XXVI. Via inter Strata
帝都において、郵便配達という仕事は懐古趣味と強く結びついている。この時代にあえて紙媒体の伝達手段を使おうというのだから、そんな顧客は酔狂人に違いなく、そういう変わり者達によってその仕事は支えられている。郵便を利用する顧客の中にはもちろん、市民ライセンスがないために他の通信手段を持たない者達も混じっているのだが、その具体的な数や全体に占める割合が統計的なデータとして明らかにされることはまずない。不法滞在を取り締まる当局としては是非とも入手したい情報であるが、曖昧にしておいた方が都合のいい事情は政府側にも少なからずあり、その他様々な思惑が絡み合った結果、現状では野放しとなっている。
帝都の郵便配達員は地下組織の影響下にある。彼ら一人一人は地下組織の一員ではないにしろ、それぞれが前任から特殊な符牒の数々とその遇し方を引き継いでおり、密書はほとんどそれと知られないまま適切に取り扱われ、目的の場所に届けられる。アランが封をした書簡も例に漏れず届けられ、上層で日が暮れるころには、先方の返信を預かった配達人が四十一階のベルを鳴らした。
時刻指定のない配達物の受け取りは珍しいことだが、来客の応対は留守番の仕事だ。この日の留守番はテオドロスだった。しかし、彼が対応に出ると、制帽を目深に被った配達人は、こちらの話もろくに聞かないうちにただ頭を振って「宛先はあなたではありません」と言う。宛先が明かされないことから却って察しの付いたテオドロスは、融通の利かないことだ、と一言文句を言った。しかし意地を張る場面でもないので、「それでは正式な受取人を連れてこよう」と一度扉の内に引き返す。扉を閉めて振り返ると、ちょうど今呼び出そうと思っていたところのアランがいつの間にかそこに佇んでいた。彼の気配が分からないのは慣れたことで、テオドロスは驚きもせず郵便物の到来を告げる。
アランには、相手が同類であるか否かに関わらず外部との接触を避けたい理由がある。とはいえ今回は致し方ない。アランが受け取りに出ると、短い符牒のやりとりがあり、封書が渡され、配達人は一礼して去っていった。
扉と鍵を閉めてから、アランは封書を開ける。封印は、彼の知らない人物の印だ。テオドロスは封書が開封されるのを横から覗き込む。書面には、こちらから送ったものと同等な簡潔さでこう記されていた。
審議の要請は承認された。夜半
α-176x 特奇:ψ(άστρο)
審議の場はβ世界ではなく、こちら側——α世界——のどこかのようだが、肝心の番地の末尾が分からない。番地の後に記されている記号は何か? 大体、『夜半』だけで時刻の指定は終わりだろうか? よく解読ができなかったテオドロスは「これも判じ物か?」と呟いて首を捻った。アランは暫くその封書を見ていて、「場所と時間は分かったな」と簡単に頷くと、謎を解こうと考え始めたテオドロスに言う。
「零時の半時前ならあまり時間がない。ユリアとセニエール氏に伝えなければ」
テオドロスは、「考えて分かる謎解きか、知らないと分からない問題なのかだけでも知りたい」と言いながら、端末を操作して二名に通知を送る。ユリアはすぐに捕まったが、ロランはどこにいるのか反応がない。
ロランはそのころ、四十一階の薄暗い廊下を一人で探索していた。建物の構造を把握したくなるのは彼の習い性だ。受け取ったばかりの端末の通知が切れていることには気が付いてもいない。ふと廊下の隅に気になるもの——彼に言わせれば何事か小さな秘密の気配——を感じて、床に屈んでみる。壁の床に接するあたりに、尖ったもので引っ搔いたような文字列が刻まれていた。少し離れたところに矢印のような傷もある。文字列のように見えるものは、見たところ、彼の時代よりも更に前の時代に使われていた言葉に似ているようだが、さて、解読できるだろうか。彼はまた子ども時代の家庭教師のことを思い出して、ひときわ憂鬱だった古語の勉強のことを思う。それはつくづくつまらない思い出だったが、こんなところに一体何が刻まれているのかは気になった。彼は神経を集中して壁の引っ掻き傷を探った。
