XXII. Ante Meridiem
朝だ。朝だろうか。窓のカーテンは昨夜から開け放たれたままで、外の陽が窓から差し込んでいる。夜の闇がない帝都中層においては、明るさは時間帯の指標にならない。遮光カーテンを開けたままでいたならば、この部屋は夜通し、今と同じように明るかったはずだ。エディは客室のベッドに横になったまま、重たい身体を起こす気にもなれず、どうにもならない憂鬱に沈んでいる。
彼はゆうべ眠りに就いたときのことをよく覚えていなかった。帝都に着いてから、ベッドに入るまでの間の出来事は、狭間の城に至るまでの記憶と同じく、朧げに霞んでいる。帝都に着いてからの記憶にかかり、徐々に濃くなったように思い起こされる靄は、どこか懐かしい優しさの趣を残し、その輝きは彼に微かな慰めをもたらすように思われたが、重い憂鬱を揺るがす期待にはならなかった。乳白色の霧は、輝きを孕んでも曖昧な霞のままだ。憧れは彼を遠く沈ませる。
エディは既に、自分自身の記憶に信頼を置くことを半ば諦めていた。記憶が曖昧なのは、彼にとっては、もはや普通の状態だ。だから、そのこと自体が、起き上がれないほどの憂鬱の原因ではない。
憂鬱の原因はおそらく、記憶が明瞭な間の出来事——夢の中の出来事——にある。昨夜の夢は、それが夢であったとは信じ難いほど現実感に満ちた経験だったが、すべてを明瞭に思い出せるわけではない。エディの夢は、彼の思うところでは三本立てだった。最初の夢では、エディはかつて多くの時間を過ごした——と思われる——村の周辺にいて、自らの身体から『狼』が抜け出し、それが周囲に破滅を撒き散らしつつ何処かへ逃走するところを見た。どことも知れない闇の中で狼狽える彼の元に【審判】の使者なる存在が現れ、彼に恐ろしい警告をして消えた。エディは訳の分からないままに動揺し、嘆き、見知らぬ少女の導きでなぜかそこに現れたロランに縋ったのだ。狼を殺してくれとどうにか言い終えたエディは【審判】の炎に巻かれ、そこから場面が移動してしまったため、その討伐依頼がどうなったのか、エディには分からない。
二つ目の夢では、見知らぬ建物の中で不気味な二人組の追手に追われ、逃げ込んだ広い部屋——大法廷と呼ばれていた——で捕まり、無理やり座らされ、『おまえの既に失われた未来の可能性の一つだったもの』だと言う謎の青年——見かけだけ奇妙にエディと似ていた——と会話し、彼の死を目撃し、その死を招いた者達が追い詰められる場面を見、彼らを追い詰めた天使像を破壊して現れた男が、夢の元凶——中枢機構——の手先となった女を捕らえ、女は囚われた皆を解放した。
三つ目の夢は、前の二つとは毛色が違って曖昧で、目覚めた今では、その詳細が全く思い出せない。今では全く思い出せないのだが、覚めるまでは、これまでに見た夢の中で最も鮮烈なものだったと、エディは確信している。比較にならないほど恐ろしい夢だった。覚えていないのにそれほど恐ろしかったとなぜ言えるのか、彼にも不思議なのだが、悪夢とは得てしてそういうもので、恐ろしさの感覚と、冷や汗をかいた感覚と、縮み上がった心臓の鼓動とが、目覚めた彼を神経質にさせた。
どの夢が憂鬱のきっかけだろうか。全てだろうとエディは思う。憂鬱にならない理由が見当たらない。どれをとっても酷い悪夢で、先行きに遣る瀬ない不安を投げかけ、彼は酷く疲れていて、睡眠不足で、思考は重荷だった。エディは掛布を頭から被り、起きるのも考えるのも眠って夢を見るのも嫌だという消去法の末に、ただ目を開けて布地の影を見つめ、意識を殺そうとした。いつもでこうしているつもりなのかは本人にも分からない。ずっとこのままかもしれないし、ずっとこのままでいられないならどうすればいいのか、どうせ何もできやしないのにと、彼の意に反して思考は動き、いい加減に幾度となく同じところを回り続ける。
部屋の扉がノックされ、思考の堂々巡りを打ち破った。それで誰かが外にいることは分かったのだが、エディは掛布の中で身体を丸めたまま、それを無視した。再度扉が叩かれる。少し間を置いて、今度は前よりも乱暴な調子でノックが繰り返された。聞き覚えのある声で誰かが扉越しに何か言っているのも聞こえるが、エディはそれを聞いているのか、聞いていないのか、投げやりな気持ちのまま無視を続けた。誰も来ないでほしいと思う。誰か来てほしいのかもしれない。そう思うと、彼はますます自己嫌悪に潰され、自分を世界ごと放り捨てておきたくなった。
