幕引
緊張しているとき、特に人前で話すときや舞台に上がる時には、手のひらに「人」と書いて飲み込むといいって教わったことがありますね。
あれは一種の自己暗示だそうで、お客さんをジャガイモに例えるのもその一つだそうです。
特にジャガイモに関しては、周囲の人をそうして見下すことで、自分を取り戻すのだそうです。
自分を取り戻すためには、何かしら行動を起こさねばならぬということですが……。
○
暗いさびれた町に二人の男が立っている。
「どうしてなんだ……どうして、お前が俺を殺さなきゃならないんだ!!」
ジェームズがナイフを取り出し、リカードに突き付ける。
「これも運命なんだよ、リカード君。君と僕が出会った時から、歯車は回っていたのさ」
「嘘だ!! じゃあ、今までのこともすべて計算だったっていうのか!!」
「しょうがない、君には本当のことを教えてやろう……」
ジェームズはコートから紙切れを取り出す。
「そ、それは……?」
「わからないか。これは、君の妻・キャリーの……」
「はいカットー!!」
暗い町の空に備えられた照明がパッと灯され、木の板でできた建物の裏からは人がぞろぞろと出てくる。
「黒ちゃ~ん、違うよ今のセリフ……」
監督の染川が、丸めた台本を黒田に見せた。そしてラインマーカーの引かれた一文を指差す。
「妻の名前は「キャリー」じゃなくて「キュリー」って、何回言ったらわかんのよ」
「うーん……ゲンさん、やっぱりここ「キャリー」のほうがよくない? 「キュリー」って、なんだかキュウリみたいでかっこ悪いんだよなぁ」
「仕方ないでしょ~作家先生がそう書いてんだから、台本通りに君は「キュリー」って言いなさいよ」
「うーん……」
すると黒田の背後から、リカード役の竹中が顔の汗を拭きながらやってきた。
「あともう一個間違えてたぞ。「君には本当のことを教えてやろう」のとこ、「しょうがない」じゃなくて「仕方がない」な」
「とっさに出てこなかったんだってば」
それからも一通り稽古をやったが、やはりジェームズを演じる黒田勘介は台詞のミスを連発し、結局最後まで通しで練習するつもりが、第二部にも入らず終わってしまった。
しかし黒田は悪びれるそぶりも見せず、劇団「はごいた」の劇場を後にした。
その後、残されたスタッフたちの会話は、彼の愚痴でもちきりである。
「どんだけ同じとこやれば間違えずに済むんだよっての!!」
「わかる。あと認めないんだよねーあの人……。あ、加奈ちゃんその道具はもう片付けちゃって!! ……舞台じゃ黒田が竹中さんを殺す役だけど…………ねえ」
「おいおい、それ以上はダメだって。まあいいじゃねえか、あの人終わったらすぐ帰っちゃうんだから、顔見なくて済むし」
「まあな、今日が金曜だから、どうせ酒飲みに行くんだろうけど……。あ、加奈ちゃんそれは置いといてよ!!? 悪い、俺も手伝ってくるわ、加奈ちゃんに任せてると不安でしょうがない」
「へいへーい。ったくイチャつきやがって……」
するとテーブルに、缶コーヒーがコトンと置かれた。目をやると竹中がいる。
「なにイライラしてんの瀬田君ー。裏方がイラついてちゃ、役者はいい芝居はできないよ」
「あー……今朝牛乳飲まなかったからっすかねぇ、はは」
しばらく二人で笑っていたが、竹中は途端に表情を変えた。
「……黒田がごめんな」
年上の、しかも立場まで上の篠原に正面から頭を下げられて、瀬田は取り乱すように手を振った。
「いえ、いいんスよ。裏方の僕らがとやかく言うことじゃ無いっすから」
「アイツは何よりマイペースな男でな、十年前に大学で出会ったときからそうなんだ」
「竹中さんはいいっすよねぇ……。付き合い長いと慣れてくるでしょ、僕なんかまだ二ヶ月ですから、腹が立って腹が立って…………あ、本人には内緒ですよ」
「……わかってる」
すると竹中の紺のジャケットから電子メロディが鳴った。
「メールっすか?」
「あいつからだよ、「八時に紅灯篭予約したからな」ってさ」
「相変わらず自分勝手な人だなぁ……。頑張ってくださいね」
「ああ……」
そして八時丁度。
篠原は居酒屋・紅灯篭ののれんをくぐった。
黒田は顔を真っ赤にして、カウンターで日本酒を飲んでいた。
「お~タケちゃん!! こっちこっち!!」
「お前ってやつは、なんですぐに飲み始めちゃうかねェ……」
「仕方ねえだろ~、酒が俺を呼んでたっていう感じだ」
それからしばらく飲んでいると、酔いのせいかはたまたそのつもりで竹中を呼んだのか、黒田が口を開いた。