そうしていると、ふと廊下の右側から誰かがこちらへ来る気配を感じたので、ロランは屈んだまま顔を上げ、そちらを見た。向こうから歩いて来たのは、テオドロスのふしだらな妹、ユリアだった。廊下の薄闇に象牙色の衣装が幽霊じみて見える。ユリアはロランの姿勢を見て何事か合点が行ったように微笑み、「何か見つかりましたか?」とおっとり尋ねた。
他人の家――宿のようだが――で余計な詮索をしているのを見つかったロランは、気まずいのを隠しつつ正直に「ここに何が書いてあるのかと思って」と言い、問題の場所を指差した。するとユリアも彼の隣に屈み、その示す先を覗き込む。暫くその暗がりに目を凝らしてから、ユリアは怪訝な顔をしてこう言う。
「見えるんですか? 真っ暗なのに」
ロランが何か反応する前に、ユリアは人差し指の先――若い娘らしい綺麗な指だ。爪はきちんと切り揃えられている。――に、小さな冷たい灯を灯した。機械の類は何も持っていなさそうに見える。ロランは「魔女か」と呟いた。彼は便利な不思議にはもう慣れているので、特に何の含みもなくそう口にしたのだが、言葉選びを間違えたかもしれないと後になって思う。というのは、ユリアがどういうわけか気まずそうな表情になり、まるで心の動揺を示すように指先の光を揺らしたからだ。何か失敗を咎められたときの反応にも見える。魔女という呼び方は適切でなかったのかもしれない。ロランが謝ろうとすると、ユリアは灯のついたままの指を自分の口元へ運び、囁くようにこう頼んだ。
「誰にも秘密ですよ。こういうことができるのが、ばれたらいけないの。知ったら、兄様もみんなも、きっと怒るから」
誰にも秘密なら、俺にも知られるべきではなかった、と言う代わりに、ロランはただ「分かった」とだけ言って頷いた。相手が秘密の遵守に同意したのを見てユリアは安心したのか、また灯を壁の文字列へ戻して囁いた。
「これはね、兄様が仕掛けた悪戯で、まだ誰も解いたことがない謎かけなんだそうです。【第三天の箒星、それを見上げる第二圏の犬、または蝙蝠】かしら。何か、分かりそうですか?」
どうやら内輪の遊びの一種らしい。正体の輪郭が知れたことで、急に謎への興味を失ったロランは、素直に「さあ、見当もつかないな」と答えてそこから立ち上がった。ユリアもつまらなさそうに灯を消して立ち、衣服の埃を軽く払ってから、今やっと思い出した要件をロランに告げる。
「ああ、そうだった。交渉組がみんなあなたを探しています。返事が来たって。急な話ですが、今から交渉の場へ出発です」
ロランにとっても確かに急な話ではあるが、想定の範囲内ではあった。彼は、今度は眠っている間にいつの間にか引き摺り込まれるのではなく、能動的にβ世界とやらへ『トリップ』する機会が訪れたのかと好奇心から半ば期待して、「今からβ世界へ行くのか?」と問いかける。ユリアは反対に表情を曇らせて、「それならまだよかったのに」と呟き、不穏な答えを返した。
「いいえ、そうではないのです。今から行くのは、たぶん、もっと危険なところ」
ロランが――リコリスとふざけ合いながら――普段の旅装と代わり映えしない一応の支度を整えてメインラウンジに出て行くと、他の三名はもうそこにいて、うち二名はいつも通り、テオドロスはこれまでの派手ずくめとは一風変わった格好をしていた。今夜のテオドロスが身に纏っているものは、傍の影のようなアランとほとんど同じように見える灰色の長衣で、体型が隠れることもあり、二人ともフードを被ってしまえば見分けがつかなくなりそうだ。
そういった装いが普通のことなのか分からないロランは、開幕の冗談めかして「それはどういう扮装だ?」とテオドロスに尋ねる。テオドロスはいつもと同じ顔でさらりと笑って、不思議な香りの説明を返す。
「ああ、これは『服装を考えたくない人の服』。誰でも持ってるよ。これが一番目立たない」
そういうことになっているようだ。退屈を拗らせた社会にありふれた奇妙な習俗の一つなのかもしれない。それにしても、『服装を考えたくない人の服』とは。かえってやましいことがありそうで目立つのではという疑念は湧くが、もしそんなドレスコードがあるのなら確かに便利には違いない。そう思ったロランは「そりゃあ便利だな」とだけ返して納得することにする。
