人斬りと呼ばれても
人斬りと呼ばれても
流宗邸で起きたただ事ならぬ事態に気づいた者は、時々真夜中に寝室を抜け出しては暗闇に包まれた町中を何をするでもなくぶらぶらとする癖をもち、たまたま突然の雨に打たれて全身びしょ濡れになって帰ってきたところの少年ただ一人であった。
命を狙われ、自分を守ってくれた者はその命尽きようとしている。奈緒は、裸足のまま泥の広場を彷徨っていた。気が動転していたのであろう。奈緒は助けを求めるにしても、自分がどこへ行けばよいのか全く見当がつけられないでいた。当然、息子であり今や不在の父の代わりに道場全てを取り仕切っている潤晋の元へ向かおうとしたであろう。しかしながら潤晋の寝室は流宗邸の一番奥に位置している。仙石の刃を避け中庭を通って一旦東門を出て敷地内の広場を横切って正門の方まで回らなければならない。降りしきる雨が不穏な音を掻き消し、道場は寝息に包まれていた。奈緒の叫びは、重い雨と夜の空気に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。
周晋は雨に打たれながら正門の前に佇んでいた。短く弾みのある前髪から雨の滴が滴れる。その度に周晋は目を瞬かせ暗がりに浮かぶ何かの影を睨みつけていた。その影の正体はすぐに明らかになった。
「母上…。どうして」
周晋は雨の中声にならない声を出そうとして、必死に口を開閉させ、何度も何度も躓きながら自分に向かってくる母の姿を確認すると、咄嗟に駆け出して母の元へと走り寄った。
「周晋…早く。助けて…。助けを」
「えっ。何が、何があったんだ。母上」
「仙石殿が。ああ…」
奈緒はその先が言えなかった。悲しそうに俯いた奈緒を見て、周晋は奈緒の肩を両手で力強く掴むと、
「仙石がどうしたんだ。おいっ。どうしたんだよ」
と怒鳴った。
それでも奈緒は口を閉ざし、自分の肩を掴む周晋の手を握り返し、
「とにかく、早く。お兄様を呼んできて下さい。潤晋殿を…」
と搾り出すように叫んだ。
そして信じられないくらい強い力で周晋の手を引き離すと、
「非常な事態なのです。周晋、流宗殿を起こし門下の者たちを集めるのです」
と力強く言った。
母の目には、普段は決して見ることないまるで強い決死の戦士ような威厳があった。崩れるようにして倒れ、泥の水溜りの中に座り込んだ女性の弱弱しい姿とは対照的な眼差しだった。
周晋は何かを訴える母の強い眼光に促されるように、何も言わず立ち上がり、二、三歩後退りした。そして、さっと振り返って正門へと走り出したが、すぐに足を止めてもう一度母を振り返って言った。
「すぐに戻るから」
いつも無表情で機嫌の悪そうなその顔には、まだ幼さが残るものの最近ようやく落ち着きを得た青年の雰囲気が垣間見られるようになった。周晋は、忘れてしまった微笑みと穏やかな気持ちをその時の一瞬だけ取り戻したようであった。理由は分からない。しかし、それは母を気遣い、母を想ってこその一言だったことに間違いはなかった。
周晋は、雨の中一人母をその場に残して、正門へと回った。流宗邸は広い。周晋は兄のいる一番奥の寝室へと走った。雨はますます勢いを増し、中庭に周晋が残した足跡はあっという間にその形を失い次第に何もなかったかのように消えていった。
周晋はどうしようもな不安に駆られていた。夜中の町中をそぞろ歩き、突然の雨に舌打ちをして帰ってくると、泥と雨の中に誰かの助けを求める母の姿を目にした。事情がつかめないまま、母に促されるまま兄のもとへと駆け出した。ひょっとすると母をあの場に残してきたのは間違いだったのではなかろうか。周晋を突然襲った不安はそのことだった。母は、何が起きたのか言わなかった。動転のあまり言えなかったのでも、言いたくなかったのでもない。周晋には、母が周晋に言うことを躊躇したように見えた。
周晋は潤晋の寝室を目の前にして、足を止めた。実際はほんの一瞬だったはずである。周晋の頭の中を、これまでの記憶や思い出が走馬灯のように駆け巡っていった。
