XXIV-i. Post Meridiem I
ヴァーゼルの魔女ミラベルの予想とはかなり異なった様相で展開された【交霊会】は、唐突に終わった。その慌ただしい幕引きに関して「都合のいいところで切り上げやがったな」と呟いたのはロランだ。エリクの執務机は消え、砂嵐はキャビネットの上の画面の枠内に収まり、円卓とその周りの十二人は元通りがらくたに囲まれた物置部屋のような部屋に戻ってきている。
ユリアが立って部屋の照明のスイッチを入れ、アランが受像器の電源を落とした。部屋は明るくなり砂嵐は消えてしまう。ロランの呟きを聞き逃さなかったユレイドは、『切り上げた』という表現を訝しく思って言う。
「制限時間切れのようでしたが」
ロランは「よく思い出してみろ」と言って、ユレイドに問い返す。
「制限時間が近づいている意識、あったか? 最後に砂の落ち具合を気にしたのは、いつだ。まだもう少し時間があると思って、あんたは別の交渉事を持ち出したんじゃないのか?」
几帳面なユレイドは常に残り時間を気にしていたつもりだった。気にしていたことは間違いない。彼は【交霊会】の間中、何度もエリクの机の砂時計に目をやって砂の落ち具合を確認していたし、時間が二時間しかないことも常に意識していたはずだ。しかし、ロランに問われて初めて気が付いた不思議なことがあった。砂時計を何度も確認したことは覚えていても、そのときどきに砂がどのくらい残っていたか、二時間のうち何割が経過したと判断したのか、そういう具体的な記憶がどうやら思い出せないらしいのだ。この奇妙さに不安を覚えたユレイドは、とにかく今現在の時刻を確認したくなって、端末は手元にないので漠然と周囲に問う。
「今何時だ?」
ユリアが手元の懐中時計を見て答えた時刻は「II時少し過ぎ」で、皆の想定通りだった。ユレイドと同じ不安を感じていた幾人かは、自分が確かにこの時空の特定の点に存在していることを確認した気がして、少しほっとする。余計な不安が広がりそうなのを見て、ロランは発言を後悔し、わざと何でもなさそうに言う。
「まあ、あの場で砂時計にどんな意味があったか疑う話なんてしても、今となっちゃ無価値な話だな。時間を信用できないのはこっちの話だ。どうでもいいさ」
記憶の欠落に納得のいかないユレイドは、ユリアが手にしている懐中時計を見て思い立ち、彼女に確認してみる。
「【交霊会】の間には、その懐中時計で時間を確認した?」
ユリアは「いいえ」と不思議そうに答え、ユレイドがますます不安になるような言葉を続けた。
「懐中時計があることを、ここに戻ってくるまで、ずっと忘れていたみたいです」
【交霊会】の後の部屋には、主に交渉組だけが残された。他は上階へ引き上げたはずだったが、なぜかリコリスもこの場に残っている。ルパニクルスとの接続の不快感について、小声で文句を囁き合っているジャンとシルキアも残った。閉鎖区域に入れない問題への対処について協力するつもりがあるらしい二人はともかく、リコリスはなぜここにいるのか。視察を兼ねて魔原動機の調整をしに行く人員は、上で別途打ち合わせをするはずだ。端末を取り戻して何か確認している彼女に、隣に座っているロランが「なんでおまえはここにいるんだ?」と問うと、リコリスは「あたしのお役目は魔原動機のお世話だけじゃないもの」と返し、左隣のテオドロスを小さく指差して憚らず言う。
「テオがちゃんとお仕事してるか、監視する任務を仰せつかってるの。しっかり見張らなきゃ」
ロランは初耳ながら適当に相槌を打つ。リコリスに裕福なパトロンやその他顧客が複数付いていることは聞き及んでいたが、そのうちの誰かからの依頼なのだろうか。監視対象の目の前で言ってよい話なのかは不明だが、当のテオドロスは既に承知しているらしい。彼はリコリスの言葉を聞いて迷惑そうな顔をしながら、ふざけた調子で堂々と返す。
「リコリスさんはパパのスパイだからね。テオドロスは身内の恥を揉み消すために、馬車馬のように働いていますって、伝えておいてもらわなきゃ困るよ」
テオドロスにしてみれば何気ない軽口だが、ユリアは表情を曇らせた。がらくたの中の引き出しを開けて何か探しているアランは、振り返らずリコリスに問う。
「監視対象はテオドロスだけなのか?」
