XXVII-i. Sibylla Pseudostellae I
現れた下り階段とその先の闇を見やり、テオドロスが呑気に呟く。
「まだ僕の知らないこんな秘密があったんだね。アラン、君といると本当に不思議には事欠かないよ」
アランは面白くもなさそうに返す。
「飽きられたら庇護を外される」
冗談でも本気でもなさそうだ。テオドロスは、オフラインで座標が表示されなくなった端末を片付け、手元のライトの調子を軽く確かめる。優雅な所作を崩さず予備の電池の所在も改めて確認した彼は、底の見えない暗がりに光を投げ、驚きの発見について好奇心もあらわに続けた。
「こんな入口、間違いなくさっきの場所には見えてなかったよ。どうやって隠してたのかな。それとも、もうここが本当にさっきと同じ場所かも怪しいものだけれど。ねえ、セニエール氏は気付いてた?」
意地悪な問いだとロランは思う。目の前で手を叩かれるまで呆けていたのだ。階段があることに気付いていなかったことなど、お見通しだろうに。だが、どうでもいい。もう、どうでもいい。本当に魔女の手の罠なら、この暗がりの先では、そんなことに構っている暇はなくなるだろう。少なくとも自分にはと、そう思った彼は、捨て鉢の余裕を装って笑う。
「手品の種なんか知らなくていいんだよ。どうせ騙されるんだ。何が出るか、見てからのお楽しみってな。あと、その呼び方やめろ。なんだ、今はつまらないごっこ遊びがしたい気分じゃない」
それを聞いて、テオドロスは一瞬何か考える顔をした。しかしそれから不敵な笑みを浮かべ、「何が出るのか僕も楽しみだ」などと言って、先へ進もうと皆を促す。階段の幅は通路の幅より少し狭いが、それでも二人くらいなら並んで降りられそうだった。自然、これまでと同じように、この中で一番この得体の知れない場所に通じていそうなアランが先導を務めることになり、その傍に『助手』のユリア、その後ろからテオドロスとロランがついてゆくことになる。
気味の悪さをものともせずに鼻歌でも歌いそうなテオドロスにつられて、ロランは予想したほど憂鬱を感じずに済んだ。下りの一歩を踏み出すときにも。あくまでも、予想したほどは、だったが。嫌なものは嫌なのだから仕方がない。この先に魔女当人が待っているわけではなかったとしても、もう既に彼にも分かる。階段のあるこの場所が先程までの通路の延長ではないことと、漂う嫌な予感――遠い記憶に圧し掛かる雲、不穏な気配、どんなふうに言い表したところで、これは、かつての彼にはどうすることもできなかった何かの兆しだ。
若かったころにはどうしようもなかった。今はどうか。何か変わったとは、彼にはとても思えない。
【彼の力は魔女の力】
絶望に飲み込まれそうな自動思考にロランは無自覚だ。今の彼は既に調子を崩している。あらかじめ気をつけていたはずなのに、魔女の影響下では思考の傾きにも注意すべきと知っているはずなのに、思い至らない。もしくは、故意に意識していない。彼は探っている。どうせどうしようもない諦めの中で乱されない均衡、騙されながら騙されない危うい線上に自我の領域を残す正気のありようを、未だ探っている途中なのだ。
石の階段は短かった。最後の段を下りると、上と似たようで明らかに様式の違う――こちらの方がずっと古そうな――石造りの回廊が続いていて、突き当たりに明かりが見えた。揺らめく炎。古い火だ、とユリアは思った。電気でもなければ、魔力でもない。蝋燭であれオイルランプであれ、燃える炎は燃料を分かりやすく消費して輝き、燃料がなくなれば消えてしまう。無限ではない。帝国の始まりから動いているという魔原動機でさえ『材料』を必要とする。それを知らない者にとっては、魔原動機は、永久電池と同じように無限の永久機関のように思われることだろう。彼女もかつてはそう思っていた。魔原動機が何のためにあるかについても、今のようには考えていなかった。
まるでどこかの遺跡に迷い込んだかのような冷たい回廊を進む間、誰も何も話さない。テオドロスさえ黙っていた。
回廊の突き当りには閉じられた木の扉があり、扉の表には鋳鉄で蔓草のような装飾が施されている。古代遺跡はここまでで、ここからは別の時代が始まるような、そうした雰囲気の違いよりも珍しかったのは、その扉を両脇から照らしている二つの揺らめく灯りの様子だった。蝋燭でもオイルランプでも松明でもない。二つの炎は、燃やすものなど必要ないかのように空中に浮かんでいる。ユリアが驚いていると、傍らのアランがぼそりと注釈をよこした。