母はいつも微笑んでいた。しかし、時にその微笑を保つことが苦痛になり、悲しい顔へと変えてしまったのはいつも自分ではなかったか。町の人からどれだけ屈辱の言葉を吐き捨てられても、母はいつも自分を信じてくれたのではなかったのか。どれだけ乱暴な言葉を吐き、怒鳴りつけ、言うことを聞かなくても、決して愛想を尽かさず、自分に礼儀を教え続けてきてくれたのはあの母ではなかったのか。今更のように、思い起こされるこれまでの自分の悪行。
周晋は何を思ったのか、その場で身を翻し再び正門を飛び出していった。
奈緒を残してきた所に戻ってくると、奈緒の姿は見当たらなかった。周晋は、胸の不安を一層強くして辺りを必死に見渡した。土足のまま道場内に入り込み、母の姿を探し回ったが、奈緒はどこにもいなかった。
「母さん。どこだ、母さん」
周晋は力の限り叫び、とにかく母の姿をその目で確認するまでは足を止めずに駆け回った。周晋はふいに母は自分の寝室へ戻ったのかもしれないと思い、東門へ回った。そこで、周晋は思いがけず門下の一人坂内政太の力尽きた姿を目をにして、いよいよその非常な事態の大きさを知った。
「しゅ…周晋…様」
坂内政太はまだ生きていた。ただし、間もなく息絶えることは明らかだった。
周晋は、血塗れになった坂内の手を握り、彼の体を起こして自分の膝にもたれかけさせてやった。
「坂内。誰にやられた」
「仙石師範に…。奥方はどちらです。ご無事ですか」
坂内はかすれてなかなか音にならない声で、しかし周晋の視線を真っ直ぐに捕らえて言った。
「仙石にだと。母上はどこだ」
周晋は逆に坂内に聞き返したが、坂内政太から答えを聞くことはできなかった。周晋の腕の中で、坂内は息を引き取っていた。
周晋はその場に坂内の体を寝かすと、ゆっくりと立ち上がり、腰の刀を抜いた。背後に人の気配を感じたからだ。
「説明はしてくれるのだろう。仙石」
周晋は振り返り、東門のすぐ外に立っている仙石俊章を睨みつけながら言った。
仙石は右手に刀を持ち、黒い壬働(大成帝国の軍人が身につけている戦闘用衣類)を身にまとっている。黒い壬働は、人間の血を吸い込みよりその黒さを深め、それとは対照的な鮮やかな鮮血が右手に持つ刀の切っ先からゆっくりと滴れ落ちている。
「それを抜いたということは私をお斬りになるおつもりですか」
仙石は重く低い声で静かに言った。
「お前の答えによってはな」
まだ変声期を迎えていない周晋の声にはまだ少年独特の響きが残っていたが、この時ばかりはひどく冷たいものであった。
「説明も何もない。私にはもう何もないのです」
いつもであったら機嫌を悪くして投げ捨てるように言ったであろう。しかし、これまで人との会話は極力拒み、無駄な戯言に口を開くのを嫌っていた周晋とは思えないほど、今仙石の目の前に立っている少年はしっかりと自分の言葉を口にしていった。
「意味が分からない。仙石、坂内政太はお前が斬ったのだな。理由を聞こう」
仙石は憔悴しきった表情を浮かべていたが、周晋の細い目を同じく細い目でしっかり捉えると、どういうわけか静かに笑った。右の頬にある火傷の痕が奇妙に引きつっている。
「あなたの付き人になって早六年が経ちます。本当に色々ございました。しかし、周りの者がなんと言おうと私にとってはあなたをお守りし、あなたに人としての礼儀を教えること。それがすべてだった」
仙石の表情は、ほんの少しだけ懐旧の情によって和まされたようだった。決して楽なものでも、喜ばしいものでもなかったはずである。
周晋は疑問に思った。これまで自分のわがままに振り回され、世間の悪態を一身に受けてきた仙石が、なぜなぜ笑みを浮かべるのか。そしてどうして同門の剣士であること以外は自分とは何も関係のない坂内を斬ったのか。周晋は突然、仙石の手に握られた刀から滴れる血が自分のものであるかのような錯覚に囚われた。
