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Le Château du Mirage  作者: Cecile.J
開幕
2/43

I. Le Vampire

——夜が明けた。

 少年は——エディは、自分がいつ眠ったのかどうかよく分からなかった。とりあえず、夜があり、その夜が明けた。気がつけば今は朝だ。エディは来たときの服装のまま、広いベッドの上にいた。ずいぶん明るいなとベッドの上から部屋を見回すと、明るい空が見える広い窓がある。外の様子が見たいと思って起き上がり、靴を履いて窓のそばまで近づいてみると、窓には木枠で区切られたガラスが張られている。こんなにたくさんガラスを使うなんて、やっぱり贅沢だなと思いつつ、その両開きの窓を開けてみる。入ってきた爽やかなそよ風が頬を撫で、少し伸びすぎた濃い灰色の髪を揺らした。窓の外は快晴である。下には深い森が広がっている。

 そのままぼんやりしていると、なにか黄色い大きなものが空をさっと通りすぎる。まったく見覚えのないものだったのではっとして外をじっくり見なおしていると、翼のある竜、鮮やかな黄色の飛竜が、森の上の空をつむじ風のような速さでさっと飛んでゆくのが見えた。飛竜はくるくると旋回し、ときどき雷のような光を吐く。すると竜の身体が帯電してぴかぴかと輝く。あっけにとられてぽかんとして眺めていると、飛竜は少しずつ速度を落とし、背中に誰かが乗っているのが見えた。黄色いコートを着た何者か。間違いなく人である。それでは、あのなにか光るのは、雷ではなくて他のなにか魔法なんだろうか、雷の光にあんなに触れたら、あんなに平気そうにしていられないんじゃないだろうかとエディは思う。それから、いや、なにがあってももうおかしくなんてないよなと思いなおす。そもそも竜など見たことがなかった。昔、話に聞いたことはあった気がする。だから竜だなと思ったのだ。もしかして違うのだろうか。もし違ったとしても、あのぎざぎざの大きな翼と強そうな首、長い尻尾は、聞いた話にぴったりだった。晴れた大空を駆け抜ける、輝く飛竜の姿はとても美しいと思う。物語のような情景にしばらく見とれていると、飛竜はそのうちまた視界から外れ、もう戻っては来なくなった。

 なんだったんだあれと呟きながらも、エディは残念な気持ちになる。もっと見ていたかった。しばらく夢うつつのまま名残惜しく佇んでから、窓を閉め、もう一度部屋の中を見回してみる。部屋の中には、どっしりとした調度類の他に、扉が二つあるのだ。一つはゆうべ入ってきた扉。もう一つはまだ開けたことのない扉。両方とも似たようなこげ茶の木の扉で、意匠もほぼ同じだ。もう一つの扉の先が気になり、エディは近寄って扉を開けようとしてみる。ゆうべ女中がしていたように、ドアノブを掴んで右へ回しながら押してみる。ドアノブを回すとがちゃりという音がし、押すと簡単に扉が開いた。扉の先は、壁にも床にも同じ象牙色のタイルが張られた小部屋で、奇妙なものが色々とあるのが見える。ちょっと手に負えなさそうだなと思い、エディはその扉を閉める。そして、なんでこんなところにいるのだろうと改めて思う。ゆうべはなんだかわけが分からなかった。そして彼はまだ、このわけの分からない、ただ妙に懐かしさを感じる城の中にいる。ゆうべは色々なことがあった。自分は亡霊を見たのではなかったか。魔法も見た、と思う。あの陰鬱な魔術師と美しい娘はどうなったのだろう。夢のように美しかったあの女の子。ぜひもう一度会いたい。あの子には嫌われてしまったのだったか。いや、なんだか、もっとものすごく嫌なことがあったような気がする。なにか、自分の能力を超えたどうしようもない問題という感覚。だが、肝心なその問題の内容が、どうしても思い出せない。思い出したら破滅しそうな予感すらある。

