VII-iii. Les Ombres
「おい、あいつら、公開されるのがあの二重扉の廊下からって、知らないのかよ」
王様格好よかったのくだりを聞いて、呆れた調子でぼやいているのはエディだ。ミラベルが言う。
「知っててもやりそうよね」
ロランが言う。
「しかし、とんでもねえ化け物が出たよな。なんだありゃ? どうやって戦ったのか、さっぱり分からなかったぞ。ミラベル、分かったか?」
聞かれたミラベルも首を横に振る。
「さっぱり分かんないわよ。何あれ? なんか、暗くなったわよね? あれって、いつ倒したの? いつ魔法を使ったのか、さっぱり分からなかった。それにしても気持ち悪かったわ。あの化け物。気持ち悪い動く死体ばっかり出て、それに蝙蝠とかねずみとか、あげくにあの化け物だもの。何か言葉みたいなのを喋ってたけど、あれは何だったのかしら? あの二人にはあの意味、分かったのかしらね? ああ、本当に気持ち悪かった」
ミラベルは自分の両肩を抱えてぞぞぞっと震える。思い返しただけで、気味が悪い。ミラベルには、シルキアが鏡を手に乗せたのもよく分からなかった。それに、なぜジャンは道中の敵を魔法で蹴散らさなかったのか。あの魔力量なら、絶対にそのくらいできたはずだ。魔法を使わない方が格好いいとでも思ったのだろうか。ミラベルが考え込んでいると、話題の二人がエリクに連れられて戻ってきた。ミラベルはジャンに聞く。
「あの気持ち悪い大きな化け物、どうやってなんとかしたの? どんな魔法を使ったの?」
ジャンはあっさりと答える。
「鎮めて闇に還ってもらったのだ」
ミラベルにはさっぱり分からない。ミラベルはさらに聞く。
「じゃあ、そんなすごい魔法を使えるのに、どうして道中は魔法を使わなかったの? 杖って、ああいう使い方をするもんじゃないでしょ」
ジャンは棒の先を床に軽く打ちつけながら答える。
「これはただの棒だ。あるものを便利に使ったまでだ。魔力は節約したい」
魔力ならそんなにたくさん持ってるくせにと、ミラベルは釈然としない。ミラベルはシルキアにも尋ねる。
「シルキアは魔法の杖を持たないの?」
シルキアは「杖?」と言って首をかしげる。ミラベルは自分が持っている杖を見せて言う。
「ほら、こういうの。あると便利だよ」
シルキアがミラベルの杖の先の橙色の大きな宝石に見とれていると、ジャンが口を挟む。
「宝石なら装飾品に嵌め込めばいいだろう。杖など、持っていても邪魔だ」
ミラベルが「あなたは持ってるじゃない」と言うと、ただの棒だと返ってくる。近くで見ると、確かにただの棒だ。芯となる魔力がない。ミラベルはやっぱり釈然とせず、難しい顔をする。エリクがロランとエディを呼ぶ。
「ロランさん、エディさん、そろそろ参りましょう。こちらです」
そう言って歩き出したエリクの後を、面倒くさそうなロランと緊張した面持ちのエディが続く。二人がいなくなると、係の男は立ち上がって中央の球体に近づき、両腕を翳してこう言う。
「ルパニクルス地下牢の閉鎖区域入り口」
すると、球体の上の円筒状の窓が青一色から変わり、薄暗い地下牢の入り口を映し出す。係の男は解説を始める。
「ここはルパニクルスの広大な地下牢の一角にある、閉鎖区域と呼ばれる場所の入り口です。閉鎖区域では牢から脱走した【影】が多数徘徊し、幾つもの警備機構——牢の警備兵のようなものですね——を破壊しています。そのため、閉鎖区域内には、壊された警備機構の部品があちらこちらに落ちています。今回はこの部品の中から、ある特殊な金属でできた球体を探して三つ回収していただきます。この金属はいわゆる希少金属でして、回収していただけると私どもも非常に助かります。この金属を探知するための機械がこちらにありますので、エディさんにその機械を持っていただき、ロランさんに護衛をしていただく想定で課題を練りました。機械を作動させると【影】が寄ってきますので、狭いところで探し物をしながら襲ってくる敵とどう戦うかが、課題の見所となります」