「あれは幻だ。厳密に表でも裏でもないここでは、そんなこともある」
分かりにくいが《α世界》でも《β世界》でもないからということらしい。どちらが表扱いかは当人にしか分からないこととしてさておき、聞いている三人には分かるようで分からない理屈だ。では、どちらでもないというこの場所は、一体どういう場所なのか。
とりあえず、手元の灯りはもう必要なさそうなので、テオドロスは電池式のライトを消して、懐にしまう。他の三人も彼に倣った。
こことは別の【どこでもない場所】にいたことがあり、さらに、宙に浮く炎と似たようなものとして《人魂》を見慣れているロランは、この奇妙な光景にも特段驚きはしない。彼は、それこそ魂の抜け殻のような生気のない声でアランに言う。
「ああ、そんなこともあるんだろうさ。誰が戸を叩くんだ?」
アランが「誰でもいい」と言うので、この場でおそらく唯一憂鬱にあてられていないテオドロスが前に出される流れになる。テオドロスは何か思案顔で他の三人の様子を見回し、アランに尋ねる。
「αでもβでもどちらでもない、そんな場所が存在して、ここもそうだって言うんだね?」
アランが頷くと、テオドロスは「ふうん、そう」と軽く相槌を打って、静かに続ける。
「君がそう言うんなら、そうなんだろう。他に言うべきことはないんだね?」
最後の問いだけ妙に重い。普段の軽妙な話し方とは違う力がこもっている。ユリアが無意識にびくっとする。彼女は、一族の人間が交渉の場でこんな話し方をするのを知っている。アランはユリアに軽く触れて落ち着かせ、テオドロスに正対してはっきり答えた。
「ない。必要なことは話した」
それを聞いてテオドロスは「そうか」と一言、なんだか楽しそうに頷き、もう充分とばかり扉の方に向き直る。確認したかったことは確認できたということのようだ。アランとテオドロスの会話は、ときに周囲には謎めいて見える。今回も、ユリアとロランにはそのやりとりの意味合いが分からなかった。分からない二人が何か口を挟む前に、テオドロスは躊躇なく目の前の扉を拳で叩いた。
大仰にややゆっくり四回叩いて、どうなるか待つ。ユリアは心の中で数を数える。
一、ニ、三……八秒。
がちゃり、と錠の開く音がして、軋みもせず扉は内側へ開いた。開けた者の姿は見えない。自動で開く種類のドアとは誰にも思えないが、『そういうこともある』のかもしれない。
扉の向こう側は、こちら側より暗くもなく、明るくもないらしかった。奥にもう一枚同じような扉が見えるが、そちらは閉まっている。死角に誰か隠れているのだろうか。例えば、開いた扉と壁の間――推理もののトリックでたまにある――と考えたのはテオドロスだが、そんな悪戯を仕掛ける理由もないだろうとも同時に思う。いや、中に入って確かめてみれば分かることだ。彼は気軽に足を踏み出した。
一歩入ってすぐ、彼は少しだけ驚かされることになる。数歩先に出迎えの少年がいたことに、敷居を跨いで初めて気が付いたからだ。もちろん、扉と壁との隙間にではなく、扉を開けて入ってきた客を迎えるのに最も適当と思われる位置に、ごく普通に立っている。
この位置で外から見えなかったのは不思議なことだが、この少年もインディゲナならば、あり得ないことでもない。テオドロスはひとまずそう考えることにして、驚いたことは表に出さない。
まだ声変わりもしていなさそうな少年は、これまた古風ないでたち――当世流行りの旧大陸風ではなく、新大陸側の遥か昔の文化に連なる――で、変わったカットの白いワンピースに、繻子のような光沢のある柔らかそうな薄青の帯を緩く巻き、余った帯の端を腰の後ろへ垂らしている。
少年は俯いていた顔を上げ、会釈して客人を迎えた。なかなか整った顔立ちだとテオドロスは思う。おまけに、帝都では比較的珍しい赤みがかった金髪だ。それが天然なら、パトリキの金持ちに色付きの高値で売れそうだ。
とはいえ、そんな発想は発想だけで、捕まえて商品にしようという気は――少なくとも今は――起こらない。テオドロスはもう少し内側へ入って、後ろの者たちも中へ入れるようにした。