リコリスは「そんなの秘密よう」と突っぱねるふりをするも、巻いた髪をくるくると弄んで近況を漏らした。
「問題のお二人は、どこにもいないことになっているみたい。だからここにもいないから、あたしもお爺さん達に話を合わせるの。矢面に立っているのはテオだけよ」
ユリアは安堵して溜息をつく。いないことになっているなら、どうしてだとか見損なったとか言われて詰め寄られるより、ずっとましだ。アランはテオドロスの名を呼んで謝ろうとしかけたが、テオドロスはふざけて取り合わず、くだらない冗談を被せて有耶無耶にしてしまった。
「あっ、今、いない人から呼ばれるのが聞こえたよ! 霊の声かも。霊媒を呼んで、何を伝えたいのか聞いてみなくちゃ。アランはどこ? あれ、どこにもいない」
アランは「いないなら仕方ないな」と引き下がり、探し物に戻る。ユリアは兄への態度をまだ決めかねている。結果的に感謝したい気持ちと素直に認めてやりたくない気分との両方を持て余す彼女は、考えるのをやめてアランの探し物を手伝うことにする。彼の探し物は封筒と便箋だった。以前どこかで見かけたはずだと彼は言うのだが、この部屋には引き出しのある机や戸棚が幾つもある。どうしてそんなものを探しているのか訝しみつつ、テオドロスが端末を手に提案する。
「取り寄せようか? コンシェルジュにならあると思うけれど、どんなのが欲しいの?」
電子文書のやりとりが一般化して久しく、『紙のメール』は珍しいご時世だ。しかし珍しさゆえにか一定の需要はあるので、何種類かの備えはあるはずだった。ではそうしようかとアランがテオドロスに頼みかけたところで、ユリアが目的のものを発見したらしい。彼女は隅の書き物机の袖から、古い封筒と便箋の束を持ってきて見せた。アランが探していたものに違いないようで、彼は礼を言って一枚ずつ取り、筆記具がないことに初めて気付いたらしい。アシスタントを気取るユリアも、書くものは持っていない。揃ってちょっと困った顔をしている二人を見てリコリスはつい笑ってしまう。テオドロスも苦笑しつつ、「僕が懐古趣味で助かったねえ」と言ってポケットから万年筆を取り出し、アランに手渡した。ペンはインク壺と合わせて一揃いの時代を生きていたロランは、未来の筆記具に興味をそそられる。それ以上にアランが何をしようとしているのかも気になったので、ロランは周囲に先立って質問してみる。
「地下組織には手紙が届くのか?」
アランは万年筆の蓋を外し、「届かせるための符牒があった」と答える。彼は少しだけ躊躇ってから、封筒の表に次のような文字列を滑らかに記した。
フォルティティルに告ぐ
私は自分の知らないものを創造したが、それを留めておく術を知らなかった。
秘密の符牒だろうにこうも堂々と漏らしてしまっていいのだろうかと、ロランは他人事ながら心配になる。リコリスとテオドロスも同じことを思うが、何も言わない。アランが書くのを隣から見ていたジャンが「何か意味のある句なのか?」と興味深げに質問すると、アランは「いいえ」と否定して静かに答える。
「さる短編小説の一節で、特に意味を含めて選ばれた文言ではないはずです。意味から繋がっては不都合でしょうから」
それはもっともな話なので、ジャンは納得して頷く。しかし文の意味がよほど気にかかったのか、彼は更に質問を重ねた。
「小説の題は? どんな話だろうか」
アランは意外に思いつつ、小説の著者名と題を告げた。かつて同じように出典を気にして原文を入手した彼はその小説を気に入り、気に入ったものは隠しておきたくなるのが彼の常だったが、王様が関心を示すのならそれはやぶさかではない。アランが「短い話です。後ほどお持ちしましょうか」と持ち掛けると、ジャンは「休暇中に読もう」と返して少し微笑んだ。
二人の和やかな様子に、リコリスがゆうべからのもっともな疑問を口にする。
「ねえ、お二人はどういうご関係?」
テオドロスがにやにやしながら「ユーリのメッセージ、無視しないで早くメインラウンジに来れば、アランからちゃんと聞けたのに」と意地悪を言う。リコリスは不満げに「なあにそれ。知らないのはあたしだけなの?」と言うや唇を尖らせ、ロランに矛先を向けた。
「どうせあなたは知ってるんでしょう。教えてよ」