 「エディ、だめだ。とりあえず落ち着こう」

 長年ひとりでいた癖で、心の中の自分に話しかける。少しずつ頭の中が片づいてきた。今なにかまずいことがあるとしたら、それはきっと、「自分の置かれている状況を全く理解できていないこと」だろう。理解とはまったく言えないのだが、なにかうまく言えない納得感のようなものは、心の奥底にぼんやりとあるような気もする。この納得感ははっきり言って少し曲者だった。真剣に考える気がなくなるもやのようなものだ。しかし、なにもかもすっかり飲みこんでしまうには、すべてがあまりにも奇妙で、不可解で、「情報が足りない」。ここまで考えたところで、エディは部屋の外へ出る決心をした。なすべきことは決まっている。まずは情報収集だ。この場所の様子をひととおり調べてから、あの女の子の部屋を探そうと思う。ここの様子を聞けそうな人物を、エディはあの子の他に思いつかなかった。ゆうべエディにまったく気づいていなさそうだった例の魔術師に、覗き見したことを知られるのはどうもまずそうな気がした。なんとなく怖いことになりそうな予感がする。また、亡霊めいた半透明の使用人が昼間もあたりをうろつけるとしても、ゆうべの様子を鑑みる限り、やつらから聞ける話はたかが知れているだろう。あの子だってまともな人間ではないのかもしれないが、そういうことはエディが言えたことでもないし、少なくとも今までに見かけた他の者たちよりは話が続きそうではないか。色々と御託を並べてはいるが結局のところ、自分はあの女の子にもう一度会いたいだけなのかもしれないとエディは思う。心になにか引っかかるものがなんなのかは少し気になるが、本当にあの子は、夢のように美しく見えたのだ。

 重たい扉を開けて出た部屋の外の廊下は薄暗い。突き当たりの小窓から、外の光が申し訳程度に差しこんでいる。小窓から少し離れると、蝋燭の明かりのみの夜とほぼ変わらなくなってしまうようだ。廊下には扉が並んでいる。ほとんどの部屋には鍵がかかっていないようで、おそるおそる、音を立てないようにそっと扉を押してみると、簡単に中を覗くことができた。どの部屋にも人の気配はなく、なにもかもが大きくて、重厚で、立派だ。ゆうべの印象だと、この建物の中はとても広そうだ。扉に名札があるはずもなく、これではあの女の子がどこにいるか探すのは難しそうだなとエディは思う。探検がてらあちこちの塔や棟をまわって、行きあたりばったりに探す他なさそうだ。

 そこでエディはまた、すんでのところでひっくり返りそうになる。目の前にいつの間にか、ゆうべ会ったような半透明の女中が立っていたのだ。ゆうべと同じ相手なのかどうかはよく思い出せない。ただ、たった今まで、そこには誰もいなかったはずなのに。

「ロンバート様。なにかをお探しですか」

 驚いているエディをよそに、彼女は色彩のない声で尋ねた。勝手に部屋を見て回っていたエディは、悪戯を見とがめられた子どものように、内心おどおどしながらそれに答える。

「ええと、あの……。かってに歩き回ってごめん。その、おれはゆうべの女の子に会って話を聞きたいんだけど。どの部屋にいるか分かるかな」

 たぶん答えてもらえないだろうとは思いつつ、聞いてみる。女中が答える。

「誰も通すなと承っております」

 お答えできませんではなく誰も通すなかと、エディは少し意外に思う。勝手に部屋を見て回っていた言い訳にしても、あの女の子のことはむしろ黙っていた方がよかったかもしれない。エディは別の質問をしてみる。

「あ、そう。やっぱりな。君にそう言ったのが、ここの主さんなのか?」

 女中はきっぱりと答える。

「ここに主はおりません」

 エディは彼女の虚ろな煙色の瞳をまともに見てしまい、それ以上の質問をする勇気がなくなった。こういう幽霊みたいな相手はやっぱり苦手だと思う。エディが気圧されて黙っていると、女中は意外なことを聞いてきた

「指示を解除なさいますか」

 相変わらず無表情で、感情の読めない声だ。

「解除?」

 とエディは聞き返す。誰も通すなという何者かの指示のことだろうか。そんなことをして大丈夫なのだろうか。面食らっていると、女中は同じ問いを詳しくして繰り返す。

 「あなた様がお求めのお部屋は、ハルトラード様のご指示によって閉ざされています。ハルトラード様の指示を解除なさいますか」

 ハルトラードと言うのはあの魔術師の名なのだろうか。ゆうべはうまく聞き取れなかったと思った、あの女の子が初めて口にした言葉は、どんな名前だっただろうか。そうだあれはきっと名前だった。エディの頭が酷く痛み出す。エディは頭痛にぼんやりとしながら、どうにでもなれという気持ちで女中の問いに答える。