外側からは見えなかった少年の存在に、ロランもユリアも驚いている。アランはフードを被ったまま俯き通しで、まるで普段以上に自分の気配を消そうとしているかのようだ。実際、彼はそうできるものならそうしたいと思っているのだが、あいにくここではそれが通用しないらしい。彼と付き合いの長いテオドロスはそれを察して、少し面倒なことになったと思う。
存在を曖昧にする隠密の力は、《α世界》でのアランの特性だ。それはおそらく《β世界》での権勢と表裏だろう。どちらの領域でもないというここでは、どちらも発揮されないとしても、不思議ではない。地下組織が設定する会合の場としてこの場が選ばれた妥当性もそういった事情にあるのではないか。この場でなら、誰にとってもかりそめの対等を実現できるはずだという、建前が成立するということだ。ありがちな話ではないか。
問題は、無力化されたらしいのはこちら側だけで、黒幕に魔女を擁する地下組織の側も同条件とは思えないという点だ。しかしそもそも――魔女が関わる前から――対等など建前でしかないはずだ。頼みごとをしに向こうの支配領域に踏み込んでいるのはこちら側である以上、それはそういうものとして考えておくのが適当だろう。
一瞬の間にここまで考えて、テオドロスはここからの事態を幸運に任せることに決めた。彼はいつもそうしているつもりだ。そうしているつもりなのに、ときに陰謀家扱いされるのは、それはそれで気に入っている。
全員が揃うと、少年は改めて静かにお辞儀をし、初めから手に持っていたものを客人四人の前に差し出して見せた。見たところ、白い紙の封筒のようだ。同じように見えるものが四封ある。少年はそれらの封書を扇のように広げて持ち、客たちの前に提示している。
どういったもてなしなのだろう。帝都でもこういった作法はない。テオドロスが怪訝な顔をすると、少年は憂鬱な絵画のように翳る表情、虚ろな声色で、秘密の決め事を告げるように囁いた。やはりまだ子どもの声だ。
「一封ずつ、お取りください。でも、まだ開けないで」
一人に一封ということらしい。見たところ封書に表書きは見当たらない。中身はどれも同じものだろうか? まさかこの封書の中身が先方の回答というわけではないだろうが、では一体何なのか、謎めいた趣向だ。初めから面白げなことをしてくれるではないかと、テオドロスは密かに高揚している。
彼は差し出された四枚のうち、向かって左端のものを――ゲームの札を引くときの気分で――選び、受け取った。反対側の右端の一封を、もはや板についた諦め顔のロランが手を伸ばしてきて取る。ユリアとアランも、残りの二封をそれぞれ受け取った。
テオドロスが手にした封筒は軽く、厚みもほとんど感じられないが、感触から空ではなさそうだ。中身は便箋ではなくメッセージカードか何かだろうか。裏返して見ると、封はされていないようだ。開けてはいけないと言われると開けたくなるなんて、お約束だろうにと、彼は一人で微笑んだ。お約束通りに開けたくなっている自分自身がどうにもおかしく感じられたのだ。しかし、封筒を開けて中身を見ることはせず、代わりに少年に話しかけて尋ねる。
「ねえ、『まだ開けないで』ってことは、あとで開ける機会があるんだろう。こういうのは、帰り際に渡すものじゃないのかい? それとも、これから王様ゲームでもするつもりなのかな?」
少年は、客に話しかけられるなどまるで想定外だったかのようにびくっとして一歩引き、下を向いて黙ってしまう。困っているのか、怯えているのか。恐れの反応のように見えるが、そうだとしても、少年が何を恐れているのか、恐ろしいのがこちら側なのか向こう側の何者かなのか、テオドロスには分からない。ユリウス家の裏家業はインディゲナ狩りだ。現当主の子であるテオドロスも、狩りの対象に恐れられることになら慣れている。しかし、この場の主導権を握っているのは、おそらくテオドロスではない。ここは地下組織の支配下にある場所のはずで、順当に考えれば、こちらが手出しできないような仕組みを向こうが用意しているだろう。
したがって、テオドロスの感覚からすれば、少年が客を恐れる理由はない。では、と考えたところで、鐘が鳴った。
