よもつひらさか、くだりませ。
そこははるかに、暗かった。
ただしずかな闇が満ちているだけの、そんな空間。
そこに立っていることに気づいたのは、つい今しがた。
どこから来たのかも、どこへ行くのかも分からない。ただ優しい闇があるだけだから。
彼女は両手のひらを上げてみた。見えない。右手で肩を触ってみた。どうやら肩はある。見えはしないけど。そこで、ぺしゃりと座っていることにした。
どのくらいかして、ふわふわと人の寄る気配がした。機械的に、首をそちらへむけるけど、やはり何が見えるわけでもない。その気配はこう言った。
「待ったかの」
歳経た老女の声である。彼女は答えた。
「いいえ」
その声には何の感情もこもらない。
老女の声は不思議そうに、
「肝の据わったおなごじゃの。この黄泉路に来て、こうまで動ぜぬとは。」
彼女は答えない。老女のほうから、ごそごそと何かを探る音がして、
「待つがよい。今明かりをつけてやろうほどに…」
「やめて!」
彼女は鋭く叫んだ。
「…なにゆえに」
呑まれたように老女が訊く。
「何でだろう、でも、」
沈黙が落ちて、彼女は言った。
「つけなくていい。」
「…左様か」
老女は動きを止めたようだった。
「ではどうする」
「…どうもしないわ」
「そういうわけにもいかぬな。ここは黄泉の路。どこでもないところ。はざまの世界。この空間自体が、そう長くは持たぬ。いましは、ゆかねばならんよ」
「そう」
すると、彼女はゆらりと立ち上がり、歩き出した。
「これ、どこへゆく」
老女の声があわてて追った。
「わからないわ。でもどこかへいかなきゃならないんでしょう。だから、歩くわ」
「左様か。さてもさても、ひょうげたおなご。なれば、われもゆこう」
するすると、着物をするような音がする。
「どうしてついてくるの」
彼女は立ち止まった。
「ここにいましを招きしは、吾がゆえに」
「あなたが?」
「そして吾を招きしは、いましがゆえに」
「どういうこと?どっちなの?」
「そなた、いうたであろ。電車に乗って窓の外を眺めしときに、『死にたい』と」
「!…ええ…」
「ふとんにくるまって『死ねばいいのに』というたであろ」
「うん」
「漫画を棚にしまいながら、死にたいというたであろ」
「そうね」
確かにこのところ、何をするにしても口をついて出ていた覚えがある。積極的に実行しようとしていたわけではないが、どういうわけか口から出てくるのだ。
「いましの口から出たことは、言霊となる。ゆえに吾が現れた。いましを、招きに」
「そう…」
なんとなく彼女は納得した。自分が呼んだのだ。それなら仕方がない。
「それじゃあなたは、私を連れて行ってくれるの?あの世へ」
「ふむ」
「やさしいね。ありがとう、おばーちゃん」
「お、おばーちゃん?」
それはそれは親しげに呼ばれて、老女は戸惑った。
「いましは吾が怖くはないのか」
「うん」
闇の中で誰にも見えない笑みを浮かべながら、彼女は微笑んだ。
「だって、私の言葉に答えて、きてくれたんでしょ?すごい親切」
老女は絶句した。
「さあ、じゃあいきましょう」
「まてまてまてい」
老女はあわてた。
「左様に簡単に言うでない。いましには取り立てて黄泉に行くゆえでもあるのか」
「…?とりたてておもいつかないわ」
「ならば、なぜゆえに、左様にたやすく逝こうとするのか」
「だって、おばーちゃんはそういうひと、なんでしょ?」
「いやいやいや」
老女はいったん咳払いをし、仕切りなおした。
「吾の役目は、時を迎えしものを。さだめを迎えしものを、心静かに黄泉路をあないすること。自らさだめを絶ちて吾の手をとるものもおる。しかるに、いましは時を迎えたわけでもない。自らさだめを絶ったわけでもない」
「そういえばあたし、首つった覚えも飛び降りた覚えもないわ」
「じゃろう。…コホン。いましは現し世にても、ただ一刹那。刹那のときを、いまかように、吾と話し、吾と歩き、永く感じておるだけよ。いうたであろ、ここはひどく不安定な場。刹那のときしか立ち行かぬゆえ」
