XXI - i. Nightmare Hunters
悪夢についての話など聞いたせいだろうか。サンドラは今、真っ暗な闇の中に一人座り、曖昧な地面の感触を確かめている。砂地でも草地でもない。板張りでも冷たい石の床でもない。ただ、平らで今のところ揺るぎない、ただの地平面だ。夢にはありがちなことだと思う。ただ、夢の中でそれを夢と意識できる夢は、そう多くはない。夢の中では、夢という言葉を意識しさえしないことがほとんどだ。それではこれは、本当に夢なのだろうか? サンドラは姿勢を変えて座りなおして、一つ溜息をつく。こうして真っ暗闇の中で、膝を抱えて座っていると、落ち着くような気がするのは不思議だ。ここがどんな場所かも、分からないのに。彼女は暫くの間そうしていて、そのうちに飽きて立ち上がる。立ち上がると眩暈がした。地平が揺らぐ。頼りない地の上でバランスをとって、揺らぐ世界をやり過ごすと、もはやそこは真っ暗闇ではなくなっていた。サンドラは自分の指先を、いつもの軍装の自分自身の身体を視覚で捉えることができる。光源は分からない。周囲は未だ暗闇のようだが、ここで歩いても、暗がりで見えない何かにぶつかることはなさそうな気がする。気がするだけだ。
暫く暗闇の中を歩く。歩きながら退屈だと思う。どちらの方向からも何の気配もしない。方角の指標はここには何もない。飛竜はいつも通り彼女とともにある。それは彼女にとってあまりにも当たり前の感覚なので、あえて意識することでもなかった。ちょっと上がってみようかと思い立った矢先、サンドラは前方に変わった気配を感じる。すぐそこ、二歩ほど先の空間に、闇が固まっている場所がある。他のところより少しだけ、闇の黒色が濃いような、何かが渦巻いて吸い込まれてゆくような、そんな印象を喚起する何か。サンドラはそこへじっと目を凝らす。
やはり渦巻だ。渦巻は広がっている。回転は緩くなり、早くなり、もっと広がって——
サンドラが渦巻の呪縛から気を取り戻すと、渦巻はもうそこにはなかった。どうも、先ほどまでいた場所からは移動しているような気がする。座標がずれた感覚があるのだ。気のせいかもしれない。しかし、周囲の空間に先ほどまではなかった要素が追加されていることは確かだ。渦巻があった二歩先より、さらに七歩ほど先に、見知った人物がいた。相変わらずだらしない着こなしで所在なく棺桶のような箱の上に座っているのは、旅の道連れのロランだ。
ロランはそこに座ったまま急に現れたサンドラを見て、彼女が何も言わないのを待ってから、唐突な問いを投げる。
「夢か? 現実か?」
サンドラは呆れて問いを返す。
「その夢か現実か分からない状況の登場人物の私に、それを聞くの?」
ロランはおもむろに立ち上がってサンドラに近づき、その姿をよく眺めてみる。帽子の先から靴の先までじっくり見てから、今度はもっと大胆に近づいてみる。そうされてサンドラは冷たい表情のまま黙っている。だが身をかわそうとはしない。あと少しでキスできそうな距離にまで顔と顔が近づいたところで、ロランはようやく少しだけ離れる。常識的な会話の距離まで戻ってから、彼は思いついたように言う。
「そうだ。現実かどうかちょっと触ってみよう」
サンドラは彫像のように表情を変えない。それがますます夢めいて見えるのか、ロランは本当に両手を伸ばす。その手がサンドラの、あろうことか胸のふくらみに触れようとしたとき、二人は三人目の登場人物の声を聞く。小鳥が歌うような子どもの声——まだ本当に幼い少女の声だ。
「ロラン? 触るならあたしに触って! さっきまで、そうしてくださっていたように」
声色に反して、言葉の中身は艶めかしい。声のした方を二人が見ると、どちらにも見覚えのない小さな娘が、黒い別珍のドレスを古い人形のように着こなして立っている。まだ七つにもなっていないのではないか。夜の王妃シルキアよりも幼く見える。
サンドラは、黙ったままロランに軽蔑のまなざしを向ける。ロランはサンドラに触ろうとしていた手をとりあえず引っ込め、やっぱり悪夢らしいと状況を振り返り天を仰いでから、現れた娘に誰何する。
「何者だ? 俺は『子ども好き』じゃない。他をあたれ」
少女は「まあ冷たい」と口元に小さな手を当てて悲しげな顔をして見せてから、ふふんと不敵に笑い、ロランに言い返す。
「あたしが誰だか分からないのか、知らないふりをしていらっしゃるのか。あたしはちゃんと知っているわ。貴方は、子持ちの淫売に手を出すような人よ」
きつい言葉だが、ロランにはそれで通じたらしい。彼はちょっと笑ってから、なおもふざけた態度でサンドラに問う。
「子持ちなのか?」
サンドラは冗談に付き合う気もないようで、「いいえ」とだけ冷たく返す。少女は、わざとらしく不機嫌な顔を作って両手は腰に当て、二人の様子を見上げている。子どもがお芝居の真似でもしているようで、見かけは微笑ましい。冗談に付き合ってもらえなかったロランは、ようやく娘の正体を認める。
「いや、悪い。今の言いようで分かったよ。リコリスだろう? あんまり若返ってるんで、誰だか分らなかったんだ。ちょっと巻き戻しすぎたんじゃないのか? 前の方がずっとよかった」
少女リコリスは不満げなまま、子どもに戻った自分の身体を見下ろして言う。
「あたしだって分からないわよう。なんでこんなになっちゃったのか。別に、賢者の霊薬を飲みすぎちゃったわけじゃないのよ」
やっぱり夢だなと改めて思いつつ、ロランはさして警戒もせずつい聞き返す。
