XXV. Humanoid
永久電池およびバランサーの視察と魔原動機の調整は、今日すぐにではなく、日を改めて明日と決まった。四十一階に戻ってきて早々、ユレイドは済ませたい用事があると言って外出し、護衛のレガートも彼と一緒に消えた。メインラウンジには、サンドラ、ミラベル、エディの他、端末を配布する役割を任された秘書の女が残っている。秘書の女はヒューマノイドだという話だが、間近で向き合ってもやはり人間にしか見えない。ミラベルが戸惑いつつ「あなたのことは何てお呼びしたらいいかしら」と尋ねたところ、温かく微笑んだ女からはこんな回答が返ってきた。
「本当は型番くらいしか個体識別のコードはないのですが、ユレイドさんが名前をつけてくれました。私の名前はケリィです。もしよろしければ、ケリィと呼んでください」
ヒューマノイドに名前をつけるのがここでどの程度一般的なことなのかは分からないが、ミラベルはユレイドに好感を持った。エディは、以前シルキアが名前を教えてくれたときに彼女が言った「王様がつけてくれた名前」という一言をつい思い出し、憂鬱を深める。この種の傷口にあえて触れ、自らの心中にその痛みがあるという感触を確かめるのは、今や彼にとって一種止めがたい誘惑だった。それは毒に依存するような暗い陶酔さえもたらす諸刃だ。名前には、どんな意味があるのだろう。エディは自分の名前にも——もし、命名してくれた人がいるのだとして——何か意味があるのだろうかと考え、また晴れない記憶の霧に行き当たり全て諦める。簡単に諦めてしまうのは、そうすることに慣れきってしまったせいだが、もしかしたら他にも何か理由があるのかもしれない。エディはそれを思い出そうとは思わない。
ミラベルが「ケリィ。可愛い名前ね」と感想を述べると、ケリィは誇らしげにその由来を話す。
「古いフィルムのヒロインの名前だそうです。私には芸術は分かりませんが、もしご覧になったら感想を教えてください」
フィルムとは何かという質問と回答のやりとりが始まり、場の空気は和やかなものとなった。
ミラベル達三人は、ケリィから配られたばかりの情報端末の操作方法について、一通りの説明を聞き終えて寛いでいる。
端末を操作するにあたりまず問題になりそうだったのは、話し言葉が互いに通じてもなぜか書き文字が共通でないという不思議な状況から帰結する操作言語の不便だったが、配布された端末においては、これは解消されているらしい。読解可能な文字が画面に表示されることに気付いたミラベルは、隣のサンドラが持っている端末の画面も覗きこんでみる。そちらにはやはり見慣れない文字列が表示されている。エディに渡された端末の画面も見せてもらうと、ミラベルのものともサンドラのものとも違う、やはり彼女には読解できない文字らしきものが表示されていた。文字のことなどこれまで考えていなかったエディは、ミラベルに指摘されて初めてそのことに気付く。
三台の端末を並べて、ミラベルはケリィに問う。
「あたしたち、話し言葉は同じに聞こえるのに使ってる文字は全然違うみたいなの。それぞれが読める文字を、どうやって調べたのかしら?」
ミラベルとサンドラがそれぞれ慣れ親しんだ書き文字は、客室に備え付けの端末でも選択肢に表示されなかった。エディは客室の端末にはまだ触っていない。ケリィは三人分の端末の画面をよく見て、ミラベル達には理解しがたい用語を交えて答える。
「いずれも私のメモリには登録されていない言語のようで、私には解読ができません。端末の登録情報は、皆様に仮発行された市民ライセンスに紐づいています。言語コードも、ライセンスの情報に合わせて個別にインストールされたものではないでしょうか」
ユレイドが最高顧問の身分証明をしようとしたときにも『ライセンス』という語を口にしていた。サンドラは今の説明を半分も理解できなかったが、とりあえず聞き覚えのある語を拾って尋ねてみる。
「『ライセンス』ってどういうもの? 資格みたいなものかしら」
ケリィは今度は一般的な言葉遣いで平易に答えた。