ドアの外にいたのはロランだった。部屋の中から返答がないので、ロランはテオドロスから預かったこの階のマスターキーを使い、勝手にドアを開ける。中に入るとベッドの上で掛布を被って丸まっている影を見つけたので、彼は少し意外そうな調子でそれに声をかけた。
「なんだ、いたのか。起きろ。寝不足は承知だが、もう時間だ」
エディは時間をかけて掛布から少しだけ顔を出し、声のする方へ返事をした。
「何の用事?」
ロランはいかにも面倒くさそうに答える。
「おまえが来ないから、わざわざ呼びに来させられたんだよ。端末の使い方も今日の予定も、おまえ何にも聞いてないだろ。ゆうべからぼけっとしやがって」
エディは、何か鈍い感嘆詞を漏らし、起きようとして寝返りを打って結局仰向けのまま天井を見つめる。単に寝起きが悪いのとも違った雰囲気なので、ロランは「どこか調子悪いのか?」と初めて心配する言葉をかけた。エディはありがたく思いつつも改めて情けない気分になり、強いて身体を起こしながら答えた。
「いや、何でもない。ごめん。なんか変な夢見て。眠ったはずなのに、疲れたな」
たった今墓場から出てきた死人のようなエディの表情と動きに眉を顰めつつ、ロランは納得した様子で言う。
「夢な。おまえだけじゃない。けったいな夢だったよなあ」
エディは驚いてロランの顔を見る。自分と同じ夢なはずはないと思いながらも、エディはつい期待して尋ねる。
「ロランもなんか変な夢見たのか?」
ロランはうんと頷いてエディの期待を受けとめ、茶化すように軽口を叩く。
「おまえ、情けねえのは子どものころから変わらねえのな。泡食ってリコリスに叩かれてるところは見ものだったぞ」
エディは思わず俯いて顔を覆った。あの少女の名は聞いていなかったが、叩かれて呆然としたのちにロランに情けなく取り縋ったことは覚えている。ロランがそれを知っているということは、夢の内容は共有されていたということだろうか。それも訳が分からないが、あんな姿を人前で晒したなんて、一生の恥だとエディは思う。彼は「子どもに戻ってたんだからしょうがないだろ」と言い訳しようとして、ロランには狭間の城でも同じような恥を晒したことがあると思い出し、ますます行き場のない情けなさに恥じ入る。恥をばねにして掛布を除けたエディは、ベッドから足を下ろし、そこにあった靴に足を入れて問う。
「なんでおれの夢をロランが知ってるんだよ? もしかして他の誰かも知ってるのか? 現実と地続きの悪夢なんて、思った以上に最悪だな」
軽くふらつきながら服を見つけて着替え始めるエディをよそに、ロランはソファに腰かけて答える。
「あの場面には俺とリコリスの他にサンドラねえさんもいたから、まず覚えてるだろうな。まあ、どうせ夢だからそんな気にするな。その夢の話もこれからするんだよ。ルパニクルスと通信するらしい。どうやって通信するのか方法は俺に聞くなよ。部屋を出てあっちで未来の連中に聞け。——本当に大丈夫か?」
最後は、よろめいてクローゼットの扉にぶつかったエディを案じるものだ。エディは起き上がったときから足取りが不安定で、それは夢の憂鬱のせいばかりではなさそうだった。彼はちょっと首を振ってなんでもなさそうに答えた。
「シルキアのおかげで記憶が曖昧だけど、ゆうべ眠るのには薬使ったはずからたぶんそれのせいだろ。満月の後はいつもこうだし、そのうち治るよ」
ロランはふと気になって聞いてみる。
「睡眠薬なんて普段どうやって手に入れてたんだ?」
エディは思ってもみない意外なことを聞かれたような不思議な表情をした。彼は間を置いて答える。
「狭間の城では出立前に使用人に頼んで調達してもらったけど。その前は、どうしてたんだろう。満月の晩には毎回必要なのに。狭間の城に来る前のことは、実はよく覚えてないんだ」
ロランは黙っている。憂鬱を思い出したエディは上着を着て伸びた髪を撫でつけ、鏡の前でぼそりとロランに問う。
「未来のおれって、本当にあんなんなのかな」