鐘の音だ。どうやら、奥の扉の向こうから聞こえる。鐘楼に吊るされるような大物の音ではなく、もっと小さな鐘の音だろう。手に持って鳴らす小鐘だろうか、と思ったのはロランだった。彼の元いたところ――狭間の城よりもっと前――では、そうした小鐘が使用人を呼び出すときなどによく使われていた。狭間の城で同じ用途に使われていたのは卓上ベルで、それを叩いたときの音は、今聞こえているこの音色とは全く違った。なので、ずいぶん久々に聞く気がするこの音は、だからこそどうにも不吉なものとして彼には感じられる。
鐘の音を聞いた少年は、はっとした様子で居住まいを正して、客たちに向き直る。彼の視線は、誰かを探しているように――テオドロスにはそう感じられた――四人の客人の間を彷徨い、誰に留まることもなく、また床に落ちた。もう一度顔を上げて、彼は告げる。
「巫女様がお待ちです。あちらへどうぞ」
同時に、全く同じ少年の声で別の文言が、ロランだけに聞こえてきた。
【全部、今夜でおしまい】
ロランはそれを完全に無視した。
奥の部屋へ通される。そう広くはない部屋だ。入り口から左側の石壁には、窓がある。天井近くから下がった紅色のカーテンは窓の両脇に寄せられていて、アーチ窓の向こう側には、真ん丸から少し欠けた今夜の月が見えた。月が照らす下の景色はどうなっているのか、ここからはよく見えない。
窓は開いているようだというのに、部屋中に香の香りが充満していた。窓と反対の側の小机に金の香炉が置かれていて、そこから煙が立ち上っている。よい香りだが、どこか不穏だ。四人が四人ともそう感じているのは、魔女の【雲】の話が念頭にあるせいだ。
部屋の中央には、正午の交霊術で使ったものよりも幾らか小さめの円卓が据えられている。円卓の天板は濃紺の布地で覆われ、幾つかの品がその上に並べられている。客のための席が四つある。もう一つの、窓を背にする位置の椅子の脇には女が一人立っていて、今しがた部屋に入ってきた客たちに目を向けて言う。
「このような時節にいらっしゃるお客様。はて吉報か、凶報か」
落ち着いたアルトの声。誰に話しかけるでもない独り言のような言いようだ。来たばかりの客に対してかなり風変わりな挨拶なのだが、四人とも見覚えのあるその姿を見て、誰も何も言えない。薄物の黒いベール、金銀の腕輪や首飾り、束ねた黒髪、黒と紫のいかにも占い師めいた衣装。夕べの半ば夢、半ば《β世界》の奇妙な茶番をアランが暴いた後、場に引きずり出されたあの女――ルパニクルスに囚われて使役されていたあの哀れな女が、そっくりそのまま同じ姿で、そこにいたのだ。夕べよりも元気そうに見える。
当惑した視線を受けて、女は大した関心もなさそうに問う。
「わたくしの姿が、何か?」
テオドロスは様子見を決め込んで何も言わない。発言したのはロランだった。
「よく似た人間をゆうべ見たばかりだ」
女は僅かに目を見開いた。この発言の何かが気を引いたようだ。『人間』という単語にだろうと、テオドロスは思う。しかし、女はやはりつまらなさそうに「そうですか」と返すだけで、それ以上を問おうとはしない。まるで、見たことがあると言われることに慣れきってでもいるかのようだ。
見るものが記憶している像の中で、一番それらしい姿。そう見えるように見え方を誤魔化すやり方があることを、ロランは知っている。この女のこの姿も、その手の幻術だろうと直感的に推測できるのだが、今の彼には、この女の正体らしきものを見破ることがまるでできない。彼はそれを諦めて、女に問う。
「何をしに来たかはもう知ってるんだろう。用があって来た。手紙の通りだ。あんたが代表者か?」
女は頷き、客人の顔ぶれを見渡して宣言した。
「ええ、わたくしが今宵の代表者。わたくしが用向きを伺い、託宣をいたしましょう」
それから、女は卓に設けられた四つの空席を指してこう続ける。
「席にお着きになる前に、どうぞお手元の封筒を開封なさって。
――席次を決める籤ですの」
籤。わざわざ籤引きにするほどこの場での席次に意味があるとは、客側の誰にも思えない。が、あえて従わない理由もまた、誰にもない。
四人は、少年から受け取った封筒をそれぞれ開けて、中にあったもの――何か絵の描かれたカード一枚――を取り出して、見た。
ロランの手元にあるそれには、片面に装飾的な幾何学模様、反対の面――こちらが表だろう――には金色の杯とそれを持つ手が輝かしい彩色で描かれている。空色を背景とした杯の絵の面の一番下、枠外に、【黄金の杯】という印字があった。これが絵の題なら、何の捻りもない。