「ここで言う『ライセンス』とは、グスティドール帝国政府から帝国民および正規滞在者に与えられる身分証明の一種です。特定の身分を称するための認可ですから、資格のようなものと考えていただいて問題ありません」
つまり、『仮発行された市民ライセンス』とは、暫定的に与えられた市民権のようなものだろうか。そう判断してふと思い当たったミラベルが「インディゲナには市民権がないって、その『市民ライセンス』がないってこと?」と聞くと、ケリィは「そうです」と頷いて答える。
「皆様のような外交使節への仮発行はたびたび行われますが、帝都サンブリアおよび他都市の市民ライセンスは通常出生時に、審査のうえ発行され、その後は居住地や市民ランクの変更に伴う更新が行われるのみで、新たに発行されることはまずありません。例外は他国からの移民の場合ですが、審査が厳しいため取得できないことも多く、ライセンスなしで長期滞在した場合は不法滞在として罰せられます。そもそも帝国内に存在しないことになっているインディゲナの場合、出生時にライセンスの申請を出しても審査を通らないでしょうし、その後はご想像の通りです」
最後は曖昧にぼかされたが、ゆうべテオドロスとユリアから話を聞いたミラベルには『想像』がつく。ケリィは、エディが思わず口に出した「ライセンスがないと何か困るのか?」という間の抜けた質問にも、丁寧に答える。
「それは、あらゆることで困ると思われますよ。情報端末も使えませんし、帝国の情報ネットワークにも接続できません。つまり、情報の入手先がかなり限られることになりますし、その他にも、身分証明を必要とするサービスは全て受けられなくなります。公的なものか否かに関わらず、ライセンスによる身分証明が必要とされる場面は数多くあります。支払いの手段が現金のみでは普段のお買い物にも不便を生じますし、知人との情報伝達にも電子メッセージや電話は使えなくなります。口頭での伝達や紙媒体での文書のやりとりに頼るしかなくなりますから、現代人にとってはちょっと想像しがたいと言いますか、耐えがたい状況ではないかと推測されます」
帝国ではライセンスがあって初めてできることがたくさんあるらしい、というところまでは三人とも理解できた。しかし、その大半がなくて当たり前の世界から来た三人には、その不便さについての実感が湧かない。まずミラベルが尋ねる。
「現金以外でお買い物をする手段って、どんなのがあるのかしら」
出立時にデイレンの通貨は受け取っていたが、帝国の通貨らしきものは受け取っていない。ケリィはそれについて説明がまだだったことを詫びてから、「支払いにも通常はこの端末を利用するのです」と言って、その操作方法を伝授してくれた。三人とも既に所持金がある状態で登録がされているようで、どうやら最初にミラベルがユレイドに渡した記録媒体の中に、金額のデータも含まれていたらしい。現状の残高として表示されている額を見た三人は、揃って反応に困る。通貨の価値が全く分からないのだ。デイレンのときもそうだったのだが、デイレンでは三人とも支払いをする機会がなかったので、所持金は手付かずのままだった。帝国では何か買い物をする機会が生じるかもしれない。ミラベルは既にユリアとショッピングに行く約束をしているので、気になってケリィに尋ねる。
「価値が全然分からないんだけれど、これ全部使ったら何が買えそう?」
ケリィはそれを聞いてちょっとおかしそうに笑った。思わずという自然な反応で、三人は彼女がヒューマノイドだということをもうほとんど忘れかけている。ケリィは笑ってしまったことを「すみません」と詫びると、三人に説明して言う。
「そうですね。賭け事などを別にすれば、一度で全部使い切る方法を考える方が難しいかもしれません。この第二帝国ホテルを最下層から最上層まで買収しても、まだ残ります。それだけ高額な取引は政府による審査対象にもなりますから、お金だけあっても実際には難しいでしょう。そのくらい、非現実的な額です」