ロランは大して考えもせず「おまえの未来なんか知らねえよ」と言ってソファーから立ち上がった。
四十一階のメインラウンジでは、ゆうべ《β世界》の大法廷に集まっていた面々が概ね一堂に会し、それぞれの夢の体験を交換し合っていた。《β世界》から解放された後のそれぞれの動きは以下の通りだ。
元々仮眠のつもりで眠りが浅かったユレイドとレガートは同時に目を覚まし、二人の夢の内容が共通していることを確認してすぐ、ユレイドの端末からテオドロスとユリア、リコリスにメッセージを送った。
「先ほどの夢ないし《β世界》での出来事について、状況を確認したい」
ユレイドとレガート以外の夢の登場人物の中で連絡の取れる端末を所持しているのは宛先の三名だけで、休んでいる秘書の女については夢は見ないと判断するに足る理由があったからだ。テオドロスは《β世界》から出ても眠りからは覚めず、朝になるまでメッセージには返答しなかった。彼は就寝時にはいつも端末の通知を切っている。ロランと同じベッドにいるリコリスからも返答はない。ユリアからは暫くして「私とアランは無事です。明日にしましょう」という回答があった。最高顧問とその護衛は仕事に戻り、区切りをつけて眠りに就いた。
サンドラは《β世界》から抜けてすぐに目を覚ましたが、ミラベルはまだ隣で眠っていた。眠る直前まで読んでいたはずの本はどこにも見当たらない。サンドラはその本のことを奇妙にもすっかり忘れてしまっているので、その所在を気にすることもしない。先ほどまでのことは単なる夢だと判断したサンドラは、もうひと眠りしようと思う。彼女は、明かりがついたままになっていたサイドテーブルの照明を落とす前に、眠るミラベルを暫し眺め、掛布の位置を直し、手を伸ばして照明を落とし、目を閉じてすぐ眠りに落ちた。
ジャンとシルキアは目が覚めてすぐ、別の遊びを始め、疲れてまた眠った。
時刻が朝方になると、テオドロスからユレイドに「今起きた。メインラウンジで話そう」という返信があり、まずリコリスを除く帝国側の五名——テオドロス、ユレイド、レガート、ユリア、アラン——がメインラウンジに集まった。
ゆうべの寝間着と似た鮮やかな緑色の旧大陸風衣装でめかしこんだテオドロスは、ルームサービスで取り寄せた朝食の皿を片手に持ったまま現れ、カウチでそれを食べながら言う。
「みんな朝ごはん食べた? 食べないと頭に糖分が回らないよ」
ユレイドと顔を合わせるのが少し気まずいと思っていたユリアは、兄の呑気な様子を見て複雑な気分になる。夢の中の兄の話はどこまで信用してよいものか分からないが、ゆうべアランと話し合った限りでは、少なくとも矛盾はなさそうだった。ユレイドは今後の予定について気を揉みつつ、着替える前に食べればいいのにと思ってテオドロスに答える。
「朝食ならもう済んだよ。服を汚すなよ。洗濯係に迷惑をかけるな」
テオドロスの派手な上着は古風な絹地だ。取り扱いが不便なので代替品の普及により廃れて久しく、流通も少ないためべらぼうに値が張る。洗濯係はさぞ気を遣うことだろう。当のテオドロスはそんな忠告は気にも留めず、「気を付けて駄目ならそのときはそのとき」と言って皿を置くと、ナプキンで口元を拭い、気楽な調子でユレイドとレガートに尋ねる。
「ねえ、空飛ぶ馬の話、聞かせてよ。大法廷に来る前までのこと。何があったの?」
ユレイドはレガートとかわるがわる、そこまでのいきさつを搔い摘んで話した。途中で茶々を入れずに黙って話を聞いていたテオドロスは、ユレイドが「どんどん落ちていってそれから目の前が真っ暗になって、気が付いたらレガートと二人裁判所の廊下にいた。外への出口はみんな床の先がなくなっていて、その先は真っ暗闇で、とても進めなさそうな状態だった。それでたまたま扉が開いた大法廷の中に入ったら、君が鳥籠の中でふざけているのを見つけた。以上だよ」と言って話を畳むと、珍しく考え込み、暫く自分の指先を見つめて、どうしようか迷ってからアランの方を見て質問した。
「アラン、あの人達何者なの?」
ジャンとシルキアのことだ。ユリアの隣に座って今日の【交霊会】について思い巡らしていたらしいアランは、急に話を振られて驚いた様子だ。彼は一瞬何もないところに視線を置いてからテオドロスを見、どう答えたものか迷うような様子で質問を返す。