「……佳子のことだがな。来月に結婚することになった」
竹中の眉がピクリと動く。
「そっかぁ、お前らそんなに付き合ってたっけかね?」
「そりゃあもう二年だからな。……怒ってんの?」
「なんで」
「いや、そりゃあお前、佳子がお前の元・恋人だから」
黒田の無神経な言い方は、今に始まったことではない。竹中はウーロン茶の入ったグラスを口にして笑い飛ばした。
「はは……それ以上に、二人とも俺の大事な親友なんだから、祝うのは当然だろ。まさか俺が、妬いて悔しがると思ったのか?」
竹中の口調に安心したのか、黒田はにんまりと笑って酒を飲んだ。
それから三十分ほどたったときだった。
「お姉さん、日本酒おかわり貰えるかな?」
「あ、はい。かしこまりました」
ありふれたそのやりとりに、竹中が針を突き刺した。
「いえ、今日はもう帰るので。お会計を」
「え、なんだよタケちゃん。いつもは十時回るまで飲むじゃないか」
「いいから、いいから」
竹中が財布を取り出そうとすると、黒田が慌てて財布を取り出し、竹中をレジ台から遠ざけた。
「いいて、いいって。今日くらい俺が奢ってやんよ」
「悪いな」
「おう! あんまり佳子のことで、機嫌を悪くされても、気分が悪いでござんすからなぁ!」
「はは……酔いすぎだぞ、お前」
この時の竹中の表情の変化を、黒田は見抜くべきであった。しかし、無神経な彼はそれに気付かなかった。
竹中は黒田の肩を抱いて、路地裏に連れて行った。路地裏と言っても、彼らの芝居のような町ではなく人通りの多い繁華街なので、がやがやと声がする。
そこで竹中は黒田の肩から腕をほどき、彼に懐から本を渡した。
「ほら、練習するぞ」
「あん? 練習ってなんだよ」
「お前、今日はヘマしすぎだったからな。……ちょっとは練習しとけよ」
「あ~確かにな!! それはそうかもしれん!! ……どこからだ?」
「ここだ。……172ページの、ここ」
黒田はうなずくと、咳払いして竹中と向かい合う。
「…………どうして、俺が!!」
「待て、違う違う、それは俺のセリフだ」
「あ、すまん」
「ったく。……どうして、俺が殺されないといけないんだ!!」
「……ご……いぃ! 死ね!!」
と、その時。
竹中は懐から素早くナイフを取り出し、黒田の胸に突き刺した。
「お前……やっぱり佳子のことを根に持ってたのか……!!」
「勘違いするな。俺は根に持ってるわけじゃない、佳子のために決断したんだ」
黒田の目がぐるんと虚空を向き、力なくその場に倒れこむ。
路地裏の周りには、二人の声を聴いて何人もの人々が集まっていた。
竹中は黒田を心配するふりをして台本を仕舞い込み、叫んだ。
「誰か……誰か救急車を呼んでくれ!!! 人を……人を殺してしまった!!!」
○
冬の朝は雲が地上まで降りてきているように辺りの景色をうやむやにする。そしてコンクリートをまるで氷の彫像のように冷たくしてしまう。
その彫像達に、今朝は黄色と黒のテープが張り巡らされていた。
そしてそこに一人の男が入ってくる。若い男だ。鑑識の一人が、彼にあいさつした。
「清森さん、おはようございます」
「どうも、横井さん。……で、どんな具合です?」
「まあ見ての通り他殺ですよ。ガイシャは昨日のうちに病院に運ばれましたけど、すぐ亡くなりましたから」
すると清森はしばらく何かを考えるようなポーズをとり、目をカッと開いた。
「わかった、彼にナイフを刺した男が、今回の事件の犯人ですね……!!」
「当然でしょ」
「よし、さっそくその男に話を聞きましょう!!」
「あ、待ってください。相手はもう自供してるんですよ」
清森が「へ」と間抜けな声を出す。
「ど、どういうことですか」
「詳しい話は、芥川さんから聞いてくださいよ。私、鑑識なんですから」
「それもそうか……」
その男は、パトカーの中で新聞を読み、コーヒーまで飲んでいた。まるで出勤前である。
黒いベストに赤い蝶ネクタイ。まるでカフェのオーナーのような出で立ちのこの男が、芥川である。
「芥川さん、清森です」
清森がそういって窓ガラスにノックすると、芥川は助手席から手を伸ばして運転席から窓を開け、丸めた新聞で清森の額を打った。
「遅いんだよ君は。皆一時間前に集合してるんだよ?」
「すみません、朝ご飯に手間取りまして」
「馬鹿。朝ご飯なんてのはコンビニでいいんだよ、どうして刑事のくせして優雅なティータイムを過ごそうとしてるのかな?」
「巡査です」
「うるさい。ほら、隣に座りなさい」
清森が「失礼します」とパトカーの運転席に座った。
「で、容疑者は何と?」