そういえば、この土地の人間の一般的な服装については、判断材料が未だ乏しい。ロランは昨夜リコリスと出かける前に、今の自分の服装は時代錯誤ではないかと聞いてみたことがあった。彼女の回答は「何周か回って今はそのくらい時代錯誤なのが流行りなのよ」という世辞かどうか怪しいもので、実際出かけてみても特に悪目立ちする雰囲気ではなかったのだが、それはどうも偏った享楽の場での話のような気がする。
だが、今はそんなことよりも余程確認すべきことがあるだろう。これから向かう先についてのテオドロスの話は要領を得ない。彼が語ったのはこれだけだ。
「電池式のフラッシュライト持った? これから行く場所はね、β世界じゃなくて一応こっち側らしいよ。道順はアランが知っているから、僕たちは彼についてゆけばいい。手紙に書いてあった暗号は僕にはさっぱり分からなかった。説明するより歩いた方が早いって。彼が言うならそうなんだろう」
アランの発言はもっと短い。
「間層通路を通る。入り口はたしか下6層外南南西だったから、とりあえずエレベーターだな」
彼はそれだけ言うと、ロランに何か質問される前にさっさと歩き出した。ユリアがそれに続く。「間層通路ってのは?」というロランの質問を代わりに受けたテオドロスは、「下層の中間層の間に、縦横に通り抜けられる通路があるのさ。迷路みたいに、血管みたいにね」と答え、先を行くアランに言う。
「間層通路の下6層だったら、ここからは内西北西の方が近いよ」
アランはその指摘に謎めいた回答を返した。
「いや、外南南西からでないとだめだ。位置と順序が問題なんだ」
間層通路は陰気な場所だ。普段は人が立ち入る場所ではないのかもしれない。歩行者用の通路がわざわざ設けられて維持されている以上、全く使われていないはずはない。しかし、用途があってもせいぜい非常用か、都市の何かの保守点検用だろうと、余所者はまず推測する。そのくらい、
そんな通路に潜り込むための下6層外南南西の入り口は、暗く寂れた路地裏の、それも地面にあった。石畳の地面に、人一人通れるだけの丸い鉄蓋があり、その重い蓋を三人がかりで——どうも見かけより非力らしいテオドロスとアランでは持ち上がらず、ロランも手伝わされた——いささか苦労して持ち上げ、はしごを伝って一人ずつ暗い底へ降りるのだ。「もっとましな入り口もあるんだけど」と、道具もなしに蓋を持ち上げるので疲れたテオドロスが呟くが、アランは全く意に介さない。ロランは蓋を開けた入り口の得体のしれない垂直の闇を見下ろし、これからここを降りるのかと早くも暗澹たる気分に沈む。全く安全な通り道ではなさそうな気がしてならない。この暗闇の道が危険かどうかについては、アランもテオドロスも相変わらず読めない顔をしているが、とりあえず、底へ降りる順番で揉めることはなかった。先に降りたのはアランだ。彼は暗闇に躊躇せず迷いない動作でさっさと底へ辿り着き、底に降り立ってからフラッシュライトであたりを照らした。上からも中の様子が見えるようになる。意外にも石造りの立派な通路だ。想像よりも広い空間のように見える。明るくなった穴の中へ、続いてユリアがはしごを伝って降りてゆく。上でそれを見下ろしながら、テオドロスが陳腐な下卑た冗談を下へ向けて放る。
「下からの眺めは素敵だろうなあ」
言われたアランは上へ手を振って、「先に降りた者の特権だ」と返し、笑いもしない。ユリアは降りながら上に向かって何か言ったようだったが、小さな声だったので、何と言ったのかほとんど誰にも聞こえなかった。何か下品な罵り文句だったようだ。直近の夢の出来事から何か学ぶところがあったのかもしれない。テオドロスは嬉しそうにしている。
地面の下に潜ることになるのはもはや運命と諦め、仕方なく暗い通路に下りたロランは、点灯したフラッシュライトを手に、辺りを見回した。持ち込んだ明かりがなければ全くの闇で、今のところ周囲に人気はないようだ。連れの誰にともなく「ここはどういう場所なんだ?」と尋ねると、テオドロスが意外な返事をけろりと返した。