「解除してくれ」


 渡り廊下の一つを通って別の棟へ渡り、さらに階段をいくつか上って歩いた先の部屋の前に着く。両開きの扉には、複雑な見かけの錠がついている。鍵穴もなく、どうやって外すのかエディには分からない錠だ。女中が錠に手をかざすとがちゃりという音が三度ほどした。錠が開くと、女中は一礼して消えた。文字通りふわっと跡形もなく消えてしまったのだが、エディはもう驚かなかった。真鍮製のノッカーで扉を叩く。返事はない。更にもう四回。やはり返事はない。あきらめるのが普通だが、エディは、なぜか扉を開けてしまう。魔法の力に操られるように。

 ベッドの端に腰掛けていた少女は、怯えたように彼の方を見る。寝間着なのか白い薄物の長衣をゆるりとまとい、きらきら輝く銀色の髪もまとめずに肩に流している。やはりとても美しく見えた。彼女はエディに一言問う。

「誰」

 なんて甘美な声だろうと、エディは思う。彼は、おとぎ話に出てくる妖精、森で死にかけの狩人に見つかり戸惑う妖精を連想した。ぶしつけに寝室に侵入した手前、今さらあわててもしかたないのだが、なるべく怖がらせないようにと急いで挨拶をする。

「驚かせてごめん。あのさ話が聞きたくて、どうしても君に会いたかったんだ。触らないし、絶対になにもしないから安心して。俺はエドガー・ロンバート。エディだ。おれのこと、覚えてない?」

「エディ?」

 神秘的な黒い宝石のような瞳だ。彼女はその瞳でエディをじっと見て、少し首をかしげる。思い出せないようだ。エディは聞く。

「ゆうべ、あの黒い服着た魔術師のところに君が現れて……。あの場におれもいたみたいで。ごめん、やっぱおれなんか見てなかったよな。君は倒れてたけどもう大丈夫か?」

 と言うと、少女はさらに不思議そうに言う。

「あれはゆうべじゃない。もっと前。あと、あなたのことは分からない。なんでいたの?」

 エディは分からないと言われたこともがっかりしたが、あの出来事がゆうべではないということにもっと戸惑った。自分はそんなに長く眠っていたのだろうか。「どのくらい前だった?」と聞くと、少女は分からないと首を振ってこう言う。

「分からないけれど、何回も起きて眠って、明るくなったり暗くなったりしたから」

 エディが聞く。

「昼と夜の数を数えなかったのか?」

 少女は答える。

「眠ったり起きたりで分からない」

 エディはそれを聞いて、自分のことをよそに、少女のことが心配になって聞く。

「身体は大丈夫なのか? もしかしてどこか悪いのか」

 少女が答える。

「どこも悪くはないと思う。ただ、大切なものから離れて悲しいの。身体に力が入らなくて、とても疲れた」

 そう言って少女は、悲しそうに俯いて首を横に振る。本当に悲しそうなので、エディは自分までとても悲しくなる。深く尋ねるのはやめることにして、少女に名前を問う。

「君の名前は?」

 少女は答える。

「シルキア。王様がつけてくれた名前」

「王様?」

 とエディが聞くと、シルキアがこくりと頷く。エディはさらに質問する。

「君はどこから来たんだ」

 シルキアはなにか不思議なことを聞かれたかのように答える。

「どこから……? 分からない」

 エディは驚いて聞く。

「何も? ここに来る前にどこにいたのかとか……何も覚えてないの?」

 するとシルキアは逆に質問を返す。

「どうしてそんなことを聞くの?」

 答えたくないというよりは、質問の意味、意図ではなく意味が分かっていないような口ぶりだ。エディはこの話はやめにすることにして、質問を変える。

「ごめんな。おれが変なこと聞いたかも。ここにいて退屈しないか?」

 シルキアは首を横に振る。

「いいえ。色々なことが、頭の中に流れ込んでくるから」

 それからシルキアは、「ねえ、エディ」と名を呼んで彼に話しかける。少し不安げな期待のこもった表情でじっと見つめられ、エディの胸は高鳴った。シルキアは、どうしても知りたい様子で彼に尋ねる。

