XX. Lavandulae
明るい夜の会合は、【交霊会】の開催が決定して間もなくお開きとなった。それぞれにあてがわれた部屋の鍵が渡され、少々の実際的な説明が付加され、端末の用意は今日間に合わなかったので明日受け渡しとなる旨がお詫びの言葉とともに告げられる。参加者はそれぞれに思い思いの場所へ散る。
客室の鍵が配られる際、シルキアが妙におとなしいエディを指して、不思議なことを言った。
「眠っているうちに誰か連れて行ってあげて。わたしがいないところに」
エディはただ前を見てぼんやりしているだけで何も言わない。ユレイドが「満月のせいでしょうか?」聞くと、シルキアは頷く。
「わたしを遮れば大丈夫。エレメントが漏れているの。気が付かなかった」
魔女のミラベルはそれを聞いて、このふわふわした微かな陶酔の気配が『月のエレメント』の気配かと一人納得する。シルキアはさらに「眠っていても話しかければ歩くから」とも言うので、どうやらエディは起きたまま眠っているらしい。案内役を名乗り出たユリアと興味本位のテオドロスに導かれてエディが出てゆくと、シルキアはほっとした様子で、すぐ傍にだけ聞こえそうな声で呟く。
「なんだか変な感じ。なにかいる。あれは誰?」
すぐ傍で聞いているジャンは同じように、すぐ傍にだけ聞こえそうな声で答えた。
「誰でもいい。そのうち分かる」
ロランはリコリスに手を取られて下層のどこかへ消えようとして、なぜか護衛のレガートから何かこっそり紙切れを渡されている。「先人から忠告」だそうだ。ロランは片手でその紙片を開き、中に走り書きされた一文に目を通して、リコリスに覗かれる前にさっと丸めて懐にしまう。リコリスに「なあにそれ?」と聞かれたロランは、「何でもない」の後に「仕事の話だ」と続け、詮索を遮断する。
ミラベルとサンドラは、遅い晩餐は『ルームサービス』とやら試してみようかと話し合いながら、それぞれの部屋の鍵を持って廊下を歩いている。ホテルのルームサービスがこのフロアの客室でも使えるそうだ。ユレイドはこのように話していた。
「会計は経費ですので、なんでもお好みのものをどうぞ。こういうのはテオに聞いた方が気の利いた回答が返ってきそうなんですけれど、ここの料理はなんでも美味しいですよ。よそからいろいろな食材を持ってこられるし、ここだけの話、ユリウスの領域ということで省エネルギー体制下でもここは特別扱いです。昔からそうで、ええ、あんまり褒められた話じゃないんですが、ここは今のところそういうどうしようもない国です」
現状について憂えるのか開き直るのか、食えない無難な表情で述べたユレイドは、国内でまた何かまた別種の緊急事態が発生したということで、秘書と護衛を連れて慌ただしくどこかへ消えた。
ミラベルは、部屋の鍵として渡された金属板に刻まれた文字をしげしげと眺め、隣を歩くサンドラに言う。
「これ数字かしら。あたしが元いたところの数字の形は、あんまり必然性がなかったんだなって、別のを見るようになって気がついた。この表記法はどうかしら。さっき聞いた部屋番号は41-ν16だから、この字が……」
サンドラはその様子を見て改めて不思議そうに言う。
「数字の読み方は同じで、文字だけ違うってこと? 数字以外の書き言葉まで違うようなら面倒ね。そういえば、デイレンの伯爵様のお家で読んだ王宮からの書状、あれね、ロランは読めなかったって言うのよ」
ミラベルは本人の自覚なく苛々しながら言う。
「読めなかっただけでしょう」
ミラベルが苛立つ様子がなんだか可愛らしかったので、サンドラは表情を和らげて続ける。
「さっき手紙もらって読んでいたじゃない。あれは読めるのに、デイレンの方は読むつもりで封を切っても読めなかった。私が読み上げれば、そのまま理解できたのに。不思議ね」
まあいいわと言い、サンドラは濃茶の木のドアの前で立ち止まる。彼女に渡された鍵の客室だ。言われた通りにドアの脇の金属板に鍵をかざすと、軽い音がして解錠される。長く使われていなかった部屋だそうだが、いやそれだからなのか、中は片付いていて調度も整えられている。ミラベルの部屋はこの隣だ。ミラベルも自分の部屋の扉に鍵を翳し、少し中を覗いてから、適当なところに荷物を置き、サンドラの部屋へ行く。サンドラは部屋に着いてすぐ浴室を覗いたらしい。狭間の城のものと似た仕組みのようだ。推測通りの手順で湯が出ることを確認して喜んだのち、「広いわね。一緒に入る?」とサンドラに言われ、ミラベルは慌てて断る。
