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駒導と鷹

   駒導と鷹


 恵治十六年。冬。道志が博祥院で居候として暮らすようになって二か月半が経っていた。相変わらず無口ではあったが、居候人として毎日生活を共にするうちに、少しずつではあったが心を開くようになっていた。最近では、道志に与えられている離れの一室から出て、居室に顔を出すことも多くなった。道志に何かと世話を焼く秋登は、道志が居室にひょっこり現れると、満面の笑みになって、

 「あら、道志。今手空いている。白蓮草をこれから煎じるのよ。手伝って」

などと言って、道志に色々と教え込んだり、手伝わせていた。

 そんな時は決まって道志は何も言わず小さく頷くと、すっと秋登の後ろに立ち、秋登に言われたことに素直に従っていた。

 白蓮草は山間の地域で採れる一般的な薬草であり、どの治療専所でも手に入る大衆薬である。傷口や打身に良く効くと言われており、また煮出しして粉末状に乾燥させた白蓮草はあらゆる腹痛に効果があった。そのため、患者の数の多い博祥院では常日頃からこの薬草を煎じて大量に保存していた。

 「道志。あなたは逞しい体をしているのに、とても指先が器用なのですね。秋登、あなたと同じですね」

 総馬は二人肩を並べて薬草を煎じる秋登と道志の背に向かって嬉しそうに言った。

 この約三か月の間、道志は総馬や紳作から薬草の種類やその煎じ方、傷口の止血方法や骨が折れた場合の治療法などを学んでいた。大成帝国随一の学問の国統格では、様々な学問が集結されており、ありとあらゆる知識人・博識人が集まる学術国家であった。多くの学問が発展している中でも、医学術を極めた医師、薬草の知識に長けており、薬草の選別、煎薬調合を専門とする薬師の社会的地位は高いと言われている。

 博祥院院長綾峰総馬はもちろんのこと、妻である秋登も二人の息子も、医師と薬師の両方の黒格を取得していた。そして、博祥院で学び巣立っていった多くの弟子たちも、その有能さは一際高く、それぞれの土地で大いに活躍をしていた。その才学非凡であり、かつ温厚質実な綾峰総馬の目から見ても、不思議な縁でこの博祥院に居候することになった青年は、頭脳明晰でやはり何かその非凡な雰囲気を漂わせていた。あまり自分のことを多くは語らないため、総馬には道志の生い立ちやそれまで育ってきた環境を想像の範疇でしか考えることができなかったが、今では息子のように心から大切に思っているこの青年をいずれは医師にと思うようになっていたのである。



吐いた息も凍ってしまいそうな凍てつく寒さの日。道志は総馬の使いで、晋博郡の撰宋せんそうにある薬草院健信院に薬草を買いに行く道の途中であった。博斗から晋博までは、大人の足で二日と半分はかかる。しかし、道志が一走りすれば、あるいは丸一日で着いてしまうかもしれない。特に急ぎの使いではなかったが、道志はいつものように長身の体に似合わぬ速さで晋博に向かう晋宮街道を、風を切って走っていた。

道志はふいに前方からの大きな呼びかけに足を止めた。未だに体に染みついている癖で、道志は全身に警戒心を漲らせ、少し身構えたようでもあった。

「お前、急いでるんか。馬はどうや。乗らへんか」

道志が前方を睨みつけるように見ると、体格の良い若い男が右手に馬を引いてこちらに向かって来るのが分かった。その見知らぬ男は声がやたらと大きく、道志との距離はまだ幾分かあったはずだが、あたかもすぐ側で話をしているかのようにはっきりと聞き取ることができた。

道志が無言のままで怪訝な顔を向けていると、その男は豪快に声を上げて笑い、

駒導くどうや。そんな恐い目で見るなや。俺は駒導や」

と通る大きな声で言った。

 駒導とは馬引ともいい、旅人を駒の背に乗せて目的地までそれを引いて走る仕事をする者のことを指す。大成帝国にはこれを生業とする者が多くいたが、帝都勇誠と壮樹国を含む北西部では駒導を見かける機会は比較的少なく、幼い頃から長旅の経験をしている道志も、本物の駒導に声をかけられたのは初めてのことであった。