「俺を憎んでいるだろう。分かってる。答えてくれ。坂内を斬ったのは俺への当て付けか」
言い終わる直前に、周晋の声は不覚にも震えてしまった。周晋はその羞恥に堪えれずに慌てて言葉を付け足した。
「お前は俺が嫌いなのだろう」
仙石は一度だけ首を横に振った。
「あなたはまだ子供だ。あなたへの当て付けであるはずがない。恵まれた環境。健やかな体。そしてあなたは何より守られている。どんな我侭を尽くそうともあなたを庇ってくれる人が常にいたはずだ。永晋様。奥様。潤晋流宗。あなたには決して私の心の闇を理解することはできない」
周晋はこれまでの自分を、下手すれば父親よりも熟知している仙石に言われて言葉を失った。
「私が憎んでいるのは…私自身だ。醜いこの顔。醜いこの心。常に影が付きまとう自分の意識。私は常に闇にいた。生きていく希望も意味も見出せなかった。あなたの父上には感謝している。あの方は私のことを他の者と同等に見てくれた。だからこそ息子であるあなたの付き人を任された時は、生まれて初めて生きる希望を得たような気がした。しかし私のこの醜い心は、完全には変わりきれなかった。命を託すと決めた我が主の愛する人を奪おうとするのだ、この私という人間が…」
ふいに仙石の言葉を周晋が遮った。
「顔がなんだってんだ。ただのひねくれだ、それは。俺と…俺と同じじゃないか」
仙石は今度は声を出して口を大きく開けて笑った。
「これは驚いた。お気づきだったとは。そうです。私とあなたは同じだ。自分に対する憎悪と自分が傷つく事を恐れる弱い心。剣でしか自分の気持ちを表すことができない。確かに、私はあなたが嫌いなのかもしれない。しかし、あなたと私には決定的な違いがある。私は大人の男だ。あなたの母上への愛と、私が抱く奥様への愛。比べる対象ではないのだ」
そこまで言うと、仙石の表情は再び恐ろしい形相へと変わった。そして、右手の刀を静かに構えた。
「もういい。すべては終わったのだ」
仙石は凄みを帯びた声で言い放つ。
「周晋様。これにてお別れ申し上げる。仙石次朗という人間はすでに終わった。坂内だけではございません。奥に三笠昌太郎の屍が転がっているはずです。二人の弟子と、そして…。あなたの母上のお命を死出のお供に頂戴仕りました」
周晋の背中に大きな衝撃が走った。奈緒はすでに仙石の手にかかっていた。
周晋は何度も中空を漂い、視点が定まらない視線を無意識のうちに自分の右手に握られた刀の光に止めた。刃に自分の姿が移っている。もう何も考えられなかった。
周晋は怒りに満ちた顔を上げ、十三の少年のものとは思えぬ凄まじい唸り声を上げるとともに刀を振り上げて仙石に斬りかかった。
端から抵抗するつもりはなかったのだろう。仙石は無造作に周晋の刀を抜き払っていたが、
「あなたの刃には私の血が染み入り、一生決して拭われることはない。あなたはその罪を背負って、これから生きていくのだ。私と同じように、苦しんで」
と最後の言葉を残し、今では技術としてはほぼ互角となっていた神童の見事な剣を右肩から左足にかけて真正面から受けた。
周晋の剣は仙石の体を抜け切った後も止まらず、そのまま今度は仙石の体を垂直に貫いた。仙石と周晋には、まだ身長の差がある。しかし周晋の刀は下から上に向かって確実に仙石の心臓を貫いていた。仙石の手から刀が落ちるのと同時に、仙石は口からおびただしい量の血を吐いて小さくうめき声を上げた。周晋はなおも仙石の胸を貫いた刀を両の手で握り締め、息をするのも忘れて冷たく鋭い睨みをきかせて仙石を見上げている。しばらく時が止まったかのように静寂な時間が流れた。そして仙石の体は一気に力が抜け、そのまま膝をつくようにして崩れ後ろに倒れて、横顔を泥水の中に埋めた。仙石の体はそのまま二度と動くことはなかった。
周晋はそのまま硬直した体を雨に打たせていた。手に握られた刀にはどす黒い血がべったりとついている。その血は雨と混じると奇妙な渦を巻き、多きな滴になると刃をすうっと伝わって流れて消えた。