「広くたって、シャワーは一つしかないじゃない。片方は暇するでしょ!」
あまり真面目に考えて発言しなかったサンドラは、まっとうな意見に「そうねえ」と頷き、「じゃあ、ひと風呂浴びて着替えてから、またこっちの部屋に集合」と言ってミラベルを送り出す。
自分の部屋でシャワーを浴びながら、ミラベルは軽く後悔し、それからこうも思う。自分は呑気だ。全然知らないところに来て、考えるのは食事やお風呂のことで、サンドラが言うことになんでか動揺して、先のことの心配なんか、全然していない。もっと言えば、明日の【交霊会】についてなど、どんなことが起こるのか、楽しみにしてさえいると思う。初めからこうだっただろうか? 狭間の城に来たばかりのころは、もう家に戻らなくていいことがただ嬉しかったし、よく分からない【探索】の旅が始まったばかりのころはどうかと言えば、やっぱり同じで、どんなことになっても家に戻るよりはよっぽどましだという思いしかなかったかもしれない。デイレンでサンドラと一緒に捕まって、牢屋に入れられたときでさえ、家にいればよかったなんて少しも思わなかったばかりか、ここでは誰かが何とかしてくれると期待してさえいたと思う。
誰かが何とかしてくれる、という発想は、ミラベルにとって実は新鮮な感覚だった。もちろん、裕福な貴族の娘だったので、実家にいた時分も身の回りの世話などは使用人達に任せきりではあったのだが、彼女にはその自覚はない。何とかしてくれる誰かとは誰のことだろうか? 怪しげな『旅の仲間』? そこまで考えて妙に愉快な気持ちになってくる。【探索】の参加者は、自分だけでなく皆呑気だ。誰も先行きについてまともに深刻な心配をしていなさそうに見える。きっと周りが変に呑気だから、焦ったり、不安に思ったりする気持ちがミラベルにも生々しく迫らないのかもしれない。そういう呑気さで言えば、王様夫妻は特に圧巻だ。腹の立つこともあったし、あそこまで人を食った態度もどうかと思うが、今やあの調子は見ていていっそ爽快だとも思う。王様が外部の誰かに意地悪を言うとき、心中密かに楽しんでいる自分を、ミラベルは否定できなかった。
「あたしって嫌なやつね」
ユレイドは本気で困っている様子だったし、彼の話が本当ならそれは本当にまずい一国の危機のはずで、そんなときにそうやって面白がっているのは、真面目に考えれば相当不謹慎な態度のはずだ。帝国の最高顧問というのはどういう地位なのだか、そういえば誰も確認していない。帝国だというのに、皇帝陛下の名前や人となりさえ話題に上らなかったのではないか。ロランの『仕事の話』というのは何のことだろう。きっと何かろくでもないことに違いない。ロランはあの馴れ馴れしい女とどこかへ消えたのだろうか。エディはここに着いてからずっと黙っていたが、今日話された内容を全然聞いていなかったのだとすれば、誰かが初めからもう一度説明することになるのだろうか。
そういう諸々をこれからサンドラと話せるわねと思いながら、ミラベルは浴室を出ることにする。備え付けのバスタオルで身体を拭いて、くるくる縮れた長い髪をいつものように乾かし、着るものはどうしようか少し迷ってから、比較的装飾が少なめの意匠の、着心地のいいドレスに着替える。もう遅いらしいので寝間着でも良いかと一瞬考えたが、これからサンドラと食事をするので、少しはお洒落をしたい。ただし相手が寝間着だった場合、かえって決まりが悪いかなとも思い、「これ、寝間着よ」と言い訳できる余地を残したくて、比較的質素な服を選んだつもりだ。あくまでもつもりで、しかも相手はそこまで見ていないような気もするのだけれど、それでも気持ちの問題は大切だと、ミラベルは思う。
備え付け端末の言語切り替え選択肢の中に二人の見知った言語はなく、料理も見覚えのないものばかりなので操作は難航したが、画像が豊富だったのと、ミラベルが見つけた音声読み上げ機能のおかげで、どうにか適当なものを注文することができた。やはり見覚えのない文字の言語でも、読み上げられたものを聞けば二人とも理解できるらしい。不思議な話だが、それ以上追及するすべもないので、「それってすごく変」と言い合うだけで、言語問題は不問となる。飲み物は知っている名前が多かったので、サンドラが酒類を適当に選んだ。ワインを何種類も頼もうとするので心配になったミラベルが「そんなにいるかしら」と止めると、サンドラは意外そうな顔をして「足りないかと思った。これだけなら、ぜんぶ私がもらってもいいから」と言うので、ミラベルはデイレンでの宴席の様子を思い出して言葉を飲み込む。