「賢者の霊薬? あれはそういうんじゃないだろう」
リコリスは「あら、伝わらない冗談だった?」とくすくす笑いながら言い、それでも何か思い直したようで、後にこう続ける。
「いえ、貴方なら、本物を持っているって言われてもあんまり驚かないわ。ねえ、本当のところ、若返りの霊薬なんて、世界のどこかには、もしかしてあるの? 【愛の妙薬】は? もし持っているなら、ちょっとだけ分けてよ」
ロランはこの状況を夢だと認識しているので、その場限りいいかげんな返事を返した。
「もちろんあるさ。目が覚めたら教えてやろう」
リコリスは「絶対よ!」と念を押し、またくすくす笑って、呆れて見ているサンドラに話を振る。
「夢に出てきた人が『目が覚めたら』なんて言うの、変よね。目が覚めたら消えちゃうのに」
サンドラは一つ溜息をついて何か考え、それから「誰の夢かっていう詮索はやめましょうね。不毛だから」と返す。リコリスは「それは違いないわ」と言ってまた楽しそうに笑い、ロランが座っていた大きな黒い細長い箱に注目して言う。
「あれなあに? 柩?」
リコリスが指差した先に三人とも注目する。サンドラがロランを見て問いを投げる。
「何なの?」
先ほどまでその上に腰かけていたロランは、両手を広げて軽く首を傾げ、「さあな」と返答する。サンドラは軽く眉を顰めて言う。
「よく分からないものの上によく座っていられるわね」
リコリスも気味悪そうな顔をして言う。
「本当に死体が入ってるかもよう。嫌だわ気持ち悪い。——ねえ、開けてみましょう!」
気持ち悪いと言いながら、開けて中を見る気は満々のようだ。サンドラも「そうね」と頷いて同意する。気味が悪いのは中身が分からないせいで、これから開けてみれば、実際の中身がどうであれ、少なくとも何か展開があるはずだ。三人は謎の箱に各々近づいて、それをよく眺めてみる。箱の外側は黒檀か何か黒色の木材でできているようで、つややかな塗りの意匠や重厚感はともかく、その大きさと形状は、三人のどの文化圏の感覚でも死人を入れておく棺桶にぴったりだった。ロランは、金持ちが衣類や貴重品をしまう櫃に似ているとも思う。(櫃というものは棺桶に似ていると、彼は前々から思っていた。)この箱の中には厄介な抜け殻ではなく別の宝物が眠っているかもしれないという考えは、正面らしいこちら側の長辺の側面に、目立たない鍵穴らしきものが見つかったことで補強された。ロランは謎の箱の正面から反対側へ回ってみる。そちら側にはただ頑丈そうな蝶番が付いていた。気になる正面の鍵穴を指して、まずリコリスが言う。
「鍵なんか持ってないわよ。誰か、持ってる?」
正面に戻って来たロランが、「鍵がないと開かないのか?」と言いながら両手で蓋をつかみ、引っ張ってみる。やはり鍵がかかっているようで、蓋は持ち上がらない。その様子を距離を取って見ていたサンドラは、物騒な二者択一を口にする。
「鍵を壊すか、箱を壊すか」
気の短いサンドラとその提案に同意するリコリスとを「ちょっと待て」と制して、ロランは正面の鍵穴の前に跪く。
「どんな鍵だ。よくある鍵か? 俺の夢だからな。俺の夢だから開かないかもしれない」
見かけではどうか分からない鍵穴を調べながら、ロランは上着の内側を探る。何かをしまってある場所が分からなくなったらしい。これは鍵が見つからない悪夢かと一つ悪態をついたところで、やっと指先が鍵束に触れる。彼はそれを取り出して、三つある鍵のうち一つを選び、それを箱の鍵穴に差し込んだ。正規の鍵を使うときとたぶん同じように右回りに回すと、軽い音がして解錠した手ごたえがある。
「開いたらしい」
あっけなくそう告げられ、見守っていた二人は拍子抜けする。リコリスが文句を言う。
「なあんだ、鍵、持ってたんじゃない。早く言ってよ」
ロランは手に持った鍵束を振ってちゃらちゃら鳴らし、何か誤魔化したい様子で返す。
「別にこの箱の鍵ってわけじゃない。たまたま開いたんだから、別にいいだろう」
サンドラは「本当に開いたの? 盗賊の七つ道具みたいね」と訝し気な様子だ。少しは恰好をつけたいロランが「これは戦利品の回収用だ。泥棒じゃないさ」とうっすら怪しげなことを言うが、サンドラもリコリスも、今、関心は箱の中身だ。サンドラが「そう。じゃあさっさと開けましょう」そっけなく言うと、さっそく箱の蓋に手をかけて開けにかかる。重そうな蓋なのでロランも手伝おうとするが、手助けは不要だっただろう。
大きな箱の蓋が静かに持ち上がる。箱本体とその蓋との境目の線ははじめ細く暗く、やがてこの場の光源不明な光が中へ差し込むほどに広がり、内側に張られた布地の赤色が見える。蓋が開く。蓋は完全に開かれた。
三人で覗きこむ大きな箱の中身は、その容量に比してすかすかのようだ。赤地の布張りの広い空間に入っているものはたった三つ。白っぽい角か牙のような材質の何かの入れ物が一つと、寄せ木細工の平たい長方形の箱が一つ。最後の一つ、金属と木材を組み合わせた長いものは、サンドラには見覚えのない、使い道の分からないものだった。使い道を知っているロランが、まずそれを見て感嘆の声を上げる。
「おお、最新式のマスケットだ。いかにも夢のような話だな」
やはり使い道はおそらく知っているリコリスは、ロランの発言に対して驚きの声を上げる。
「最新式ぃ? マスケットでしょう、骨董品じゃない。あたし、射撃はたまにやるけれど、こんな古いのは操作分からないわよ。骨董屋さんか博物館にしかないもの。これ、動くの?」