「それをなぜ私に聞く? 使者のプロファイルならユレイドが持っているはずだ」
テオドロスは首を振って「それも見たいけど」とユレイドに視線を飛ばした上で、なおアランに問う。
「君は臣下の礼をしてたじゃない。君はただでそんなことしないと思ったけど。それに君は、インディゲナの女に『星辰のご意向』って言った。ただそういう言い回しがあるだけかとも思ったけれど、『星辰』って比喩なんじゃないの? 君はそれを言う前に——つまり殺してくれって頼まれて迷う間のことだけれど——あの人達の方を見たよね。違った? 『星辰のご意向』って、あの黒い方の人か、それともあの女の子と両方のご意向なんじゃないかなって、僕は思ったけれど、違うかなあ」
あの状況でよくそんなところまで見ているとユレイドは舌を巻く。臣下の礼の件については彼もレガートも話を聞きたかったので、アランに注目した。アランはどうにも困った様子で俯き、ユリアは心配になって、彼の左手の上にそっと自分の手を重ねた。ユレイドの心臓を微細な針が刺す。アランはユリアに微笑みを返し、テオドロスの問いに簡潔な答えを返す。
「『星辰』については推測の通りだ。私が跪いたのは、お二人がハルトラードの国王夫妻だから。別にいいだろう。私は帝国の臣民ではない」
それだけしか言わないので、まだ納得がいかないとばかりに、ユレイドが先を促した。
「それで? それだけじゃないだろう?」
アランは一つ溜息を吐いて答える。ユリアを除く誰にも話したことのない、話す必要もなかった話だ。
「ハルトラードは空中大陸で、インディゲナは皆、そこから落ちた者達の末裔だとされている。この話は外には出ない。本当に大切なことは黙っておくものだ。落ちたのはあまりにも昔のことなので、伝わっている話は少ない。だが、現にお会いしてすぐに分かった。お二人はハルトラードの国王夫妻だ。それ以上のことは、私の知るところではない」
テオドロスは納得顔で頷く。そして、無駄に険しい顔をしている——ようにテオドロスの目には映る——ユレイドの気分に水を差すつもりか、わざと的外れなことを言って場を濁そうとした。
「そうか。インディゲナは宇宙人だって噂は、本当だったんだね」
レガートはその噂を思い出してつい笑ってしまう。都市伝説の一種だ。ユリアも笑った。一緒に微笑みながら、アランはテオドロスの計らいに内心感謝する。ユレイドは腑に落ちない顔で首を振り、一番口の軽そうなテオドロスに「なんだか降ってわいたような話だけれど、とりあえず、この話、よそへ言いふらすなよ。面倒なことになりそうな気がするから」と神経質に釘を刺す。テオドロスははいはいと軽く流して、自分とユリアを交互に示して言う。
「僕達の冒険の話は聞いてもらえないの? 密室でひたすらジグソーパズルをやるっていう前衛芸術なんだけど、理解できるかな? アランがどうやってユリアだけ引っ張り出したのかも、知りたーい。その後の痴話喧嘩の話も興味あるなあ」
テオドロスとユリア——そしてこの場にはいないミラベル——の『冒険の話』は簡単に終わった。ユリアが先に助け出されたからくりも、概ねテオドロスが鳥籠の中でミラベルに語った推測通りで、テオドロスはそれを後でミラベルに自慢しようと思う。『痴話喧嘩の話』はユリアとアランの結託によって秘匿された。一人だけ終幕に立ち会わせてもらえなかったユリアのやっかみが発端にある、というテオドロスの推測は、ここでも正しい。
アランとユリアは【交霊会】の準備のためと断って席を立った。準備と言っても、大昔に別の【交霊会】を行った下層階の部屋がまだそのままになっていて、何か入れ替える必要もなさそうだと判明しているので、特にすることもないはずなのだが、誰も無粋なことは言わなかった。彼らと入れ替わるようにして、サンドラとミラベルが一緒にメインラウンジに入ってきた。ルパニクルスの使者達は、昨日の会合の終わりに「正午に【交霊会】を執り行うので半時間前までにメインラウンジに集合」と伝えられている。もうそんな時間かとユレイドが時刻を確認すると、まだ正午の一時間以上前だった。ユレイドは席を立って二人に挨拶し、適当に座るよう勧める。