帝国用に持たされた分がそれだけの額なら、デイレン用に持たされた分にもそれだけの価値があったのかもしれない。デイレンの鋳貨は軽く、枚数も少なかったので、三人とも説明係の「少しですが」という言を信じて少額だと思い込んでいた。現地の通貨の価値については、戦後処理のころとも事情が異なっているため、サンドラも詳しくはなかった。ミラベルは、誰かがその鋳貨を侍女達との賭け事に使っていたことを思い出す。侍女たちによると二人のうち一人が大負けして、もう一人が大勝ちして、こちら側としては差し引きゼロという話だったが、二人は全額のうちどれだけを場に出したのだろうか。また、彼らはその価値をどこまで知っていたのか。デイレンの通貨はまた今後必要になりそうな予感もする。
ミラベルが元令嬢にあまりふさわしくない経済問題に思いを馳せている間に、サンドラがケリィに意外な角度から質問をする。
「テオドロスさんのおうち、ユリウス家の資産と比べたら微々たる額かしら?」
初めて訪れた地でぶつけるには突っ込んだ質問だが、ケリィは自然に答えてくれた。答えは然りだ。
「それは流石に比べるべくもありません。三人分全て合わせても、テオドロス様個人の資産との比較でも、桁が違います。ユリウス家はパトリキのなかでも、特別に有力な家系ですから」
三人とも何となく予想していた答えだったが、パトリキという語には誰も聞き覚えがない。ミラベルがどうでもよさげにソファーの背にもたれて「あの人、お金持ちだったのね。パトリキってなあに?」と尋ねると、ケリィは真面目な表情で答えた。
「パトリキは帝国のいわゆる貴族階級で、今は十二名家の子孫とほぼ同義です。建国神話に登場する十三名家のうち、一つは古くに断絶しましたから、残りの十二家に連なる方々が現在のパトリキだとされています。ユレイドさんのルクレティウス家もパトリキの家系です」
聞いたことを整理しながら、サンドラが確かめるように問う。
「パトリキの家系同士でも、何か力の差はありそうね。今の言い方だと、もしかしてユリウス家はルクレティウス家よりも一段上なのかしら。家格が変わらないのなら、資産の差?」
家柄が釣り合うので縁談が持ち上がったという話は、サンドラもミラベルから聞き及んでいる。となると、その差は傍系か直系か等の条件で決まる家格の差ではないのだろう。知らないことが多い中で若干乱暴な推測ではあったが、サンドラの考えをケティは肯定した。
「概ねご推察の通りですよ。一口にパトリキと言っても、実際の発言力や帝国内での立ち位置、経済力は様々です。ユリウス家もルクレティウス家も十二名家の直系で、大変由緒のある家柄なのですが、中でもユリウス家が特別なのは……」
ケティはそこで突然言葉を切ってしまった。そして、困り果てたような様子で俯き加減に言う。
「これ以上はお喋りが過ぎるようです。テオドロス様に直接お聞きになれば、きっと快く答えてくれると思うのですが。私が口にできる情報ではありません」
話せないのであれば仕方ないと、サンドラは引き下がる。彼女は、朝からテオドロスにつきまとわれているように見えたミラベルを茶化して言う。
「ミラ、聞いてみたら? 貴女が聞けば答えてもらえるんじゃない?」
ミラベルもこの話には興味がないでもないが、そういう言われ方をするのは心外なので言い返す。
「テオなら誰が聞いても答えてくれそうよきっと。ユリウス家が特別な理由なんて、どうせ何か陰気な理由なんでしょ。そういう話なら、あの人、喜んでしてくれそうだもの」
どうせ陰気な理由だというのはミラベルの当てずっぽうだったが、下層一階ではまさに今、テオドロス達がそんな話をしている。
サンドラとミラベルが突っつき合ってじゃれていると、黙っていたエディが急にぼやく。
「みんな仲良くなっていいよな」
それを聞いたサンドラは怪訝な顔をし、ミラベルは何か納得した様子でエディに話しかける。
「あんた、基本的に一人だったものね。夢の中で。ちょっと可哀想だと思わなくもないわ。あんたに何の恨みがあるのか知らないけれど、ルパニクルスもあんなんだし。元気出しなって言っても、無駄かしら」