「さあ、実は僕にもよく分かっていないんだ」
四人分のフラッシュライトの揺れない光は、通路を歩くのに申し分なく明るく照らした。ロランが持っているそれは、出発前にリコリスから手渡されたものだ。リコリスいわく『ホテルの備品』だというそれを見ながら、ロランは、仕組みは分からないがつくづく便利な代物だ、一つ持って帰れやしないだろうかと考えを巡らす。ロランはそんな考えについては何も表に出していないのだが、そこで不気味な勘のよさを発揮したテオドロスが、歩きながらひっそりと彼に言う。
「構造を確かめたいなら一つ持っていってもいいよ。電池もあげよう。でも内緒だよ。需要が急増しているから、今じゃお金があっても買えないんだ」
例のごとく、金以外の何かがあれば入手はできるということだろう。特権階級の――おそらく気まぐれな――気前の良さには素直に感謝しつつ、ロランは灯りの連想から思い出した別のことについてふと尋ねてみる。
「最高顧問は魔導師なのか?」
テオドロスは間髪入れず「なんで?」と問いに問いを返した。尋ねたロランの方を見もせず、意図的なのか冷たく鋭い口調だ。そうすると、どこかの誰かほどではないが、意外なことにかなり圧がある。何か不味い問いだったのかと思わせるには充分だったので、ロランは責任をルパニクルスのエリクに押し付けることにして言う。
「エリクのやつがそう言ったから」
暫し沈黙ののち、テオドロスはふっと雰囲気を和らげて、困ったような調子で謝って言う。
「ああごめん。でもお客さん、その質問はタブーだよ。僕は答えなかった。ああ、もちろんそうだよ」
つまり答える気がないわけではなさそうだ。自分は答えなかったと言いながら、『もちろんそうだ』というのがその答えなのだ。七面倒なやり方だが、とにかく帝都流の会話のやり方を飲んだロランは、答えなき答えを期待のうえ、続けて踏み込んだ問いを重ねる。
「じゃあ答えないでくれ。なぜタブーなんだ?」
ロランの予測通り、テオドロスは、奇妙にまどろこしい――しかし実際のところ期待した以上には親切らしい説明的な返答を、捉えどころのない調子で返す。
「同じことは二度言わない。僕は一度も言ってないけどね。それはあいつの家系についての公然の秘密だ。たまたまかどうしてかそうなんだ。あの家にはそういうやつがたまにか、頻繁にか、とにかく出る。それは言っちゃいけない。外れた力は弾圧される。表に出すと不都合だ。本人も忘れるくらいでいい。インディゲナを見ろ。
ああ、僕は何も答えなかったとも」
ロランにしてみれば馬鹿らしい話だが、これで、テオドロスは問いには答えなかったことになるらしい。そして、これだけ聞けばなるほど事情は明確だ。質問しておいて言えた義理ではないが、これでは秘密も何もあったものではないし、わざわざ秘密として包装する趣旨も分からない。ロランは呆れてこう言わずにはいられない。
「いつもそうやって責任逃れを欠かさないのか?」
結局教えてくれるのだったら、もう少し単純に話を進めることはできないのかという不満を、彼は遠回しに表現したつもりだが、伝わっても伝わらなくても構わなかった。それを読んでか読まずか、テオドロスの返答はあくまでも飄々としている。
「さあどうだろうね。普段はちゃんと黙っているよ。君たちは夢の中の存在のようなものだし、夢が終われば消えてしまうんだろう? だからちょっと、僕も親切にしようという気になる」
夢の中の存在とは大した言い草だ。《β世界》と地続きだったけったいな夢から覚めても、まだ一種夢扱いされているらしい。夢か実物かという言葉遊びは昨晩で食傷だったが、どうせいなくなるから親切にされるという状況は、ロランには愉快だと感じられた。同じ理屈からその逆の対応をすることも、テオドロスには可能なはずだ。ロランは冗談半分に問い返す。
「夢の中の存在に頼るのか?」
テオドロスは冗談を言ったつもりではなかったらしい。彼は当然のようにこう返す。