 「ここら辺では見かけへん顔やな」

 駒導の男は大股で道志のすぐ目の前まで近づくとやっと足を止め、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて道志の顔を食い入るように見つめた。

 「使いで晋博の撰宋まで向かう途中です。そんなに遠くではない。馬は必要ありません」

 道志は警戒を緩めずにこう言って、軽く頭を下げながらすっと駒導の横を通り過ぎるとそのまま歩き始めてしまった。

駒導の男は、表情を一切崩さずにそのまま道志の後ろ姿を見つめていたが、しばらくしてその男も歩き出し、少し距離を置いて道志の後ろをついてきた。

「まあ、そんなこと言わんと。馬にでも乗ってのんびり行くのはどうや。俺が引いてやるから」

と、道志の背に向かって大声で話しかけた。

 それでも道志はそのまま駒導を無視して早足で歩き続けた。

 「愛想悪いのう。分かった。銭はいらんから、話に付きおうてくれや」

 駒導はそう言って右手に引いていた焦げ茶色の艶やかな毛をした馬をぐっと自分の方へ引き寄せると、その毛を撫でてやりながら道志の右横にくっついて歩き出した。

 「俺は久瀬勘九郎って言うねん。年は二十五や。お前はいくつや」

 久瀬と名乗ったその男は道志の横顔を覗き込んで聞いたが、初めから無視されるであろうことは分かっていたのだろう。道志が何も答えずひたすら歩き続けると、一呼吸も置かずに、

 「晋博に何しに行くんや。何の使いや。お使いには馬ってゆうてな」

と一人で勝手に言って笑った。

 「俺はな雇われもんやないねん。せやから自分の腕と人間を見る目で稼がなあかんのや。今の御時勢や。ほんま命懸けやで。恐ろしいわあ」

 久瀬は久瀬で道志の反応を無視して話続けた。

 久瀬勘九郎は、そのきつい訛りから雄焔国の育ちであることが容易に想像することができた。腕と首が太く、非常に体格が良い体には不釣り合いなくらい小さな小刀が腰の胴巻にぶら下がっている。細い目と薄い唇で作る満面の笑みは愛嬌が溢れていて決して憎めるものではなかった。

 道志は表情を変えないまま、まっすぐ前を向いて歩いていたが、一度足を止めて右斜め後ろについてくる久瀬の方に顔を向けると軽く頭を下げてその場に久瀬を残して走り出してしまった。

 「ほんま、愛想悪いのう」

 それでも久瀬は機嫌を損ねることなく暢気にこう呟くと、嬉しそうに道志の背中をしばらく見つめていた。しかし、それでも久瀬は道志以外の客を探すつもりはないらしく、ひょいっと自分が連れて歩いていた馬に飛び乗ると、

 「ほれほれ、走れや走れ。あんの小僧見逃したら怒られんで」

と言って、何がおかしいのか並びの良い前歯をむき出しにして大笑いすると馬の腹を軽く蹴って道志の後を追った。

 いくら道志の足が速くても馬の足には敵うはずがない。久瀬はすぐに道志に追いついてしつこく道志の右横をくっついて走った。道志は少しも久瀬の方を見ようとはせず、そのまま走り続ける。久瀬は足軽やかに走る道志の額にも首筋にも一向に汗が流れないことに感心しながら、馬上から横目で青年の体をじっくりと観察していた。背が高く色白で、全体的に細身で頬がこけていたが、首筋や肩から上腕にかけては非常に逞しく肉付きがよい。脚が長く颯爽と走る姿は、今自分が乗っている馬のように野性的な美しささえ感じることができた。ただしその軽やかさの中に違和感を感じることがあった。久瀬はしばらく道志の走る姿を観察して、すぐにその違和感の原因に気づいた。久瀬の表情が嬉々としたものに変わる。