この語も、この図案も、ロランには見覚えのあるものだった。この絵そのものにではなく、金の杯とそれを持つ手というシンボルに覚えがある。何のことはない、これはゲームや占いに使われるカードの一枚だ。彼の故郷ではそうだったし、ここでもきっとそうなのだろう。
ロランの記憶では特に悪い意味合いのカードではなかったはずだが、これでどう席次が決まるのか。訝しんでいると、女が彼のカードの絵を見て、事務的に告げる。
「金の杯。奥の席へ、どうぞ」
どんな決め事なのかは客の誰にも分からない。ロランは女に示された、彼女の左側、入り口から一番遠い席に着いた。
テオドロスが引いたカードには、一見縁起の良さげな杯よりも、もう少し不穏な印象の図柄が描かれていた。しかし彼はその絵を気に入り、カードを女に見せながら真剣に問う。
「この絵柄、もしかしてオリジナルだろうか? 見たことのない絵師のデザインだけど、すごく良い。どこかで売ってたりしないだろうか。【縛られた娘】以外の他の絵も見たいな……」
急に饒舌に喋り出したテオドロスを制し、女は自分の唇の前に人差し指を立てて見せた。テオドロスは黙って女に同じ仕草を返し、『静かに』に対する『了解』の合図とする。
テオドロスがおとなしく黙ると、女は彼のカードを指差し、静かな口調で彼に告げる。
「これは別名を【沈黙】のカード。
今宵、この場で、貴方にふさわしいのは沈黙。【縛られた娘】は目隠しをされてはいません。彼女は、見る者、見届ける者。
貴方はもちろん、口を塞がれていはいませんから、沈黙を守っていただけなくても結構ですわ。
しかし、今宵、この場においては、貴方は黙していることが、誰にとっても一番良いこと」
女の表情は真剣そのもので、その話し方はもはや厳かだ。『誰にとっても一番良いこと』というのも、不思議と本当らしく――少なくともテオドロスにはそのように――聞こえた。
テオドロスが女の真意を図りかねていると、彼女は、もう言うべきことは言ったとばかり雰囲気を切り替えて「貴方はわたくしの正面の席へ」と素気なくそちらを指して見せる。
テオドロスが知りたかったカードの出所については結局聞けなかったが、彼はひとまず黙っておくことに決めて、おとなしく示された席に着く。円卓を挟んで正面に女の席が、右側にロランの席、左側に空席が二つ残っている。つまり、用意された席の配置は等間隔ではない。
カードは席次の籤などではなく、誰をどこに座らせるかは初めから決まっていたか、客が到着してから向こうで勝手に決めたかのどちらかではないだろうか。そんなふうに考えつつ、テオドロスは座って成り行きを見守る。先に座っていたロランは、所在なさげに手元のカードを眺めている。
アランのカードは【黄昏】だ。これは、絵柄だけからこれが【黄昏】を示す図であると判断するのは難しいのではないか。だが、これも画家の技量か、カードの図案としては素晴らしい、静かな美しい絵だ。見ていると寂しくなるような、陽の沈んだ後の見事なグラデーションを背景に、神殿のような柱のそばで床に座っている女が、俯いて微睡んでいるように見える。微睡む女の近くには、蓋のされた石の棺があり、棺の蓋の上に、真っ直ぐな長い棒切れが一本、斜めに置かれている。
アランはばんやりとした様子でその絵柄を眺めていた。占いに使うにしても解釈の難しいカードだ。黄昏が過ぎれば夜がやってくる。しかし一般には――。
地下組織の『今宵の代表者』であり、これから託宣をする巫女であろう女は、アランとその手元のカードを一瞥し、冷たい声色で一言投げた。
「今更になって」
アランは顔を上げて女を見た。何の感情も読めない無表情で、何か言い返そうとして、何も言わない。女はふと視線を外し、先ほどの一言よりは幾らか柔らかい調子でこう続けた。
「いいえ、誰も、貴方自身を責めてはいません。ただ、不吉なものとは関わり合いになりたくないだけ。不運なことです」
女の話し方と眼差しには確かに哀れみの色合いがあった。しかし、もうそれ以上かける言葉はないということか、彼女は最後の一枚、ユリアが手にしている【水鏡】のカードに目を向ける。