ロランはその銃をさっそく箱から取り上げ、ゆっくり見分しながら言う。
「さあなあ。新品に見えるぞ。燧石もあるし。火薬と弾がなきゃどうしようもねえが、空でなきゃ火薬入れはそこにあるな。もう一つの箱の中身は何だ?」
火薬入れには黒色の粉末がちゃんと入っていて、寄せ木細工の箱には、開けてみると妙に輝く綺麗な銀色の弾がたくさん並べてしまわれていた。それらを見つけて喜ぶロランと物珍しそうなリコリスの話がさっぱり分からないので、サンドラが率直に尋ねる。
「マスケットって何?」
質問を受けロランはなぜか得意げに答える。
「武器だ。クロスボウより新しくて、クロスボウの下位互換」
リコリスは、ロランの言うことに再び驚いて、疑わしげに言う。
「そんな話初めて聞いたわよ。銃の方が強いんじゃないの?」
ロランは「そうか。きっと未来ではそうなんだろうな」と素直に頷き、自分の時代——おそらくリコリスの時代よりも遥か過去——の認識を語る。
「おまえが言うところのこの骨董品の場合な、すごく使い勝手が悪い。射程が短い。威力もまともに当たればの話で、命中率も低い。不発もある。使い方が正しくても正しくなくても暴発する。すぐ壊れる。火薬が湿気る。打った音で居場所がばれる。あんまりいいところはねえな。とりあえず、大勝負には使いたくない代物だ」
いいところなしという評価と、ロランの楽しそうな様子との整合性のなさが気になり、サンドラはつい指摘する。
「そう言いながら、それを持って貴方嬉しそうだけれど」
ロランは「まあ、ちょっとは楽しい」と認めつつ、「新しいものって面白いだろう?」という次の句は言わずに飲み込むことにする。この銃は最新式であり、かつ骨董品でもある変わった品なのだ。視点の違いが物の属性を変える一例と言えよう。
リコリスはその骨董品が現役かどうかに興味津々で、ロランが持つそれをしげしげと眺めながら聞く。
「撃てるの? 暴発するって、なんか危ないんじゃないの?」
ロランは「うん、危ないかもなあ」と呑気な調子で、さっそく銃の火蓋を開け、火薬入れから火薬を火皿に少し入れる。次は銃口から発射薬になる火薬を入れる段なのだが、適正な量を測るすべはない。ロランはおおよその感覚で適当な量を突っ込む。見ているリコリスが不安げに尋ねる。
「そういうのって、そんなに適当でいいの?」
リコリスの知っている銃はもっと精密なものだ。ロランからは、「さあなあ。夢だからな」と曖昧な回答が返ってくる。火薬入れを置いたロランは、寄せ木細工の箱から輝く銀色の弾丸を一つ選び、それも銃口に入れる。彼はさらに「あとはなんか紙屑か」などと呟いて、また上着の内側を探り始める。それを見てリコリスがサンドラに言う。
「あのね、きっと、上着の内側に宇宙があるのよ。それも幾つか」
サンドラはその軽口に微笑んで、「混沌からは何でも出てくるのかしら」と返す。宇宙からか混沌からか、ロランが取り出したのはレガートから受け取った例の紙切れだった。ロランはそれを丸めて銃口に詰め、引き抜いた長い槊杖で奥まで押し込む。驚いたリコリスが目を丸くして「何それ?」と聞くのに「なんか紙屑入れるんだよ。弾を落とさないおまじないだ」と返し、槊杖を元の位置に片付けて、撃鉄を完全に起こせば、射撃準備は完了だ。
「よし、ちょっと離れてろ」
リコリスとサンドラはそれぞれ反対方向に距離を取り、適当な方角へ向けて銃を構えるロランを見守る。ロランは引き金を引く前に一瞬、不発だったらみっともないなと思い巡らすが、「どうせ夢だ」と引き金を引いた。
空間に鋭く響く銃声。瞬間に閃いた炎と反動。弾丸は無事放たれ、目にも止まらず暗闇のどこかへ消えた。火薬が燃えた白い煙の匂いは、戦の気配でも祝祭の記憶でもある。遠くから射撃の様子を見ていたサンドラが、弾の飛んで行った方向へ目を凝らしながら感想を述べる。三人のうち、彼女だけは硝煙の香りを知らない。
「こんな場所じゃあ威力は分からないけれど、音がうるさいわね」
銃を下したロランは、こちらへ戻ってくるサンドラへ顔を向け、笑いながら言う。
「確かにそれは欠点だが、雷撃出すやつがそれ言うか? これな、撃つと反動がけっこうあるぞ。やってみるか?」
サンドラは興味をそそられている様子だが、「遠慮しておくわ」とその誘いは断る。小さな身体で駆け寄ってきたリコリスは、銃を見ていかにも口惜しそうにこう言う。
「いいなあ。楽しそう。あたしも撃ちたいのに、この身体じゃ無理じゃない。起きたら、骨董屋さんを呼んで古式銃を持ってきてもらおう」
リコリスはロランに「起きたら忘れてるかもしれないから、もう一回使い方を教えてちょうだいよ」と、突っ込みどころの多いおねだりをし、サンドラにも「お姉さんも一緒に遊びましょうよ。骨董品でも、ちゃんと整備してもらえば、たぶんこれよりは安全よ。ね、いいでしょ」と、『この夢から覚めた後』の約束を取り付けようとする。甘えた子どものような調子のよさにサンドラは苦笑して、「その約束を覚えていたらね」と返し、ふとこう付け加えて聞く。
「ねえ、人狼の殺し方って知ってる?」
唐突な問いだ。リコリスはサンドラを見上げて二、三度瞬きして、はっと気が付きすぐに答える。
「銀の銃弾で心臓を撃ち抜く」
リコリスは答えてから、これは楽しい展開になったとばかり瞳を輝かせて、ロランに聞く。
「その弾丸、もしかして、銀?」