ロランもそんなことは知らないので、「ゆうべ夢の中で見聞きした以上は知らない」と素直に答える。アランは仕方なしに、午前中と同じハルトラードとインディゲナとの関わりの話をもう一度繰り返して話した。彼は、それをどうやらリコリスには聞かせたくなかったらしく、話の終わりに実に憂鬱そうに彼女へ依頼して言う。
「テオドロスの職務態度の監視とは関わりのない話のはずだ。この場限り忘れてもらいたい」
リコリスは意地悪で返そうか迷うも、「今日は珍しくよく喋るのね」と憎まれ口を叩くに留め、口止めには応じた。リコリスはこの話を聞かなかったことにする。聞かなくていい話は忘れ、必要なときに思い出すものだ。アランが話す間いつもの無関心な様子で静かにしていたジャンに、ロランは一つ質問してみる。
「ジャン、あんたも今の話は承知していたのか?」
問われたジャンは鬱陶しそうに眉を顰め、そんなことは些事だと言いたげに食えない答えを返す。
「そんなこともあったのかもしれないな。王の代替わりより前に何があったのかは、いちいち感知するところではない」
つまり、帝国のインディゲナの先祖が地上へ『落ちた』のは、彼の治世より前の話ということなのだろうか。アランは、口伝にも伝わっていない当時の経緯が何か分かるかもしれないと密かに期待していたので、思わずジャンに問いかけてしまう。
「代替わりをされても記録は引き継がれているのでは?」
言ってすぐアランが後悔した通り、これは失言だったらしい。ジャンは静かに機嫌を損ね、口を滑らせたアランに対し、冷ややかな問いを返して応じた。
「そうと知ってなお同じことを聞く君は、命知らずだろうか?」
アランが不興を買ったらしいのは明白だが、これがどういうやりとりなのか、ロランにもテオドロスにもリコリスにも、そしてユリアにも、ジャンの返答の意図が分からない。過去について把握していないことを咎められて気に障ったのだろうか。前提をよく知らない四人はそう推測したが、そうではないことを、アランは血によって承知していた。
奇妙な空中都市ハルトラードの歴史を語るにあたり、王の記憶と都市の記録とは限りなく等しい。記録にあることをジャンが知らないはずはなく、彼が感知しないと言うのならそれは記録にないことか、もしくは意図的に言及したくないことだ。おそらく後者だろうと推定したアランは、おとなしく引き下がってジャンに謝罪した。
「失礼いたしました」
謝られたジャンは、何か言いかけてやめる。するとそれを見て、これまでもちょうどいいところで口出しをしてきたシルキアが、今回も唐突にふわりと呟く。
「悪い人は誰もいませんでした。誰も誰にも怒られません」
今回は物語の朗読のような調子だ。彼女はつい先ほどのアランの謝罪についてではなく、遥か遠い昔の出来事について言及していて、その意図はジャンとアランにだけ、指向性を持って正しく伝わる。アランが大昔の出来事について本当に知りたかったのは、シルキアが呟いたその一点だけだったので、アランは彼女に心からの謝辞を述べた。
「深謝申し上げます」
シルキアは微笑んでそれを受ける。意味深なやりとりだとは感じつつその意味が分からないテオドロスは、煙に巻かれたような顔をしている。リコリスも同じだ。ユリアは、何か気掛かりを下ろしたようなアランの様子を見て、場がうまく収まったらしいことを感謝した。
ロランが興醒めした様子で本題を切り出す。
「打ち首の危機はどうやら免れたらしいが、本題はどうなったんだ? 封筒の表書はそれとして、本文には何を書く?」
テオドロスも「どうするの?」とアランに問う。アランはそこまで決めていないようで、一同に意見を求めようとして言う。
「後で封をするとはいえ、あまり詳しい内容は書けない。『閉鎖区域への立ち入りについて審議を乞う』の一文の他に、何か付け加えるべき情報はあるだろうか?」
テオドロスが「差出人が誰かを特定する手段は、まさか表書きじゃないだろうし、何かあるんだろうね?」と尋ねると、アランは封筒を裏返して、封をするべき箇所を指して答える。
「封印をするときに証跡を残す。私の署名を読み取れるのは、同じ力の持ち主だけだ」
魔術めいた話だ。ロランは昨日の会合でのインディゲナについての話を思い出し、期待して聞いてみる。
「そういや、あんたも魔法が使えるんだったか」