うわの空で自分の言ったことに無自覚だったエディは、「ごめん」と一言呟いて首を振り、急に正気に戻ったような顔をして「今、なんか変なこと言ったな。いや、今更一人だったことなんて、別に気にしてないよ。なんか、うん、ありがとう」と返して話を終わらせようとする。明らかに様子が変なので、ミラベルはサンドラに戸惑いの表情を向けた。
サンドラはちょっと考えてから、エディに問う。
「なんだか落ち込んでる理由がそこじゃないのなら、【案内人】の件かしら? 図星?」
エディは一度否定しようとして、途中で気を変え、躊躇いがちに話し始める。
「ああ、あれ……。落ち込んでるって言うのか、何て言うのか、なんか、どう処理していいかよく分からないんだ。どう思えばいいんだと思う? どうしたらいいんだろう?」
誰にも答えにくい問いだ。ミラベルは考え込んでしまう。話の前提を共有していないケティは介入してこない。気まずくなりかけたところで、【交霊会】でのやりとりを思い出して遠い表情をしたサンドラが言う。
「『あなたがそれを役立てればいい』って言ってたわね、あのアンドロイド。『使い方はそのうち分かる』とも。『そのうち』って、いつかしら?」
エディは、悄然としたまま「分からない」と首を振って言う。今、【案内人】はジャンのおかげで故障しているらしいので、ルパニクルスがそれを修理して以降のことだろうか。あんな気味の悪いものをどう役立てろと言うのか、エディには甚だ疑問だった。また、勝手に用意されて勝手に埋め込まれた得体の知れないそれがもし——あまりそんなふうには思えないにしても——何か良い形で活躍したところで、自分自身は結局役立たずのままではないかというやるせなさも拭えない。彼はその気分を控えめに口に出すつもりで、思わず脱線する。
「そんな役立て方は分かる気がしないし、もし何か分かった気がしても、本当に自分で分かったのか怪しいもんだよな。今のおれの思考にも、もしかしたらあいつか、何か別のまだ知らないルパニクルスの仕掛けが介入してるのかもしれない。【案内人】が何かの役に立ったとしたって、おれ自身が役立たずだってことはどうせ変わらないんだ。いっそ乗っ取られた方が、有益かもな」
乗っ取られた方が有益ということは流石にないだろう、とミラベルもサンドラも思う。もし、今のエディが完全に【案内人】とすり替わってしまうようなことがあるのだとすれば、ゆうべのように皆に嫌がらせをしてくる【案内人】を野放しにすることになりそうだからだ。【案内人】の機能自体はよく分からないが、何か有益性があるとしても、エディが使い方を覚えて安全弁になってくれた方がよいには違いない。
ミラベルは何と返したものか迷い、つい「陰気ねえ」と本音の感想をこぼす。エディは「陰気なんだよ」とそれを肯定し、「ごめん」と何故かもう一度謝る。
二人はサンドラが何か言うのを待っている。サンドラは、ソファーの肘掛けに頬杖をつき、何もない宙を見て何か考えていたかと思うと、さして深刻でもなさそうな表情で、その場の誰にともなく問いかけた。
「飛竜と【雷霆】がなくなったら、私は役立たずかしら?」
エディはちょっと面食らってぽかんとする。一拍置いて何事か察したミラベルが、自信ありげにその問いに答える。
「そんなことないと思うけれど。でも、それがなくなったらちょっと弱くなるかも、なんて話じゃないんでしょ、きっと。今のドラには飛竜も【雷霆】もあって、両方使いこなせてるんだから、全部ひっくるめてドラなのよ。合ってる?」
その答えに虚を突かれたのはサンドラで、彼女は今更重要な気付きを得た顔でミラベルに言う。
「合ってるも何も、その答えでたった今救われたのは私よ。そうか、今あるうちは、全部で私なんだ」
何気なく問いを発した時点ではそこまで考えていなかったのだ。一人感心した様子のサンドラから「エディ、分かった?」と問われて、理解の追いついていないエディは慌てて尋ねる。
「何、どういう話?」
先ほどの閃きをどう説明したものか、サンドラは悩む。ミラベルが考えながらエディに話す。
「あんたが何かをうまく使ったら、それもあんたの構成要素の一つになるのよ。剣はあんたの自我じゃないけど、使えばちゃんと力になるでしょう」