ロランは、これこそ自分の専門分野なのになぜサンドラは自分に聞いてくれなかったのだと若干悔しく思いながら、リコリスの質問に「うん、たぶんな」と回答する。触ったときからほぼ確信なのだが、なぜそうと分かるかの説明が面倒くさい。すると、やっとサンドラが質問をしてくれる。
「人狼退治って、いつもそういう武器を使うの?」
ロランはそれを否定して答える。
「いや、仕事でこれを使ったことはないな。使いにくいから。なんでだ?」
リコリスが反応して聞く。
「え、どうして? 銀の銃弾じゃないと、狼になった人は殺せないんじゃないの? 殺さないでなんとかする方法があるの?」
どこか話が噛み合っていない様子なので、ロランは暫く考えて、思い当たったことを話してみる。
「元には戻せないし、うん、確かに、『狼になってる人』に致命傷を与えるなら銀が必要だよな。でも他のときは違うだろう。人狼を狩るのに、なにも相手が一番強くなるタイミングを狙うことはない。満月の近く以外では奴らだってほぼ、ただの人だからな。ちょっと丈夫だから気取られると厄介だが、大抵は闇討ちになるから、武器はいつものでなんとかなるんだ」
ロランは言いながら過去の仕事内容を思い出し、闇討ちの話はしない方がよかったかもしれないとほんの少しだけ後悔する。リコリスは何か感銘を受けた様子で「へええ」と言ったきり暫く黙りこみ、曖昧な表情のまま口を開く。
「そうなの。あんまり考えたことなかったわ。狼じゃないときの人狼のこと。狼になってから、対処するんだと思ってた。どうしてそう思っていたのかしら。でもそうよね、毎月狼になるのなら、人間のときに片付けた方が……」
リコリスはそこまで言ってまた考え始め、一呼吸置いてまた質問する。
「ねえ、殺してくれっていう依頼の他に、捕まえてくれっていう依頼もあった?」
ロランは「あったあった」と軽く答えつつ、内心ではそちらの方があまり話したくないと思い、野暮なことを言わないよう気を遣う。人狼にまつわる依頼の三分の一くらいは、人狼を殺さずに拘束してくれという内容で、殺すより面倒だったばかりか、殺すより後味の悪い仕事がほとんどだ。生かしたまま捕まえた人狼を、その後どうするというのか? 依頼主が犠牲者の関係者であれ、人狼本人の関係者であれ、別の組織であれ、考えうる行く末は陰惨だ。
リコリスがまた何か言う前に、ロランは二人にまた無意味な質問をしてみる。
「なあこれ、本当に夢か?」
リコリスもサンドラも何も答えない。答える代わりに、リコリスは軽い躊躇いを見せつつ別のことを話し始める。
「あのね、なんだか、今の流れでどうしようか迷っちゃったけれど、言うわ。狼といえば、さっき、『狼が逃げた。どうしよう』ってそれだけ言って泣いてる子がいたわよ。今のあたしくらいの子どもになっちゃっていたけれど、あの子に似てたかも。あの、今日の会合でずっとぼーっとしてた男の子。けっこう可愛い子よ」
ロランはうんざりした様子で尋ねる。
「なんだそりゃ。それ放っといたのか?」
薄情さを責められたと解釈したリコリスは「だって」と小さな唇を尖らせて言い訳を始める。
「『逃げて』って言われたし。『関わるな』とも。それだけよ。あたしから何か言っても無駄って感じの取り乱し方だったわ」
ロランは「そうか」と頷いて、おまえを責めたわけじゃないと強調するように「それは放っておきたくもなるなあ」と納得してみせる。サンドラは、それはちょっと冷たいんじゃないかしらとちらりと思うが、言うほどでもないのでそれは言わない。ただこれだけ言う。
「ちょっと見に行こうかしら。リコリスさんはどちらから来たの?」
リコリスはあたりを見回して、マスケットが入っていた箱の向きを確認し、自分が今立っている位置から160度くらいの方向を右手全体で差して漠然と答える。
「たしか、あっちよ」
サンドラも漠然と示された方向を見る。一つ頷いてさっさと歩いて行こうとするサンドラを引き止めようとして、リコリスは声をかける。
「一緒に行きましょうよ。ねえお姉さん——サンドラさん」
名前を呼ばれて振り向いたサンドラは、ふと気になって聞いてみる。
「私の名前、ユレイドさんから聞いたの?」
小さなリコリスは「いいえ」と首を横に振り、愛らしく微笑んで答える。
「会合で呼ばれた名前を覚えていたの」
サンドラは会合の席で名を呼ばれた記憶をすぐ思い出せず、「記憶力がいいのね」とリコリスに一言賛辞を送る。ロランはリコリスが余計なことを言いそうになったら口を塞ごうと身構えるが、リコリスは「ありがとう」と謝辞を述べただけで、他のことは言わなかった。
リコリスが先に立って歩く。二発目の弾薬を装填したマスケットを持つロランと、相変わらず涼しい横顔のサンドラが続く。三人とも特に警戒していないが、ここは見れば見るほど不思議な空間だ。土の上でも石の上でも床の上でもない平らな足元に、周囲は見渡す限りの暗闇で、それでいて身近なものだけははっきりと目視できる。どこからか光が差し込んでいる様子は見えず、影もできない。自分の履物は見えても、その下の地面は真っ暗だ。リコリスの感覚を頼りにそのまま少し進んだところで、彼女はふと立ち止まって言う。
「あれ、こっちだと思ったのにもしかして間違えたかしら。どうしましょう」
ロランとサンドラも立ち止まって、三人は顔を見合わせる。こんなところで何か見失ったら、もう一度見つけられるかどうか怪しいものだ。もう少し進んでみましょうとサンドラが提案しようとした矢先、じっと考え込んでいたロランが進行方向30度くらいの方向を指差して言う。