「「殺すつもりはなかった」って。正当防衛らしいよ」
「正当防衛ですか」
「今回死んだのが、黒田勘介って人で三十歳。で、殺したのが竹中定満で同じく三十歳」
「三十歳同士だ」
「二人はすぐそこの居酒屋で飲んだ後、黒田が竹中をここに連れてきた。そして黒田はナイフを取り出し、竹中を殺しにかかった」
「居酒屋は相手を油断させるためだったわけですね」
「で、竹中はナイフを防ごうとしているうちに、黒田を殺した…………君、何してんの」
「え」
「何の上に座ってんのかって」
清森が尻をあげると、ぐしゃぐしゃになったコートが畳んであった。
芥川が清森の顔を再び新聞紙で叩き、彼はため息をついてパトカーから出た。
清森はしわまみれになった芥川のコートを手に彼を追いかける。
「座る前に言ってくださいよ!! そもそもどうして運転席においてるんですか!?」
芥川は清森からコートをふんだくり、それを着込んだ。普段なら彼に選択させてアイロンまでかけさせるところだが、それほどに今朝は寒かったのだ。
「でも芥川さん、本当にその証言は正しいんでしょうか?」
「どういうこと」
「竹中が殺意をもって殺して、「正当防衛だ」って嘘ついてる可能性だってあるじゃないですか」
「周りの人が聞いたんだってさ、それもかなり大勢の人がね。びっくりして路地裏に駆けつけたら、もうナイフ刺した後だったってことさ」
「そんなに信用できるんですか?」
「できるよ。事細かく聞いてんだよほら」
芥川がメモ帳を取り出す。そこには事に至るまでの二人の言葉が書かれていた。
「あー…………それなら、僕らの出る幕は無いんじゃないですか?」
清森がそういうと、芥川はため息交じりにアゴで現場を刺した。
「……気づかない? さっきの話聞いて」
「えっと…………ナイフはちゃんと避ける?」
清森に三度新聞紙がさく裂した。
「違うよ。周りに大勢の証人がいたって話さ」
「でもそれは仕方ないんじゃないですか? こんな場所で大声あげたら、そりゃ気づくでしょう」
「そこだよ。……人を殺す人間が、路地裏とはいえこんな場所を殺人に選ぶかなぁ。逃げようとしても誰かに必ず見られるし、下手すると殺す瞬間を見られるかもしれない」
「ということは……」
「竹中って人に話を聞く必要があるみたいだね」
彼の名は、芥川藤吉郎、四十一歳。警部補である。
警察署の取調室で、芥川と竹中は初めて対面した。
「私、芥川と申します。こっちは部下の清森です。……いやぁ、大変でしたね」
竹中は目頭を押さえて、何も言わずにうなずいている。もちろん、嘘泣きである。
「まさか……黒田を刺して、殺してしまうなんて……」
「お察しします……。えーっと、役者さんでいらっしゃいますよね?」
竹中は器用に鼻水をずずっと戻す真似までして、「ええ」とうなずいた。
「何度か拝見したことあるんですよ、あなたの舞台! えーっとなんでしたっけあの、男が出てくる……」
「「風見鶏は鳴かない」ですか?」
「そうそれですよ! あれは本当に素晴らしかったです」
「そうですか? ……私が初めて主役を演じた作品でしたからねぇ、そういってもらえるとありがたいです」
「ええ、締めのセリフが大好きなんですよ」
「ああ「風見鶏はなぜ鳴かないのか、それはこいつが鳥じゃないからさ」ですか」
「そうです! よく覚えてますね!」
「それが仕事ですから」
竹中が首をかしげた。
「……芥川さん、そんな話をするためにここに?」
「あーいえいえ、違うんですよ。……黒田さんの件で二、三伺いたい点がありまして」
「……もうその話はしたくないなあ。罪の意識で頭がどうにかなりそうです」
「申し訳ありません……ですが仕事ですので……。えーっとあなたとの関係は、ご友人でよろしかったですか?」
「ええ、大学生で演劇のサークルに入っていたころからの友人です」
「かなり仲は良かったんですか? よく休日に居酒屋へ行かれていたようですが」
「なんだかんだで付き合いが長かったですからね。一緒に飲んでると楽しいんですよ」
「喧嘩したことは?」
「無かったですね」
芥川はそれを聞いて、あからさまに「んー」と考える姿勢をとる。
「……何か」
「いえ……おかしいなぁ…………」
「気になるなぁ、あらぬ疑いをかけられたくないですし、ハッキリ言ってくださいよ」
「ん? あらぬ疑いとは?」
竹中たジットリと芥川をにらみつける。芥川は小さく咳払いをした。
「……申し訳ないです。えーっとですね、あなたの話を聞いてますと、どうしてもよくわからない点があるんです」