エディはロランと並んで廊下を歩きながら、先を行くエリクに聞く。
「特殊な金属を探知する機械っていうのはどんなのなんだ? 使い方難しいのか?」
エリクは答える。
「いいえ、難しくはありません。簡単な小さな機械で、この後会場の前に着いてからお渡しします」
簡単と聞いてエディはほっとする。ロランは小型であるという点に安堵する。得体の知れないものがうろつくきっと狭い地下空間で、重そうな大きなものを抱えて動き回るのは嫌だと考えていたからだ。転送魔法の門に驚きつつルパニクルスの大広間に到着すると、エリクは先ほどの地下神殿の入り口とは反対方向にある狭い階段を下り、重そうな金属の扉の前に二人を案内して言う。
「こちらです。この扉の先にあるもう一枚の鉄の扉を開けていただくと、すぐに地下牢の閉鎖区域へ続きます。上から機械を持ってこさせていますので、もう少々お待ちください」
ロランはこの扉の先にとても嫌な気配を感じる。エディも同じのようで、うなじの毛を逆立たせながらそわそわと落ち着きなく身体を動かす。ロランはエディに言う。
「今更緊張感を思い出しやがったのか? 諦めろよ。さっきまではそうだったんだろ」
ロランは怖くないのかよと返され、彼は飄々と答える。
「怖いぞ。すごく怖い。お前よりか色々想像がつく分、もっと怖いな」
エディは黙る。何を言っても恥の上塗りになる気がしたからだ。ほどなくして、誰かが階段を降りてくる軽い足音が聞こえる。上階から「お待たせいたしました」と言って現れたのは、灰色の奇妙な服装の説明係の女だった。女は掌に乗る大きさの四角い灰色の物体をエディに見せながら、使い方の説明をする。
「この赤い丸の部分を押し込んでいただくと、起動します。もう一度押し込むと、停止します。起動すると、中央のこの部分から、微弱な波形が発生し、周囲へ広がって、当該物質の探査を始めます。物質が見つかった場合は、こちらに緑色の光が灯ります。緑色の光が付いたら、こちらの矢印と針と目盛りに注目してください。矢印の向きが、検知された物質の方向です。針が右に振れるほど、見つかった物質との距離が近いという印です。真ん中は距離に変化なし、左側に振れたときには遠ざかっている印です。見つけた物質は生きた身体の近く——上着の内側や身に着けた鞄の中へ片付けてしまえば、検知されなくなります。こちらの機械はたった今調整をしたばかりですので、感度は良好です。こちらの紐を首にかけて持ち運ばれると便利です。役に立つ品ですが、起動とともに発生する波形は【影】にも感知されるため、結果的にそれらを呼び寄せてしまう可能性が高くなります。お気をつけてご利用ください」
女はエディに物体を手渡す。受け取ると驚くほど軽いのでエディは驚く。いったい何でできているのだろうか。木でなし金属でなし、見かけからたぶんそうだろうと考えていた石材でもなさそうだ。エディが機械をしげしげと眺めていると、エリクが前方の鉄の扉をゆっくりと開け、「部品を三つ見つけたら戻ってきてくださいね。それではお二人とも、行ってらっしゃいませ!」と言って二人を送り出す。ロランが入り、機械の紐を首にかけたエディが続くと、重たい音を立てて扉が閉められた。ロランはまず、機械を見ているエディに言う。
「機械は起動させるな」
エディは訝しんで小声で聞く。
「起動させなきゃ、探すもんがどこにあるのかぜんぜん分からないんじゃないか? 確かに、【影】が寄ってくるのは嫌だけどさ」
ロランは静かにこう答える。
「様子が分かるまでこちらの動きを悟られたくない。あの扉を開けたら、静かに、隠れて進め。何がいるのかをまず確認するんだ。前に言った通り、周囲にも足元にも天井にも気を遣え。何か出てもパニックになるな。前は先を行く俺が確認できるが、後ろはおまえに頼んだからな」