「あっちだな。なんかいるぞあっちに」
サンドラが「『なんか』って何よ」と聞くと、ロランはそれは曖昧な様子で「何だろうなあ……」と濁し、それでも前を向いてこう提案する。
「とりあえず行ってみようぜ。別に危ないもんではなさそうだし」
ああそう、と軽く頷いてそちらへ歩き出したサンドラに続いて歩きながら、リコリスがロランを見上げて言う。
「とりあえず信用はされているみたいだけれど、見たところ脈なしね。お気の毒さま」
ロランは「うるせえな、変なこと言うな」と軽く諫めつつ、脈なしは気にしない様子でこう続ける。
「知ってるよ。別にそれはそれでいいんだ。ただ近くで眺める幸せっていうのもあるんだよ。そういうもんだ」
リコリスは幼い姿に不釣り合いな思惑ありげな顔で「ふうん。なるほどねえ」と返したきり静かになる。
暫く進むと、本当に今のリコリスくらいの年頃の男の子がいて、地面に座り込んで嘆いていた。その後姿を見てロランが呟く。
「あれはやっぱり犬っころ——じゃなくてたぶんエディなんだが、なんか変だな。獣性の方はどこへ行ったんだ?」
頭を抱えてしきりと何かを呟いている少年に、リコリスがそっと近寄って優しく声をかける。
「もしもし? まだ貴方の悩み事は解決していないの?」
子どもに返ったエディはおびえた仔犬のようにびくっとしてリコリスを見、首を横に振って捲し立てる。
「だからなんでおまえ戻って来たんだよ! 逃げろって言っただろ。狼はおまえみたいな子どもが一番好きなんだぞ。噛まれたら食われて死ぬか、おまえも狼になっちゃうんだ。早く逃げろ。どっか行け!」
その勢いにリコリスは一瞬身を引いて顔を顰め、次に攻勢に出る。彼女はエディに「あんたも子どもじゃない!」と言うや否や、彼の右頬を平手で一発したたかに叩いた。驚いて固まるエディに、噛んで含めるようにリコリスは言う。
「話は終わりまでお聞き。師匠にそっくりの失礼な子ね。あたしは一人で戻って来たんじゃないわ。強そうな助っ人を二人も連れて来たんだから、感謝なさい」
エディは叩かれた衝撃でまだ呆然としている。リコリスは後ろの二人に「あとはよろしく」と言って合図する。ロランはサンドラと顔を見合わせて「情けねえなあ」と声には出さず言い、師匠って誰だと思いつつ、座ったまま時が止まったように虚空を見つめるエディに近づいて話しかける。
「おい。何の話だ。おまえは、なんでまたこんなところでへたりこんで泣いてんだ? そういう趣味か? ええ?」
エディはロランの声を聞いてそちらへ振り向き、まるで幽霊でも見たような顔でうわごとのように口を開く。
「ロラン? サンドラ? なんでここにいるの? もう、もう駄目なんだよ。狼が逃げちゃったんだよ。どこ行っちゃったんだか分かんないんだ。殺して。殺してくれ。おれは殺される。【審判】に殺される!」
そう叫んでエディはまた取り乱し始めるので、ロランはもう少し優しく聞いてみることにする。
「その説明じゃちょっとよく分かんないんだが、とにかくなんだか大変なんだな。まあ、たぶんなんとかなるから、落ち着いて話せよ。狼が逃げたっていうのは、今いなくなってるおまえの獣性のことか? それがいなくなったのが本当なら、おまえは毎月厄介な獣に変身しなくて済むんじゃないのか、違うのか? どうしてそれがいなくなると困るんだ? おまえから離れた獣性が、どこかで人を襲うのか?」
エディは問いかけの一つ一つにうんうんと頷いて、またどうしようもなく泣き始め、しゃくりあげながら懇願する。
「助けて。助けてよ。【審判】に殺されるのは嫌だ。生きたまま焼かれるのは嫌だ。火は嫌だ。嫌だ。怖い。嫌だよ。助けて。助けて……」
また自分一人の恐慌の世界へ沈んでゆきそうになるエディの右肩を捕まえて、ロランは更に質問する。
「うん、そうか。分かった。助けるよ。助けるから、どうしたらいいのか教えてくれ。どうしたらおまえを助けてやれる? 何をすればいい? 逃げた狼を見つければいいのか? 見つけて殺すのか?」
エディがどうにか答えようと口を開いたとき、示し合わせたように異変が起こる。エディが座っているあたりの地面がにわかに白い輝きを帯び、白色の炎、輝く火柱が立ち上り、瞬く間に頭上まで燃え上がった。エディの肩に触れていたロランの右手にも、火に焼かれるような痛みが走る。ロランは反射的にその手に力をこめてエディを火柱から引っ張り出そうとしたが、その前にエディは、炎と一緒に消えてしまった。エディは、消えてしまう刹那、怯えながらこう叫んだ。
「狼を殺してくれ!」
「穏やかじゃねえな」
謎の火に焼かれても火傷もせず無事だった右手を軽く振ってみてロランが言う。リコリスはエディが先程まで座っていた場所を見つめてぽかんとしている。サンドラも、同じ場所をじっと見て黙っている。間を置いてリコリスがぽそりと言う。
「狼は、ここの近くにいるのかしら」
ロランが間髪入れずに答える。
「いない。この近くには何もいない。ちょっと歩いたくらいな範囲にはいねえな。どこだ。いたとしても、どうやって退治する? 獣性が人から切り離されるなんて話は聞いたこともねえ。変身済みの人狼と同じようなもんだとすると、簡単には殺れねえぞ。いくら銀の弾が入ってても、マスケット一挺じゃあ、あっという間に距離詰められて殺られるのが落ちだ」