周晋はべたつくその片方の手を刀から離すと、そのまま無気力に腕をぶらつかせた。そして突然思い出したかのように大きく深呼吸をすると、震えがとまらなくなり奥歯を何度もかちかちと鳴らし始めた。雨水と泥の中に横たわる大きな大人の死体を見下ろした。俺が斬ったのか。周晋は整理のつかないまま、おぼつかない足元で母の姿を探し始めた。
潤晋は、遠くに人の声がしたような気がして目を覚ましていた。寝室の天井を真っ直ぐに見上げ、神経を研ぎ澄まして雨の音を聞いていた。降りしきる雨の音。途切れることなく地の上で跳ね上がる。
潤晋は自分の呼吸が少し早まっていることに気づいた。鼻の奥をすうっと突き抜けていく秋の空気はひんやんりと冷たい。
潤晋は上体を起こし、一度大きく空気を吸い込んだ。それとほぼ同時に、潤晋の寝室の戸の外で小さな物音がしたかと思うと、
「流宗。壱次でございます。目をお覚まし下さい」
という付き人の壱次雄大のくぐもった声が聞こえてきた。
「起きているよ」
潤晋は床から起き上がりながら言った。
するとすぐに戸が開き、壱次が顔を覗かせた。
「先程、不審な物音を聞きました。これから様子を伺いに参ります」
いかにも剣士らしい壱次雄大の太い眉毛の下の目が強い眼光を放っている。
「私も聞いた。ともに行こう。母上のことが心配だ」
潤晋は手に長刀を持つと、壬働を肩から羽織り、壱次を連れて部屋を出た。
「見張りは立てているのだろう」
珍しく緊張した面持ちの潤晋が壱次に聞いた。
「はい。本日は坂内政太と三笠昌太郎の二名がついております」
「あの二人がついているのなら、まず心配はないと思うが…」
潤晋の足は高鳴る鼓動に合わせて速くなっていった。
潤晋と壱次雄大は、流宗邸の一角にある奈緒の寝室へとほとんど走るようにして向かった。奈緒の寝室は石造りの流宗邸の東側に位置している。奈緒の居室と寝室、そして道場主趙李永晋の居室を含む一角へ行くには、一度外に出て短い回廊を渡らなければならない。そして殿間口と呼ばれる頑丈な門を通って中へと入れるようになっており、坂内と三笠が見張りに立っていたのはこの殿間口の大門の側であった。
潤晋は殿間口へと通じる回廊の前まで来ると、急に立ち止まり、言葉を失ったように薄い唇を震わせた。すぐ後ろについていた壱次雄大は、危うく潤晋の背にぶつかりそうになったのをすんでのところで交わすと、ふと目の中に飛び込んできた三笠昌太郎の無残な屍を目の当たりにして、
「何てことだ。三笠。三笠あ」
と大声を上げて、土砂降りの雨の中、力なく横たわった三笠昌太郎の遺体の側に駆け寄って行った。
潤晋も雨の中に飛び込み、三笠の体を持ち上げて悔しそうに歯を食いしばり肩を震わせている壱次の姿を見下ろしていた。大粒の雨が潤晋の頬を伝って流れる。潤晋は三笠と壱次の横を過ぎ、普段は常に開放されている殿間口の大門をくぐると、奈緒の寝室へと走り、勢い良く戸を開けたが、やはり母奈緒の姿はなかった。
潤晋は踵返し、大門まで戻ると、
「壱次っ。母上を探すぞ。全門下生を起こし、下手人を捕らえろ」
と、普段は温和な彼とは思えない鋭い声を上げた。
壱次雄大は三笠昌太郎を再びそこに寝かせると、すっと立ち上がり潤晋に向かって黙礼をすると、すぐさま門下生が生活を共にしている丞成寮の方へ駆けていった。一方、潤晋はもとの廊下を戻り、流宗邸敷地内にある仙石次朗俊章の居室へ向かった。
仙石の居室の戸は開いていた。潤晋は長刀を鞘から払い抜き、前に構えて仙石の居室に勢い良く入り込んだ。しかし、仙石の居室はすっかり片付けられており、完全にもぬけの殻になっていた。
「やはり、仙石か…」
潤晋は小さく呟いた。そして意を決した表情で居室を飛び出し、中庭を回って正門へ向かった。雨の音にかき消されないように、潤晋は精一杯の声で母を呼んだ。かすれてもかすれても、潤晋は叫び続けた。そして、正門から少し離れた曲がりくねった中庭の花畑の側に、雨に打たれてうずくまっている奈緒の姿を発見した。