暫くして給仕が料理を乗せた台車を運んでくると、ふわりと美味しそうな香りが部屋に広がる。給仕は部屋の机に純白のクロスを引き、適当な位置にカトラリー類を並べ、運んできた料理を一皿ずつ丁寧に、手際よく並べる。繊細な盛り付けの品が多い。いかにも美味しそうだが盛られている料理の量は概して少なめで、その割に皿が幅を取っている。一品ずつ給仕される形式ではないようで、それほど広くもない卓の上はすぐに食器で一杯になる。酒類は食前酒のグラスを除き、卓に乗り切らないためか別の小机にまとめて並べられる。予備のグラス類も小机の上だ。すべて並べ終わると、給仕は二人に「御用の際は端末からお申し付けください。お片づけは端末からご用命いただくか、ルームメイキングの際にまとめてさせていただきます」と告げ、一礼して去った。ここまでほとんど時間がかからなかったので、温かい料理は温かいまま、スープには湯気が立っている。二人は食前酒のクラスを取り、軽く合わせて乾杯をする。甘い酒の炭酸を味わいながら、ミラベルはほっとして言う。
「付きっきりで給仕してくれる形式じゃなくてよかったわ。ここのお作法が分からないもの」
食前酒を飲み終わったサンドラは、並べられたカトラリーを見て言う。
「ミラベルのおうちでも、食事の道具が何本も出てきたの? 料理によって使い分けるのよね、確か」
ミラベルはうんざりした顔で頷いて、「肉の切り方にまでお作法があるのよ」と文句を言い、適当な匙を手に取ってまずは温かいスープに手を付ける。さらりと澄んだ色のスープは、快い香りの期待通り、とびきり美味しかった。
料理はどれも素晴らしかった。材料の分からないものも多々あったが、味の前には些細な問題だ。もしも人肉が入っていたって、別にいいわとミラベルは思う。もう少しこってりしたものがあってもよかったかしらとサンドラは思う。酒も旨い。ミラベルはふわふわと酔っぱらったまま、ふと席を立ち、先から気になっていた本棚を見に行く。もう夢の中のようで足取りが危なっかしい。棚は飾りではなく、厚さも高さもばらばらの書籍が棚の幅いっぱいに雑然と詰め込まれている。背表紙の文字は見慣れないものばかりだ。ソファーでくつろいでいるサンドラが背後から声をかける。
「読めるもの、ありそう?」
ミラベルは色とりどりの背表紙を端からなぞり、回らない頭で「たぶん駄目。ドラはもう見た?」と質問を返してみ、さらに探索を続ける。そうだ、これも探索だ。背後から「まだ見てない。どれ」という声が返ってくる。サンドラはグラスを置いて立ち上がり、ミラベルの横へ来て一緒に棚を覗きこむ。書架の本の紙の匂いと、そして隣からなんとなく甘い香り。なんだかいい香りがするのよねと、二人は同時に思う。と、ミラベルの人差し指が青い背表紙の上で止まる。「あ、これ——」と驚きの言葉も漏れる。ミラベルは、背表紙の銀文字を読み上げた。
『悪夢の考察と人狼の殺し方』
読めないサンドラは「へえ」と感心してから、思案顔で言う。
「悪夢についての考察なのか悪夢のような考察なのか、人狼を殺す方法なのか人狼が殺すやり方なのか、分からないわね」
ミラベルは「両方かも」と言いながら本を引き出して手に取ってみる。本棚には入るだけぎりぎりに本が詰め込まれていたので、引っ張り出すのに苦労した。見たところ布張りの小型の本だ。ミラベルの片手より少し大きい。本をしげしげと眺めるミラベルに、サンドラは尋ねる。
「それ、今から読むつもり?」
ミラベルははっとして答える。
「もう寝ないと駄目よね。もうずいぶん眠いし」
サンドラは頷いて、「じゃあ寝ながら読みましょう」と、分からないことを言う。ミラベルが首を傾げると、サンドラは部屋のベッドを指してこう言うのだ。
「あそこで寝ていいから、本当に眠ってしまうまでその本を読んで聞かせてよ。私はそれを聞きながらもうちょっとぼんやりするわ。最後の瓶を開けちゃったし、私もそろそろ寝るけれどね」
ミラベルは驚いて聞き返す。
「ここで寝ていいの?」
サンドラは「広いから大丈夫でしょ」と言ってから、涼しいグレーの目を少し細めて付け足す。
「掛け布団、取らないでね」