ユリアは、女がアランに向けて言った言葉について、考えていた。【水鏡】の図柄は、澄んだ水辺で身を乗り出し、水面に映る自分の姿を覗き込んでいる少年――少女のようにも見える――で、背景は夜とも昼ともつかない。水面に映った像は鮮明で、それを覗き込む彼または彼女がそちらへ差し伸べた片手は、水面を通り抜けて水中に没している。
女が自分の方に目を向けたことに気づいたユリアは、【水鏡】の絵柄を女に見せて自分から尋ねた。
「これは、内省のカードでしょう? それか自惚れ屋の印」
ユリアは、相手が何か言うのを待つのに耐えられなかっただけで、話す内容をよく考えてはいなかった。考えていなかったので、引いたカードを見たときの最初の感想がそのまま口から出てしまっている。これが占いではなく籤のていだと言うことも忘れた発言だ。
女は思いの外優しく微笑んで答えた。
「ええ、これは内省。自己卑下も自惚れも内省の産物」
女は「でも」と真面目な表情になって、テオドロスに沈黙を促したときと同様、静かな口調で続きを言う。
「これは魔法の【水鏡】。水面に映るものが、覗き込むものの姿とは限らない。気を付けなさい。
――これから起こることをすべて信じてはいけません」
最後の一言は、ユリアだけに向けられた密やかな囁き声だった。罠だろうか。ユリアには、そうは思えなかった。罠とは思えないという心の傾きが、既に騙されている印なのかもしれないという疑念は残しつつ、彼女は女の忠告を心に留めておくことにする。
巫女はアランを自分の右側の席に座らせ、その隣の残った席にユリアが着席した。窓を背に座っている巫女の席を時計の十二時の位置とすると、三時にロラン、六時にテオドロス、七時半にユリア、九時にアランがいるという非対称な配置になっている。
最初に案内役をした少年は、巫女が客を席に座らせるまでの間部屋の隅に控えていて、今も巫女の後ろにひっそりと立っている。彼には席がないようだが、退出することも許されていないらしい。
静けさの緊張感の中、巫女が少年から件の書状を受け取り、それを広げながらゆっくり本題を切り出した。
「いただいた書簡にはこうありました。『閉鎖区域への立ち入りについて審議を乞う』と。内容に相違ありませんね?」
テオドロスは沈黙している。ロランはアランに視線を送ったが、アランは頷いただけで何か話しそうな雰囲気ではなかったので、仕方なく話し手を引き受けて巫女に答える。
「相違ない」
ロランの答えを聞いた巫女は、一拍間を置いて、「閉鎖区域と言っても色々です」と言い、「一体どこへの立ち入りを、許されたいと仰るのかしら」と問うた。
正確な番地を覚えていなかったロランが懐から手紙を出そうとすると、その間にユリアがそらで答えた。
「β-6793」
巫女は難しい顔になり、一つ、小さな溜息をついた。彼女は、ユリアの口にしたエリアコードをもう一度、ゆっくりと、確かめるように繰り返して尋ね返す。
「β-6793。確かなのですね?」
自分宛の例の不吉な手紙を探し出し、広げることに成功したロランは、そこに確かに同じエリアコードが記されていることを確認してから、巫女の問いに肯定で答える。
「確かだ」
巫女は暗い表情で言う。
「なるほど。しかし難儀ですね。あの場所は、もう、内部の者にも気軽に立ち入れる場所ではないのです。中に入るには、資格と代償が必要です」
どうせそんなことだろうと思い、ろくな期待をしていないロランは、なげやりに問う。
「ほう、代償ね。なんだそれは?」
巫女は沈思するように視線を落とし、ゆっくりと話す。
「払えるものなら資格あり、払えぬものなら資格なし。償いの中身は、わたくしの決めることではありません。それは占いによって知られることです」
占い。ロランには、何もかもが不吉に感じられる。彼は巫女に先を促した。
「どう占う」
巫女は金属の小箱をどこからか取り出し、机の上にそっと置いた。年代物らしい鈍い光沢の蓋は、唐草模様と虎のような生き物を描いた素晴らしい彫金で飾られている。一見して、大切にされているもののようだ。
小箱に注目が集まると、巫女は再びそれを手に取り、蓋を取って、中からカードの束を取り出した。分厚い束を手際よく繰り、その内の四枚を抜き出して、手前に――絵柄は相手に向けて――並べる。残りの束は裏返しのまま、蓋を閉じた小箱の傍に置かれた。
並べられた四枚の絵札は、デザインが少々異なるものの、四人の客が封筒から出した四枚に対応するものだ。
