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暗雲

  暗雲


 その日の夜、奈緒は広大な敷地に建てられた汪善丞国道場の隣にある流宗邸の一室にいた。町も寝静まった真夜中に、奈緒のいる部屋から薄い灯りがこぼれている。奈緒は、小さな灯りの下で書物に目を通していた。

 「母上。まだ起きておられるのですか」

その声は、長男潤晋のものだった。

 奈緒は、

 「潤晋殿ですか。こんな夜遅くにどうされたのです。お入りなさい」

と戸の外にいる潤晋に言いながら、すぐに立ち上がり、言い終わった時には自ら戸を開け、暗がりに立っている潤晋の顔を覗き込んでいた。

 「相変わらずですね、母上」

 潤晋は、中の灯りにぼうっと浮かぶ母の優しい顔を見つめて、微笑んだ。

 奈緒は読書を愛し、潤晋や周晋が幼い頃から、隣で息子の寝息を聞きながら夜遅くまで本を読んでいた。不意に目が覚めてしまった時に、眠った振りをしながら、小さな灯りの下で本を読む優しい母の横顔を眺めるのが、潤晋は昔から好きだった。

 「本もよろしいですが、お体に触ってはいけませんから、そろそろお休みになって下さい」

 潤晋は母親の身体を労わって言った。この年四十四になる奈緒は、年に似合わぬ透き通る美しい肌と艶やかな長い髪を持ち、女性にしては背が高く、背筋の良い機敏な歩き方をすることから、道場の門下生たちや夫の配下の者からも憧れの眼差しで見られていた。

 「あら。よろしいのですか、潤晋殿」

 「えっ」

 「私が休んでしまったら、潤晋殿の用事は済ませられないですね」

 奈緒は、白い顔に笑みを浮かべて言った。

 「母上には敵いませんね」

 潤晋はそう言って、実は母に何か用事があって部屋を訪ねたことを見抜かれてしまったことに少し顔を赤らめた。

 「良いのです。私は構いませんので、さあ中に入ってお座り」

 奈緒は軽く潤晋の袖を引いて、中に促し、潤晋を部屋の中央に置いてある椅子に座らせると、さっきまで本を読んでいた机の上の灯りを運んできて、自身はすぐ横の小さな腰掛にゆくっりと腰を下ろした。そして、小さな上品な陶器に静かに水を注ぎ、そっと潤晋の前に差し出した。

 「ありがとうございます。母上」

 少年の頃から折り目正しかった潤晋は、この母から人としての礼儀を叩き込まれてきたのだった。優しくもあり、厳しくもある母奈緒を潤晋は心から慕い、そして尊敬していた。また同時に、奈緒自身も潤晋のことを心から大切に思い、強い愛情を注いできた。しかし息子と言えども、今は国流派宰仙流を継いだ流宗である。道場主の妻であり、流宗の母ではあったが、奈緒は夫と息子を補佐する役目に徹しており、息子の潤晋と接する時も決して礼儀を持って接することを忘れなかった。

 「さて。潤晋殿がこのような時間にいらっしゃるということは、何が重大なお話があるということでしょう」

 奈緒は静かな落ち着いた声で聞いた。

 「はい。その通りです」

 潤晋は一言だけそう答えると、小さなため息をそっと吐き出し、彼にしては珍しく暗い表情を浮かべた。

 「実は、仙石次朗のことなのですが」

 「仙石殿のこと。何かあったのですか」

 「できれば事実でないと信じたいのです」

 奈緒は少しだけ首を傾げた。

 「近頃の永誠のこと、母上はどのように思われますか」

 潤晋は話を反らして突然、奈緒に尋ねた。

 「周晋のことですか。私には大分落ち着いて、少しずつ大人になっているように思われます。この数年の間、あの子の心は荒れてばかりいましたから。本当は好んで人を傷つけるような子ではないのです。特に近頃は、剣術の修行にもさらに力をいれておるとか。母は嬉しく思っております」

 奈緒は嬉しそうに言った。

 「そうですね。永誠も変わりました。三、四年前は私には一切目を合わせてくれませんでしたからね。永誠とお話がしたくて声をかけると、すぐに怒られてしまいましたから。私たち兄弟は離れて暮らしていましたからね。私も永誠が何を考えているのか、深く理解してやることができないでいたのです。でもね、母上。今まで、私のことを「おい」としか呼ばなかった永誠が、最近では兄貴と呼んでくれるのです」

 潤晋は満面に笑みを浮かべ、懐かしそうな目を母に向けて言った。

 「まあ。兄貴…ですか。あの子らしいですこと」

 奈緒は手を口に当てて笑った。

 「永誠が他所で乱暴を起こして道場に帰ってきた時は必ず、永誠は誰にも目を合わせようとはしませんでした。母上、あなたにさえも乱暴な言葉をぶつけることがありましたね。しかし、私も分かっていますよ。永誠は心の優しい子なのです。少しだけ、ほんの少しだけ不器用なだけなのですね。型にはまった環境には耐えられないようです。いえ、と言うよりは納まりきらないのでしょう。しかし、永誠の剣を見ていれば分かる。剣士としての器も、指導者としての器も、私とは比べ物にならないほど大きいのです。永誠は、国や省、道場という限られたものを守り、政をし、人を従える。そんな父上や私、あるいは父に従う者たちのことを理解すること。そして、自分の中の才能や感情を上手く扱うこと。その二つのことが、限られた環境の中でできなかっただけなのです。いつしか混乱の中で、他人だけでなく、家族も仲間も、そして自分までも信じられなくなってしまったのでしょう。しかし、最近は人を少しずつ信頼できるようになったようです」