「母上。母上」
潤晋はすぐさま母の側に駆け寄った。
奈緒の薄黄色の寝衣は真っ赤な血で染まっている。潤晋は母を抱え上げ、顔を覗き込んだ。奈緒はまだ息をしていたが、左腹からおびただしい量の血が脈動に合わせて流れ出している。間違いなく母は助からない。潤晋は突然突きつけられた悪夢に、血の気を失った。
「潤晋殿。来てくれたのですね…。ありがとうございます」
奈緒はかすれた弱弱しい声で、しかしいつもの優しい笑みを浮かべて言った。
「母上。どうして…。一体何があったのです」
潤晋は母の白く柔らかい手を強く握って聞いた。
「あなたの顔を…見て、なにやら安心しました。翔憲…、母は、幸せでした。あなたたちの母になれて。旦那さ…」
奈緒の声は途絶えた。奈緒の背がびくりと反応したのが潤晋の手にも伝わった。奈緒の口の端から一筋の赤い血が流れたかと思うと、奈緒の全身から力が抜け、雨と血と泥で汚れてしまった顔にうっすらと開かれている目が何を捕らえるでもなく中空を見上げた。
それでもまだ、奈緒の唇は何かを言おうとしている。潤晋は必死にその言葉を読み取ろうと奈緒の顔に自分の顔を近づけた。
「しゅう…しん。周晋」
潤晋は母の青ざめた唇の動きをまねるようにして言った。
「母上。お願いです。死なないで下さい。周晋…。周晋も悲しむ」
潤晋は絞り出す言った。自分が代われるのなら、喜んで母の身代わりになろう。どうか、この母だけは殺さないでくれ。潤晋は心の中で叫び続けた。目の前の事実に訴えかけるように。
しかし、潤晋の願いはどこにも、だれにも届かなかった。奈緒は最後の言葉も残せずままその一生を閉じた。愛して止まない息子の腕の中で眠る奈緒の死に顔は安らかだった。
周晋は、兄潤晋の背中を遠くから見つめていた。正門前の広い敷地からは少し隠れていて見えない小さな花畑。そこには奈緒と永晋の好きな薄紫の葵羅の花が咲いている。奈緒は昔からこの花畑で過ごすのが好きだった。
潤晋の腕に抱きしめられた母の体は、力なく、暗闇の中にその白さをより際立たせていた。周晋は一歩。また一歩と潤晋と母の側へ歩み寄って行った。
人の気配に潤晋が後ろを振り向いた。雨にこそ濡れてはっきりとは分からなかったが、潤晋は泣いているようであった。目が血走っている。
潤晋は長い腕で母を抱き抱えてゆっくり立ち上がると、周晋と向かい合うようにして立った。
「周晋。母上は死んだよ」
潤晋はまっすぐに周晋の瞳を見つめて言った。潤晋は、その後に何か言葉を続けようとしたが、体を硬直させて突っ立っている弟の右手に握られているものに気づいてぎょっとした。
「仙石は…、俺が斬った」
周晋は冷たい声で言った。
周晋とこんなにもしっかりと視線を合わせたのはいつぶりだろう。潤晋は、まっすぐに自分を見つめ返してくる周晋を見て思った。表現のしようがなかったが、少なくとも今自分の目の前に立っている弟はこれまでの弟ではなかった。一体、何を考えているのか。真っ直ぐな周晋の視線には何の感情も探ることができない。
潤晋は恐怖とも畏怖とも違う奇妙な感覚に襲われ、息を飲んだ。
「母さんは、仙石の手に落ちた。仙石は俺が斬った。あいつはもう死んだ」
周晋は無表情にこう言うと、血のついた刀を右手から離した。
「周晋…。お前、本当に。本当に次朗を斬ったのか」
潤晋は声を震わせて周晋に聞いた。
ところが不思議なことに、さっきまでいつものように無表情を保っていた周晋が、にやりと不敵な笑みを浮かべている。
「兄貴。久しぶりだな。俺を成名で呼んだのは。俺も流宗殿にやっと認められたってことか。でも…。残念だよ。俺の剣は…もう人の血を知ってる」
正門の方が少し騒がしくなってきた。壱次雄大が門下の者たちを連れて下手人探しを始めたらしい。しかし、潤晋も周晋も微動だにせずその場に立ち尽くしている。気づけば潤晋の足元は、潤晋に抱えられた奈緒の体から流れ出る血で血溜りになっている。