【黄金の杯】
【縛られた娘】
【水鏡】
【黄昏】
こちらは《占いのカード》として一般的によく出回っているデザインのカードで、特に珍しく目を引くものではない。くたびれてはいないが新品でもなさそうで、街なかの占い師の持ち物としては、まあ説得力のある品物に違いない。
並べ終わると巫女は言う。
「いらした全員を占う必要はありません。どなたか――一人か二人で結構」
四枚のカードは、一枚ずつ裏返され、裏返しのまままた一束にまとめられる。それを巫女は手の中でよく混ぜて、今度は初めから絵柄の面を伏せた状態で机上に並べ直した。
少年が火のついた蝋燭の燭台と抜き身の短剣を持ってくる。この部屋のどこからそれらを出してきたのか、カードと巫女の動作にぼんやり注目していた四人は誰も見いない。まやかしの見えない霧は、既にこの場に満ちている。
簡素な卑金の燭台は円卓の中央に置かれ、飾り気のない短剣は巫女と四枚のカードの間に、柄の方を彼女の右手側にして置かれた。よく磨かれた銀色の刃に、蝋燭の光が反射して揺れている。この部屋には、この蝋燭の火と窓から差し込む月明かりの他に光源はない。ないはずだが、これまで誰もこの場所が暗いとは感じなかったし、今も、客の誰一人としてその不思議に気付いてはいない。
巫女は短剣を手に取り、横にしたまま胸の高さまで持ち上げて呪文を唱えた。
その場の皆が、巫女の呟く呪文に注意して耳を傾け、それを聞き取ったはずだった。しかしどのような文言だったのか、意味を理解できる音だったのかどうかすら、誰の記憶にも残っていない。ただ巫女は呪文を唱え、短い詠唱が終わった後に、次のような現象が起こった。
静かに燃えていた蝋燭の火がにわかに大きくなり、勢いよく燃え上がる。客たちは驚きと熱さに身を引く。巫女は手に持った短剣の刃を炎に向けて、まるで邪悪なものから身を守ろうとするかのように身構えている。勢いづいた炎は蝋燭の燃焼によるものとは思えないほど大きく、高くなり、天井を焦がしそうなほど長く伸びてからまた縮み、こぶし大の大きさに落ち着いて、蝋燭の芯から離れた。燭台に燃えさしの蝋燭を残して浮かび上がった炎は、元々燃えていた場所から完全に離れ、その真上、大人の心臓二つ分くらい離れた宙にふわりと浮かんで、なお盛んに燃え続けている。
ここに来る途中で見た炎と同じ、つまり幻だ。ユリアはそう思った。だが、幻だったら本物の火と何が違うのだろうとも思う。この幻には明るさがあり、先ほど大きく燃え上がったときには、恐ろしくなるほどの熱さがあった。今感じられる幻は、覚めていない夢と同程度には現実に違いない。
揺らめく炎の先が三つ又に分かれて、三つの火の粉が分離して飛んだ。明るい火の粉は弧を描いて軽く舞い、裏返して置かれた三枚のカードの上に、それぞれ落ちる。巫女から見て右端と、右から三番目、左端のカードだ。三枚とも、熱い火に触れた中心部から静かに燃え上がり、瞬く間に灰となる。
炎への警戒態勢を解き、短剣も机上に下ろしていた巫女は、選ばれなかったカードが燃える様子を、静かに、どうにも悲しげな様子で眺めていた。揃わないカードは、もう占いには使えない。四枚のカードが伏せて並べられていた場所には、灰の粉と、燃えなかった一枚のカードだけが残される。巫女の従者のような少年が、給仕が食卓からパンくずを払うとき使うような銀の塵取りを持ってきて、灰の粉を片付けた。灰が片付くと、卓を覆う布地に焼け焦げは見られない。火は周りに燃え広がることもなく、カードだけを灰にして消えた。
巫女は一枚だけ残ったカードに手を伸ばし、位置をずらして中央、自分の正面に置き直す。巫女が手を動かすといつも、細い手首に幾つも飾られた金属の腕輪が触れ合って、涼しい鈴のような音がした。伏せられたカードの上に手を触れたまま、巫女は目を閉じ、静かな声で問いを発する。
「おまえは誰か?」
言い終えて巫女はそのカードを裏返し、表の絵柄をあらわにした。ここから先、既に雲をかけられている各人の見たものは、それぞれ異なっている。
アランは【黄昏】の絵を見た。つまり、資格を占われる相手として選ばれたのは彼だ。陽の落ちた空に、微睡む女と、閉ざされた石棺。封筒から出てきたカードと全く同じ絵ではないが、要素は共通している。燃えずに残されたのは、【黄昏】のカードだ。