 「おいっ、お前。左肩どうしたんや」

 久瀬は一歩馬の歩を道志より前に進めて、馬の背から大きな声で聞いた。

 道志は目だけを動かして一瞬だけ久瀬を見上げたようだったが、すぐにまた視線を前方に戻して、

 「あなたには関係ない」

と一言だけ言った。

 「ははは。ほんまに愛想悪いのう」

 久瀬は愉快そうに笑い、

 「確かに俺には関係のないことやな。せやけど知りたいもんは知りたいんや。別に減るもんやないんやから」

と少年のような興味津々の目で道志を見た。

 それでも道志は口を固く噤み、そのまま走り続けた。道志は無表情のままではあったが、どことなく悲しく、どことなく強いその独特の雰囲気を久瀬は決して見逃さなかった。

 太陽が完全に昇りきった頃、相変わらず自分にぴたりとくっついてくる久瀬勘九郎と名乗った駒導とともに、道志は晋博と博斗の境町である美代に到着した。道志は美代の町に入ってしばらくしてから走るのをやめて、歩幅を緩めた。道志は周りを見渡したりすることなく真っ直ぐ前を見つめたまま美代の町のほぼ中央を走る大通りを進んだ。途中、水飲み場を発見するとふと足を止め水を飲んだ。その間も久瀬は笑みを浮かべたままずっと道志の横に張り付いたまま離れなかった。久瀬は美代の町に入っても馬上のままであったが、水飲み場で道志が足を止めると、ひょいっと馬を降り道志と肩を並べて水を飲み始めた。

 「ひゃあ。こんだけ冷たいと敵わんなあ」

 久瀬は大げさにそう言って、じゃぶじゃぶと顔を洗い始めた。すっきりしたという顔で久瀬が顔を勢いよく上げると、隣に道志の姿はなく、後ろを振り返ってもその姿は見当たらなかった。それでも久瀬は慌てることもなく、厚いごつごつとした手で顔についた水滴を拭うと、

 「まあ。間違いあらへんな。あの身のこなしといい、警戒心といい。どうやら染みついてもうたもんはそう簡単には脱けんのやな。それにあの左肩。間違いあらへん」

としゃがれた声で呟いた。


 道志はしつこく纏わりついてきた駒導を美代の町で撒くと、再び走り出してそのまま美代を抜け、啓清、久能、琉晋の町を一気に駆け抜けると、夕方には篠辺しのべの町に辿り着いた。篠辺の町から撰宋までは走れば数刻の距離である。美代を出てから一度も足を止めずに駆けてきたからであろう、さすがの道志の顔にも一筋の汗が流れていた。

 秋の日は釣瓶落としとはこのことだろうか。ほんの少し前には、まだ篠辺の町は日に照らされていたはずなのに、ふと気づくとうっすらと暗がりに包まれていた。石造りの民家と民家の間から漏れ出る橙色の夕日が淡く、道志の顔を半分だけ照らしていた。篠辺の井戸で最後の給水の時間を取ると、道志はその日のうちに撰宋に到着するつもりで、軽く足を伸ばしたり腰を曲げて筋肉を解すと、薄暗くなった篠辺の町中を走り出した。道志の走る速さは一切変わることがなかった。恐るべき体力だ。それでも不自由な左肩が少し痛むのか、篠辺に着いた頃から道志はしきりに右手を左肩に当てて擦る仕草をしていた。

 篠辺の町の外れ。川沿いに出て、道志は土手の道を走っていた。篠辺の町はすっかり暗闇に飲み込まれて、珠久川の川面も漆黒に染まり、冬の夜月がその中に静かに浮かんでいる。夜道の移動は暗く危険を伴うが、今夜は幸い月明かりが道志の進む道を照らしてくれた。