「わ…私の責任だ。仙石の不審な行動には気づいていたのだ。しかし…、最近、仙石次朗のその行動は止んでいた。次朗が…改心したと…」
潤晋は肩を震わせて自分の言葉を噛み締めるように言った。
周晋は、自分が目撃した真夜中の仙石の不審な行動が、母奈緒に対する想いの抑制からされていたものであるとは知らず、仙石が稽古を休んでいた本当の理由も、仙石に対して潤晋が見張りをつけていたこともこの日まで知らされなかったのは兄潤晋あるいは奈緒の気遣いであったことは、仙石と交わした言葉からすでに気づいていた。
「見張りは立てていた。兄貴の責任なんかじゃない」
周晋がそう言って、潤晋ははっと顔を上げた。
「俺のせいさ…」
周晋は違うと言おうとした潤晋の言葉を遮って一気に言った。
「あいつは言った。俺のことが嫌いだったと。当たり前だ。俺なんかの付き人だったんだ。俺は父上の言うことも、母さんの言うことも、兄貴の言うことも、仙石の言うことも聞かなかった。母さんはいつも仙石に優しくしてた。俺のことで大変だったから。仙石は、俺に親兄弟を大切にしろと言い聞かせてきた。でも俺はそのことも聞かないふりをした。何度も何度も…あいつは俺に言った。人から信頼される人間になれ。自分に自信を持てる人間になれ。己の心の闇に…のまれるなとね。それはあいつ自身が自分に言い聞かせていることだとも言っていた。でも仙石は…。あいつは。自分の闇にのまれた。俺に教え続けてきたことを、自分で守れなかった。だから命を捨てた。母さんと、坂内、三笠を道連れに。仙石は言った。俺も自分と同じだと。確かに、同じだ。もう俺は…戻れない。俺が仙石を斬った。母さんはもう二度と微笑んではくれない。ただ悲しんで終わった」
周晋はそこまで言うとそのまま潤晋に背を向け正門の方へ向かって駆け出していった。
潤晋は周晋を呼び止めようとしたが、なぜか言葉が出てこなかった。すっかりびしょぬれになった壬働は重く潤晋の肩に圧し掛かっていたが、腕に抱えた母の体は信じられないくらい軽く感じた。整理のできない頭の中で、潤晋は必死に母の笑顔を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
「周晋様。一大事です」
周晋は正門を出たところで、門下生の黒田信興に凄まじい勢いで両肩を捕まれ足止めされた。
「坂内政太と三笠昌太郎が何者かに斬られました。それに奥様も行方が分からぬのです。最近流行っていたというもの盗りの仕業に違いありません。これまで者を盗むだけだと聞いていたのに…」
この年十五になったばかりの黒田にも、見張りを立てる本当の理由は伝えられていなかったらしい。黒田は黒子だらけの愛嬌のある顔を真っ赤にして言った。
「もう知ってる」
周晋は無造作に黒田の両の手を振り払うと、
「母は死んだ。騒ぐのはもうやめろ。全員をここへ集めろ」
とかすれた弱い声で言った。
それでも雨の音で周晋の声が聞き取れなかった黒田が、
「はい?何と言われたのです」
と聞き返すと、
「母は死んだんだ。坂内、三笠を斬ったのは仙石次朗俊章だ。仙石ももうこの世の者ではない。早く全員をこの場に集めろっ」
と黒田の耳元で怒鳴って言った。
黒田は慌ててその場から離れ、仲間を集めに駆けていった。
周晋は雨空を見上げた。そして突然とめどなく流れれてきた涙を雨とともに流した。拳は硬く握られている。
「一生背負って生きていく…」
周晋は呟くように言った。そして雨の降りしきる真夜中の町の闇の中へと丞国道場を飛び出して行った。
その後、真実は潤晋から門下の者に伝えられた。帝国認可の汪善丞国道場で起きた殺人事件は、あっという間に誉那郡に広がり、そして汪善省へと広がった。