語る老女が、彼女をじっと見るのが分かった。
「吾が招かれしは、ひとえにそなたの言霊ゆえ。いままで黄河砂、不可思議のものをあないしてきたが、いましのごときものははじめてよ。さて」
息をついて、老女は鋭く問うた。
「いましは黄泉へ下るを望むか?」
「べつに?」
沈黙が落ちた。それこそ地獄のそこのような沈黙だ。
「…は?」
「だから、別にどっちでもいいの。死ぬんでもなんでも」
彼女は見えない手をホールドアップしてけろりといった。彼女にも老女が座り込んで頭を抱えだしたのは見えなかった。
「…娘よ」
「ん?」
「先も言うたように、われには黄泉路をあないする勤めがある」
「そうなの」
「そうなのじゃ!ぶっちゃけいそがしいのじゃ!」
老女は怒声を上げ地団太をふんだ。
「どうしよ。いそがしかったらいいよ?他のとこにまわってくれたら」
「だーかーら」
いらいらと老女は言う。
「ならば何ゆえ離してくれぬ」
「え?」
「われがここにつなぎとめられているのは、ひとえにいましの言霊ゆえ。なぜあれほどに現し世で『死』というた」
「そんなに言ってる?」
「然り。たとえるに、」
ごそごそと着物を探る音がして、それからぱらぱらと紙をめくる音がした。
「え、メモってんの?」
「気分じゃ気分。まずいましは、今朝方おきて、『ああ死にたい』というた。着替えて家の外に出、階を降りつつ『死ねばいいのにな』というた。道で昔やらかした失敗を思い出して『はー死にてー』というた。電車で席が埋まっているのを見て『死ぬ』というた」
「ちょ、ちょっと」
老女は自分の行動をどこまで見ているのだろうと、なんだか彼女は急に恥ずかしくなってきた。
「駅の雑踏の中で『マジ死ぬわ』というたな。それから上司に3度目のコピーミスを叱られ『死にたい』と思うたな。昼休みに菓子パンで満腹になってぼんやりしながらポツリと『あー死ぬ』というたじゃろう」
ぱたりとノートを閉じるような音がした。
「こんなことを、いましは毎日いうておる」
「わ…分かった…」
闇で赤くなった彼女の顔は見えない。
「これだけの言霊を振りまき続ければ、われも招かれよう。これでもいましは死を望まぬ、というかどっちでもいいと言うのか」
「ご…なんかごめんなさい」
ごそごそと音がして、老女の気配が低くなった。座り込んだようだ。
「いましは黄泉路をナメとんのか」
「ごっごめんなさい」
彼女も老女のそばに座り込んだ。はーあっと大きな老女のため息が聞こえ、ばさばさと頭を振る音がした。
「どちらにしても、いましが決めぬことには、吾もいましもこの場につなぎとめられたままじゃ。刹那のときを、永遠に」
「だ、だいじょぶ、そんなにかからないと思う、から、っていうか」
彼女は見えない頭をかいた。
「今おばーちゃんによみあげてもらってさ」
「おば…うむ」
「なんかあたしくだらない女だなって思い始めた」
「そのようじゃな」
「うっ…うん。だって、こうやって聞いてみると、そんくらいで死ぬう?ってことで結構簡単につぶやいてるのね、あたし」
「うむ」
「そんなに…頻繁?だとはおもわなかったのよ。ごめん」
「吾に謝ることではない」
「ただね」
急に、彼女の声が空虚に染まった。
「おばあちゃんのいう、現し世?で、そのことが起こってるさなかのときはね、つい、思っちゃうのよ、死にたいって」
「……」
「何でそんなふうに思うかは、自分でも分からないんだけど…」
彼女はそのまま、体を投げ出して腕を伸ばし、寝転がった。
「ここはいいところね、おばあちゃん」
「…そうかの」
「静かで、何にも見えない。誰も居ない。すごく安らぐ」
「明かりはいらぬと、言うたな」
「うん。この闇が、すごく落ち着く。このまま、とろとろねちゃいそう…」
(この娘…)
老女の目が驚きに見開かれた。闇に憩い、闇に沈む。意識すらも手放す。
「それが、黄泉路じゃ」
「ああ…そっかあ…そういうことかあ…」
彼女はふわりと闇に微笑んだ。
「娘よ」
「んー?」