 篠辺を離れてすぐ、道志は足を止めることになった。前方の暗闇に人影を見つけたからだ。道志はさっと身構え、前方の影に目を凝らした。

 「よお。また会ったなあ。奇遇やなあ」

 その人影は馬を引きながら人懐っこい大きな声で言った。

 明らかに久瀬は道志を待っていたのでる。奇遇でも何でもなく、久瀬は撰宋へ使いで行くという道志を先回りして篠辺の町で待っていたのである。

 それでも久瀬はわざとらしく驚いた表情で道志に駆け寄ってきた。

 「あなたは一体…何者だ」

 道志はほんの少しだけ声を荒げて言ったようだった。

 「せやから俺は久瀬や。駒導の久瀬勘九郎やって」

 久瀬はにやりと不敵な笑みを浮かべたまま道志に近づくと、互いの袖がくっつくほど肩を寄せて道志の耳元に顔をそっと近づけた。

 道志は一瞬体を避けようとしたが、相手から危険な気配は感じられなかったためであろう、立ったままの姿勢で久瀬の言動から何かを察しようと鋭い目つきで久瀬の横顔を睨みつけていた。

 「なあ。ほんまの名前は何ていうんや。教えてくれや」

 久瀬は小声で呟いた。

 道志の目つきはさらに鋭いものに変わったが、表情には一切変化はなかった。

 「何者か分からぬ者に私事を話す謂れはない」

 「ほほお。若造のくせに随分と堅苦しいこというんやな」

 久瀬は組んでいた腕を解くと分厚い右手で道志の右肩を軽く叩いた。

 (間違いない。この男、俺の素性を知っている)

 道志はこの久瀬という変わった男から何かを感じ取っていた。その時、道志の右肩から離された久瀬の右手首に付いているものが道志の目に留まった。

 (鷹?鷹の紋章…)

 久瀬の太い右手首には鷹の紋章が彫られた腕輪が付けられている。

 「まあ、ええわあ。とにかく夜道は危険や。一人より二人、二人より三人、三人よりもっともっと多いほうがええやろ」

 久瀬はそう言って道志に背を向けると、そのまま歩き出してしまった。道志は黙って久瀬の後に従った。

 二人は夜道を微妙な距離を保ちながら歩いていく。久瀬は馬を引きながら前を歩き、その斜め後ろを道志が久瀬と歩調を合わせてついて行く。久瀬は、道志が今か今かと彼を再び撒いて立ち去る好機を狙っているのだろうと思っていたが、意外にも道志は黙って夜道の同行者をあっさりと認めて共に歩を運んでいる。これは久瀬の狙い通りだった。そして道志自身もそのことに気がついており、道志が気がついていることを久瀬も分かっている。しばらくは無言の時間が続いた。秋の夜のひんやりと冷たい風が川縁の丈の長い草を撫でるようにして駆けていく。道志の青銀色の髪がそっと靡く。

 「何が目的ですか」

 風の音が止んだ後のその一瞬の静寂の中で道志の低い声が久瀬の背中に届いた。

 「目的って何のや」

 久瀬はあからさまに惚けた顔で聞き返した。久瀬に自分から何かを語るつもりがないことは明らかだった。

 「款成…名は諒亮。俺のもう一つの名です。もっともあなたはすでに知っている」

 道志が本当の名を名乗ると、久瀬はふっと足を止め大げさに振り向き、細い目をめいいっぱいに見開いて道志を見つめると、

 「その通りや」

と思わず道志が顔をしかめたくなるくらい大きな声で言った。

 「そうや、そうや。知っているとも。款成平治諒亮。恵治元年生まれ。今年で十六になるんやな。壮樹の衛士。いんや、元衛士。剣豪として知られた宰仙流流宗趙李周晋の弟子にして新法示源丞環流の使い手。いんや、これも元やな」