エディはそれを聞いてようやく理解する。ミラベルの言わんとすることは、何か武器をとって戦いに勝ったとき、勝ったのが自分なのか武器なのかについて深刻に悩まないのと同じように、得体のしれないものもうまく使ってしまえばそれも含めて一つの力だろうという慰め——励ましだろうか——に違いない。その理屈には頷いたもののなお浮かない表情のエディを眺めて、サンドラがしみじみと言う。
「大事なのは結局どうなったかで、本当に自分が役に立ったかなんて、結果の前ではどうでもいいものよね。ただ、気になる気持ちは分かる気がする。私もたまに考えないでもないから」
サンドラがそう言うのを聞いて、エディとミラベルは少し意外に思う。精鋭の矜持と共にいつも自信に溢れているように見えるサンドラなので、そんなことを気にする場面などなさそうだと思われたからだ。結果主義自体は、有事の連続するリノリアで慌ただしく生きてきた彼女らしい。限られた時間の中で思い煩いの種を限りなく削ぎ落す思考法なだけに、漠たる不安や悩み事に絡めとられて重たいエディには清々しく感じられた。サンドラは誰の反応も待たず、「それにしても——」と話を続ける。
「エディ、『乗っ取られる』っていうのは穏やかじゃないわよ。何か、そういう気がするようなことがあったの?」
氷の彫像めいた美人の灰色の瞳に射竦められて、エディは落ち着かず身じろぎして言う。
「それは……そんな、あんまり大したことじゃないんだけど……」
それきり下を向いて黙るので、何かあるらしいと見たミラベルは焦れて尋ねる。
「何かあるのね? 言っちゃいなさいよ」
サンドラも「まず聞かないことにはねえ」と穏やかに言うので、エディは観念して話し始める。
「ほんとに大したことじゃなくて——いや、そんなんでもなくて、あの、ほんとに変な奴だと思われたくなくて、言いたくなかったんだ。あの——」
エディはちらりと周りの様子を伺って、哀れなほど躊躇いがちに言葉を続けた。
「おれは、知らないはずのことを、知ってたような気がする。何かって、ほんとに言いにくいんだけれど……。あの、バランサーの鍵がなくなったって、さっき言ってただろ。今、皆でそれを探そうとしている。おれはその鍵のありかを、知ってた気がするんだ。昨日までは」
言い終えてどうしていいか分からないような顔で呆然としているエディから視線を外し、ミラベルは天井を仰いだ。知っていたならどうして言わなかったのかと言いかけて、少なくとも昨日の会合の場ではエディにはそれができなかったはずだと気付いたからだ。鍵の話が出た会合の終わり、エディは既にシルキアの魔法で眠らされていた。では、エディはその鍵のありかを、いつから知っていたと言うのか? 知っていた気がするだけなのか? 今は?
エディの謎に満ちた告白を受けてほんの少し眉を顰めたサンドラは、やはり『昨日までは』と言う部分が気にかかったらしく、その点について質問をする。
「『昨日までは』なら、今は知らないのね? 昨日までは、どこにあると知っていたの? 今日から知らなくなったのなら、知っていたのはいつから?」
エディはかぶりを振って答える。
「そんなにはっきりした感じじゃないんだ。昨日までのありかを知ってて今日からのそれは知らないって話じゃなくて、昨日まではどこにあるか知ってた、ような気が今してるっていう……。昨日までは知ってた気がするんだけど、じゃあどこにあると知ってたのかは、今はもう分からないんだよ。知ってたのがいつからなのかも、どうして知ったのかも分からない。本当に分からないんだ。でも知ってた気がするのは確かで……」
彼は取り乱した様子でそこまで言うと、困り果てて縋るように「どうしよう。伝わる?」と聞き手の反応を伺った。
サンドラは「今知らないんじゃあ、埒が開かないわね」とすげなく返し、「どう思う?」とミラベルに問う。エディを混乱させたのが魔法か何かなら、ミラベルの方が詳しいだろうと考えたためだ。とは言え、【案内人】についてはミラベルも理解できていないため、専門外である点はサンドラと変わらない。ミラベルは話の整理がてらゆっくりと問う。