父永晋から道場を任されている流宗として、潤晋は事件のあった日から三日後に省警察へと赴いている。悲しみに暮れる暇もなく、潤晋はいっそ忘れてしまいたいような悲劇の夜にあったことを何度も何度も繰り返し説明しなければならなかった。幾分疲れた顔をしてはいたが、省警察施調官(大成帝国省警察署における取調べ担当官のようなもの)の質問にははっきりとした口調で的確に答えていた。しかし、ただ一点、当然ながらこの事件を起こした張本人である仙石次朗俊章を斬った者は誰なのかという話題に触れられると、潤晋は首を垂れ、その顔を苦渋に満ちたものへと変えてしまった。
潤晋は、省警察へと足を運ぶまでの三日間の間、付き人である壱次雄大をはじめとする門下の者たちと談合を繰り返していた。真実を言うべきか隠すべきか。様々な意見が出たはずである。しかし最終的には、流宗の決断によってすべての真実を隠し通さず伝えることになった。この決断が、幾人かの者を裏切るものであったことは潤晋にも分かっていた。というのもこの事件で、帝国認可の道場の主であり今では省司を務める趙李永晋の実の妻と、二人の道場の幹部、そして道場主の息子の付き人を任されていたい剣術師範の男が死んでいるのである。そして何より、ここ数年の間丞国道場に対する町の人たちの評価を悪いものへと変えてしまった問題児の周晋が、弱冠十三の少年が、大の大人に自ら手を下しているのである。しかも自身の付き人であり面倒を見てくれた付き人をである。丞国道場だけでなく、そこで宰仙流を習う門下の者に対しても偏見と軽蔑の眼差しが浴びせられるようになることは明らかだった。二十一の青年が一人で背負うにはあまりに重すぎる現実。ここから潤晋の人生は思わぬ方向へとその進路を変えていくことになる。しかもそれは彼一人だけの悲劇には止まらなかった。
晏永十八年に丞国道場で起きたこの事件の結末は酸鼻を極めるものであった。
この事件は当然のことながら汪善省司趙李永晋にも伝えられた。長男潤晋からの書状で事件のことを知った永晋は、どんなことに対しても動揺などしない強靭の精神の持ち主ではあったが突然知らされた悲劇に取り乱しはしなかったものの、完全に憔悴しきっているようであった。
翌年、晏永十九年二月に趙李永晋は省司の任を辞し道場に戻っている。そして涙を流して道場の再興を訴え続けた門下生たち、また省司としての任務を側で支えてくれた配下の者たちを説得して悲痛の思いで暇を申しつけ、同年五月道場を閉場した。そして省司としての名声と道場主としての誇りだけでなく、愛する妻と愛する弟子をも失った永晋が、長男潤晋に遺言を残し、己の責任を取って自ら命を絶ったのは道場を閉場したわずか三ヶ月後のことだった。責任感が強く、滋柳の隼人と謳われ、己の剣と名家趙李家が受け継いできた大成帝国王に対する忠誠精神に誇りを持っていた彼には自分がこのまま生きていくことが許せなかったのであろう。幼少期を過ごし、毎日毎日手に稽古刀を握り血の滲むような努力で修行を積み重ね、仲間とともに汗を流した丞国道場の稽古場で、趙李丞翔永晋は己の首筋を短刀で切り、真っ赤な血溜まりの中でその生涯を閉じた。享年五十三であった。
尊敬して止まなかった父永晋の無残な姿を発見した潤晋は、その後自ら父の遺骸を葬り、汪善省寛琳護精心院(大成帝国の死者を祀り遺灰を管理する施設)に母奈緒の遺灰とともに納めた。その後、愛する父と母を失い、弟子も仲間も失った潤晋は広大な敷地を持つ趙李家本家流宗邸にたった一人残されることになった。代々剣術宰仙流と丞国道場、そしてその血に叩き込まれた帝国と帝王に対する忠誠心を継承してきた誇り高きその血族は、潤晋と周晋の兄弟を残すのみとなってしまった。帝国を守る武家として常に帝国の盾として戦乱の世に生きてきた趙李家は、多くの血族が戦死を遂げている。澄栄の時代に入ってからは、本家を継いできた永晋と五つ離れた弟の寛尊と七つ離れた妹の悠と三人の兄弟、そして分家の主であり悠晋の弟である晋登らが趙李家を盛り上げてきたが、趙李寛尊は若くして病死しており、分家として趙李家を陰ながら支え続けてきた晋登の家系も、跡取りが生まれる前に当主の晋登が不慮の死を遂げてしまったことにより途絶えてしまった。不運が何重にも重なり、趙李家の本家を継ぎ人々の尊敬を一身に集めていた趙李永晋までもがこの世から姿を消してしまった今、その血が受け継いできた『遺志』を知る者は潤晋ただ一人となった。