「夢の中ではそれが有用だ。非常事態って、ちょっと変わった夢のようなものじゃないか。何か気に障ったかな」
都市の存亡の危機らしいのに、呆れた浮薄さだ。しかし、思えばこのおかしな旅路が始まったときからずっと夢の中にいるような気がしているロランが、それに文句を言う筋合いはない。帝都民の危機にせよ、そこに急に絡んできた過去の因縁を除けば、ロランにとっては対岸の火事だ。ロランは「いいや、何も」と答えてから、暫く黙って新しく得られた情報について考えることにする。
ロランが黙って歩いていると、少し間を開けてテオドロスが嬉しげに呟いた。
「やっぱり怒らないんだねえ」
何のことだか分からず、「何を?」とロランが問い返すと、テオドロスは「真面目にやれって怒らないんだね、って」と返し、さらに肩をすくめてこう続ける。
「僕がたまに本当のことを言うと、怒る人たちがいるんだよ。最高顧問様みたいに。真面目さが自分の取り柄だと思っている人って、よく怒るよね」
ロランは確かに『真面目さが自分の取り柄だと思っている人』ではないと自覚している人間だったので、テオドロスの言わんとするところは理解できる気がした。他人が不真面目な態度を見せると、自分に実害がなくても、勝手に気分を害したり嗜めたりする人間はたまにいる。たまにではなく、案外多いかもしれない。態度がどうであれ、期待される仕事をこなしてさえいれば、真面目云々はどうでもよいのではないかとロランは思うが、そうは思わないらしい人間も多い。態度も『期待される仕事』のうちに含まれる場合があるのだろうと彼は解釈し、常々面倒だと思っている。
『やっぱり』というのが気になったので、ロランはその点について聞いてみる。
「じゃあ『やっぱり』ってのは何か? あんたと張るほど不真面目そうに見えたか?」
テオドロスは少し笑って、楽しそうにこう返す。
「リコリスさんに気に入られるなら不真面目さは僕以上だよ。僕は、散々言い寄ってもあっさり振られちゃったからね。知らなかった?」
リコリスについては誰とでも寝る女だとロランは思っていたが、どういう経緯かテオドロスは袖にされたらしい。別に不真面目さの問題ではない気がするが、実にどうでもいい情報だ。そう思ったロランは適当に言い返す。
「知るかよ。何かよっぽど気に触ることでもやったんじゃないのか?」
テオドロスは「さあどうかなあ」とそらとぼけつつ、ぐるりと周りを見回し、ユリアと連れ立って前を歩くアランに声をかけた。
「アラン、なんだか随分遠回りしてるんじゃないの? 目的地はどこなんだ。あっちこっち無駄に回ってる気がするよ。もしかして、迷ったんじゃないのかい?」
確かに、間層通路に入ってからずっと、アランを先導とする一行は、どこかある地点へ向かって最短距離を進んでいるとは思えないような、複雑な道筋をあえて選んで歩き続けているようだった。通路はなるほど迷路のようだ。これまで幾つもの分かれ道に出くわし、そのいずれについても、アランは迷うことなく一つの道を選択して進む。しかし、そうした分かれ道の選択を何度も続けるにつれ、目的とする地点の方向が一体どちらなのか、分かっているとはとても思えないような進み方をしていることがはっきりしてくる。実際、直線距離にすればほとんど進んでいないようだし、気まぐれに適当な道を選択して徘徊しているようにしかテオドロスには思えない。
同じことをロランも少し前まで思っていたが、あることに気づいてからは、大体納得していた。彼は都市の構造には知見がないが、方向感覚ならテオドロスよりも優れている。通路を歩く進み方の不可解にはかなり前から気付いていて、そのことにはあえて触れず、なりゆきを窺っていた。そうして歩き続けるうちに、彼は、自分たちの背後に見えない何かの気配を感じるようになる。それは、振り返っても何も見えはしなかったが――あえて表現するなら、乳白色か、もっと明るい何かの輝きだろうか――これまで歩いてきた軌跡に、何かが残され、糸のような、置き石のような、とかく何かしら名残めいたものが残されていくようなのだった。暫し考えたのちロランは、これは歩いた軌跡によって何かしらの仕掛けが作動するまじないか、隠し扉の類ではないかと思い、そのままなりゆき任せを決め込んだ。