アランはちょっと渋い表情で黙り、申し訳なさそうに首を振って言う。
「私にできるのは署名くらいだ。私はこちら側の世界での才能には恵まれなかったので、期待されるような働きはできない」
それを聞いたロランががっかりするのを見て、テオドロスが助け舟を出す。
「アランの才能は《β世界》に全振りしちゃったんだ。βでなら誰にも負けないのに、αでは全然なんだってさ。それでも便利なんだけれどね。こっちでは妙に印象が薄いから、隠れるのに好都合だし」
リコリスが余計なことを言う。
「テオはそれを利用して色々悪事を働いているのよ。密偵とかストーキングとか」
密偵や追跡に使える能力があるなら、確かにそれはそれでかなり重宝なのに違いないと、ロランは素直に思う。テオドロスの悪事についても聞きたいところだったが、リコリスがそれについて語ろうとするのを、テオドロスが制し、仕切り直しを図ろうとした。
「僕の悪事はおいおい自慢してあげるから、まず本題についてお互いの知らない情報を交換しようよ。セニエール氏は魔女について情報を持っていて、地下組織については知らないんだよね? 僕やアランはその反対なわけだから、交換したら万全じゃない」
万全かどうかはさておき、言っていることはもっともだ。ロランは『地下組織』という呼び方に『魔女』以上の回りくどさを感じていたので、まずその点について質問してみる。
「さっきから『地下組織』って言うが、何か他の呼び名があったりはしないのか?」
リコリスが「そうねえ」と一旦考えてみて、答えをくれた。
「誰も人前で呼ばないから、そんなものないのよ」
ロランは納得したようなしないような気分で、もう少し探りを入れる。
「いや、そうだとしても、身内同士では何か呼び方があるのかと思って」
テオドロスもそれは知らないと首を振る。アランは歯切れの悪い回答を返す。
「各々の呼び方はあるのかもしれないが、決まった呼称はなかったように思う。身内だった時期が短いので、確かではない」
それでは呼び方の件は『地下組織』のままで仕方なしとして、ロランがもう一つ気になるのはその『身内だった』という過去形についてだ。かつては身内で、今は違うのなら、袂を分かつことになった理由が何かあるはずだ。地下組織が嫌っている対象として、最高顧問という役職付きのユレイドではなく、ユリウス家がわざわざ挙げられていた点も気になる。ロランは両方まとめて質問を投げた。
「『ユリウス家もアランさんも地下組織には嫌われている』ってエリクの奴が言ってやがったのは、どういうことなんだ? 特別に嫌われるような事情が何かあるのか?」
この問いを受けて、場の空気が薄くではあるが確かに一段重たくなる。それは、この場の話題が一段階、より内輪向きの階層に移り変わったことを意味しており、逆に言えば、それ以上の意味付けはない。
リコリスは、ロランがユリウス家の事情を知らないことから、この人は本当に外から来た人間なのだと実感し、改めて新鮮な気分を抱いた。当事者の一人であるアランの表情には、もはや慣れ切った諦念が浮かんでいる。ユリアは、実家であるユリウス家が話題に上ったことによって、もしかしたら娘の自分には知らされていない情報も兄によって話されるかもしれないと思い、期待しながら恐れている。
この質問が出ることを当然予期していたテオドロスは、一人場違いな微笑を浮かべてロランに尋ねた。
「やっぱりそれ、知りたい?」
テオドロスの言い方から、まるで噂好きのような扱いをされた気がしたロランは、少し気を悪くして返す。
「聞かなくていい話なら俺もわざわざ聞きたかないが、対立の原因が分からないまま交渉の場なんかに出たら、危ないんじゃないか? 自覚なしに地雷踏んで台無しにしても知らねえぞ?」
テオドロスはロランを宥めるように「確かにそれは困るし、話すのはやぶさかじゃあないのさ」と返し、乾いた諦めが灰色の衣を纏ったようなアランに尋ねる。
「聞かれているのは僕のうちのことと君のことなんだけれど、どっちから話す?」
アランは成り行きを計算して答えた。
「私の話は君のうちの話で上書きできそうだ。両方君が話したらいい。喋るのは得意だろう」
皮肉めいた言い方だが純粋な皮肉ではなさそうだとロランは受け取った。気心の知れた冗談の類だろう。テオドロスはそれを受けて笑い、「じゃあそうしよう」と軽やかに話の導入部を始める。