「エディは、【案内人】が今のエディの知らないことを知っていて、今は【案内人】が故障しているから、【案内人】が持ってた知識がなくなったって、考えてるわけ?」
エディは頷き、期待の眼差しをミラベルに向けた。ミラベルは続ける。
「それで、そうね……昨日までの自分がどこまで【案内人】で、どこまで今の自分だったのか、境目が曖昧になりそうで、混乱しているのかしら?」
エディは自分の不安が正しく伝わったことが本当に嬉しくて、「そう、本当にそうなんだよ」と頷きながら、ほんのり涙ぐんだ。情けないのでそれはすぐに誤魔化す。
しかし、不安の内容が明らかになったところで、自分と自分でないものとの境界が曖昧になる、というエディの恐怖は依然としてあり、【案内人】の復帰のとき——それがいつで、どのようにして起こるのか不明——まで彼を悩ませるだろうし、【案内人】が戻ってきてからどうなるのか、それもまた分からない不安だ。そんなわけの分からない状況で神経質にならない方がどうかしていると、ミラベルは密かに同情している。ミラベルと同じく同情的な気分のサンドラは、沈んだ表情でどうしたものかと考えつつ、問題を総括して呟く。
「【案内人】がいつ戻って、戻ったらどうなるのか?」
その問いの答えを知るはずもない——今は本当に知らない——エディは、「あのときエリクに聞いておけばよかった」と後悔の言葉を吐いてうなだれた。
【案内人】の故障についてエリクは『プログラムの再インストール』が必要になりそうだと話していたが、その聞き慣れない言い回しが一体どういう事象を指しているのか、三人ともさっぱり分からないので沈黙してしまう。ミラベルはふと思い立って、この話題に加わらず手元の端末で何か別の仕事をしているらしいケリィに話を振ってみる。
「ケリィ、ちょっと質問していいかしら?」
ヒューマノイドが何かの作業を中断して「はい、何でしょうか?」と顔を上げるのを待って、ミラベルは彼女に問いかける。
「『プログラムの再インストール』ってどういう意味か、もしかして知ってたりしない? 機械の故障を直すのに必要みたいなんだけれど、具体的にどうするのかしら?」
ケリィは何度か瞬きして、「お聞きになりたいのは、一般的な用法でしょうか? それとも、具体的なアドバイスでしょうか?」と頼もしい質問を返した。どちらにせよ、とにかく何かしらの回答は返ってきそうな雰囲気だ。
ミラベルは暫し迷い、「まず一般的な用法、その後に具体的な話」と返す。ケリィは頷いて、一般的な用法についての簡単な説明を始めた。
「一般的な用法であれば、『プログラムをもう一度追加し直すこと』が字義通りの意味です。プログラムというのは、演算機械にどのような動作をさせるか——つまり、どんな情報が入力されたときに、何を出力させるのか——を書き込んだ命令書の集まりのようなものです。私のようなヒューマノイド含め、演算機械は必ずプログラム通りに動きますから、インストール済みのプログラムに不備があった場合や、何らかのトラブルにより破損してしまった場合には、正しく動作しなくなってしまいます。そういった場合に、プログラムの再インストールが必要になります」
演算機械などというものにそもそも馴染みがない三人にとっては、へえ、そうなんだと頷く他ない情報だが、そのまま飲み込める程度には噛み砕かれた説明だった。新しい情報が楽しいミラベルは、好奇心に任せ何点か尋ねる。
「ヒューマノイドとかアンドロイドもその『演算機械』なのね。演算機械の定義ってなあに? プログラムには絶対に逆らえないの? プログラムがトラブルで破損するって、どんなとき?」
矢継ぎ早の質問にケリィは一つずつ答える。
「入力に対して決まった出力を行い、その入出力の関係性がプログラムによって規定される機械であれば、何でも演算機械と言えますよ。ですからその定義上、プログラム通りにしか出力できないのです。プログラムに反する動き方の選択肢が、そもそも存在しない状態です。プログラムが壊れてしまえば、修復用のプログラムが予め別にインストールされていない限り、演算機械自体ではどうすることもできません。破損の原因となるトラブルは色々と考えられるので、一概には言えませんが……、そうですね、プログラムが保存されている記憶領域に何かしらの過負荷が発生すれば、プログラムは壊れてしまいます」