「わからない点?」
「ええ、動機です。そんな仲のいい友人を、ナイフで刺し殺そうとするまでに黒田さんを突き動かした動機とは一体なんなのでしょう? …………では、失礼します」
立ち上がり、清森を連れて部屋を出ようとした芥川を、竹中が呼び止めた。
「あの、ひょっとするとあれじゃないかな……」
「何かあるんですか?」
「ええ。……この前の芝居で、黒田が何度もミスをしまして」
「うかがっております。ずいぶんと台詞を覚えない方だったようですね」
「練習ならそれも笑い飛ばせるんですが……この前は本番だったんです」
「あれま」
「本番中にアイツ、台詞が抜けちゃいまして……三十秒くらいぼーっと舞台に突っ立ってたんですよ」
「それ見てみたかったですね、ふふ」
「まあ舞台は私たちが何とかしたんですが、そのあとでアイツに私が怒鳴り散らしましてね」
「……竹中さんが?」
「ええ。「お前は役者を馬鹿にしてるのか、死んじまえ」って言っちゃったんですよ……」
「それが動機だと……?」
「まあ思い当たることと言ったら、これくらいですかね。人の心がどう変わるかは、わかりませんから」
「確かに、おっしゃる通りですね」
芥川は今度こそ、清森を連れて部屋を出た。
「……びっくりしましたよ芥川さん。お芝居ご覧になるんですね!」
「……小学校以来見たことない」
「え、でもさっき」
「男が出てこないはずないじゃない、あの人が男なんだから」
「ですが「締めの言葉が好き」って……」
「締めの言葉がない芝居ってある?」
「……なんでそんなウソつくんですか」
「お互い様だよ、向こうも嘘ついてんだから」
「どんな嘘です」
「正当防衛で殺しちゃったって嘘」
清森が目を見開いた。
「そ、それじゃあ……」
「すぐにあの人の劇団に聞き込みに行こうか」
芥川が蝶ネクタイをピンと締めなおした。
劇団はてんてこ舞いだった。重要な役を占める二人が来れなくなってしまったのだ。
特に舞台監督の染川の混乱ぶりはすさまじく、そこらを走り回っては「どうする」と叫んでいる。
「あのー、染川さんですか?」
「ああああ!? どうしてよりによって黒ちゃんのやつ、竹ちゃんを殺そうとなんてするんだよおおお!!!」
「あのー、私芥川という者なんですけども……」
「またどうして竹ちゃんもやり返しちゃうんだよおおおお!!!」
「あのー、少しお話を聞きたいんですけど」
「芥川さん、別の人に聞きましょうよ……」
二人がたどり着いたのは、舞台裏のスタッフの一人、瀬田司という男だった。
瀬田は眼鏡をずりあげて、二人に怪訝な視線をやった。
「何スか、この忙しい時に……」
「あー……申し訳ありません、すぐ終わります」
「はい、どーぞ? ……ったく、代役なんていねえよ」
「亡くなった黒田さんと、竹中さんの関係性は?」
「あーいたって良かったんじゃない? 黒田さん相手に怒らないのは、あの人くらいじゃないかな」
「なるほど。……では、二人の共通の知り合いって誰かおられますか? 特に女の人とか」
「知らねっス、自分ここ来てまだ二ヶ月ですから」
「誰なら知ってます?」
「……知らねっス」
瀬田は遠くで誰かに呼ばれ、ロケット花火のように返事を残して飛んで行った。
「ずいぶん、でかい柱を失ったみたいですね」
「てんてこ舞いだからねー……だーれも話きいてくれない。……清森君」
「はい?」
「君は役者顔だよね」
「……そ、そうですか?」
「だから、それとなく誰かに聞いてきてよ。……あ、これ使いなさい」
どこから持ってきたのか、芥川が清森に劇団スタッフ専用の上着を手渡した。
「な、なんで僕が……」
「仕方ないじゃない、私は警察どころか喫茶店の人くらいにしか見えないんだから」
芥川に「ほら早く、ほら」とせかされて、清森はやけくそで上着を着てみた。
周りがシャツの上から着ているのに対して、一人だけスーツの上から羽織っているので、非情に違和感がある。
「あ、あの…………」
話しかけられた団員は、清森のほうを一向に見ようとしない。というか気にしていない。
「え、なに!?」
「えっと黒田さんと竹中さんっていたじゃないですか」
「あーいたね!! あ、加奈ちゃんごめん!! それより先にこっち運んじゃって!!」
「二人の共通の知り合いって誰かいますかね?」
「ちょっと、これ早く持って!! 加奈ちゃーん!! こっち運ぶよー!!」
いつの間にかビルの描かれた大きなパネルを持つ要因に組み込まれた清森は、周りに言われるがままにそれを運んだ。
「こ、これはどこまで持っていけば!!?」