「おはようございます。まだ早いので、適当な席に座ってお待ちください。【交霊会】の会場はこの建物の下層階なので、半時間前になって皆さん揃ったらすぐ出発しましょう」
サンドラとミラベルは顔を見合わせ、今朝二人の間で真っ先に話題に上った夢の話がすぐに出ないことを訝しみながら、手近なソファーに並んで座った。テオドロスが早速席を立ってミラベルに近付き、近くに座りながら話しかける。
「おはよう。よく眠れた? 昨日はすっごく楽しかったね。朝ごはん食べた?」
ミラベルは鬱陶しそうに「意外にもあの後はよく眠れたみたい。朝ごはんはなんかよく分かんない甘いの食べたけど、悪くなかったわ」と一度に返すと、サンドラにテオドロスを改めて紹介する。
「この人よ。一緒にジグソーパズル組み立てて鳥籠に閉じ込められた、たぶん猟奇趣味の人」
サンドラはちょっと愉快そうに二人を見て、「ふうん。今の紹介文に対して、何かご意見は?」とテオドロスに問う。テオドロスは「前半の大冒険については全面的に肯定。僕の趣味に関しては、当たらずといえども遠からず、かなあ」と答えて肩をすくめ、ミラベルは「やっぱり」と言ってサンドラの方へ身を寄せる。テオドロスはミラベルが持っている魔法の杖に関心を示し、「ねえそれちょっと見せて」と頼んで嫌がられながら、楽しそうに見ているサンドラに質問した。
「お姉さんはどんな冒険をした? 一緒にいたあの小さな女の子、背中の紐を引っ張るとびっくりな悪口がとめどなく出てくるお人形さんみたいな子は、リコリスさんだったって本当?」
テオドロスは、その少女がリコリスだったということをまだ直接知らされてはいない。大法廷でのレガートの振舞いと、少女が吐いた驚くべき罵詈雑言、ロランと妙に親しそうな様子、等から推測した結果だ。サンドラはその推測を肯定し、周りを見回して言う。
「そのリコリスさんはまだ来ていないみたいね。約束覚えているかしら」
するとタイミングよくロランがふらふらとメインラウンジに入ってきたので、サンドラは彼に問う。
「リコリスさんは?」
挨拶もなしの問いかけだが、ロランはごく普通に答える。
「着替えるって、だいぶ前に自分の部屋に戻った」
あらそう、と視線を前に戻すサンドラに、テオドロスが持ちかける。
「リコリスさんの支度はたぶん時間かかるよ。アランとユリアは先に会場へ行ったから、残りの三人と誰が一番最後に来るか、賭けない?」
リコリスを除く残りの三人はエディ、ジャン、シルキアだが、後の二人は必ず一緒に現れそうだとサンドラもミラベルも思うので、賭けをするなら実質三択だ。サンドラとミラベルがどうしようか考えているうちに、テオドロスの予想よりも早く、リコリスが気だるげに現れた。彼女は昨日とは別のデザインの、身体に沿うドレスを着ている。色は相変わらず黒だ。レガートと話し合っていたユレイドが彼女に声をかけ、近くに呼び寄せて尋ねる。
「リコリスさん、メッセージ見ました?」
メッセージを無視したリコリスは澄ました顔で言う。
「あたし、そういうこと言われるの嫌い。余計返事が億劫になっちゃう」
ユレイドはそれ以上言及せず、「テオドロスとユリアとアランからは、先に話を聞きました。まだ話を聞いていないのは使者の皆さんとリコリスさんだけです。何があったのか聞かせてください」とだけ頼んだ。リコリスは「どうしようかなあ」とふざけながらも、離れた場所のロランとサンドラにそれぞれ目くばせして、「ちょっとこっちに来て」と招き寄せた。二人が近くに来ると、リコリスは二人を自分の両隣に座らせ、「昨日の夢の話が聞きたいんだって」と言い、後は丸投げする構えだ。自分が今から聞こうとしていた話が向こうで始まるらしいと悟ったテオドロスと、彼にいつの間にか腕をとられたミラベルも、近くに寄ってくる。ミラベルに振り払われたテオドロスは、サンドラに話を促す。
「ユーリ達とユリア達の話は聞いたけど、お姉さん達の話はまだ聞いてない。きっと鳥籠の前も何かあったんでしょ?」
サンドラは最初から話し始めた。ロランの悪ふざけの話は省かれ、エディの醜態もかなり略されて、リコリスが叩いたくだりは話されず、リコリスとロランもサンドラが省略した部分についてはあえて言及しなかった。狼退治の結末部分についてはそれぞれがそれぞれの死に方について述べ、リコリスが最後に思い浮かべた祈祷書の暗い一節が、夢の話の結びとなった。