 久瀬は気遣いもなしにずけずけと言った。道志は表情こそ変えなかったが、視線をわずかに逸らしたのを久瀬は見逃さなかった。

 「腰に剣を差していないところをみると、その左腕はもう使いものにはならへんのやな」

 久瀬は意地悪い表情で道志の顔を覗き込むように言った。

 「あなたには関係ない。俺はあなたが俺につきまとう理由を聞いているのです」

 道志は単調に言った。

 「さあね…その目的とやら理由とやらは、お前が一番知ってるんとちゃうか」

 道志に心当たりがない訳ではなかった。


 広大な大成帝国を一身に背負い、覇権をその手に握った大成帝国王を任務上補佐する人間は数多くいる。帝国司報士、帝使長を始めとする高官位の地位に就いた者たちである。しかし大成帝国王を側で支えているのは表立った高位高官だけではない。名も素性もそして過去もすべてを捨て、大成帝国王を命を懸けて守り抜き、帝国王の命令であればどんなことでも遂行する。そんな絶対的な用心棒としての役割を任とする集団がある。それは護影ごかげと呼ばれ、その素性は一切の極秘とされている。誰が護影なのか、それを知っているのは大成帝国王と帝国司報士のみであり、その指揮命令系統の頂点には当然ながら帝国王がいる。帝国王の指示を受け、護影集団の統制を執っているのが忠候ちゅうこうである。護影はその名の通り、影のように身を潜め、決して己が何者であるかを明かさず、影のように大成帝国の側に仕え、ありとあらゆる任務を徹底的に遂行する。

 また主座しゅざと呼ばれる特別任務もある。主座は護影とは違い名を変えたり、その立場を伏せることはないが、官位として確立されているわけではない。主座とは言わば大成帝国王の身の回りの世話役であり、その任務は時に生活の補佐だけに止まらず政務や軍務にも及ぶことがあり、臨機応変に対応する応用力と機転や能力の範囲の広さの両方を兼ね揃えている人物でなければならない。

 この主座という役目のことを別の名で羽馬うばと呼ばれることがある。帝国王に忠誠を誓い、王の羽となってその向かうべき道へと導く者になるようにという訓示から、そしていつも側に控え付き添っている姿から馬のようであるという比喩からそのように呼ばれることになったのである。そのため、主座は羽の生えた白馬の紋章を彫刻した腕輪を身につけている。それと比して護影は、帝国王の側で仕えることに変わりはないが、極秘の探索任務や戦中での使者など、狙った目的は決して外さず、そして日陰での任務が多いことから、黒鷹こくおうと呼ばれる。ただし、護影の象徴である黒鷹の紋章は、大成帝国王と帝国司報士しか知らないのである。

 ちなみに、大成帝国各国の動向を中立的立場から監視するという特別な任務を負った壮樹衛士にも、特別に帝王から紋章入りの腕輪が下賜される。壮樹衛将の紋章は銀龍ぎんりゅうである。


 久瀬は道志の反応を試していたのである。もし久瀬が晋宮街道で捉えたこの青年が、彼が捜していた標的であったとしたら、自分の右手首に付けた黒鷹の紋章が意味するものに気づくはずである。もしそうでなければ、せいぜい珍しい紋章だと思う程度であろう。

 久瀬は道志の反応に満足そうな笑みを浮かべていた。まさに大当たりだったのである。

 「恭先生の命ですか」

 道志の胸の内にあるものが気分を暗くさせる。暗闇に佇む青年の顔にはさらなる翳りがあった。

 「ははは。畏れ多くも皇帝陛下を恭先生とはなあ」

 久瀬はまた一人で大笑いしている。

 道志は自分の質問に素直に答えない久瀬に少し苛立ちを覚えたのか、

 「答えろ。何のために俺につきまとう」

と鋭く言い放った。

 「まあまあ。慌てんと、ゆっくりいきましょうや。逢ったばっかりなんやから」

 久瀬はあくまで調子を崩さなかった。

 「行き先は撰宋やろ。もう少しかかるなあ。ゆっくりお話しでもして楽しもうや」

 久瀬と道志は再び二人の間に同じ距離を保ったまま歩き始めた。

 「諒亮。一つ教えたる。何かの追手や敵の追跡を警戒するんやったら、例えどんな相手でも自分の行き先は正直に言わんこった」

 久瀬はけらけらと笑う。

 「その名で呼ぶな。その名はすでに捨てている。俺は時之道志だ」

 「そんならどうしてさっきもう一つの名やってゆうたん」

 人懐っこく、憎めない雰囲気はこの久瀬という男の大きな特徴ではあったが、それと同時に相手が癇に障るような話し方をするのもその特徴の一つであると言ってもよい。生まれ持って身につけていたものなのか、彼の立場柄身につけたものなのか、道志にはまだ分からなかった。