「いいからいいから!! はい、もっとちゃんと持てよお前!!!」
「す、すいません!!! ……や、やっぱ黒田さんがいなくなると、みんな混乱しちゃいますね!!」
男が「は?」と力を抜き、そのせいでパネルを落とした。
さらにそのおとしたパネルは、清森のつま先に命中した。
「ああああごめん!!! ごめんね!!? 加奈ちゃん、けがしなかった!!?」
「私は大丈夫ですけど……そこの人が……」
「あ、すまんすまん。……で、黒田さんのことだけどね、あの人がいなくなったくらいじゃ別に困らないんだ、どうせ台詞なんて覚えてないんだから。……竹中さんがいなくなるのが困るんだよ、もう一人の監督みたいな人だったからね」
「…………ああそうすか」
「竹中さん、脚本も同時にやってたからねェ……君そんなことも知らないの? なんでここで働いてんだよ」
この男に手錠をかけてやろうか、という気持ちをぐっと押え、清森は「いえ」とその場を後にした。
しかし、それから報告しようとしたものの、肝心の芥川がどこにもいなかった。
「あれえ……どこ行っちゃったのかな、芥川さん……」
「君!! 何してんのこっち来いよ!!」
「え、いや、その、芥川さんは!?」
「は!? 知らねえよそんな本書いてそうなヤツ。良いから、そっちの小道具持ってきて!!」
言われるがままに持ってくると、男は清森にとってとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、とりあえず本番だけど、竹中さんと黒田さんの代役は見つからなかった。だから一番背格好が似てる瀬田君と、君がやってくれ。……名前は」
「……き、清森です」
「キヨモリ君な。じゃあ君は竹中さんのやってたリカード役だ、瀬田君はジェームズ役。台本は無いけど、大丈夫か?」
「大丈夫です。練習中に黒田さんが何度もやり直してましたから、覚えるなっていうほうが無理ですよ。な」
「…………うん」
「よっし! じゃあそろそろ始めるぞ!! 竹中さん、今日の昼過ぎには戻ってこれるそうだから、劇中で第二部までの辛抱だ!!」
一方その頃芥川は、清森がパネルを運んでいる間に車を出して、黒田の死亡が確認された病院に向かっていた。
そこに行けば必ずある人物が現れると踏んだからである。
その人物とは、黒田の婚約者・小早川佳子である。
黒田の霊安室の前で立ちすくんでいる彼女を見て、芥川は確信して彼女に声をかけた。
「あのーひょっとして、黒田勘介さんの?」
彼女はハンカチで口を押え、うなずいた。
「申し遅れました、私芥川と申します、このたびはご愁傷様です……。……あの、黒田さんとはどのようなご関係で?」
「恋人同士で……来月には結婚の予定も……」
「あー……それはそれは、辛いことを聞いてしまって申し訳ないです」
「いいんです……。むしろ感謝してるくらいで……」
「…………え」
小早川は笑顔を浮かべていた。
「あの人、仕事がうまくいかないと決まって私にあたってきたんです。……それから解放されたと思うと、うれしくて」
「ですが……結婚する予定だったのでは?」
「そんなの、向こうがどんどんすすめていくから、私はどうしようもなくて……。タケちゃんにも何度も相談したんですが」
と、ここで芥川が眉をひそめて彼女のほうを見た。
「今、何ておっしゃいました?」
「何度も相談したって」
「誰に?」
「タケちゃ……竹中さんです。私と彼と、勘介さんの三人で大学の同期だったんです」
「……なるほど、竹中定満さん?」
「はい」
「ここ最近で最後に相談したのは?」
「一週間前ですけど……彼が故意に殺したっていうんですか?」
「いえいえ、あくまで捜査の一環ですから……」
芥川は再び、警察署に向かった。
その頃。
「ああ……なんという悲劇だろうか!!! ……ジェームズ、もう君しか頼れる人はいないんだ!!!」
「…………え……あ……」
清森が舞台の袖を見ると、スタッフが画用紙にでかでかとカンペを書いてそれを見せている。
「…………ぼ、「僕かい」!!?」
「そうだ、君だ。君しかいないんだ!!」
「…………あ、えっと「ならば話は簡単だ」!!」
当然、舞台裏は大騒ぎだった。
「おいなんだあいつ!! 全然ダメじゃねえか!!」
「ていうかアイツ誰だ……?」
「瀬田君、役者の方もいけてるんだよなぁ……」
特に、清森が台詞なんて覚えているはずがないので、裏方では大急ぎで彼のセリフの部分を画用紙に書いてカンペを作っていた。
「急げ!! 次のカンペ出せ!!!」