「さっきの【交霊会】の最後の方で、ユーリと向こうのアンドロイドが魔原動機の話をしていたじゃない」
意思がどうの材料がどうのという話だな、とロランは思い出す。陽気な方向には進みそうにない話だとも、改めて思う。テオドロスは先を続ける。
「そこで『材料』っていう単語が出てきたでしょう? 定期的に更新しなくちゃいけない材料。あれって早い話が人柱で、インディゲナの女の子なのね。ユリアとかミラベルちゃんくらいの年頃の、歌が上手に歌える子」
話し手のテオドロスは聞き手の驚きという反応を全く期待していない様子で、聞き手のロランもこの手の話は今更なので「やっぱりそうか」という感想しか持たない。歌が上手かどうかというのは少し興味深いが、話を遮って質問するほどのことでもなかった。まず話の全体を聞きたいので、ロランはテオドロスに「それで?」と続きを促す。インディゲナとは縁のあるジャンとシルキアも何を考えているのか無反応なので、テオドロスもそのまま話を進める。
「その生贄候補の一人だったのが、アランのお母さん。もう故人だけれど、人柱になって死んだわけじゃあない。アランの母君を気に入った現ルクレティウス家当主——つまりアランとユーリのパパ——が無理矢理妾にして自分のものにしちゃったから、魔原動機の材料にはならずに済んだ。本人はむしろ、材料になりたかったみたいだけれど」
人柱云々は別にして、そういう番狂わせはどこでもありがちな話だろうとロランは思った。権力に任せて我を通す有力者はどこにでもいる。むしろ材料になりたかったと言うのなら、彼女にとっては別の形で生贄になるに近しい、意に沿わぬ妾奉公だった可能性もある。
テオドロスは話を続ける。
「そのうちアランが生まれて、まあこの辺までは、地下組織と対立する理由もなかった。生贄候補だった母君は被害者だし、政府筋に匿われてるインディゲナは他にもいて、彼らだって多かれ少なかれ地下組織とはコミットしているはずだ。問題はここからなんだけれど、アラン、本当に話していい?」
テオドロスは一度話を切って、アランに断りを入れた。アランは「別にいいからわざわざ聞くな」と返して、鬱陶しそうに片手を振った。テオドロスは「そうか、別によかったのか」と不穏なことを呟いて、不穏な展開が予期される話を続けた。
「じゃあ手短に。アランが少年になったころ、母君は魔原動機の材料を養成する仕事に積極的に関わりはじめた。もちろん秘密の仕事だから、アラン少年は母君が度々出かけて行く意味を知らないし、母君が家の中で時々漏らす仕事についての諸々も、ただ『母親の仕事の何か』以上のものとは思わない。アラン少年は外でできた大人の友人に、家の中でのことを色々と話した。その友人は地下組織のインディゲナで、色々あって母君は殺されてしまった」
つまり、まだ子どもだったアランは意図せず母親の死に加担してしまったらしい、という、外側から見れば母親の方の迂闊さが窺えるような話だ。ここで初めて、ロランは少しだけ動揺を覚える。誰にも気取られず自分で気付くだけの、ほんの少しだけの心の揺らぎだ。アランの母君は殺されてしまった。ロランの実母も殺されてしまった。遥か大昔に、まだ若かった母親が殺されるところを、ロランは見ていた。それは、彼の最古の記憶に限りなく近い。
やはり聞き手の感情的な反応は期待していなかったテオドロスは、ロランのちょっとした感傷にも気付かず、流暢に話を続ける。話は、アランが先ほど言った『上書き』に差しかかるところだ。
「これだけで充分、確執と言えば確執なんだろうけれど、アランが地下組織から完全に排斥されたのは、母君が裏切り者として私刑にかけられたせいじゃあない。さっきのは、前提として必要になるかもしれないエピソードだから話しただけで、アランが本当に爪弾きになったのは、もっと大人になってからだ。母君がいなくなったルクレティウス家から厄介払いされてから、しょうがなく僕のうちの仕事を手伝うようになったせいだし、しかもその当主の息子の僕と、うっかり仲良くなっちゃったのが決定打だったんじゃないかなあ。つまり、ユリウス家のせいで、ついでに僕のせい」