テオドロスは、今も背後に引かれてゆく不可視の軌跡にまったく気付いていないらしい。アランは振り返って答える。
「迷ってはいない。これで正しい手続きだ。もう少し待て」
説明はしないらしい。そんな態度には慣れているらしいテオドロスが言う。
「もう少しってどのくらい?」
これにはユリアが答える。
「たぶんあと半分。お喋りしていればすぐ」
このままではこれ以上説明してもらえそうにないので、ロランが一石を投じる。
「さっきから後ろに引きずってる何かのことは、何も言わないのか?」
アランから返ってきた回答は「そのうちこの鈍感にも見えるだろう」というもので、それはテオドロスの機嫌を損ねたらしい。彼は負けじと言い返す。
「僕は君ともユーリとも違ってちゃんと人間だからね」
アランは軽く笑っただけで意に介さない。この文脈で最高顧問の名が出たのは、先ほどロランが尋ねたタブーの関連だろうか。しかし、この発言は当てつけのようでいて、開き直りのような、諦めのような、どうかすると寂しいような拗ねた響きも孕んでいる。『ちゃんと人間』であるということの、ここでの意味の多層性に想いを馳せつつ、ロランはほとんど独り言のような気分でテオドロスに言う。
「最高顧問の話な、もしかしたらあんたもそうかと思ってたよ」
するとテオドロスは実に悔しそうに言うのだ。
「僕は残念ながら違う。残念な、残念なことにね」
テオドロスの贅沢な悲しみを除けば、ここまでの道程は順調なようだった。蛇行する道行の不思議な軌跡は希薄ながら次第に存在感を増し、テオドロスにもようやくことの次第が分かるようになってきた。目に見えはしないが、後ろに何かが尾を引いている気配は、今なら彼にもなんとなく感じられる。五感のどれでもない――もしかしたらその全ての統合であるかもしれない感覚が告げる。こうしてただ歩いている皆で、何か大きな装置を起動させようとしているような、そんな予感が不思議と心を浮き立たせるのだ。
そのことについてテオドロスが何か言おうとしたとき、先頭を歩くアランが不意にフラッシュライトの灯りを消した。他の三名も同様の灯りを持って歩いているので、急に辺りが見えなくなることはない。それでも、確実に一段暗くはなる。ライトの電池が切れたのだろうか。そう思ったテオドロスが予備を出そうとすると、アランは黙って彼の方を振り返り、声は出さずに何か告げようとする。「あとは頼む」と言われたようにテオドロスは感じた。どういうことかと聞き返さなかったのは、それで彼にも状況の推測ができたためと、そのあとすぐ、アラン本人が消えてしまったためだ。昨夜の夢の中でも、アランは急に姿を消して見せたが、夢でもなければ《β世界》ですらないここでも、彼はまるで初めからいなかったかのように、辺りの闇に溶けていなくなった。
暗がりに強い目を持たないテオドロスには消えたように見えたが、夜目に加え秘密の感知にも長けたロランには、アランがそれこそ目にも留まらぬ速さで近くの別れ道の一方に身を隠すのが見えた。足を止めたユリアは、アランが消えた方向は見ずに、フラッシュライトの光を下方へ彷徨わせ、当惑した表情で兄の方へ振り向いた。何かを恐れている様子だ。
頼られたテオドロスは、そこで声を潜めるでもなく、今までの会話以上に呑気な調子で彼女に話しかける。
「ああ、ちょっと疲れちゃった? ならちょっと休もうか。無理はしなくていい。どうせ気まぐれな散歩なんだからさ」
大丈夫、問題ないとでも言いたげな表情だ。調子を合わせろとも伝えたいらしい。ロランは黙って天井を仰ぎ、どうやら厄介事らしいと覚悟を決める。同行者たちの変わった振る舞いは、後方の角の方角から誰かが――どんな履物を履いているのか足音が希薄なので判別が難しいが、おそらく一人ではない――こちらへ近づいてくる気配と無関係ではないだろう。