「……こ、「これが結末さ」!!」
「加奈ちゃんそれ違う!!! それはもっと後のやつ!!!」
「え!? これじゃないんですか!?」
「次は「答えを探しに行こう」だよ!!」
「……え、その次は?」
「瀬田君が「どこに行けばいいんだ」からの、「そんなの決まっているだろう、ゴードンさんの家さ」だよ!!」
「…………代役、お願いできますか?」
竹中は警察からの取り調べを一通り終え、自由の身になった。
持ち前の演技力で悲劇の男を演じきった彼は、風船のように息を吐いて車へ乗りこんだ。
その時。
「あのー、竹中さん」
その車を、芥川が覗き込んでいた。
「……劇団に行かれるんですよね? ちょっとご一緒してもよろしいですか?」
ここで断れば、下手をすると疑われるかもしれない。この局面において、竹中は極力「良い人」とならねばらなかった。
「……どうぞ」
芥川が助手席に乗り込む。
「いやー、部下を残してきたんですけどね。今頃どうしてるでしょうか」
「なかなか、意地の悪いお方ですね」
「そうですか? あ、いじわると言えば竹中さん、あなたも中々ですよ」
「何かしましたか?」
「あなた、嘘つかれましたね」
「……何もついてませんよ」
「あなたが黒田さんを叱責したというセリフですが、あなたの記憶ではこうでしたね? えー「お前は役者を馬鹿にしているのか、死んじまえ」」
「そうですが……それがなんですか?」
「舞台監督の方に聞いたんですけどね? 彼は「そんなことは言ってない」とおっしゃったんですよ」
「……そんなはずはない」
「いいえ? あるんですよ」
「…………まあ確かに、ちょっと脚色はしたかもしれません。実際はもっと……優しく言ったつもりでしたけど」
「あれ、お認めになると?」
「いちいち自分の言ったことは覚えてないんです」
「うーん、何年も前のお芝居のセリフは覚えているのに?」
「芥川さん」
「あー……すみません、いえ職業柄こういうのが気になりまして。……あ、そこの角、右ですよ」
「わかってますよ……」
「それとですねー……周囲のみなさんが言ってたんですけども、あなたたちミョウチキリンなやりとりをしたんですってね?」
「……なんのことですか」
「いや、あなたが「どうして俺が殺されなきゃいけないんだ」って叫ぶ前にですね? ……どういうわけだか、黒田さんが「どうして俺が殺されなきゃいけないんだ」って言ってるんです」
「そんなことは言ってない、アイツは「どうして俺が」までだった」
竹中は、しまったと隣を見た。隣には、中年刑事のにんまりとした笑顔があった。
「……そうでした、「どうして俺が」まででしたね。……しかし、そう叫んだのはなぜなのでしょう?」
「決まってるじゃないですか。僕がアイツを叱り飛ばした時の話になって、「どうして俺があんなことを言われないといけないんだ」って言ってきたんですよ」
「あーなるほど……さすが役者さんですね、お上手です。あともう一つ、昨日の夜にあなた黒田さんと居酒屋に行ってますね? 現場の近くの「紅灯篭」」
「行きましたよ。金曜の夜は必ずあそこで飲むんです」
「おかしいですね……」
「……なんですか」
「いえ、これから人を殺すって時に、果たして酒なんて飲むでしょうか……? だってですよ、酔っぱらって手元が滑るかもしれませんし、何よりすぐに捕まってしまう。どう思います?」
「確かにそうですね」
「ですよね。そしてですね、竹中さん。……あなたはウーロン茶しか頼んでなかったそうですね?」
「…………いけませんか」
「いいえ? ただ店の人も不思議そうな顔してました、いつも二人揃って日本酒を飲まれるそうですね、種類も調べてますよ「黒出雲」。しかしなぜか今日に限ってはウーロン茶……」
「……芥川さん、この国では普段酒を飲む人がウーロン茶を飲んだだけで、罪に問われるんですか?」
「とんでもない!! ……お加減を悪くされたのなら謝ります。……しかし、黒田さんの飲酒に関しては……?」
「こういうことではないですか? 僕もよくやるんですが、何か重大なことをやらなければならない時に、一気に酒を飲んで自分をやる気づける、と」
「……あー、なるほど」
「僕への疑いは晴れましたか?」
「…………ふふ、はい」
探偵と犯人が互いに笑う。そんな奇妙な空間を運びながら、車は劇団「はごいた」の駐車場へと入って行った。
○
劇団「はごいた」の客入りは、幸か不幸か最悪だった。
そして客席には、にやにやと笑みを浮かべて舞台を眺める芥川と竹中の姿がある。