エディは「分かった」と頷きつつ、『何か出ても』で先ほどの地下神殿の化け物を思い出し、さっと顔色を青くする。ロランは邪気払いでもするようにエディの背中を掌で叩き、こう言う。
「まあ、怖いと思わなくなったら、いよいよ死に時が近づいてきたってこった。気を抜くなよ。行くぞ」
二人は息を殺して扉を開ける。金属の扉はやはり重いが、先ほどの扉よりも滑らかで音がしない。ゆっくりと静かに開き、また静かに閉じる。入った先は、右と左の二つの方向へ細い通路が伸びる何もない小部屋だ。閉鎖区域と呼ばれるわりに、壁にはきちんと明かりが灯され、誰かが手入れをしている印象だ。ここの明かりは狭間の城のものとは異なり、燭台に蝋燭ではなく、それよりいくらか明るい揺れない光で、光源が何だか、エディにもロランにも分からない。魔導師三人になら分かるだろうかと二人は思う。静かにそれぞれの剣を抜き、背中合わせに立ったままよく耳を澄ますと、静かなようでいて色々な気配とともに色々な音が聞こえてくる。何かが四つ足ではい回るような音と、金物ががちゃがちゃいう音、壁の石をがんがんと叩くような音、それに硬いものを引きずってゆっくり歩くような音が、エディは一番嫌だと思った。さらに、エディの目は、左側の通路の奥の暗がりから何かぼんやりとした光源が近づいてくるのを捉える。ロランに小声で知らせると、ロランは右側の通路からも同じものが近づいてきていることをエディに伝え、右の光源を見据えたまま「このまま待つぞ」と言う。エディも左側の光源を見据え、近づいてくるのを待つことにする。両方の光源が近づいてくると、それらは青白く光る火だと分かる。この部屋の壁の光源とは異なる、揺れる炎だ。二つの小さな青白い炎は、ゆらゆらと揺らめきながら、すうっとこちらへ近づいてくる。どちらの目にもじっくり観察できるくらい近づくと、火は今にも消えてしまいそうなくらい頼りなく見える。ロランが「なんだ、ただの鬼火か」と呟く。エディが「鬼火って何だよ」と囁き返すと、ロランは答える。
「何ってただの鬼火だよ。見たことないのか。生き物がたくさん死んだような場所にはよく出るんだ。ただ、こいつらはなんで両方から等速度で来るんだ? このまま進んだら、ちょうどこの部屋の真ん中でぶつかるぞ」
そう言っている間に、青白く光る頼りない炎二つは右と左からそれぞれこの部屋に入ってくる。エディとロランがいることは、鬼火の軌道にはまったく影響を与えていないような雰囲気だ。鬼火は二人の前を素通りして部屋の中央へ向かう。そして、二つの炎は向かい合い、まるで再会を喜ぶかのように強くなったり弱くなったりを三度繰り返し、ぶつかって融合した。二つの炎が合わさって、鬼火は一回り大きく、明るくなる。相変わらず青白い弱い光だが、消えてしまいそうなほど危うくはなくなった。合体した鬼火は、揺らめきながら右手の通路へ向かって飛んで行く。ロランは少し考えて、鬼火の後を追うことにした。エディに「ついて行くぞ」と告げ、鬼火の向かった方へ歩き出す。二人並んでは歩けないほどの、狭い通路だ。鬼火に従い通路をしばらく進むと、突き当りに少し広めの通路が見える。牢獄の格子が並んでいるようだ。鬼火は突き当りでふっと消えてしまい、あたりが少し暗くなる。ロランは突き当りのすぐ手前で立ち止まり、急いで壁に背中を寄せて固まる。エディも何かに気づき、ロランと同じようにする。右の方から、足音が近づいてくるのが聞こえた。複数人の人間の足音だ。足音たちの移動に合わせて、その通り過ぎるあたりの鉄格子ががたがたと力任せにゆすられる音も聞こえる。足が二本ずつなら五人くらいだなとロランは思う。足音は近づいてくる。鉄格子がまたがたがたいうと、金属の棒か何かで格子を強く殴る音が続く。そうするとがたがたがやむ。