暫し夢の余韻に浸り、テオドロスが思い出したように言う。
「あれ、あの男の子。メインラウンジに集合って、もしかして知らないんじゃないの? 昨日、部屋には案内したけど、あの様子じゃ話は聞いてなさそうだったよ」
確かにそうだとユレイドも思い出す。時刻を見るともう定刻に近い。リコリスが隣のロランに言う。
「みんなに忘れられちゃってかわいそうだから、呼びに行ってあげたら? 貴方の弟子」
ロランは迷惑そうに「弟子なんかにした覚えはねえよ」と文句を言うが、テオドロスからマスターキーを押し付けられて仕方なく席を立ち、エディの部屋番号を聞いて出て行った。それはロランの部屋の隣だった。
エディがロランに連れられてメインラウンジに辿り着くと、ちょうど反対側からジャンとシルキアも姿を現した。エディは彼らから目を伏せ、気を取り直してこの広く開放感のある部屋の全体を見渡す。【探索】の六名は揃っているが、帝国側も合わせてここにいるのが全員なのかどうか、昨日の記憶が朧げなエディには判断がつかない。ロランはマスターキーをテオドロスに返す。時刻は定刻——正午の半時間前——を少し過ぎている。全員が揃ったのと時刻を確認したユレイドは、端末を持って席を立ち、一同に声を掛ける。
「揃ったようなので出発しましょう。【交霊会】の会場は下層一階です。アランとユリアは先に行きました。移動にはエレベーターを使います」
エレベーターと聞いてエディはあからさまに不安な顔をする。庁舎のエレベータの箱に閉じ込められたときの記憶は、まだ比較的鮮明だ。ミラベルも、そのときの顛末を思い出していい気はしない。彼女の場合、閉じ込められたことよりもジャンとシルキアに身体を乗っ取られたことの方が不穏な記憶として刻まれている。後で考えた結果、あれはミラベルがユレイドに名指しで頼まれたことを、彼らがあくまでも「手伝って」くれたつもりの結果ではと思い至って気は晴れたのだが、呪わしい義母と同じ乗っ取りの力を向けてきた相手に対し、警戒の気分は解けない。サンドラも軽く眉を顰めて、ユレイドに念のため問う。
「エレベーターって、あの上下方向の箱? また途中で動かなくなったりしないわよね」
昨日のことがあってはもっともな問いなので、ユレイドは時間を気にしながらも努めて穏やかに答えた。
「根拠を提示しろと言われると難しい話ですが、ここのエレベーターは大丈夫なはずです。こっそり動かしているどの箱も問題は報告されていません」
言いながらユレイドは、昨日止まった庁舎の非常用エレベーター・セブンエルも不具合は報告されていなかったこと、重要指定で電力供給の優先順位が高でも、データ上問題なく送電されていても動かなくなり、予備電源も作動しなかったことを思い出す。今回も念のためリムジンを手配するべきだったかもしれない。もう間に合わないので、彼は軽く後悔しながらこう付け足した。
「最悪、手動でも動かせます」
庁舎のエレベーターにもないその仕組みは、閉所恐怖症の宿泊客——帝都の高層構造に慣れない他地方からの客には多い——を納得させるための過剰な安全装置だった。もちろん実用目的ではないので、まず使われた試しはない。疑い出したらきりがないという話だと納得したサンドラは「そう。それじゃあ行きましょう」と素直に頷く。ロランはゆうべリコリスと下層階行きのエレベーターに乗る前に、サンドラと全く同じ問いかけをしてもう少し揉めた記憶があり、愉快な気分だ。リコリスもこっそりロランと顔を見合わせて笑った。
密かに稼働中のエレベーターまで案内するユレイドの後ろを歩きながら、ミラベルは秘書の女がいないことに気付いて前方に尋ねる。
「アランさんとユリアが先に行ってて、【交霊会】の参加者はこれで全員なの? 霊媒を入れて十三人になるはずだったなら、一人足りないんじゃない?」
歩きながら端末を操作しているユレイドの代わりに、レガートがその問いに答えた。
「ヒューマノイドは数に入れないんだとさ。端末も持ち込み禁止なんだから、考えてみりゃ妥当だよな」