現に、ユリアが何か返そうとするうちに、その二人組は角から姿を現した。昨夜の悪夢の官吏か、それとももっと昔の、どこかの地下牢獄で見た獄吏か、とにかくそんな嫌な記憶を呼び覚ますような、お仕着せを着た特徴のない二人。果たして生身の人間なのか、それとも機械に近しいものなのか、ロランにもすぐには判別がつかない。
彼らは一行の三歩手前で立ち止まり、見分けのつかない二人組のうち片方が、見かけから予想される通りの高圧的な調子で一方的な命令を下す。
「インディゲナの識別番号を提示しろ」
制服の男は、手元の強い光源をこちらへ向けながら、『服装を考えたくない人の服装』でいつになく地味な身なりをしているテオドロスへ、特に鋭い視線を向けている。ああそういうことかとロランは思う。この状況でいかにも怪しげに見えるこの扮装は、身代わりなのだろう。時間稼ぎの目眩しなら、ありふれた寸劇だ。さて、どう振る舞うのか。
テオドロスは、何か武器を持っているに違いない二人から睨まれても、少しも慌てた素振りを見せなかった。彼は「どんな勘違いだか知らないけれど」と迷惑そうに言いながら、自分の端末を取り出して、制服の男たちの面前にひょいと提示する。
「僕のIDが見たいなら、はい、どうぞ」
ぞんざいに言いながら、それまで頭に被っていたフードも外した。これで暗がりでも顔もよく見えるようになった。
すると、端末からIDを読み取るまでもなく、二人組の態度は瞬時に変わった。二人ともそっくり同じ顔でなければだが、驚いた顔には幾らか人間味があった。「これは失礼いたしました」とにわかに畏まり敬礼をする彼らに、テオドロスはマナー教室のお手本のような微笑みを返し「ちゃんと人間でしょ?」と嫌味を言ってのける。とんだ茶番だ。
それでお終いになるかと思いきや、初めに声をかけてきた方ではない制服の片方が、手元の機械――そろそろ見慣れたよくある端末ではない、もっと小型の何か――を示しながら、仲間に言う。
「まだ反応がありますが」
検知する手段があるのか、とロランはひやりとした。しかし、その発言は、話しかけられた方の「機械の不具合だ」という有無を言わせぬ一言で、あっさりと流されることになる。さる機械の精度についてはロランは門外漢なので、そんな機械の不具合がどれだけの頻度で起こるものなのかは分からない。だが、もし、テオドロスがここにいることで彼らの職務規則に幾ばくかの例外が許容されるようになったのなら、それはこの場ではありがたいことだと、彼は思った。何やら権力を持っていそうな話ばかりは聞いてはいたが、ロランが実際にその力を目の当たりにするのは、これが初めてのことだ。
二人組が通路の反対側の角に消えるまで、テオドロスはユリアと二言三言、適当なお喋りを続けた。あくまでも散歩の休憩の体なのだ。どうせ用心棒か何かの配役だろうからと黙っていることにしたロランは、辺りに意識を巡らして、おそらく近場のどこかに身を隠したはずのアランの気配を探ってみる。テオドロスとユリア、遠ざかってゆく二人組の他に、どこかに誰かがいるような雰囲気は感じ取れなかった。先ほどまで確かにあった輝くの軌跡、謎めいた魔術の痕跡もすっかり分からなくなっている。
ここではどうも調子が狂う。もしかしたら、この場は既に、かの魔女の息のかかったまやかしに入り込んでしまっているのかもしれない。そう思うと気分が悪い。もちろん初めから良くもなかったが。
と、いきなり目の前で誰かにぱんと手を叩かれでもした気がして、ロランは立ったままびくっと身をこわばらせた。ぼんやりしていたつもりはない。何が起こったのか分からないままに瞬きすると、彼の目の前でまさしく今両手を打ち合わせて目を覚まさせたのは、どこかへ消えていたはずのアランその人だった。一体どこからいつの間にどうやってそこに現れたのか。瞬間移動か、ロランの知らぬ間に直近の記憶がぱっと取り去られたとしか思えない。
しかめ面をして悪態をつき「何事だ」と尋ねるロランに対し、相変わらず陰鬱な面持ちのアランは、「ほら」とだけ言ってすぐそこの地面を指差して見せた。
地面、ではない。そこには既に床はなく、地の底へと続きそうな下り階段が、そしてその先の暗闇があった。