 「その時之某でこの先一生生きてくつもりなんか」

 道志が黙っていると、返事を待たず久瀬が聞いた。

 「あなたには関係ないと言ったはずだ」

 「その一点張りやな」

 「お前の目的は何だっ」

 「おお、恐いのお」

 久瀬は肩を竦めて見せた。

 実際のところ、久瀬勘九郎の目的は何であったのか。あらためて言うまでもなく久瀬勘九郎は現大成帝国王恭盛高の陰の守り神、護影忠候である。歴代の護影を眺めてみたとしたら、まず間違いなく突出して風変りな男であろう。彼もまた数奇な人生を送ってきた若者であったが、護影になるべくして生まれてきたような奴だと主である恭盛高に言わせるほど、護影としての様々な能力を身につけていた。年は二十五と言っていたが、実のところ何歳であるのかは彼と彼の主しか知らない。

護影に必要とされるものは一つや二つではないが、あらゆる戦場で任務を遂行するための戦闘能力と己の感情を一切捨て、任務遂行のためなら時として冷酷無情な行動も厭わない判断力と遂行能力が主たるものであろう。また、帝国王の命により特定の人物とあらゆる状況で接触を図ったり、行方の全く分からない人間を探索することも重要な任務であった。

久瀬勘九郎が戦闘能力に長けていることはその体躯を見れば一目瞭然であった。しかし、歴代の護影が一切の感情を殺し、沈黙寡言な性格を貫いているにも関わらず、久瀬という男はその人懐っこく陽気な雰囲気からして護影に適した性格の持ち主であるようには見えなかった。しかし、それがまさにこの久瀬が護影忠候であるための最大の利点となっていた。

この変わり者の忠候に、恭盛高が款成諒亮の行方を突き止めるよう極秘の命を下したのはほんの二十日ほど前である。その二十日前というのは、趙李周晋が大成帝国王恭盛高を訪ねたまさにその日であった。恭盛高は、昨年に壮樹から姿を消して以来行方知らずになっているという諒亮の身を案じ、周晋にも何も告げず、極秘で久瀬に諒亮の探索を命じていたのである。

帝都勇誠から統格撰真省までは早馬でも十日以上かかる。わずか二十日の間に諒亮の行方を明らかにしてしまった久瀬の探索能力は並外れていた。情報収集から始めて徐々に探索範囲を絞り、個人の居場所を特定することは並大抵のことではない。しかしこの時の場合、久瀬がわずか二十日ばかりで標的の行方を特定し得た要因には、久瀬のずば抜けた探索能力と勘の良さだけではなく、久瀬自身が一度だけ諒亮を見たことがあったということも大いに役に立ったようである。

恭盛高から久瀬に下された任務は、款成諒亮の行方を突き止めること、あるいはその生死のほどを確かめることだけではなく、他にもう一つあった。

 「俺はなあ、お前さんがどこで野垂れ死んだんか、どこで尻尾垂れて逃げ隠れてんのか見つけ出して冷やかしてやろう思うて来たんや」

 久瀬は悪ぶっている様子もなく、ただ素直に思ったことを言ったようだ。しかしその言い方には、十分道志を傷つける含みがある。生きているのか、はたまた死んでしまったのか。あるいは無事生きているのであれば、一体どこでどのように生活しているのか。それを確かめに来たと言えばよかったのだが。

 「黙れっ。お前に何が分かる」

 さすがに冷静沈着を保っていた道志も、久瀬の皮肉的な言い方に対して激しく怒鳴った。しかし、道志は同時に心の奥を突き上げる虚しさに襲われた。今の道志には言い返す言葉がなかったからだ。道志はやり場のない怒りを、恐らくそれは己に対する憤りであろう、力の入らない左手の拳の代わりに右の拳の中で握り潰していた。

