Le Demi-lune
このことが記憶に残らないように
【それは大昔のことだっただろうか。】
【ずっと先に起こる話かもしれない。】
【私はその物語を書き記そう。】
上弦の半月が中天に浮かぶ夜。少年は幻の城に迷いこむ。陰鬱な詠唱の淡々と響く大広間。開いた天井から、冷えた銀色の月光が降り注いでいる。満月でなくてよかったと少年は思う。満月になれば彼は狼になる。冷めた月色の光を受けて、大理石の床に描かれた大きな円は光を放つ。円の内側にはもう一つの円、その内側には複雑な文様。少年は円から離れた外側に立っている。円の内側に描かれた文様の上、少年から見て右側の位置には、暗い影を負う不吉な男が一人立っている。
背の高い黒衣の男は、両腕を広げ呪文を詠唱する。円が輝く。男はますます重い影を纏う。清かな月明かりのもと、少年はこの場に禍々しい背徳を感じる。場にあふれ、満ちてまだ行き場のない揺らぐ力が男を取り巻き、黒い長髪と長い衣の裾を波立たせる。円は輝く。強く輝いて明滅する。あふれ出す力が場を揺らがせて、月はなお輝く。少年は戦慄する。男はなにを呼ぶつもりなのだろう。なにをするつもりなのだろう。恐ろしい。やめてくれ。こんなところに居合わせたくない。目を閉じようとしても叶わなかった。円の明滅を、そしてその円の反対側、影の男とは相対の位置に集まる霧のような光を、静かに見守らずにはいられない。どうしても、少年にはそれが気になってしかたがない。
影は暗く、光はまばゆく。やがて円はひときわ明るく輝きを放つと、あたりは真っ白になりなにも見えなくなり、なにかが割れて砕け散るような音が少年の胸のうちに響く。音の反響がおさまり、いつの間にか閉じてしまっていた瞼を少年が開けると、円の光は消え、霧のような光が集まっていた場所には、娘が一人いた。娘は裸だった。髪は銀色に光っている。そこにだけまだ、円の輝きが残っているかのようだ。影の男はしばらく娘を見つめ、そのまま声もなく床にくずおれた。少年は惹きつけられるように娘のそばへ近づいて行き、ぼんやりと立っている輝く娘に話しかける。娘にはなにも聞こえていないようで、少年の方を見ることも、返事を返すこともしない。彼女は形の良い唇を開いて誰かの名を囁いた。そして静かに床に座り、そのまま伏して眠ってしまう。
少年が戸惑っていると、広間の外から誰かが中に入ってくる。その姿を見て少年は驚く。入ってきたのは、半透明の身体を煙色に煙らせた亡霊のような従僕と女中だった。二人の従僕と一人の女中は、少年に気づいているのかいないのか、彼の方をまるで見ることもなく、流れるような手際のよさで倒れた男と娘を板に乗せ、どこかへ運び去ってしまう。運ぶ場所を指示するような会話が聞こえたので、少年にはそれがどこかは分からないながらも、二人がどこか別々の場所へ運ばれたことは分かった。
広間には少年を除き誰もいなくなる。少年が立って天井の月を見あげていると、目の前に灰色の影が立つ。半透明な煙色の女中だった。女中は驚く少年に礼をすると、精彩を欠いた平坦な声で言う。
「エドガー・ロンバート様。ようこそいらっしゃいました。お部屋へご案内いたします」
少年は尋ねる。
「ここはどこなんだ」
女中は答える。
「塔の上の広間でございます」
少年が聞きたかったこととは少し異なるのだが、その答えを聞いて彼はまた驚く。少年の知識では、塔というのは頂上に大広間が作られるような建物ではない。少年は女中の後に続き長い階段を下りる。本当にここは塔のようだ。階段の途中のドアを開けると、その先には長い廊下が続いている。赤い敷物が敷かれ、ろうそくの明かりに照らされた廊下である。いくつかの角を曲がり、またいくつかの階段を上り、さらに長い廊下を進み、いくつかの角を曲がり、いくつかの階段を下ると、廊下の途中のある部屋の前で女中はようやく立ち止まり、扉を開けて少年に言う。
「こちらのお部屋でございます。いつまでもごゆっくりどうぞ」
少年は尋ねる。
「いつまでもってどういうことだ」
女中は答える。
「いつまでいらしてもよいということでございます」
少年はさらに尋ねる。
「どうしておれはここにいる?」
女中は答える。
「私どもの与り知るところではございません」
女中は一礼して去ってゆく。廊下を滑るように遠ざかってゆく煙のような姿をじっと見送ってから、少年は部屋の中に入る。少年がこれまで見たこともないような、豪華な内装の部屋だ。調度類はどれも大きく重々しく、寝台は広々としていて、寝具はきちんと整えられている。どこかの貴人の城館だろうか。少年が寝台の脇の蝋燭の火を吹き消すと、部屋は真っ暗になった。