ロランは【黄金の杯】の絵を見た。巫女の言う『償いの中身』とやらを占われるのは彼なのだ。全員ではなく誰かしら選んで、それを占うと言われたときから、こうなる展開は彼の予想の範囲内だった。つまりは嫌がらせだ、今もどこかで見ているに違いない、と彼は思う。思うを通り越して信じ込んでいる。うまく切り抜けなければ――うまく無視しなければ――ならないと。
ユリアには【水鏡】は見えず、アランと概ね同じものが若干霞がかって見えた。香炉の煙のせいなのか、あるいは空気が揺らめいているのか、微妙に輪郭がはっきりとしないので、彼女は一度目を擦り、辺りを見回してもう一度よく見ようとした。部屋の中の見え方は、変わらなかった。
テオドロスは両方を見た。【黄昏】と【黄金の杯】だ。カードは一枚で、絵柄が真ん中で分割されているわけでもないのに、同時に完全に【黄昏】と【黄金の杯】その両方に見える。視覚がおかしくなったのか、それとも、一度に一つの景色しか見えないというこれまでの見え方が、むしろ劣った知覚のあり方だったのか。これまで体験したことのないものの見え方に彼は驚いたが、その驚きを表には出さなかった。
巫女はカードに指をさして、それに話しかける。
「汝、黄昏に立つ者。夜の始まり――ですがここでは一日の終わり。誰も終わりからは逃れられない。昼を留めても、夜を留めても、いずれ尽きる有限の力は、血を流すことで生き長らえようとする都市の希望か――そは祝福なりや、呪詛なりや?」
アランとユリアにはこう聞こえた。アランにははっきりと、ユリアにはややぼんやりと。ユリアは今度は耳に手を当てて、訝しげな顔をしている。
「汝、輝ける杯に囚われし者。器を満たすすべてのものが、汝の嗣業、汝の取り分、汝のさだめ。ええ、誰もが自らの分に囚われています。艱難も享楽も分のうち運のうち――そは祝福なりや、呪詛なりや?」
ロランにはこう聞こえた。そうだ、これが【黄金の杯】の解釈の一つだ。『分をわきまえろ』の『分』。一番意地悪な種類の解釈に違いない。【黄金の杯】は、来るべき栄光の象徴ともとれるものなのだから。しかしそれにしても結局『来るべき』か。運命や規範からは逃れられないという嫌がらせなのだろうか? そこまで考えて、彼は全てを受け流そうとする。聞かないこと。何かを心に入れないこと。考えてしまっても、考えたまま、そのまま流してしまうこと。川へなり、海へなり。海の水はやがて雲となり……。
テオドロスは両方を同時に知覚した。巫女の声を二重に――しかも、それぞれ片方だけ聞くのと同じくらい明瞭に――聞いただけでなく、巫女の唇の動きまで、両方のパターンが同時に見えた。巫女の前には、同じ位置に、別々の絵柄のカードが、同じように置かれているのが同時に見える。アランが選ばれた場合と、ロランが選ばれた場合とで、時空間が局所的に分岐し、テオドロスにはそれらが重なり合って知覚されているかのようだ。同時には成立しないはずの矛盾する知覚情報を、一つの意識で両方処理できているというこの状況は、幻覚の類でなければ起こりえないはずの奇怪なものだ。しかしテオドロスには、こちらの方がむしろ知覚の完全なあり方に近く、今までの方が不完全だったのではないかと、思われてならなかった。彼は、このいかにも珍しい体験に心を浮き立たる。
テオドロスが二通りの場合を同時に知覚している中で、両者が本当に重なって二重に見えているのは、巫女とその前に置かれたカードのみのようだ。つまり、円卓のちょうど彼と向かい合う側に座っている巫女を中心として、左右それぞれで別々の場合が展開されているらしい。テオドロスだけが分岐から取り残されているのか、それとも、彼自身もやはり分岐していて、もう一人の彼が同じ場所に座っていて、反対側の巫女からはこちらも二重に見えているのかは、確かめようのないことだった。
他の者たちにはそれぞれどんな光景が見えているのか、尋ねてみたいとテオドロスは思う。しかし、彼の手元には先ほどの【縛られた娘】——【沈黙】のカードがまだあり、『貴方は黙していることが、誰にとっても一番良いこと』という巫女の言葉も気にかかる。彼は沈黙を守ることにした。
巫女は厳かに続ける。
「見せてください。資格の有無を。もうないもの、今あるもの、まだないもの――何ものであるか」
占いが始まった。