ヒューマノイドが分からずぽかんとするミラベルに、ユレイドが補足してくれる。
「秘書の仕事をしてくれている彼女は、人間ではなくて機械なんです。人型に造られた機械のことをヒューマノイドと言って、こちらでは人気のある品です。【交霊会】でも記録係の彼女がいてくれると助かるのですが、通信機器類の持ち込みが禁止では、仕方ありません」
ミラベルはちょっと驚きつつルパニクルスのエリクを思い出し、「ルパニクルスには『アンドロイド』がいたけれど、似たようなもの?」と聞いてみる。ユレイドからは「そういう呼び方もあります」という回答があり、程なくしてエレベーターホールに到着した。
エレベーターの操作盤を操作するのはレガートだ。蛇腹の鉄柵は既に開け放たれていた。先に下へ降りた二人の計らいで箱は既に四十一階に停止していたので、すぐに扉が開いて乗り込めるようになる。ユレイドが気を遣って先に箱の床を踏み、次にミラベルとサンドラ、テオドロス、ロランとリコリス、エディ、ジャンとシルキア、最後にレガートが入って操作盤の前に立ち、扉を閉める。照明は絞られているが、庁舎の非常用エレベーターよりも広く、内装も豪華で、乗り心地も快適だ。壁際を死守したエディは内心気が気ではない。下方へ向かう薄暗い箱に漂う微妙な緊張感を破り、テオドロスが帝都民にしか通じない奇妙な発言をする。
「スケール社の特注品なのに、やっぱり対象外なんだね。魂が入っているっていう噂、検証してみたかったなあ。今度別の【交霊会】をやってみて、彼女がいたら本当に繋がらないかどうか、検証してみない?」
ユレイドは相手にしない構えだ。レガートが周囲に解説しつつ答える。
「ヒューマノイドの二大メーカーのうち、非戦闘用が主力のスケール社のハイエンドモデルには、魂がある、っていう都市伝説だろ。聞くだにしょうもない話だよなあ。ロマンはあるけれどそれで本当に検証になるのか? 『魂』の定義も【交霊会】の参加条件も曖昧だぞ。やるならもうちょっと詰めないと」
レガートは忙しいから無理だとは言わない。最高顧問の担当範囲はバランサー含むロストテクノロジーの保守に関わる全般と、それらに不具合が発生した際に見込まれる各種問題の収拾、中でも表向き秘匿されているルパニクルスとの折衝が主なので、バランサーの再起動さえ済めば、護衛兼手伝いの彼もユレイド本人も幾らか暇ができると見込んでいるのだ。現に前任の最高顧問だった女は、控えめに言ってもかなり余暇に恵まれた生活をしていたように見えた。ユレイドとレガートが多忙を極めるようになったのも、急な就任の騒ぎに続き、バランサーの不調が急激に悪化し始めてからのことだ。ユレイドは運悪く数百年に一度の面倒事の時期にこの役職に就任してしまったことになる。彼が想像以上に厄介な重荷を背負ったことをレガートと共に実感したのは、歴代の最高顧問に引き継がれていた予言文——ようやく開封できる時期が来てみれば、今回の使者到来の知らせだった——を開封してからのことで、数百年前から受け継がれているはずのそのデータには、庁舎の下層枢密区の閉ざされた一室にルパニクルスからの使者達が現れる正確な日時と、なすべき仕事が記されていた。鍵の盗難という新たな問題が発覚したのは、そのすぐ後だった。
レガートがヒューマノイドの魂の検証に案外乗り気なのを見て、テオドロスは満足げだ。彼は「【交霊会】の条件の詳細はアランに聞いてみよう」と算段すると、「使者の皆さんはバランサーの再起動が済んだらすぐ帰っちゃうの?」とミラベルに気の早い質問をする。彼女がそれに答える前に、エレベーターが目的階に到着して止まり、扉が開いた。
下層一階はやはり薄暗い。大まかな造りや非常灯のみという条件は四十一階と変わらないはずだが、ここが下層——朝の来ない地階——だと知っている者にとっては、心なしか冷たく、薄闇も鮮明に感じられる。エレベーターホールにはユリアがいて、皆が降りる間、操作盤の前に立って箱の扉を開けておいてくれた。ミラベルは先ほどのテオドロスの問いに「その後にまだ何かやることがあるみたいだから帰らないと思うけれど、何があるのかは、まだ聞いてない」と答える。何があるのだろうか。帝都での仕事について、エリクは確かこう言っていた。