「あの人はどこにいるの?」

 エディは、一度おさまっていた頭痛がぶり返すのを感じる。エディは聞く。

「あの魔術師のことか?」

 たしかに、あいつならなにもかも知っているのかもしれない。だが、あの男のことは、今はあまり考えたくないとエディは思う。あれはきっと不吉な相手だ。直感でどうしてもそんな気がする。だが、魔術師と聞いてにこりと微笑んだシルキアは、そんな悪い予感など微塵も感じていないらしかった。シルキアは答える。

「あなたはそう呼ぶみたい。黒い目と黒い髪の人。わたしを暗がりから引きあげてくれた。円の中で、一度だけわたしを見た。でも、あの人はそのまま倒れて」

 そこまで言って、表情を曇らせる。

「ねえ、あれからどうなった? わたしがここで、眠ったり起きたりしている間に」

 シルキアはもう泣き出しそうな顔だ。エディがそれをゆうべの出来事だと思っていたことは、もう忘れているらしい。エディはゆっくりと言葉を選んで話す。

「おれが知ってるのは、君が倒れてどこかへ運ばれてゆくところまでだ。魔術師もどこかへ運ばれて行った。

それからどうなったのかは、おれにも分からない。おれはそれが昨日の出来事だと思っていたくらいで、たぶん、眠ったり起きたりの君よりずっと長く眠っていたんだと思う」

 それからエディはシルキアに聞く。

「そいつのことがそんなに気になるのか?」

 シルキアは、こくりと頷いて、ぼんやりした口調で呟く。

「夜になったら、きっと来てくれる」

 それを聞いて、エディはひどく動揺する。思わず語気を荒げて聞く。

「夜! 君それどういう意味か分かってる?」

 エディは言ってから後悔する。夜は魔性のものの時間だ。もともと勘が鋭いとはいえ、変な深読みのし過ぎだと思う。他人の事情に関わるのもよくない。魔術師がこの娘をどうしようが、自分には関係のない話だと思う。怪しげな魔術の材料にでもされるのか、慰みものにされるのか。それは考え過ぎだろうか。それでも、シルキアを見ていると、そういう予感を拭えない。シルキアは驚いたようで、きょとんとして聞き返す。

「夜だとなにかいけない?」

 言えないエディは謝ることにする。

「いやごめん。なんでもない。なんか勘違いした」

 エディはなんとなく罪滅ぼしのような気分で、こう提案する。

「じゃあシルキアもここに来るのは初めてなんだろ? おれもそうなんだ。部屋の外に出ないか? ここにこもりきりより——」

 言いながらエディはあるものに目をとめ言葉をなくす。シルキアの細い左足首には、銀色に輝く鎖があった。鎖の端は寝台の脚へつながれている。


【囚われた娘】


 急に黙ったエディを見あげてシルキアはその視線を追い、不思議な顔をして足元へ目をやる。

「エディ。これがどうかした?」

 まったくなんでもなさそうに尋ねるので、エディはどうしようかと困惑する。迷った末、「どうかしたって、これじゃ監禁じゃないか」と言うと、シルキアはにこにこしたまま、なにも答えない。エディは思わず問い詰める。

「ずっとこのままだったのか? 誰にやられたか分かってるのか?」

 聞かれてもシルキアはやはりなにも答えない。エディはシルキアに近づき、跪いてその鎖に触れる。材質を知り、ほんの少しだけひやりとする。銀だ。鎖は混じり気のない純銀で出来ていた。悪趣味なことをするなとエディは思う。昔聞かされた話のせいで、エディは銀製のものが苦手だった。ある一つの場合だけ、純銀は彼にとって致命的になる。純銀製の鎖はとても柔らかいはずだがなぜか頑丈で、連なる輪にはつなぎ目がまったく見当たらない。エディはなんとか外せないかと考える。簡単には切れそうもないし、足首にぴったり嵌っているのでそのまま抜き去ることもできないようだ。こんな細い純銀の鎖をどうやってこんなに頑丈にしたのか、製法も、つないだ方法も、エディには皆目見当がつかなかった。