絶望的な顔をするリコリス。彼女は銀どころか何も武器を所持していない。リコリスの視線を感じてサンドラが言う。
「私も銀製の武器は持っていないけれど、銀じゃないとどうしても駄目なの? 足止めにもならない?」
サンドラは輝くグレイヴを出して見せる。リコリスが目を見開いて、「魔法だわ」と小さく呟く。それを見てロランは少し元気を出して言う。
「ねえさんに前衛を頼めれば、傷は付けられなくても次の弾を装填する時間稼ぎくらいにはなりそうだな。もしかすると、その【雷霆】とかいうグレイヴなら、変身済みの人狼にも傷を付けられるかもしれない。殺せたらなおいいんだが。雷撃も試す価値があるな。飛竜も使える。なんとかできるかもしれない」
リコリスがまた無邪気に瞳を輝かせて、サンドラに聞く。
「飛竜! そうだわ、サンドラさんは飛竜遣いなのよね。ねえ、飛竜って、どんなの? 見たい。乗ってみたい!」
サンドラはちょっと微笑んで要求に答える。音もなく現れるヘリオドールのような鮮やかな黄の飛竜を見て、リコリスはますます目を丸くして言う。
「驚いたわ。とっても綺麗ね。お日様の光みたい! ちょっと触ってみてもいい?」
どうぞと承諾してから、サンドラはロランの方を振り返って言う。
「ねえ、この辺りには狼はいないのよね。ちょっと上へ上がってみない?」
ロランは飛竜の近くへ寄ってきて言う。
「四方にいなくて下へも行けないなら、残る選択肢は上しかないよな。飛竜に乗れるなら、探す範囲も広がりそうだ。でも一人だけ別行動も、こんなとこじゃやめといたほうがいい気がするぞ。合流できる保証もないからな。この飛竜の定員は何名だったか?」
ロランの脳裏に一瞬嫌な記憶がよぎる。大雨と雷鳴の中、飛竜の鉤爪に捕まえられて暗い湖の上を飛んだ夜の記憶だ。サンドラもそれを思い出したのか、ふふふと楽しそうに笑って答える。
「三名は定員超過だけれど、一人がこのくらいの子どもなら、ぎりぎり全員背中に乗せられるわよ。貴方は私の後ろ。リコリスさんは前」
飛竜に何か話しかけながら大きな翼の端を触らせてもらっていたリコリスは、とても嬉しそうに頷く。ロランもそれなら文句ないと言い、話はまとまった。サンドラはいつものように軽々と跳躍して飛竜の背に乗り、下にいるリコリスを引き上げて前に座らせる。ここからどう乗ったものかと迷っているロランには、乗客は翼を階段代わりにしてよいという許可が下りたので、彼は恐る恐るそうする。飛竜は大人しくしていてくれた。出発前に、サンドラは乗客に注意を促す。
「重いから曲芸はしないけれど、ちゃんと掴まってて。物を落とさないように注意。すぐ拾えないかもしれないから」
ロランは以前偵察飛行でそうしたようにサンドラの腰に掴まりながら、触っても実在だったなと我ながらくだらないことを考える。背中が重いせいなのかいつもそうなのか、飛竜は三歩ほど地を蹴って進み、翼を広げて宙へと舞い上がった。
「飛んだ! 本当に飛んだ!」
リコリスが驚きと喜びの混じった声を上げる。リコリスを後ろから抱えているサンドラは、帝都で乗った空飛ぶリムジンを思い出して言う。
「もちろん飛ぶわよ。飛ぶようにできている翼があるんだもの。空気があれば飛べるわ。帝都でも空飛ぶ乗り物は珍しくないんでしょう? 私には、あれの方が不思議」
リコリスは「あんなの全然違うわよ。あれは日常で、これは非日常」と答えてから、首を傾げて言う。
「鳥みたいな可動式の翼で羽搏いて飛ぶんだったら、ものすごく大きな翼が必要になるんじゃなかったかしら。加速もしないですぐに飛んだわよね、今。滑走路が必要な飛行機とも全然違う。これも《反発》の力を使っているのかしら」
リコリスは空飛ぶ乗り物にいくらか詳しいらしい。サンドラはその議論に興味を惹かれたが、今は目下の目的を果たすことにしてこう返す。
「『夢から覚めたら』是非お話ししましょう。あの乗り物が飛ぶ仕組みには私も興味があるわ。『飛行機』とか《反発》についても教えて」
リコリスはうんうんと頷く。彼女は下の暗闇を見て言う。
「真っ暗なのが残念。でも、これはこれで夢っぽくて素敵」
リコリスは少し声を大きくして、一番後ろのロランに聞こえるように話しかける。
「ロラン! 狼は見つかりそう?」
ロランは緩やかに羽搏く見事な翼の造形から視線を外して前へ「まあちょっと待てよ」と答え、サンドラに質問する。
「もうだいぶ上がったか?」
サンドラは例の命綱とリコリスをしっかり捕まえなおして答える。
「感覚値ではまあまあね。地上に人間がいてもまだまだ目視できる高さよ。現在前方へ直進、迎角30度程度で上昇中。敵影なし。方角は無意味。どうする? このまま同じ方向へ上昇を続ける? 旋回に入るのはまだ早いかしら」
すぐに後ろから回答がある。
「目視できるぎりぎりまで上がってくれ」
ロランはまた翼の観察に戻る。リコリスがサンドラに言う。
「『生きたまま焼かれる』ってどんな感じかしら。昔ね、インディゲナはそうやって火あぶりにされたのよ」
サンドラは一時追憶に沈み、淡々と答える。
「焼死は嫌な死に方ね。死に方を選べるならあれは嫌だと思ったものだわ」
微妙な声の調子の変化から、リコリスは様々なことを想像する。想像してから、想像しなかったことにしてその諸々の内容をそっと片付けた。飛竜は更に高度を上げる。サンドラがロランに告げる。
「そろそろ、下に誰かいても芥子粒くらいになるわよ。上昇はやめてまっすぐ進む? 旋回する?」