「あの男は……」
「ふふふ……私の部下ですねぇ……」
「あーあー、あがっちゃって。……裏方の伊野さんも大変だなぁ、ははは」
「ところで……大丈夫なんですか?」
「何が」
「いやだってあなた……人を殺してるんですよ? 故意にしろ、そうでないにしろ」
「まあ、その時はその時です。……追い出されたら、それまでですね」
「男らしい方だ…………あれ、アイツ今なんて言いました? なんか「んんしい」って言いましたね、ふふ」
「あれねー、ドジがよくやるんですよ。緊張で咄嗟に漢字の読みを忘れちゃうんですよね」
「なるほど……ちなみにあそこのセリフは?」
「確か「禍々しい」ですね」
「あー……清森が読めない筈です、ふふふ」
「しかも私の役じゃないか。なんであの男がやるかなぁ」
「ふふふ、行かなくてよろしいんですか?」
「どうせ次のセリフで第一部が終わりますからね。それまでここで高みの見物です」
「いじわるな方ですねぇ~、では、私も……」
芥川は顎の先に拳をくっつけて、芝居を見ながら唸る。
それを見て、竹中が不敵に笑んだ。
「……困ってますね、芥川さん」
「えー? そんなことないですよ?」
「……そんなに私を計画殺人の犯人にしたいんですか?」
芥川は否定するようなそぶりは見せず、ただ笑っている。
「……そんなに犯人にしたいなら、するといいですよ。こう言っちゃあ犯人っぽいですが「証拠を見せてくれ」ってね。まあ、証拠の見せようがありませんが」
「そうですねぇ……しかし、証拠が出せないわけではありません。それを見つければ事件は解決です」
「それはそれは、強気ですねぇ。何故そうまでして私を疑うんですか」
「えー……あなた、おそらく黒田さんを利用したのでしょう。「芝居の練習でもしよう」とでも言って、あなたは黒田さんをまんまと誘い込んだ。そして芝居の一環で黒田さんが「殺す」と言ったのを利用して、あなたはまんまと黒田さんにナイフを突き刺した……どうですか?」
「良いと思いますよ」
「おや、お認めになる?」
「これが芝居だったら、ですよ。……あなた脚本家になるべきだ」
二人が向かい合ったところで、照明が消えて幕が降りた。
第一部が終わったのである。
「では、僕はあなたの部下と入れ替わってくるので」
「……はい、長々とありがとうございました」
竹中は舞台裏に消えた。
そして入れ替わるように、息を切らせた清森が出てきて、客席を見たとたんに衣装を着たまま飛んできた。
「酷いじゃないですか!! あの後大変だったんですよ!!?」
「見てたよ。ひどいね君、もうちょっと頑張りなよ」
そして舞台裏では。
「すまんな皆。第二部からは僕が演じるから、心配するな」
「あー…………お、お帰りなさいっス……」
「…………すまん、やっぱりぬけぬけと帰ってこられても困るだろうな」
「い、いえ……それが……」
瀬田の言葉がつまった、その時である。
「どうだ瀬田君!! 竹中さんの衣装、結構決まってるだろう!? もう心配はいらないぞ、第二部からは私が演じるぞ!! …………え」
「あー……伊野君、その……なんかごめんな」
「あの……竹中さん帰ってきたんで……伊野さん、衣装着替えてください」
「…………加奈ちゃん、この小道具片づけちゃって……」
伊野がすごすごと帰って行った後、瀬田があたりを見渡した。
「……黒田さんの件はどうなりました?」
「何が」
「昼に警察の方も来てたもので……」
「心配ないさ。すぐに裁判やらがあるらしいが、まあ大丈夫だろう」
「よかったですよ……染川さんだけだと舞台が回らなくて……」
「いいのか? まがいなりにも殺人犯だぞ?」
「そんなの後ですよ……とりあえず今日の舞台は終わらせないとッスから」
「正論だな。……黒田の役は君が?」
「ええ、まあ。……一応、役者志望ですので」
「なるほど。まあ、これで舞台は問題ない。さ、準備だ準備」
そして、駐車場では芥川と清森が劇場から出てきたところだった。
長時間座っていたため、芥川は伸びをして腰をさする。
「なんで僕があんなことしなくちゃいけないんですか!? ねえ聞いてます、芥川さん!!?」
しかし芥川はここぞとばかりに携帯を取り出した。
「何ごまかそうとしてるんですか!!」
「いや車無いんだよ」
「ここにパトカーで来たじゃないですか!!?」
「それから一回帰ったんだよ、そんでここまでここの人に乗せてもらったからしょうがないよ」
「え、じゃあ僕らどうやって帰るんですか!?」
「だからお迎え呼んだんじゃない。……にしても「禍々しい」が読めないなんて君も駄目だね」