エディは緊張のあまり今世界が終わればいいのにと思う。足音の一人目が二人のいる通路の前に差し掛かった。ロランは気配を殺したまま静かにそいつの姿を観察する。黒に近い紺色の、軍隊の制服のようなものを着た男だった。顔は真っ黒で輪郭しか分からない。手には白い手袋をはめ、黒い長靴を履いている。右手に幅広で分厚い抜き身の剣を、刀身を下げた状態で持っている。重そうな剣には切っ先がなく、先端は切り落としたように平坦になっている。処刑人の剣かとロランは思う。あれは、首を切るだけなので切っ先がいらないのだ。【処刑人】の後ろには、似たような者たちが四人、それぞれの背丈の半分くらいの長さの黒い棒を構えて続く。四人は【処刑人】と同じ制服を着て、剣以外はすべて同じ格好をしている。顔も真っ黒な影だ。【影】だ。獄吏たちの【影】らしい。ルパニクルスの獄吏がいるようなところにまで、【瘴気】が侵食しているということだろうか。だが、ルパニクルスの牢屋番とは、例の部品になっているという『警備機構』ではないのか。あれはどこか別の地域の獄吏たちの【影】なのだろうか。分からないことだらけだが、ロランはとにかく機械を起動していなくて良かったと思う。連中の強さは不明だが、武器を持った人型のもの五人を一度に相手にするのは、ロランだって避けたかった。ここの区域にいる【影】は、あの五体だけだろうか? 【影】たちが通り過ぎてから、ロランは彼らが進んだ方向とは反対側の壁に背中をつけたまま、ゆっくり顔を半分出し、通り過ぎて行った【影】たちの動きを観察してみる。と、【影】たちが一斉にぴたりと立ち止まった。ロランは慌てずゆっくり顔を壁のこちら側に戻して隠れる。すると牢の鉄格子が開いた音だろうか、がちゃりという金属質な音と、続いて油の足りない蝶番のような音が聞こえ、ばたばたと騒がしくなる。鉄の棒で強く格子を殴る音が二度聞こえる。急に静かになって、何かを引きずるような音が聞こえてくる。それから鉄の棒で壁か床を強く叩く音が一度。足音たちは何かを引きずったまま、遠ざかってゆく。どこかの角を曲がったらしい。もう近くに動くものはなさそうだ。ロランはそっと振り向いて後ろのエディに聞く。
「見たか、今のやつら」
エディは黙って頷く。少ししてやっと囁き声を出して言う。
「あれが【影】か? たまらなく嫌な感じだ」
ロランは「同感だ」と同意してから、またゆっくりと顔を出して通路の様子を覗き、戻ってきて、こう提案する。
「やつらは何かを処刑しにどこかへ行ったらしい。今のうちに、この通路の様子を探る」
ロランは音を一切立てずに牢のある通路へ出る。鉄格子の並ぶ通路の床の両端には、ごちゃごちゃした何か硬そうなものの残骸のような欠片がたくさん転がっていて散らかっている。これが、警備機構とやらの残骸だろうか? そうだとしたら、探知機に頼らなくても早々に部品を見つけられるだろうか。残骸を踏んで音を立てないよう気をつけながら、ロランは小走りに通路を右側へ進む。エディは獄吏たちが消えていった左側を警戒しながら、後に続く。牢の中に何かいるのではと警戒したが、どの房にも何もいないように見える。あの鉄格子を強くゆすぶるようながたがたという音は、どこから聞こえてきたのだろう? ロランは突然立ち止まって、少し先の上、天井の暗がりに意識を集中する。後ろのエディを左手で制し、ロランは静かにカトラスを構える。天井から暗闇が剥がれて降る。床へ落ちる途中で、ロランはそれをいきなり袈裟懸けに斬る。柔らかいものを切った手ごたえがあり、ぐちゃりと嫌な音がして、何か足のあるものが床に落ちて消えてゆく。刃には何もついていない。何だったのか結局よく分からなかった。エディは戸惑っている。ロランは眉間に皺をよせて床を見てから、また足音を殺した小走りになって通路の右側の突きあたりを目指す。エディは後ろを警戒しながら続く。突き当りではまた両側へ同様の通路が続いているようだ。突き当りに着くと、ロランはまた壁からゆっくり顔を出して、左右の様子をうかがう。左へはまた同じような鉄格子の通路が長く続いていて、右側は少しで行き止まりのようだ。しかし、その右側の行き止まりにはおかしなものがある。中空に浮かぶ小さな銀色の玉だ。その下には、白と真鍮色の何かの部品の山がごちゃごちゃと積みあがっている。ロランはエディにもゆっくり、急に動くのではなくゆっくり顔を出して覗くよう伝え、どう思うか聞いてみる。