記憶領域に過負荷。故障してプログラムの再インストールが必要な状態らしい【案内人】が演算機械の一種なら、今回の故障の原因もそれなのだろうか。ミラベルは思わずエディの方をじっと見て聞く。
「あんた、どんな酷い夢見たの?」
エディは「だからあれ、見たのはおれじゃないんだって。覚えてねえよ」と言って頭を抱え、微かに震えている。そんなエディをよそに、サンドラは恐ろしいことを口にする。
「再インストールで復旧しても、またすぐに負荷をかけて壊すのを続ければ、ずっと故障したままにしておけるってこと?」
エディの怯えようを見ているミラベルが「そんなことしたら、この子の方が持たないと思うけれど」と指摘すると、サンドラは不思議そうな顔をして「【案内人】にだけダメージを与える方法はなかったのかしら?」と呟いた。
それを聞いて、エディは絶望的な表情で俯いたままこう言う。
「きっともう混ざっちゃってるから無理なんだ。あいつが苦しめば、おれも苦しむんだよ。きっと……」
もしかしたら本当にそうなのかもしれないとミラベルも考えかけるが、今回【案内人】を壊したのがジャンなら、別の可能性も残っていると思い直し、彼女はわざと乱暴な口調で返す。
「あんたまで怖い思いをした記憶が残ってるのは、ただの意地悪じゃないの? 【案内人】への仕返しのついでに遊ばれたか、あんたの被害には無頓着だっただけかも」
意地悪も気紛れも無頓着もジャンなら大いにありそうな話だ。ありそうな話だということにはエディも納得し、それが今回は救いの余地になるかもしれないという状況に命運の皮肉を感じる。ハルトラードの二人の悪戯にまだそこまで振り回されたことがない——と思っている——サンドラは、ミラベルの悪しざまな言い方を不思議に思う。それについては後で聞いてみることにして、サンドラは気軽な調子で提案した。
「後でちょっと聞いてみましょうよ。ジャンなら何か知っていそうじゃない。【案内人】についても、ルパニクルスのやり方についても。何か、エディがそんなに悩まなくて済む方法があるかもしれないでしょう」
ジャンに聞いたところで何か気の軽くなるようなことを教えてもらえるとはとても思えないエディは、沈んだ声のまま「だといいな」と返事をする。ミラベルはエディほど悲観的でないまでも、ただ聞いて素直に教えてもらえるかどうかは怪しく思う。【案内人】を快く思わない点で共闘はできるかもしれないが、エディについてはどこまで考えてもらえるか読めない。
ミラベルはケリィに質問の続きをする。
「それで、具体的なアドバイスの方なんだけれど。演算機械って、生きてる人間の内側に組み込んだりもできるの? 今、エディの内側に【案内人】っていう機械が入ってるらしくて、それが壊れたから、プログラムの再インストールが必要って話らしいのよ。それはどうやってするのかしら?」
ケリィはエディをじっと見て暫く沈黙し、首を傾げてミラベルに聞き返した。
「【案内人】とは、ナビゲーションシステムのことでしょうか?」
この問いには誰も答えられない。【案内人】が何なのかは、三人の誰にもよく分かっていないのだ。ケリィの言うナビゲーションシステムがどういうものを指しているのかも分からない。しかし仮に誰かが答えられたとしても、ミラベルの質問に対するケリィの答えは変わらないようで、ケリィは申し訳なさそうな表情で続ける。
「演算機械の生体への組み込み——サイバネティック・オーガニズムに関しては、帝国ではほぼフィクションの領域でして……。耐久性やメンテナンスの問題が克服できず、技術として普及していないのです。私のメモリにもデータがありませんし、この端末で検索をかけても、望み薄ではないかと。すみません、具体的な方法については、私からはご案内できなさそうです」