「落ち着けば読めたんですよあんなの!! ただ、台詞覚えてないですから……!!」
「あのくらい読めるでしょ?」
「いや読めますよ!? 漢検初段なんですから、「くしゃみ」って漢字で書けますか?」
「興味ない」
「「ハマグリ」は? あ、漢字三文字で「うるさい」ってどう書くか知ってます? あと「しんきろう」」
「興味ないって言ってるじゃない…………待てよ?」
芥川は携帯電話を清森に押し付け、再び劇団の中へ入って行った。
「え、ちょ……これどーすんですか!? ちょ…………あ、も、もしもし? あ、えっーっとね…………とりあえず来てくれる?」
舞台袖で控える竹中は、いつものように目を閉じて意識を集中させていた。
と、その時。その波長が乱された。
「竹中さん!!」
うんざりした顔で彼が振り向く。芥川だ。
「……しつこいですねぇ」
「これで最後です……ふふ」
芥川をつまみだそうとする瀬田を、竹中が制止した。
「……僕の出番まで、このまま行けばあと五分と三十二秒。……そこまでです」
「十分です。……改めて言いましょう、あなたは殺意をもって、意図的に、黒田さんを殺しました」
「…………また随分な台詞ですね。ですが芥川さん、わかってますね?」
「ええ。今度は証拠を持ってきましたよ……」
芥川は、懐から手帳を取り出した。
「今からいう言葉に、間違いはないですね?」
不敵に笑うと、芥川は手帳に書かれた言葉を並べた。
「まず黒田さんが『どうして俺が』。続いてあなたが「どうして俺が殺されないといけないんだ』。ここまではどうですか?」
「その通りです」
「次が重要なんです。『ご、い、死ね』と黒田さんが言ったんです。……これ、ずっと気になってたんですよねぇ……「ご、い」これいったいなんなんでしょう?」
「さあ」
「ご存じのはずですよ。ちょっと台本お借りしますね……」
芥川はページをぺらぺらとめくると、「ここ」とあるラインマーカーの引かれた箇所を指差した。
『五月蠅い、死ね』
「……これです、「うるさい」。……確かにこれを読めない人が見れば、まず「ご」と言ってしまうのもうなずけます。あなたの計画では素直に「うるさい」と読んでくれるはずでしたが、しかし泥酔した黒田さんは咄嗟にこれが読めなかった、そしてあのような妙な会話が生まれたんです。まさか「うるさい」と言おうとして「ご」と言ってしまう人はいませんからね、明らかにこの時、黒田さんは何か言葉の手本となるものを読んでいた、それがこれです」
竹中は、何も話さなかった。
「…………自供、してくださいますか?」
スタッフたちの視線の中、彼はうなずいた。
「…………竹中さん」
瀬田の声に、竹中はニコリと笑った。
「伊野君を呼んできてくれ。喜ぶぞ」
彼はそういうと、舞台を後にした。
廊下のソファで、芥川と竹中が並んで座る。
二人とも何も話さないので、自動販売機の音が妙に大きく聞こえた。
「……役者になんかなるんじゃなかった」
と、竹中が口を開いた。
「脚本家としてやってれば、殺人用の脚本が書けたんだけどなぁ」
「……一番のミスは、芝居の脚本をそのまま抜粋したところでしたねェ」
「ったくアイツは……いつもは陽気な奴なんですけどね、酒飲むと馬鹿になっちまうんですよ」
「せめて、ルビを振っておくべきでした」
「…………ところで、いつから怪しんでたの? 割とすぐに目ぇつけられちゃってたけどさ」
芥川はニコリと笑って、蝶ネクタイを直した。
「最初にお会いした時です」
「……あっれ、なんかしくじったかな」
「あなた、異様なまでに悲しんでおられた。黒田さんを殺した自分が悪いと言わんばかりに」
「当たり前でしょう。……芝居が下手だったかな」
「いいえ? お上手でした。しかし思い出してください、黒田さんはあなたを殺そうとしたんですよ? あなたはそれにおびえて、自分を守るために彼にナイフを立てた。……そんな人間が、憎しみや怯えが全く感じない筈がありません。何とか自分を正当化しようとする「殺したのは理由があったんだ」と。……しかしあなたは、殺したことを悔いるばかりでした」
竹中は「あっ」と目を覆った。
「あー……あそこかぁー……!」
「演技が上手すぎるのも、玉にきずですねェ……ふふ。さ、参りましょうか」
「また送りましょうか?」
「いいえ、お返しに今度はこちらが送って差し上げます。……そろそろ、来るころですので」
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。