「あれは目的の部品だと思うか? あのサンプルは、ああやって浮いたか?」
エディはたぶんと肯定して言う。
「ああ、たぶん、そうだと思う。あの玉は、うまく放り投げるとそのまま浮くんだ」
放り投げて遊んでいて気づいたことだった。ロランは「そうか」と言ってエディに玉を取りに行かせようとし、すぐにやっぱりやめろと制止する。左側から何か来る気配を感じたのだ。何かが、どこかの角を曲がって走ってくる。二人は右側の壁に背中を寄せる。二人とも背中にクロスボウを背負っているので、ぶつけて音を立てないように気をつけながらだ。気をつけたはず、だったのだが、壁との距離の取り方を間違えたエディが、うっかりかたっと音を立ててしまう。ほとんど響かない小さな音だったが、駆けてくる足音の速度が明らかに上がり、エディは肝を潰す。ロランは気づかれたなと冷静に思う。ロランが戦う心積りをした次の瞬間、こちらへ向かってくるものの姿が見えた。大きな牛刀のような刃物を両手に持って駆けてくる、歪んだような奇妙なシルエットの黒い人【影】だ。黒い頭の真ん中には大きな大きな一つ目があり、視線は明らかにエディを捉えている。ロランは固まっているエディに「戦うぞ!」と声をかけてから【影】がこちらに到達する前に通路に踏み出し、走ってくる【影】をエディとの間に挟み撃ちするような配置にする。まっすぐエディに向かっていく【影】に斜め後ろから打ちかかると、【影】はロランのカトラスの刃を左手の牛刀で受け止め、右手の牛刀を、驚くべき俊敏さと方向制御でエディの首へ向け投擲した。ロランはカトラスの鍔で牛刀を押し返しながら、まずい、あいつは死んだかと思う。だが投げられた刃物が壁に当たって音を立てて床に落ち、それを遠くへ蹴り飛ばすような音がして安堵する。【影】は恐ろしい力でカトラスを押し返してくる。真っ黒なもやのような顔に浮かぶ、巨大な一つ目の青い瞳と血走った赤い血管、ぬめる白い粘膜が、震えながらロランを凝視する。投擲をかわし落ちた牛刀を蹴り飛ばしたエディは、今はロランに集中している【影】の黒い背中へ剣で切りつける。一度斜めに切って、返す刀で腰を横一文字に薙ぐが、刃は素通りしてまったく効果がない。ロランは「目を狙え!」と言って相手の刃と押し合いをしていたカトラスを右方向へ捻り抜け出すと、激しく打ち合いを始める。牛刀はいくら規格外の大きさと厚さだとはいえただの包丁で、戦闘向きではないうえ長さもロランのカトラスより短い。ロランの方が有利なはずだが、【影】は恐ろしく素早く、馬鹿力だ。また、相手には急所が他にないのだろうか、黒い身体へ攻撃を当てても、まったく効果がないらしい。目を突けば倒せるかもしれないというのも、ロランの推測に過ぎなかった。エディは後ろから【影】の目を突こうとして機を伺いながら、先ほど【影】の投げた牛刀を蹴り飛ばした通路の遠くから、不穏な音が聞こえるのに気づく。こん、と音がして、エディはとっさに壁に身を寄せる。すると、間一髪その目と鼻の先をくだんの牛刀が、ロランと戦う【影】の方へ飛んでいくのが見えた。【影】は戦いながら器用に飛んできた右手分の牛刀を掴み取る。ロランは劣勢となる。自分の剣ではもう無理だと思ったエディは、『必ず当たるクロスボウ』を使うことにする。