ロランは先ほどからずっと漠然と上を見上げている。まだ半信半疑といった様子ながら、サンドラの問いには即答する。
「上ってくれ。できれば折り返して逆方向の上へ。もっと上だ。上がれるところまで上がれ」
サンドラは何も聞かず「了解」とだけ答えて指示に従う。リコリスは不安げな顔をするがやはり何も言わない。皆なんとなく上を見る。進行方向の上方遥か彼方、もっと上。飛竜は上昇を続ける。そのまま上がり続けたところで、サンドラがぽそりと言う。
「空気が全然変わらないわね。温度も。おかしな場所」
それに対してリコリスが口を開きかけたところで、ロランが冷静に言う。
「なんかに突っ込む」
状況がまったく掴めないながら、サンドラがとにかく反射的に反応しようとした刹那、飛竜は抵抗のない『何か』に突っ込んだ。正確には突っ込んだようだ。というのは、その点を境に周囲の景色ががらりと変わったからだ。辺りはもう真っ暗闇ではない。
暗闇ではないが既に日は暮れているらしい。定員超過の飛竜は、見渡す限り続く広大な枯野、丈の高い枯れ草が生い茂るすぐ上の低空にいた。高度が低いので地上の様子がよく見える。空には満月が浮かんでいる。何かの気配を感じながら、サンドラが抑えた声で一言だけ文句を言う。
「もっと早く言いなさいよ」
文句の矛先は当然、後ろのロランだ。ロランも辺りを警戒しながら言う。
「あのとき分かったんだから許せ。場所は正解だな。狼がいるぞ。どこだ。このまま追えるか?」
サンドラは暫し考える。考えて静かに話し始める。
「このまま全員乗せたままだと、いくらガリーナでも停止飛行ができない。そこまで無理をさせられない。ロラン、貴方、旋回する飛竜の上から、銀の弾を当てられる?」
ロランは状況を悟って正直に答える。
「まず無理だな。停止飛行って言ったって、それでも揺れるだろ。旋回するならなおさら無理だ。俺は降りた方がいいな」
それを聞いてリコリスが小さな声でなるべく主張して言う。
「降りたら狼にやられちゃうじゃない!」
ロランは一つ溜息をついて、リコリスとサンドラ二人に聞こえるように話す。
「あのな、一つ策がある。危なっかしい部分もあるがこれ以上の案を今思いつかないから話すぞ。俺は飛竜から降りる。リコリスは残れ。変身済みの人狼は子どもが好物だ。二手に分かれれば、狼はたぶんおまえ達の方へ行く。俺はこの目立つ翼を目印に追いかけるから、二人で空から狼を探せ。見つかったら、俺が追い付いてそいつを撃つまで、適当な場所に足止めしてほしい。その前に殺れそうなら殺れ。その場合、俺の見せ場はなくなるがそれまでだ」
この説明には一部嘘がある。人狼は、自分より強そうな相手——例えば明らかな体格差がある場合——には戦いを挑まない。今のリコリスは美味い獲物だが、飛竜の背にいればあえて狙われることはないかもしれない。サンドラ達よりも先にロランが狼に出くわした場合、狙撃手は戦力から失われる。リコリスはサンドラを振り返って見る。サンドラはロランの案に同意して言う。
「まあまあ現実的ね。この地形だと雷撃は使えないわ。野火が広がるから。狼を見つけたら、私も下へ降りる。降りるときに合図の信号を出す。ガリーナが旋回する中心点が狼の居場所。リコリスさんは、このままこの命綱を持って上にいてちょうだい」
戦う手段のないリコリスは頷くほかない。リコリスには聞こえないように、ロランはサンドラに早口で囁く。
「狼はたぶん飛竜から逃げる。逃がすな」
そのとき、進行方向の右側、松の木が二本と小川があった方角から、狼の遠吠えのような声が聞こえてくる。おそらくそれほど遠くない。これはただの狼だろうか? それとも目的の人狼か? 迷うまでもなく、ロランが鋭い口調でサンドラに告げる。
「あいつだ。近い。俺はここで降りるから追え!」
飛竜は音もなく枯野に急降下する。地面に充分近づいたところで、ロランはマスケットを右手に掴み、飛竜の背から飛び降りた。丈の高い枯れ草ががさがさと音を立てる。足を挫かなかったことに彼はほっとする。草の間から見上げるまでもなく、上昇する翼の風圧を感じる。飛竜にとって、サンドラは追加の重量には含まれない。重荷を下ろして本来の俊敏性をほぼ取り戻した飛竜は、これなら人狼が駆けても充分に追いつけるだろう恐るべき速さで目標へ向けて飛び出して行った。リコリスは大丈夫だろうかとロランは一瞬案じるが、そんなことを気にしている暇もなく、飛竜を追って駆け出す。かなり引き離されそうだが、目標は近いのでそのくらいで良い。邪魔な枯れ草は乾燥していて折れやすく、株と株の間にはいくらか間隔があるので、隙間を通るか踏み倒して先へ進む。身を隠せる草があるのは悪いことではない。獣の気配はすぐそこに近づいている。
飛竜が速度を上げて向かった先、遠吠えの聞こえてきた方向の、本当にすぐ近いところに獣はいた。サンドラは満月の晩の人狼の姿を見たことがない。エディがずいぶん前に話していた内容から、わりと人間に近い見かけかもしれないと考えていた彼女だったが、今そこにいるものには人の面影はほとんどなさそうに見えた。人の名残があるとすれば骨格くらいだろうか。頭部は狼に近い。黒か濃い灰色の毛に覆われていて、狼に比しても人間に比しても体格は桁外れに大きく、特に上半身の筋肉は肥大して盛り上がっている。サンドラの故国の地にも、似たような魔物がときに出没していた。それらにはとりあえずこちらの攻撃が通ったものだが、この生き物にも通じるだろうか?