「さように…左様に現し世は、いましのみたまを繋ぎ止められぬのか」
「うん…」
彼女は気持ちよさげに寝返りを打ち、がばと起き上がった。
「あ、でもコピーミスで死ぬのはちょっとあんまりかなって思った」
「左様か」
老女は何も言わず、明かりをともした。まぶしくないように、蛍の光のような、青とも緑ともつかぬ、小さな小さなひかり。今度は彼女も文句は言わなかった。老女の手元で光る鬼火。それに照らされて、着物のあわせと長い髪に覆われた人影が見えた。彼女の手も見えた。
「吾は…」
老女が空を仰いだ。空はないが、ざんばらの髪から花の先だけが少しのぞいた。
「吾は、黄泉で憩うた魂を、再び現し世へあないする役目も負うている」
「そうなんだ」
背側の地面?に手を突いて、のんびりと彼女は相槌を打つ。
「そんなにも…」
「…おばーちゃん?」
彼女は不審げに老女の顔を覗き込んだ。老女の声が震えていたからだ。
「いましを、そんなにもつなぎとめておくことすらできぬ現し世に、吾は御魂を送り出し続けていたのか…?」
「えっちょっまっえ?」
老女の罪悪感と絶望の声と、鬼火をかざした手が震えるさまに、彼女はあわてだした。
「おおばーちゃん!そんなことないよ!わたしのは単なる口癖で、世界には楽しいこともいっぱいあるから!」
「いずれにあるのか」
「それは…」
「いましをつなぎとめることもできぬ現し世に、なにがあるのか。いましは吾をこの場に招くほど死の言霊を振りまく。左様な現し世になにがあるのか」
「ばーちゃん!」
闇の世界に彼女の声が響いた。確実な言霊をもって。
「私を、現し世に、戻して」
老女が、髪の間から彼女を見つめて問う。
「よいのか」
「みつけてくるから」
老女の手をとった。
「おばーちゃんが送り出して、よかったって思えるものを。私が現し世にみつけてくるから、だから、」
ぎゅうと手をにぎりしめていった。
「ここでまってて。また会うまでに、絶対見つけてくる。もうくだらないことで死ぬとかもいわない」
「いまし…」
老女はため息をついた。
「分かっておるのか。この場での言霊の力は現し世の比ではないぞ。いましが約した言の葉は、いましを強く縛る」
「そうなんだ。じゃあ、言う」
彼女は立ち上がり、すうと息を吸い込んで、大声で叫んだ。
「私を、現し世に、つなぎとめるものは、かならず、あるーーーーーー!」
闇は彼女の言葉を吸い込むことなく、世界全体に響いた。
余韻が収まってから、老女はフンと鼻を鳴らした。
「知らぬぞ、再び、ここでまみえて、」
彼女に始めて顔を向けた。笑顔だった。
「黄泉へはくだりとうない、と泣くはめになっても」
「いいじゃない。そしたら、またおばーちゃんが、おくりだしてくれるんでしょ?」
「そうじゃな」
世界が、崩壊し始めた。闇にひびが入り、今まで立っていた場所もぐらつき始める。
「うわわわわ」
転びそうになって手を突くが、手を着く場所も混沌としてきた。
「この場も役目を終えたようじゃ。刹那のときが動き出す」
「おばーちゃーん」
ばらばらとくずれゆく世界で、彼女は叫んだ。
「また、くるからー!」
老女はゆっくりと笑って手を振った。
階段を一段くだって、彼女はなぜかよろめいた。昼休みが終わって、上の資料室からファイルをとってきたところ。
ぐだるきざはしひとせつな。たったそれだけの邂逅だったのだ。
いつものとおり、彼女は事務机に戻り、ファイルの中の資料をデータとつき合わせていく。
「外回り戻りましたー!」
「おかえりなさーい!」
「おかえりなさーい!」
課の全員が声をかけるのが慣例だ。彼女がお茶の準備をするのも。
「お天気どうでした?」
「ふえー、まだ夏でもねえってのに、暑くて死にそうですよ」
ぎっと彼女はにらみつけた。にらまれたほうが硬直するほど。
「な、なに?」
「え?…なんでしょう?ああ、そんな簡単に死にませんよ。はい、お茶」
「お、ありがとう」
ぬるめに入れたお茶をぐっぐっと飲み干す
「あー生き返るう!」
彼女は今度は、にっこり笑って言った。
「でしょ」