これなら、【影】の後ろか横からでも、あの気味の悪い目を射抜けるかもしれない。練習の時ロランに言われた通り、自分を頭上から見下ろしているような気分になって気を落ち着けて、背中から下したクロスボウに矢を装填する。また牛刀の投擲が来ないか、別の方向から別の危険が来ないか、警戒を怠らず動作を進める。こうするしかもうどうしようもないのだと思うと、エディの意識は澄んでゆく。装填は終わった。後は撃つだけだが、角度を考えないと味方に当たりそうだ。エディはしゃがんで斜め上へ構えて矢を放つことにした。揺れる【影】の後頭部の真ん中にだけ当たるように、他には天井にしか当たらないようにと念じ、念のため狙いをつける努力もする。エディのいつもの【直感】が、彼の置かれた場をじっと静かに見ているのが分かる。【直感】の存在を、ここまではっきり感じるのは初めてだ。直感がいきなり「放て!」と叫ぶ。エディは半分冷めた無意識のような感覚で人差し指に力を込め、半分意外な驚きをもってクロスボウから矢が放たれる。矢は直線を滑るように吸い込まれるように、激しく動き回っていた【影】の後頭部に命中する。矢の軌道上に【影】が頭をよせたようにすら見えた。二本の牛刀を持った【影】は、ロランが恐れていた通り、耳をつんざく悍ましい叫び声を上げ、溶けた闇のようになって床に流れ落ち、暗がりに溶けて消えてゆく。ロランは「うるせえ。どっから出た声だ」と言って舌打ちする。今の断末魔を聞きつけたのか、さっそく、おそらく他の影たちが駆けてくる足音がしたのだ。ロランは傍らに浮いていた銀の玉を左手で無造作につかみ懐に突っ込むと、【影】の最期にすくみあがってまだ床に座っているエディを見下ろし、鋭い声で指示を飛ばす。
「寝てんな! 機械を起動しろ! かくれんぼは終わりだ。方向が分かり次第走って突破する」
エディはびくっとして飛び起きてクロスボウを片付け、首にかけた機械の赤い部分を押し込む。機械の軌道に関わりなく、二人が来た方向と、今いる場所の前方、両方の通路から、【影】たちが駆けてくるのが見える。この行き止まりに追いつめられる前に、どちらかを突破したい。ロランが焦れて「早くしろ」と言うと、機械に緑色の光が灯り、矢印が方向を示した。エディは来た方角ではなく、前方を指差して「あっちだ」と言う。そちら側からは、黒い棒を持った獄吏三人が走ってきている。ロランは走り出す。すれ違いざま殴りかかってくる棒のうち一本をカトラスの鍔で受け、もう一本は交わしてから持っている相手の腰へ蹴りを入れて倒す。倒れた一人は後ろのもう一人の上に後ろ向きにひっくり返り、そうして転んだ二人は最初の一人の障害となる。ロランは倒れた者たちを足蹴にして走り続ける。エディは残った一人の攻撃をすばしこくかわし、残りは走る勢いで跳び越え、十字路の手前で機械をちらと見て、「右だ!」と叫ぶ。そちらから来た獄吏一人は、棒を振るう間もなくカトラスの切っ先に腹を抉られ勢いで倒れる。それが床が暴れるのでエディは閉口しながら跳び越える。高く、長く跳ぶのは得意だ。その先も同じような要領で、走る勢いで怯む相手を無理矢理突破しながら進むうちに、獄吏の【影】は最初に見た四人だけではなく、もっとたくさんいるらしいと分かる。しかし、彼らはあまり強くはない。牛刀の一つ目ほど手強い相手は出て来なかった。剣を持った【処刑人】はまだ出てきていない。いくらか進んだ先の部屋で、二人は地面に転がった銀の玉を見つけた。エディがそれを拾って鞄にしまうと、機械の緑色の光が一度消える。二人の獄吏が走って来、ロランはそれが部屋に入る順に一人ずつ片付ける。ここに留まって囲まれるのはまずいと先の動きを考えていると、機械に再び緑の光が付き、矢印が動く。エディがまた「右だ」と指差し、二人は部屋を出てロランを先頭にまた走り出す。しばらくして走り抜ける狭い通路で、とうとう【処刑人】と四人の獄吏が行く手を阻んだ。