となると、残る話はユリウス家の事情だ。リコリスが先ほど言及していたテオドロスの『悪事』も、もしや内容によっては幾らか、ユリウス家が嫌われている理由に絡んでくるのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、主な理由は何か別にあるのだろうと、ここまで話を聞いてきたロランは考えている。
皆静かに聞いていて誰も茶々を入れてこないので、テオドロスは若干拍子抜けした様子だ。放っておくと余計な話が始まりそうな天気なので、ロランは話の続きを促して尋ねる。
「ルクレティウス家の庇護下ならよくて、ユリウス家だと弾かれる理由は?」
聞き手の積極性が嬉しいテオドロスは「うん、ユリウス家が他のパトリキと比べても特別嫌われている理由は簡単」と返し、それ以上勿体をつけるでもなく、あっさりとその理由を語った。
「僕のうちの秘密の家業の一つが、ハンティングなんだ。隠れインディゲナを狩り出して、色んな使い道に分けて供給して、帝国に貢献している。便利な仕事道具とか、研究所の被験体とか、魔原動機の材料とか、誰かさんの慰み者とか。地下組織に敵視されるのは当然だし、ユリウス家の庇護下で仕事を手伝うインディゲナは、狩りに貢献してもしなくても、蔑まれるし排斥される」
話し手の態度からは、言いにくいことを話したような印象は欠片も窺えない。聞き手の側も、少なくとも表面上は皆穏やかだ。アランもユリアもリコリスも、単に既知の話に過ぎないという風情で特段の反応は示さなかったし、ジャンとシルキアは、テオドロスの話よりももっとどこか遠くから聞こえてくる声——そんなものはこの場にいる他の誰にも聞こえはしないのだが——に耳を傾けてでもいるような雰囲気で、奇妙な落ち着きを湛えて静かにしている。
ロランは話の内容よりも、話し手と周囲の無感動に意識を向けて、この地の文化の特色を思う。テオドロスは単に現状の事実を述べ、その事実は帝都の民の【認識の階層】のうちのどこかに位置付けられていて、その階層にふさわしいときにだけ、話題に上げられるのだろう。そのふさわしいときの一つがおそらく今このときで、これがどの程度深い階層の話なのかは、よそ者のロランにはまだ判断がつかない。彼は、話を聞いていた間の無表情のまま、一言呟いた。
「本当に人でなし扱いだな」
つい漏らしたような彼の発言は、帝都の会話の不文律にどうやら違反はしなかったらしい。少なくとも誰にも野暮天扱いはされない。リコリスがちょっと遠い顔をして、普段はあえて触らないものにふと想像を巡らすように、解説めいた発言をする。
「まあ、そうね、視点を変えればとんでもない話よね。でも、あたしもテオもその他の人達も、基本的に視点なんて変えないのよ。誰だって自分は自分で、向こう側の誰かさんじゃないもの」
これを聞いて、想像力や共感性なるものとその欠如について、何かしらの考察を披露したくなる者もいるかもしれない。それがこの場で野暮と呼ばれるか、その場限りの論題として受け入れられるかは別として、少なくともロランはそういう野暮な衝動には駆られなかった。自分が自分以外でないことは、彼にとっても自明なことだし、自分が自分以外のものであるような想像は、やはり想像であって現実ではない。彼がそれを実感せざるを得ないような場面なら、それこそ嫌になるほどあった。自分が自分自身として感じる体験の現実感——ときに避けられない痛烈な生々しさ——と、どんなに肩入れした相手でも想像上のそれとでは、根本的に在り様が異なる。
リコリスの言う『向こう側の誰かさん』の一人に数えられるアランも「私にとってもそれは同じだ」と、彼女の言い分を肯定した。湿り気のないその言い方に他人の機嫌を伺うような色合いはなく、彼は単に自分の見解を述べたに過ぎない。アランが『向こう側』の存在であること——地下組織に所属するか否かは問題ではない——と、今この場の対等な一員であることとは、認識の階層構造を探るまでもなく両立しているようだ。それが特殊なことなのかどうかは、例のごとく余所者には測りかねる。
場面転換でこの話題がタブーにならないうちに、ロランは質問を投げた。
「狩りの標的にされてもよそへ移らないのは、《β世界》がここにあって、他のところにはないからなのか?」