「きっと魔法の鎖だと思うの」

 寝台を持ち上げようとして断念したエディに、シルキアが軽く言う。たしかにそうとしか考えられないなとエディも思う。エディはシルキアの呑気な態度にますます混乱して聞いた。

「シルキア、君はこのままじゃまずいとか、どうにかしようと思わないのか?」

 シルキアはやはり不思議そうな顔をして聞き返す。

「どうして?」

 部屋の中を沈黙が覆う。エディは無駄だと承知しつつも、シルキアに問わずにいられなかった。

「君は何者なんだ」

 シルキアは、どこかぼんやりと遠くを眺めるような目をして、答えた。

「誰にも分らない」


 エディは結局、煙に巻かれたような気分のままシルキアの部屋を後にした。扉を閉めて、これからどうしようかなどと考えながら歩き出すと、またあの女中が目の前に現れて尋ねる。

「ロックは?」

 エディはくたびれた様子で「しておいてくれ」と答え、少し考えてから付け加える。

「できれば誰も入れるな」

「かしこまりました」

 女中は会釈して扉に鍵をかける。エディは、鍵をかける様子をしばらくの間眺めていた。女中は手をかざすだけで、ほとんど触れていないように見える。施錠が終わると、女中はやはり、空間に溶けるようにすうっと消えていってしまう。ゆうべ、エディを部屋に案内したときには、もう少し長い間姿があったようだが、昼間だと存在できる時間が短くなるのだろうか。

「おれはやっぱり怒られるのかな」

 そんな言葉がなんとなく出る。もちろんひとりごとであり、答える者はいつもの通りどこにもいなかった。


 それからどこをどう移動しただろうか。エディはもうよく覚えていない。気がつけば彼は、天国までつながっていそうな、長い長い石の螺旋階段をぼんやり上っていた。様子の分からない場所でとりあえず高い所に上ってみたくなるのは人情だろうか。ところどころに空いている小さな小さな窓から、青い空がのぞき、外の光が漏れている。いつか見た夢だろうか。エディはやはり、こんな景色を以前にも見たことがあるような気がした。


【既視感】


 生暖かい空気。頂上はまだだろうか。ゆうべ、亡霊に連れられて下った大きな塔よりもずっと狭く常識的で質素だが、高さはそれよりもずいぶんありそうだ。何度か階段に座って休み休み、エディは上を目指してゆく。喉が渇いたような気がする。だが気のせいかもしれない。そういえば、起きてからなにも食べていない。最後に食事をしたのはいつだっただろうか。いつもなら、もっとひどい空腹を感じていいはずだ。どこまでが夢で、どこまでが現実だろうか。

 音楽が聞こえる。柔らかい、だが澄み切った分散和音。もの悲しい撥弦の調べ。それは天上から響いてくるようだ。「おれは死んだんだな。おれはもうとっくに死んでいて、今この階段で、天国へ上ってゆくんだ」とそんな妖しい気分にさせられる。重たい身体の疲れも忘れ、エディはどんどん上ってゆく。見晴らしのいい塔の頂上にようやく辿り着いたとき、あたりがすっかり夕暮れでも、エディはさして驚かなかった。

 無数の塔が聳え立つ巨大な城郭、それを取り囲む広大な森林。落ちてゆく夕日。見渡す限りが茜色に沈んでゆく。揺れる楽の音と日没の情景の幻想的な調和。まさに『凝る血の中に溺れる夕日』だ。エディが上ってきたこの塔は、この城郭の中でも高い方の塔だったように見える。音楽は、太陽の沈む方角、ここと同じぐらい高い塔のある方から聞こえてくる。ここからそこまでは目測でもとんでもない距離があるはずなのだが、はっきりと聞こえる。満月まではまだ遠いので、この音は聴力ではない、なにか別の力によって知覚されているものかもしれない。しばらくの間、エディはその音色に聴き入った。聴きながら考える。おれはどうしてここに来たのだろう。なぜ、こんな城の中にいるのだろうか。昨夜以前の記憶は、ひどく曖昧で、まばらで、むしろそちらが夢のようだった。住んでいた村はずれの小屋は覚えている。そこで一人で生活していたことも。いつかの両親の顔も覚えている。そのときは。その前は。夏の森と、黒い影、輝く満月、泣いている両親。獣のにおいと、鉄臭い錆のようなにおいがよみがえり、エディは身震いした。どこから来たのかどこへ行きたいのか、この不思議な音楽にはその秘密があるような気がする。それはきっと、気のせいなのだけれど。