「帝都では二か所の【守護者】を活動化していただきますが、ルパニクルスでも正確には予測できない不確定要素があるため、そこでの指示は追って送信します。みなさんは帝都に着いたら、《最高顧問》と呼ばれる魔導師に、一枚の書状が入った記録媒体を渡してください。それで話が通じるはずです」
エリクから出発前の指示を受けたのは、ミラベルにとってはもうかなり昔のことのように思われる。狭間の城での出来事なので、実際にどのくらいの時間が経過したと言えるのか、曖昧だ。狭間の城からデイレンの丘の上に出て、今ここに辿り着くまでであればほんの数日だが、それも彼女には実感が乏しかった。エリクの指示によると、帝都に【守護者】は二つあるのだ。そのうち一つがバランサーだとして、二つ目についてはまだ誰も言及していない。ミラベル自身、今の今まで二つ目が存在するらしいことはすっかり忘れていた。最高顧問に記録媒体を渡した後の行動についての指示を『追って送信』する手段が、この【交霊会】なのだろうか。さらにミラベルは、エリクが最高顧問を『魔導師』と表現したことも今更思い出し、二つ目の【守護者】の件も合わせて、それを今まで忘れていたことを訝しく思った。ユレイドは魔導師なのだろうか? もしかしたら、それはここでは秘密の話なのかもしれない、と彼女は推測する。
テオドロスはミラベルに「へえ、じゃあ暫くはお別れしなくていいんだ。仕事の合間に遊べる時間があったらいいのにね。帝都を案内してあげる話、あれは有効だから、暇になったら改めてお誘いしよう」と呑気なことを言い、鼻歌を歌っている。彼の中では、ジグソーパズルの最後のピースを填めた後の出来事は『面白い出来事』として記録され、『余計な苦労』ではなかったことになったらしい。テオドロスの解釈では、夢の賭けにはミラベルが勝ち、テオドロスが負けた。その場合、ユリアとミラベルの勝負の結果はどういうことになるのだろう。一行を案内しつつ先頭で話を聞いていたユリアが振り返らずに言う。
「勝負なんて関係なくても、《β世界》は案内するから」
ミラベルも言い返す。
「知らない土地でのお買い物、楽しみにしてるわ」
実際のところ、これらの約束は全て、バランサーが復旧してからの話だ。現状の市街が観光や買い物どころではない状況なのを知っているユレイドは、能天気なテオドロスと無邪気な——と彼は思っている——少女二人とのやりとりにいつも通りの重圧を感じる。彼は今、メアが近くにいなくても窒息しそうな気分だ。彼の護衛のレガートは全く別のことを考えている。彼が考えているのは、ゆうべから第二帝国ホテル中層の別階——娘の友人家族がホテル住まいでそこにいる——に泊りがけで遊びに行っている彼の娘、クラリスのことだ。普段は世話係に任せきりのクラリスは、もうすぐ八歳になる。彼女がゆうべの悪夢騒ぎに巻き込まれなかったのは、幸いなことだった。
後ろの方を歩いているエディは、ロラン、リコリス、サンドラの三人がゆうべの夢の中で交わした約束の話をしているのを聞きながら、今目の前にいるリコリスと呼ばれている女性と、今朝ロランがリコリスと呼んだゆうべの夢の中の少女との関係性について、一人悩んでいる。彼のもの問いたげな視線にリコリスが気付き、振り返って嫣然と微笑んで言った。
「昨晩はごめんなさいね。狼退治の顛末は、もう聞いた?」
やはり名前が同じだけではなく、二人のリコリスは同一人物らしいと合点したエディは絶望する。それでも狼退治の顛末は気になったので「どうなったんだ?」と聞くと、ロランは気まずそうな表情をし、サンドラは謎めいた微笑を浮かべてこんな答えを返してくれる。
「最悪だったみたい。ただの夢だし、私は早々に意識がなくなって助かったわ」
リコリスはころころと笑いながら言う。
「焼け死ぬのって最悪よ」
焼け死ぬのがきっと最悪の気分なのはエディも同意だが、なぜそれをそんなに楽しそうに語るのか解せない。リコリスに話の詳細をせがみつつ、エディはその自覚も希薄なまま、朝目覚めたときと同種の憂鬱を深める。夢の中でも彼は一人で、一人で何も状況を動かせなかった。夢の中で、彼が果たせる役割は何もなかったし、【探索】においてもそれは同じではないかと、彼は思わずにはいられない。




