12.理由
あの後、私は授業を受けたが3時限目の途中で体調不良を訴え、早退することになった。
そうして、初めの頃より随分ましになったが、
未だに聞こえる声を出来るだけ無視しながらの帰宅をすることになった。
最大の懸念だった電車での移動をどうにか終えて、私は最寄り駅で一息をついた。
平日の午前だった事もあって、人気が少なかった事も助かった。
…如何してこんな事になったんだろう。
私は沈む気分を抑えて、駅から家までの道のりを独り歩いていた。
ふと、視線を感じて振り返ったものの誰もいない。
それでも何処か粘つく様な気配を感じた。
コツコツコツ。
私は痛む頭を抑えて、速足で歩く事にした。
そうすると、誰もいない筈の一本道から後を付ける様な音が聞こえてきた。
コツコツコツコツコツ。
コツ、コツ、コツ、コツ。
私が足を止めると相手の足音も止まる。
これはもう確定だ。
私は家まで道のりを全力疾走する事になった。
幸い、母親は外出中だった。
私がもどかしく玄関の鍵を開けると体を滑り込ませ、すぐさま閉めた。
そのドアを閉める時の一瞬の隙間に視た事のある黒い男が、
道の向こう側から私に薄く笑いかけた、気がする。
ぞわぞわする寒気を感じた私は、
一気に階段を駆け上がると自分の部屋のベッドに潜り込んだ。
初めは自分を落ち着かせるために取ったその行動は疲労感も相まって眠気に誘った。
ねえ、おれといっしょならきみはひとりじゃないよ。
いままでずっとさびしかっただろう?
つらかっただろう?
おれといっしょにいれば…。
ちがうんです。
わたしはしずかにしゅちょうする。
たしかにいままでずっとひとりでした。
かなしくて、
こわくてたまらなかった。
けどわたしはもう…。
ピピピピ
何かの音で目が覚めた。
携帯の呼び出し音だと気が付いた私は反射的に通話ボタンを押した。
「伊都橋さん?」
耳に心地いい低めのアルトの声だ。
何度も話してきちんと憶えている。
この声は…。
「篠宮君?」
「そう、今日会えなかったから電話しちゃった。」
「そう。」
私は深く息を吐いて、安堵してしまった自分に気が付いた。
何故だかは分からないが、きっと相談できる人だと思ったのだろう。
「今日は体調が悪くて、早退して家でずっと寝てたわ。」
「あ、ごめん。起こした?もう具合はいいの?」
「うん、大丈夫。眠ったら、大分気分が楽になった。」
「…ひょっとして何かあった?」
「うん。まあ、ちょっと。」
「話して。」
断定形だった。
きっと私はよっぽど弱った声で話しているんだろう。
大きく息を吸って、心を静めてから私はゆっくりと話し始めた。
「今日、幽霊みたいな男の人を視たの。彼が生きている人と見分けが付かなくって、
そんなこと初めてで私はパニックになっちゃって…。それで吃驚していたら、急に声が…。」
「声?」
「多分、実際に耳で聞こえる声じゃなくて人が心で思っている声。
朝の電車に乗っていた時は隣に居た人だけだったんだけど…。
学校に行ったら、それが洪水みたいに聞こえてきて。
我慢したんだけど、それがどうしてもそれが耐えられなくて早退しちゃった。」
私は出来るだけ大した事がないように軽い口調で話した。
それから暫く、電話口で沈黙が続いた。
私が篠宮君?と問い掛けようとした時に彼の深刻そうな声が響いた。
「ごめん。」
「え?」
「辛い時に傍に居られなくて、ごめん。」
「そんな。」
私は咄嗟に首を振って否定した。
それが篠宮君に見えない事に気が付き、慌てて言葉を続けた。
「こうして、相談に乗ってくれただけで十分よ。」
「そう?」
「うん。」
それは私の本当の気持だった。
今まではどんなに怖い目にあっても話す人すらいなかったのだから。
気持ち悪がらずに話を受け止めて、真摯に相槌を打ってくれる人がいる。
それはとても幸運な事だった。
外を見ると日が落ちて暗くなっていた。
そんな中で彼と二人話していると内緒話をしているようで可笑しな気分だった。
「僕もそうなった事があるんだ。」
「本当?」
「小学校ぐらいの時かな。人の心が急に聞こえるようになって暫くして止んだ。
自分の心理状態に関係あるみたいで、冷静でいれば聞こえづらくなる。
あの頃はおかしくなりそうだったよ。その後、力が大きくなった。」
「そんな。」
今でも充分大変だと言うのに、これ以上危険な目に遭ったりするんだろうか。
そんなことになったら、まず普通の日常生活を送る事は困難になるだろう。
例えば大人になって働いたり、結婚するのも難しくなる。
今まで目を逸らしてきた将来の事を突きつけられて酷い目眩がした。
どうして、私がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。
私は普通に生きたいだけなのに。
今まで心の中で繰り返してきた問いの答えはやはりなかった。
「伊都橋さん、今から会える?」
「う、うん。」
反射的に頷いてしまったが、彼は今何と言った?
