳している。夕焼けか朝焼けか、空の色は赤く、金色の雲がたなびいている。騎士たちの剣はいずれも同型に見えるが、向かって右から二番目の騎士の剣の刃だけが真っ赤な血染めだ。血の色は鮮やかで、まだ新しいもののように見える。騎士たちは全員面頬を下ろして顔を完全に覆っているため、それぞれの表情は分からない。
「【芽吹いた枝】。再生、失ったものを得なおすこと、波乱と嫉妬。貴方は失ったものを違った形で取り戻しました。しかしそのために、周囲に波乱を生んでいる。妬む者が身近にいます」
「【血染めの剣】。切り落とすもの、断つもの、貧乏くじ。貴方は継承を断ったつもりでいる。血染めの刃は未だ拭われない。拭う間もない。ああ、お気の毒に。誰からも『あれが自分でなくてよかった』と思われるような、損な役回りですね」
どちらも、現状の話として妥当な内容だ。
アランは、『妬む者』にだけ心当たりがない。ユリアは、テオドロスから聞いたあり得たかもしれない縁談の話をちらりと思い出したが、それでユレイドがアランを妬むとも思えず、やはり心当たりがない。
ロランは今まさに、誰からも『あれが自分でなくてよかった』と思われるような目に遭っている最中だ。『貧乏くじ』も彼には納得が深い。運が悪いのか運が強いのか、彼自身なんとも言えないのだが、わりと特殊な境遇を生きている自覚はある。『継承』は、どうせ生家との因縁の話だろうと彼は雑に片付ける。
貫かれた手の周りの血だまりが、少しずつ確実に広がっている。ついに端へ到達して滴った紅い雫が、ロランの太腿を汚した。左手の全体が死ぬほど痛かった。心臓の鼓動がどんどん速くなり、脈の一拍ごとに左腕に雷が落ちる。ロランは、これまでの人生の中で身につけざるを得なかった忍耐力でおとなしくしてはいるものの、内心では気が狂いそうだった。まだ過去と現在が占われたばかりで、占いはまだ終わりそうにない。どうでもいいから早く終われと、ただそれだけを彼は念じている。
どちらの景色でも変わった出来事は何事も起こらなかったので、テオドロスはただ巫女の言葉を記憶に留める。次は『まだないもの』、つまりこれからの未来について示すカードだろう。占いの本領だ。
巫女は最初のカードの左手側、テオドロスの予想通り、未来を示すカードに手をかけようとする。そこで、幾らか変わった出来事が起こった。
巫女の後ろで存在を消していた侍者の少年が声を出したのだ。
「巫女様」
少年の細いがはっきりした声は、テオドロスには右手側――《ロランが選ばれた場合》の景色だ――でのみ響いた。テオドロスの記憶では、彼は初め巫女の真後ろに立っていたはずだったが、今は、やや向かって右よりにいる。巫女との位置関係で、属する《場合》が変わるのだろうかと、テオドロスは興味深く考察する。
侍者が場に水を差すのは、本来であればあってはならないことだ。
しかし巫女は平静な顔で振り返り、「何か?」と少年に応じる。少年は恐縮しているのか、下を向いて消え入りそうな声で巫女に答えた。
「巫女様。請願者が怪我をされています。死なせてしまっては、託宣はどうなるのでしょうか。そうすることが、あの……ご意向なのですか?」
巫女は黙って少年の顔を見ていた。巫女の表情は、もう助からない患者の前で見舞客がする顔に似ている。彼女は後ろを振り返っているので、彼女の表情を見ることができたのは見られている少年だけだった。そんな表情で、巫女は冷たい言葉を返す。
「ではどうしろと? 私に何ができよう。おまえに何ができようか」
少年は、腰に巻いていた薄青のサッシュベルトを解いた。柔らかく光沢のあるその帯を持って、彼は巫女を拝むように身を屈め、囁くように話す。
「最後ですから」
小さな声だったので、テオドロスには聞き取れなかった。巫女と、ロランにはその声が聞こえた。不吉な言葉だ。ロランは、この部屋に通される前に聞いた『全部、今夜でおしまい』という幻聴――彼はそれを幻聴として処理するつもりだし、その方針を変えるつもりもなかった――を思い出す。
拝まれた巫女は何も言わず少年から視線を外した。前に向き直り、もう少年の方は見ない。しかし巫女の無言は、何かの肯定だったらしい。少なくとも少年にはそれが伝わったようで、彼は帯を持ってロランに近付いた。
ロランは何事かとつい身構え、それ以上寄るなと牽制して言う。
「おい、最後だかなんだか、冗談じゃねえぞ。右手はまだ動くんだ。介錯のつもりなら覚悟して近寄れ」
ロランの剣幕に少年は怯えた表情をしたが、引き下がらなかった。彼はやはり小さな声で、ロランに話しかける。
「いいえ、そうではありません。最後なのは僕です。僕にできることは何もありません」
だったらなんだと言うのだろう。苛立ったロランは邪険に返す。
「だったら失せろ。さっさと終わらせて帰りたいんだよ」
少年は悲しそうな顔をした。巫女が指先で机を叩いた。少年は焦った様子で、まとめた帯をロランに差し出し、早口に言う。
「これを持っていてください。ただ持っていてください」
持っていてください。不思議な言い回しだ。差し出されたのは、染み一つない綺麗な薄青の帯だ。上等なもののように見える。面食らったロランは、眉を顰めて困惑顔で言う。
「それはいらないから、どっかにやっとけ。血で汚れる。そんなもの持たされたところで、どうにもならねえよ」
少年は巫女を気にしながら、帯をロランの前の机の上に置いた。帯の端が血だまりに触れ、さっそく汚れてしまったことも気にしない様子で、少年は言う。
「幸運の印なんです。差し上げます。持っていてほしいのです。剣を血に染める道でも、せめて幸運がありますように」
悲しいような微笑みとともに「さようなら」と言って、少年は巫女の後ろに戻って行った。
ロランは毒気を抜かれて沈黙する。目の前に置かれた帯をとりあえず血だまりから離し、これ以上汚れないよう気をつけようとはしてみたものの、右手にももう血が付いてしまっているので難しい。元の薄青と血の赤の対比はどうにも凄惨な印象だ。
テオドロスは一連の出来事を見ていて、少年のまるで辞世のような物言いに気を引かれていた。
巫女が言う。
「お話は済んだようですから」
その一言で場の注意を引き戻した巫女は、未来のカードをめくるべく言葉を続けた。
「これから得ることになる、まだないもの」