あの夜に道場を飛び出していった周晋は、一体どこへ行ってしまったのか。周晋が行方知れずになってから数ヶ月。永晋が道場に戻ってくるまでの間、潤晋は誰にも周晋を探すことを許さなかった。しかしながら、弟のことを誰よりも心配し気にかけていたのは潤晋本人である。潤晋は、弟の手を血で染めさせてしまったことを自分の責任だと感じ、悔いていた。弟は自分が探し出し、自分たちの家に連れて帰る。潤晋はそう心に決めて一人きりでひたすら毎日、周晋を探しに外を出歩いていたのだ。しかし、潤晋の努力も虚しく、周晋の行方は晏永十九年が初夏を迎えても以前分からなかった。
永晋が省司の任を辞し道場に戻ってきてからは、永晋の指示によりわずかに残っていた配下の者たちが手分けをして周晋を探していたが、それでもなお周晋の行方は分からず、そのまま時間だけが過ぎ、気づけば永晋までもがこの世の人ではなくなっていた。
永晋が自害し、道場が完全に閉場されてからというもの、毎日のように門を閉ざした道場の石造りの壁には趙李家を中傷する嫌がらせの張り紙が無造作に貼り付けられるようになった。その中に潤晋はこんな言葉を見つけた。
滋柳の人斬り
かつて滋柳の隼人と言われ尊敬された父永晋の呼び名に準えて、周晋のことを町の人たちはこう読んだ。潤晋はそのことに心を痛め、いつも黙ってその張り紙を剥がし、そして自らそれに火をつけて燃やしてしまった。確かに弟は一人の人間を斬った。それは他人の命を奪うことはどのような理由があろうともそれは罪であるという理屈なしの絶対的決まりを作った人間である以上、やはり罪である。そして失われた命は、決して取り戻せない。従ってその命を奪った者の罪も決して消えることも時間の経過とともにその重さが軽くなることもない。それでも、潤晋は周晋の心とその剣を信じた。自ら付き人の命を奪わなければならなかった周晋の命運を哀れと思ったが、兄として、家族として、弟の罪をともに背負って生きていくことを決心していた。
潤晋が忘れられない夜となったその日以降、初めて周晋と対面し言葉を交わしたのは寛琳護精心院の両親の墓碑の前であった。周晋がこの数ヶ月の間、どこで何をしていたのかは分からない。しかし、周晋も巷の噂で父親の死を知ったのであろう。月明かりの眩い九月のある夜に、周晋は寛琳護精心院に足を運んでいた。そしてそこですっかりやつれて頬のこけた兄に会った。
「周晋…」
背後から声をかけられて振り返ると、兄潤晋が立っていた。
「おかえり。よく戻ってきてくれたね」
潤晋は、寛琳護精心院で探し続けていた弟の姿を確認し、無事な姿を見ることができてその安堵感から全身の力が一気に抜ける思いであったが、色々な感情も結局整理が付かず、ただ再び会えた嬉しさだけを素直にその笑みに表して穏やかに言った。
「父上も母上と一緒に眠っておられる。きっと…私たちをまっすぐに見てくださっている」
ただ無言で少し俯いている周晋の横顔を見つめて潤晋は言った。
「すまない。私のせいだ、すべて。父上と母上を死なせてしまった」
潤晋は肩を震わせて泣いた。母奈緒に似ていつも笑顔を絶やしたことがなかった兄の涙を、周晋はこの日初めて見た。そして、一体どのくらい忘れていただろう。物心ついてからというもの、ただ反抗ばかりしてやり場のない憤りを抱えてきた周晋が忘れていた涙。このときばかりは何の感情にも邪魔されることなく、赤子の様に素直に流すことができた。
「人斬りと呼ばれても…。俺は悔いていない」
周晋はかすれた声で言った。
潤晋はそっと周晋の側に寄ると弟の肩を抱き寄せ強く強く抱きしめた。周晋は顔を潤晋の胸の中に埋め、声をあげて泣いた。
兄弟を悲しみの底へと突き落としたあの夜の空とは違い、明るい月の光が輝く夜空が二人を包み込んでいた。