前方に回り込んだ飛竜に相対して、その生き物は瞬時、躊躇いの素振りを見せる。低空に留まった飛竜が大きく翼を羽搏かせ、周辺の枯れ草を広範囲になぎ倒し平地を作る。狼が右手へ逃走する間際、サンドラはグレイヴを手に頭上へ合図の雷電を放ち、飛竜の背から跳躍し狼の眼前に降り立った。命綱をしっかり捕まえたリコリスを乗せて、飛竜は舞い上がり旋回に入る。
サンドラが夜空に打ち上げた小雷を見たロランは、それを合図と解釈し、そこからはなるべく音を立てず気配を殺して進んだ。飛竜が風圧で作った戦場の手前で立ち止まり、残った草陰から静かに様子を伺ってみる。サンドラはグレイヴの攻撃距離と機敏な体捌きを活かし善戦していたが、やはり相手にはほぼ損傷を与えられていない様子だ。襲い掛かっても捉えられず、中途半端な攻撃で行動範囲を限定してくる相手に狼は苛立ち、殺気立っている気配が伺える。旋回する飛竜とその上の芳しいご馳走の気配にも初め気を取られていたのが、今はもう目の前の女を噛み殺し引き裂いてばらばらにする衝動に的を絞って集中しているように見える。持久戦は危険だ。人狼は思いのほか狡猾で、満月の下では無尽蔵の体力を誇る。
ロランは装填済みのマスケットをもう一度点検し、音を立てないようにゆっくり藪の中に跪いた。やはり音を立てないよう、慎重に撃鉄を起こして銃を構える。的は絶えず動いている。銃の精度は基本的に悪い。頭か心臓を狙えれば一番良いが、まったく外してしまうよりは、どこかに傷を負わせた方が良い。身体の中心を狙おう、毛の生えた心臓か、さもなくば汚いはらわたに一発。サンドラを追って狼がこちらに背中を向ける。照準。そこだ。
引き金を引く刹那、ロランの耳元ではっきりと何者かの声が聞こえた。
「殺人鬼め」
内容よりも完全な不意打ちの声に心臓が跳ね上がる。はっと息をのんだその微妙な影響で銃身が僅かに逸れ、引き金は引かれた。銀の銃弾はサンドラを殴りつけようとしていた狼の左肩をかすめ、味方にはどうにか当たらずに、藪の向こうへ飛んでいった。まるで連動するように、サンドラの戦況も急激に劣勢に転じる。
狼の素早く力強い右腕の攻撃をいなしながら、サンドラは生涯で二度目の銃声を聞いた。何か恐ろしく速い小さなものが、風切り音を立てて彼女の頭の近くをかすめる。外したのかと思う間もなく、次の攻撃が脇腹を狙ってくる。大きな手、強い鉤爪。掴まれてもかすっても無事では済まない。グレイヴの柄で受け流し反転攻撃を仕掛けるつもりで反応したサンドラは、やはり謎の声を耳元で聞く。
「人殺し」
戦闘の最中で気が立っているサンドラはそれどころではない。彼女は反射的に叫ぶ。
「だから何なの」
それから、そう言った瞬間に生じた状況に愕然とする。またもや反射だけを頼りに、サンドラは狼から斜向かいに飛び退った。その手に頼みのグレイヴはなかった。なくなってしまった。消えてしまった。【雷霆】が消えてしまった。機を見た狼が彼女を噛み砕こうと突進してくる。それをかわそうとして、身体が固まる。狼は迫る。何故かという疑問が生じる前に、サンドラは彼女と意識の繋がっている飛竜、ガリーナを呼んだ。呼ばれる前にもう、飛竜はそれ自身稲妻のように彼女の元を目指し、狼の牙が到達するまでに己の身体が間に合わないと悟ったのか否や、そちらへ向けて雷を放った。
晴れた夜の落雷。乾いた枯野に閃光と轟音が轟く。狼は気絶し、どういうわけなのかサンドラも倒れ、枯草は燃え始める。飛竜はサンドラを後脚の鉤爪に捕まえようと急降下するが、急に力を失い、降下速度のまま落下して、接地前にすっと消えてしまう。地に叩きつけられて動けないリコリスの耳元で、謎の声が響く。
「君も裁かれるよ」
ロランがどうなったのかは、リコリスの倒れている場所からは確認できない。にわかに風が吹き始め、燃え広がった炎はもうすぐそばまで迫っている。リコリスは、旧大陸時代の祈祷書の一節を思い出して、瞼を閉じる。
天地は動転し、炎もて裁く者来る
「これはこの世の終わりの夢だわ」