どうやら、ルパニクルスとグスティドールのテクノロジーの共通点はここまでのようだ。そもそも、幾つかの用語が一致したからと言って、その用法まで同じかどうかは分からない。ルパニクルスの機械のことはやはり、ルパニクルスの技術について知っていそうな相手に聞く他なさそうだ。ここではこれ以上どうしようもなさそうなので、三人の間には諦めの空気が満ちる。エディは落胆しつつ顔を上げて、この話題を締め括ろうとした。
「ありがとう。話したらちょっとすっきりしたよ。今のところこれ以上分からなさそうだし、ただ不安だってだけで、今何か困ってるわけじゃないから」
サンドラとミラベルは複雑な表情でエディを見ている。彼の神妙な態度が薄気味悪く、なんだか死にゆく者が遺言を述べるような雰囲気に戸惑っているためだ。そんな二人を見てエディは少し迷ってから続ける。
「二人ともおれより強そうだし、もし【案内人】が何か変なことしだしても、止めてくれるだろ? そうなったらちゃんと止めてくれるよな。だって乗っ取られたまま、永遠に働かされる機械になるのは嫌——」
そこまで言いかけてから、エディは嫌な想像に囚われて沈黙した。【案内人】に何か有益な使い道が見つかった場合、もしエディがそれに乗っ取られてしまったとしても、【案内人】を破壊しようとは誰も思わないかもしれない。それならそれでいいと納得できるだろうか? そのとき、彼自身の自我が完全になくなってしまっているのならともかく、ただ何もできない状態で中途半端に残されたらどうか? 自分自身が何を恐れているのか、その恐れはどれだけ現実的なものなのか、考えるうちに分からなくなり、エディはそれ以上何も言えなくなってしまう。
エディが黙ったところで、ずっと考えていたミラベルが唐突に問う。
「生きものと生きものじゃないものの違いって何なのかしら?」
彼女が疑問に思うのは、人間と人間でないものの違いではない。人間と人間でないものの線引きなら、それは単純に取り決めの問題だろうと、インディゲナやヒューマノイド、奇妙な『機械』達、魂が半分ずつの人間などとの邂逅を経た彼女は考えている。では、生きているものと生きていないものの線引きも、同様に取り決めの問題なのだろうか。もしそうならば、どんな決め方があるのか。【案内人】やデイレンの【守護者】は、生きものだろうか?
もし、生きものか生きものでないかどちらかに決定できたとして、その取り決めが果たしてどんな価値を持つのか、もう分からない。【案内人】やデイレンの【守護者】は既に存在していて、ミラベルがそれらについて何か解釈を決定したところで、既にあるものは何も変わらない。きっと、こちら側の扱い方が変わるだけだ。
また、何のために区別するのかという、何か目的へ向かう意思のようなものが解釈の仕方を決定するのではないかとも思えるのだが、ミラベルがそれを決める目的は何だろうか? 『家に帰りたくない』以外の目的へ向かう意思が、今の彼女にあるだろうか? 彼女が【探索】を続けるのは、永遠に家に帰らないためだ。
ケリィはミラベルの問いを受けて、帝国の生物学における生物の定義を解説した。それはミラベルにとってとても興味深い内容ではあったが、彼女の頭の中に生じた疑問は解決しなかった。解説の最後にケリィはこう言う。
「生物の定義にはこのようにほぼ固まった見解がありますが、人間の定義には統一見解がありません。ヒューマノイドの私が言うのも何ですが、『人間』は『生物』よりも曖昧な概念のようです」
話が長くなって少し眠たそうなサンドラが、ケリィに「私には貴女は人間に見えるわ」と言い、彼女が手にしている端末を指して尋ねた。
「それも情報端末でしょ? あなたも市民ライセンスを持っているの?」
ケリィは少し嬉しそうな表情で答える。
「これは私が外部デバイスとして利用している情報端末です。市民ライセンスはありませんが、私は政策秘書として登録済みの製品なので、業務に必要なものとして専用のライセンスを持っています」
それじゃあ少なくともインディゲナよりは人間扱いされているんだな、とエディは思う。残りの二人もおおよそ同じことを考えた。