この問いにアランは黙して俯いた。決まり悪そうなその様子にテオドロスは興が乗ったらしく、わざとらしい問いを発して嫌がらせにかかる。
「つい最近、よそへ移ろうとして失敗したのがいたような気がするけれど、誰だったっけなあ」
そうしてアランとユリアの両方から睨まれたテオドロスは、けらけら笑いながら二人分の非難を受け止めて、なおも茶化そうとするのかどうか、詐欺師の役柄めいた親しげな調子で二人に語りかける。
「手荷物検査に引っ掛かるようなお荷物を連れてなければ逃げられただろうに、それじゃあ意味がなかったんだものね。ユリウス家のお嬢さんなんて、爆発物より危険なんだもの。まあ、二人とも結局、手荷物検査まで辿り着けなかったんだっけ? 次やるときは、僕にも相談してよ。悪いようにはしないから」
アランとユリアは疑わしげな視線をテオドロスに向け、次いで互いに顔を見合わせた。テオドロスが作った諧謔的な空気に乗ることにしたアランは、真面目な表情でユリアに言う。
「次に同じことに挑戦するときは、テオドロスと反目したときだろうな。他の後ろ盾を探しておくべきか?」
冗談と知りつつユリアも重ねる。
「兄様に隠れて検討しておきましょう」
テオドロスはやはり面白そうに「それを僕の前で言う時点で、もう甘いんだよ。それともそういう心理戦かな?」と二人に返し、ロランの問いにも答えようとして言う。
「ユリアの件がなきゃ、アランも帝都を離れようとは思わなかっただろうね。《β世界》は帝都と表裏だし、よそにも同じような場所があるかどうかは分からない。アランがどう思っているのかは分からないけれど、他の残党にとっては魔原動機の件もある。魔原動機って、さっき言った通り、インディゲナの定期的な犠牲で稼働してるわけなんだけど、魔原動機自体についての考え方は、残党の中でもばらつきがあるんだってさ。アランの母君本人が魔原動機の材料になりたがっていたのも、帝国のためじゃなくて、たぶん他に動機があったはずだ。その辺は地下組織だって一枚岩ではないんだろうね」
ロランは昨夜の夢の中でのテオドロスとユリアのやりとりを知らない。とはいえ、それより前の会合の時点で、テオドロスが愉快犯的な嘘をついて妹を怒らせたこと、嘘であったからには実際の思いは言葉とは別にありそうなことには気付いていたので、三者が親しげな様子を見せても意外だとは思わない。
しかし、魔原動機。魔原動機の話がまた出た。ロランは『血を流すことで生き長らえた都市に眠りを』という金属片に刻まれた言葉を思い出す。流された血とは、魔原動機の材料のように、都市のために犠牲になった者達の血を指すのだろうか。それとも、都市自体が傷付き血を流すような比喩表現なのか、あらゆる犠牲を含む都市の習慣やこれまでの歴史の一切合切を示すのかもしれない。
鍵がなくなった経緯について推理を進めるにはまだ早いにしろ、それに関わりのある情報かもしれないと思ったロランは、魔原動機の『更新』とその責任者の職務についてももう少し聞いておくことにする。
「魔原動機の更新も最高顧問の仕事なのか? 最高顧問がどういうもんかについては結局聞いてないから単に推測だが、字面通りの漠然とした『偉い相談役』じゃないよな。相談役が何か事態の収拾に責任を持って動くのもちょっと変だし、実際は何か明確な責任範囲のある役職で、わざと略すかなんかして曖昧な呼び方にしているのは偽装か?」
リコリスが宙を仰ぎ、「そういえばユーリ坊や、説明しなかったんだ」と意外そうに呟く。最高顧問がどんな役職か、使者達が事前に聞かされていないことは、サンドラが昨日の会合の初めに言及していた。その後すぐ別の話題に移ったので、ユレイドもそのまま忘れていたか、改めて説明するきっかけがなかっただけのことなのだろうが、役職自体の秘匿性の故に暗黙の了解で話が進むことに帝国側の皆が慣れ切っていたことも、ここまで説明なしになった原因に違いない。
ロランの推測は実に正しかったので、テオドロスはその洞察力に正直なところ驚いたが、驚きの感情は彼のおもてには出てこない。彼は若干の喜びだけ薄笑いに示し、遠方からの客の仮説をそのまま肯定した。
「うん、正解だよ。ああ、ユーリは本当はあんまり言いたくなかったのかもね。言わないでそこまで推測してもらえたなら、僕もちょっと嬉しいかも」