 「款成諒亮はもういない。款成諒亮は死んだ。それで十分だろう。お前の役割は終わった」

 「俺に嘘をつけというてるんか」

 「嘘じゃないさ。お前の主が探している男は死んだ」

 「こりゃ参ったね。死んだのに生きてる。摩訶不思議や。どないしよ」

 久瀬は手で芯の強そうな黒髪を掻きむしるような仕草をした。

 「使いの途中なんだ。もう俺に関わらないで下さい」

 道志はその場を駆け出そうとした。しかし道志の片足が地を離れた瞬間、久瀬の太いが凄まじい速さで道志の首元を捉えていた。道志は咄嗟に身を低くしながら後ろへ一歩跳び下がったが、久瀬の腕は離れなかったため道志は自分の手で久瀬の太い腕を掴み、体から離そうとした。しかし久瀬の腕は硬く引き締まりぴくりとも動かない。久瀬はにやりとしたまま黙っている。道志は必死に久瀬の腕を離そうとするのだが、なにぶん道志の左腕は肩の高さまで上げるのがやっとで、それもあまり長い時間は上げてられない。力が入らない上に痺れてくるのだ。すっと久瀬の腕を掴んだ左手が力なく落ちた瞬間、道志は右足で久瀬の足元を狙って蹴り上げた。骨と筋肉がぶつかり合う鈍い音がしたが、久瀬の体はまったく揺るがなかった。

 「痛いなあ」

 久瀬は何気ない顔で言うと、もう一方の腕で道志の左肩を押し、道志の体を地面に押しつけてしまった。

 「まあ聞けや。お前が瀕死の傷を負うたのは知ってる。しかも剣士にとっちゃあ最も大切な利き腕にな。それでも生きてたんは褒めたるわ。人間はなあ、命一つあれば何度でも立ち上がれるんや。つまり、お前にはまだまだ出来ることがあるっちゅうことや。お前の気持ちは知らん。せやけど恭先生はそう信じてるんやで。さあ、お前は帝国王のその気持ちにどう応えるんや」

 久瀬は相変わらずその顔に不敵な笑みを浮かべてはいたが、その目には鋭い光があった。

 「お前には関係ない…またそう言うんか」

 道志は久瀬の下に敷かれながら体を硬直させた。氷のような地面の冷たさが道志の背中に容赦なく忍び寄ってくる。

 「俺には剣が全てだった。剣がなければもう誰も守れない。俺に銀龍の腕章をつける資格はもうない」

 道志の声は弱かったが、久瀬の目を下から真っ直ぐ見つめる青年の目には底知れない強さがあった。

 (本当にいい目をしてる)

 久瀬は声には出さなかったがそう思った。

 「剣がなんや。剣なんか使えんくてもお前の役目は果たせるんちゃうんか」

 道志はぐっと歯を食い縛る。

 「まあええ、ええわ。とにかく諒亮は生きている。そう報告するからな。それだけや。ええか、手離すで」

 久瀬はそう言ってゆっくり道志の体を押さえつけていた手を離すと、ゆっくりと立ち上がり道志に右手を差し出した。道志はすぐに上体を起こしたが、久瀬が差し出した右手をじっと見つめると、

 「好きにすればいい」

と小さく呟いて自分で立ち上がった。

 「もう…いいだろう」

 そう言った時、道志はすでに久瀬の横を通り過ぎようとしていた。

 久瀬は虚しく冷たい空気を感じている右手のひらをじっと一度見つめると、その手をそのまま懐に差し入れそっと白いものを取り出した。

 「これだけ持って行きや」

 久瀬は道志に背を向けたままその白いものを差し出した。

 「道志。もう一つだけええこと教えたる。人の好意はありがたく受け取っておくもんや。それだけは間違いない」

 道志は足を止めた。一瞬足元に視線を落として躊躇ったようだが、すぐに振り返り久瀬の手に握られたものをそっとその手に取った。それはどうやら書状のようである。道志はその書状を包んでいた筵をその場で剥がした。懐かしい文字が道志の目に飛び込んでくる。