【処刑人】は、右手に握った分厚い剣を狭い通路でぶんぶんと振り回している。後ろの部下たちは前へ出て来られない。相手が大馬鹿で助かったとロランは思う。ロランと背中合わせに立っているエディは、困ったことになったと思っている。後ろからも追手が来ているのだ。三人の獄吏の【影】が後ろから追ってきて、黒い棒を構えエディに殴りかかる。エディの意識を【直感】が支配する。ロランはぶん回される処刑人の剣を嫌々カトラスの鍔で受け止める。かわすわけにもいかなかったので他にどうしようもなかったのだが、ただの獄吏の棒とは違うかなり重い一撃で、止めるのはぎりぎりだったという手ごたえを感じる。武器庫から貰ってきたカトラスの方は壊れないのかもしれないが、腕の方がどうにかなりそうだ。もう何度もは受けられない。早く決着をつけるべきだ。ロランは剣を受けて止めたまま、左前へ滑り込み一気に間合いを詰める。剣を受けている右手首を一か八か返し、相手の腹側へ思い切り押し込む。手ごたえがあり、重たい剣が床に落ちる。相手の力が抜け、膝をつく前にロランは刺した刃を引き抜く。黒い液体が吹き出して【処刑人】が苦しみながら倒れる。すかさず後ろの部下の一人が打ちかかってくるので、振りかぶったところで一人目は腕を切り落とし、切り口を抑えたところで首元へ突きを入れ、最後は蹴り倒す。残りは低く突きの構えのまま突進し、一人は刺されて倒れ、残りの二人は後ろへ転んで折り重なったので、踏み越し際に二度刺してとどめを刺し、「エディ、行くぞ」と後ろへ呼ばわりつつ走る。追ってきた二人目と戦っていたエディは、戦いから引いて慌ててロランを追う。二人の獄吏が二人を追う。エディが「左! すぐそこ」と言って二人が角を曲がると、その先はこの地下牢に潜ってから一番広い空間、一番不気味な空間だった。周囲に放射状に八つの通路が伸びる天井の高い丸い空間で、隅の方に固まっているがらくたの山の方へ、エディが持っている機械の矢印は向き、針は大きく右に振れている。目的のものはあそこにありそうだ。しかし、二人が立っている場所とそのがらくたの山の間には、小さな舞台のように見える八角形の石段があり、その上にはとても不気味な一揃いが乗っている。首と身体がすっぱり分かれた二人分の死体、血まみれの死体だ。身体の大きさから、二人とも子供のように見える。首の顔はよく見えない。そしてその舞台の上には、ここへ入ってきたときに見かけた青白い炎の玉が、ゆらゆらと浮かび漂っている。ロランは追ってきた二人の獄吏の相手をしている。エディは舞台の上の光景に肝をつぶしつつも、急いでがらくたの山を漁る。放射状の通路のどちらからも、新しい気配を感じる。ロランが二人の獄吏を床に倒すのと、エディが銀の玉を見つけるのはほぼ同時だった。エディが「あったぞ!」と叫ぶと、ロランは一瞬エディを見てから、来たばかりの方向へ走り始めた。入り口がどこにあったか、自分たちがどちらから来たかを、もはやエディはまったく覚えていない。なのでエディは、いかにも確信のある様子で走ってゆくロランを必死で追いかけるしかない。いくつもの通路を駆け抜け、ときおり立ち塞がる獄吏を倒し、なにもいない房を通り過ぎて、途中でエディははたと気付き、機械の赤色を押し込み停止させる。これでこの機械がこれ以上【影】を呼び寄せることはなくなったはずだ。ほどなくして元来た場所、鬼火が合体した場所、二人が入ってきた分厚い鉄のある小部屋に着く。ロランはすぐにその鉄の扉を開ける。エディも走って滑り込む。中へ入ってから扉を閉める。ロランは懐から銀の玉を出してエディに聞く。
「おまえ、あと二つ、ちゃんと持ってるだろうな。もし落っことしたりしてたら、一人で取りに行けよ」
冗談と思えずぞっとしながら、エディは鞄を確かめる。ちゃんと二つの玉が見つかり、二人はようやく安心した。