 自分のことを思い出そうとするのに飽きると、エディはシルキアのことを考えた。豪華な部屋に閉じ込められた月のニンフ。銀の足枷でさえ、美しさを引き立てる装飾品のようだった。エディは彼女の微笑んだところを、話した声を、思い出してみる。彼女が円の中で呼んだ名前が、おれの名前だったらいいのにとも思う。空想をするうちにもあたりの景色は移り変わってゆく。血のように赤い西日がすっかり沈んでしまうと、辺りは闇に覆われた。上弦の月と、星々が夜空を支配する。それはそれで美しい光景だったが、音楽はいつのまにか聞こえなくなっていた。


 そこからどう歩いたのか、エディにはやはり思い出せない。夢うつつがずっと消えないまま、いつのまにかまたどこかの廊下を歩いていて、元の部屋にはどうやって戻ろうかとぼんやり考えていると、すっと首筋に悪寒が下りる。これは風邪をひいたんじゃなくてなにか嫌なことが起こるなと思うと、誰もいなかったはずの前方に誰かが立つ。例の幽霊たちではない黒い影。そこにはあの不吉な魔術師がいた。エディは自分の心臓が凍ったと思う。もっと冷ややかな声が下りてくる。

「狼よ、どこへ行くのか」

 エディは震えがくるのを抑え、答える。

「自分の部屋に戻りたいだけだ」

 魔術師は低く抑揚のない話し方で聞く。

「ひとの寝室を覗きに行くのではなくてか?」

 ばれているなとエディは覚悟する。とりあえず謝ることにする。

「勝手に入ったのはおれが悪かったよ。鍵がかかってたからな」

 でも——と、エディはどうしても言わずにはいられない。本当は死ぬほど怖い。なにをされるか分からないと思う。どんな拷問でもやりそうな雰囲気を、エディはこの男から感じていた。それでも言いたいことは言う。

「なんであんなことするんだよ?」

 魔術師は平然として聞き返す。

「あんなこととは?」

 エディは頭にきて、かなり強めの口調で返す。

「なんで閉じ込めた? 鎖でつなぐ必要があったか? シルキアに逃げられるのが怖いのか? それはどうしてだ? あんたはあの子になにするつもりだ?」

 魔術師は不敵な態度を崩さない。少し考えて面白そうに笑いながら言う。

「そうだな。彼女は拒むかもしれないな。鎖でつないでおいてよかった。扉に鍵をしておいたって、狼がさらいに来るかもしれない」

 エディはますますかっとなり、憎しみをこめて魔術師を睨みつけ言う。

「どっちが狼だよ。おまえみたいなのも狼って言うんじゃないのか?」

 魔術師は素知らぬ顔で返す。

「はて、なんのことだか」

 それから魔術師は、そうだ思いついたという表情で、エディに唐突なことを言う。

「おまえは覗きが好きか?」

 いきなり面食らうエディの返事も待たず、魔術師は「おまえにいいことを教えてやろう。耳を貸せ」と言って少しかがみ、エディの耳元に早口で囁く。聖所で焚く香のような、なにかの薬品のような、取り混じった不思議な香りがふわりと香った。そこにごく微かに混じる血のにおいを、エディは敏感に感じる。

「ここから右へ一つ角を曲がり四十三番目の塔への階段を三階半上った踊り場の先の隠し通路の先五番目の扉の奥の部屋に【覗き屋の小部屋】がある。あの子を力ずくで辱めるところを見せてやろう」

 魔術師はぜんぶ一息で囁くので聞き取るのに必死なエディは、【覗き屋の小部屋】の後をもう少しで聞き流すところで理解して固まる。あまりな言い草に返す言葉を詰まらせると、魔術師は「今日の夜中にしよう」と鷹揚に言い、廊下の反対側、エディが来た方へさっさと歩き去ってしまう。魔術師の黒い長衣の裾がばさりと翻るのを、エディは茫然として見ていた。

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