 壮樹衛士  款成平治諒亮 殿


 宛名には恭盛高の字でそう書かれていた。

 「確かに届けたからな」

 久瀬は大人しく待っていた馬を引いて撰宋の町とは逆の方向へと歩き出した。前を向いたまま右手を高々と上げると、

 「ほな。またな」

と軽い調子で言うと、豪快に声を上げて笑った。

 道志は久瀬の大きな背中をしばらく見つめていた。

 理由は分からなかったが、少し前まで憎たらしいとしか思わなかった久瀬という駒導の存在が、道志には突然頼もしく思われてきた。意味の分からない不思議な感情に道志はわずかに困惑の表情を浮かべた。

 暗闇の中に久瀬の姿が消えそうになった時、道志は何を思ったか久瀬の名を呼んだ。

 「久瀬さん」

 久瀬は少し驚いたように首だけを後ろに向けて道志の方を見た。

 「なんや」

 「俺からも一つ教えてやろう」

 道志の威勢のいい言い方に久瀬は嬉しそうに目尻にしわを作った。

 「ほお。嬉しいねえ。教えてもらおうか」

 久瀬は腕組みをする。

 「時之道志には生きる道がある。俺は今、死ぬわけにはいかない。自分の力で生き抜いて見せる。だから撰宋までの道のりに供はいらない」

 道志は大きな声で暗闇に浮かぶ久瀬にこう叫ぶと、一気に背を向けて撰宋の方角に向かって駆け出した。道志の姿はみるみる小さくなって、闇の中に消えて行った。

 「聞いたな。ついて行かんでええ。あいつは一人でもやっていける」

 久瀬が川縁の闇に向かってこう言うと、ばらばらと二つの影が素早く久瀬のもとに駆け寄り、片膝をついた。

 「よろしいのですか」

 二つの黒い影が同時に聞いた。

 「ええんや。ええんや。それにしてもお前たちに気づいていたとはなあ」

 久瀬はもう一度腹の底から笑い、勢いよく連れていた馬に飛び乗ると道志が駆け出したのとは逆の道を一気に走り出した。歯をむき出して笑うときーんと冬の風が凍みる。それでも久瀬は口元が緩むのを堪えられなかった。


 その晩遅くに、道志は撰宋の健信院に辿り着いた。薬草を売ったり、採取した薬草から薬を作ることを専門とする薬草院健信院の主島崎徳次は、綾峰総馬とは非常に親しい間柄である。道志が健信院を訪れるのは二度目であったが、島崎は寒い中走って使いに来たという道志を出迎えると、黒子だらけの愛嬌のある顔を綻ばせて家の中へと入れてやった。その晩は島崎の好意に甘えて泊めさせてもらい、翌日には総馬に頼まれた薬草を手に持って、道志は再び博斗へと戻った。

 行きとは違い二日かけて博祥院に戻ると、恵治十六年も残すところ三日となっていた。統格国の人々は古くからの習わしで、新年元日を迎える三日前から家の入口に藁で作った飾り物を取り付ける。道志は相変わらず多くの来院患者で込み合っている入口の前まで来ると、ふと足を止めてその飾りを見上げた。恵治十六年ももう終わる。故郷壮樹を離れたのは昨年の晩秋だった。もう一年以上が過ぎてしまったのか。そんな感慨が道志の頭の中を通り過ぎていく。

 命一つあれば何度でも立ち上がれる。使いの途中に出逢った風変りな男が言った言葉を思い出した。自分は綾峰総馬に、この博祥院に命を救われた。生きる希望を自分自身の力で見つけ出す決意をさせてもらった。本当にまた立ち上がれるのか。道志は自分に問う。自分が進むべき道はどのようなものなのか。今はまだ分からない。十六になったばかりの若い身体に熱い血が巡る。

 道志は自分の左の掌を見つめた。自分は今、こうして生きている。どんな形であっても、自分にできることをすればいい。道志は、久瀬勘九郎から受け取った書状を読んでそう思った。

 いつもより少し鼓動が速く感じたのは、走って戻ってきたからだけではないことに道志はまだ気づいていなかった。


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