そう、我に返った時は遅い、それはもう決定事項になってしまった。
篠宮君は私の自宅の近くにある公園の場所を聞き出すと、そこで待ち合わせる事になってしまった。
全く、彼は行動力があり過ぎる。
私はそう心の中で文句を言いつつ、慌てて服を着替える事になった。
気合いの入った格好で行くのも行くのも可笑しいが、着古したジャージ姿で行く選択肢はなかった。
鏡の前で慌てて髪を梳かして、薄く化粧をする。
それからシンプルなブラウスにスカートは避けて、無難にパンツルックにした。
これなら、やや綺麗めの部屋着でも通るだろう。
もう時間はすぐそこに迫っている。
途中で会った弟にはコンビニに行って来ると言って待ち合わせ場所に急いだ。
慌てていたからか、視線は感じたものの気にならなかった。
「伊都橋さん。」
篠宮君は既に待ち合わせの場所に来ていた。
彼は仕事帰りだからか、前回遊んだ時に見た私服よりもずっと大人っぽい格好だった。
全体的に暗色で纏めていて、所々にシルバーの装飾品が見える。
私はあのままの恰好で来なくて良かった、と心底思った。
篠宮君はやや疲れた様な雰囲気があった。
「お仕事大変だったの?」
「うん、あんまり上手くいかなくて。
それより、急に呼び出してごめん。明日も学校に来るだろう?」
多分、彼は私が家族と折り合いが悪いのに気が付いている。
余り家に居たがらないのを分かっているのだ。
ふと、それを直感した。
「これ、あげる。」
「お守り?」
「そう、僕が大変になった時に持っていた奴。効果は保障するよ。」
「…ありがとう。けど、どうしてここまで色々やってくれるの?」
それは本当に疑問だった。
篠宮君は私に拒絶されても近づいてくる。
今まで気が付けば、何回も守ってくれた。
それは何でだろう。
「…どうしてかな。人と違ったものが視えると、ちょっとしたリアクションで引かれたりするだろ?
凄い窮屈だよ。ずっと、気楽に話せる人が欲しかったんだ。丁度同年代だったし、いい友達になりたいと思った。
色々あって伊都橋さんの事を知って行く内に、何て言うか凄く危なっかしい子だと思うようになった。
大人しそうに見えて凄い無茶をするし、体は折れそうに細いし、目が離せないって言うか。」
自分の心の中を探るようにしながら、彼は話していった。
そう言えば、篠宮君の心の声は聞こえない。
彼には効かないのかも知れない。
それでも、この時私は篠宮君の心の声を直に聞ければいいのにと強く願った。
「やっぱ、上手く話せないね。こういうの。」
彼は大きく息を吐いて、そう言った。
さっきの話は器用で不器用な篠宮君の本音だろう。
私は彼の内側に羽で撫でる様にして触ったのを悟った。
「妙なことを聞いてごめんなさい。それから、ありがとう。」
「あ、うん。どういたしまして。」
篠宮君はちょっと照れたように微笑んだ。
そうして、もう夜も遅いからと言って別れた。
私は彼の姿が見えなくなるまで、公園で見送っていた。
これからの事を考えたら、不安要素が一杯あった。
それでも私が落ち着いていられるのは、多分篠宮君のおかげだった。
彼がテレビにも出ている霊能力者だと言う事を分かっていても、
自分の能力が知られた時、どんな目で見られるのかとても怖かった。
けれども、篠宮君は私を普通の女の子として扱ってくれた。
それはずっと私が望んでいたことでもあった。
私は密かな幸せに浸っていた。
だから彼と二人でいる所を黒い男が貼りつく様な眼で見ていたのに気が付かなかったのだ。