 潤晋は、少し困ったような顔をしながらも、声には明るさがこもっていた。

 しかし、潤晋の嬉しそうな表情もそう長くは続かなかった。奈緒が、ある人のことを話題に触れたからである。

 「潤晋殿もよく耐えましたね。潤晋殿だけではありません。旦那様も私も、周晋のことを信じてきましたから。必ず分かってくれると。私は幸せ者でございます。多くのものから慕われ尊敬を一身に受けた旦那様に貰われ、そして潤晋殿や周晋のような強き男の子を産み愛を注ぐことできるのですから。それに、仙石殿にも感謝しております。仙石殿も今では私たちの家族同然ですね」

 「…」

 奈緒が周晋の付き人である仙石次朗俊章の名を口にした瞬間、潤晋の表情が一気に曇った。

 奈緒ははっと何かを思い出して、

 「そういえば…。潤晋殿、仙石殿のことでお話があっていらしたのですよね」

と潤晋に確かめるように聞いた。

 潤晋は小さく頷き、信じ難い話をし始めた。



 晏永十八年、九月。周晋は十三になっていた。少し前まで、悪童と罵られ、町に出れば人々からは白い目で見られ、行く先々で乱闘を起こし乱暴狼藉をはたいては捕らえられ、道場に連れ帰されてくる。そんな日々を送っていたが、やっとのことで最近落ち着き、周晋の奇行や悪戯は少しずつ収まりつつあった。それは側にいて彼を見守る母奈緒と兄潤晋の根気強い説得や躾の成果であったことは言うまでも無いが、父永晋の命により彼の付き人として指導役を任されていた仙石俊章の血の滲むような努力も忘れてはならない。

 周晋の付き人として、滋柳に残ってからというもの、仙石は毎朝四の刻に目を覚まし、五の刻には周晋の寝床へと足を運び、道場へと連れ出して剣術修行を始めさせるという生活を送っていた。もともと剣術の修行にだけは勤しんでいたこともあって、これには初めから周晋も従っていたようである。しかし、昼過ぎに学問の講義や、道場一斉の稽古が始まると、途端に仙石の言うことを聞かなくなった。それでも仙石は、道場を飛び出して行ってしまう周晋の後を追っては説得し、どうしても周晋が仙石の言うことに耳を貸さないときは、ぴたりと付いて離れず、周晋の行くところ逃げるところ必ず周晋と側にいた。

 「主から付き人を任すと言われておりますので」

 奈緒が、時々周晋の勝手な行動に振り回されている仙石を労うために、自室に招き、どうしてそこまで周晋に尽くしてくれるのかと聞いたときに、必ず仙石がつぶやいていた言葉である。

 周晋は、自信を失い、心に闇を抱える自分を信頼してくれた主人の大切な息子である。付き人を任された時から、仙石は周晋を一人前の剣士に育てようと決心していたのである。仙石の忠実な思いと、献身的な態度には、潤晋も奈緒もありがたく思っていた。特に、町の人の汪善丞国道場を見る目が変わってしまった頃は、潤晋も丞国道場を守る身としてその責任を感じ、思いつめており、奈緒も何も変えられない不甲斐無さを恥じ、心を痛めていた時期には、仙石が二人を励まし、周囲の冷ややかな目を一身に背負ってくれたのである。

 仙石はもともと静かで無口な男である。声を荒げたり、怒鳴りつけることはなく、ましてや手を出すことは決してなかった。ただ、傍から見れば異常とも言える執念深さで、周晋を諭し続け、どうか自分の言うことを聞いてくれるようにと説得し続け、人の話に耳を貸さない周晋の側に始終いて、人の礼儀たるものを伝え続けた。言ってしまえば、周晋もまだ子供であったので、根気負けしたのであろう。数ヶ月前から、周晋は仙石の学問の講義を、しぶしぶながら受けるようになったのである。また、夜に道場を抜け出し、悪さをするようなこともなくなった。

 ところが、やっとのことで結ばれそうになっていた周晋と仙石の絆は、思いがけない形で完全に結ばれ得ないものへと変わってしまったのである。それは本当に些細なことがきっかけだった。

 その日も、まだ日も昇らぬ時間から、周晋と仙石は道場で剣を交えていた。

 「仙石…。お前昨日の夜は何をしていたのだ」

 稽古中もほとんど口を開かない周晋が、めずらしく仙石にぶっきらぼうではあったが聞いた。

 「えっ。昨夜は…。寝室にて休んでおりましたが」

 普段ほとんど自分には話しかけてくれない周晋が、突拍子もない質問をしてきたので驚いたというよりは、突然の質問の内容に不意を突かれたという感じであった。

 周晋は、細い目でしばらく仙石を凝視していたが、再び視線を逸らすと、

 「母上の部屋の側でお前が立っているのを見かけたんだ、真夜中に」

と感情の全くこもっていない言い方で言うと、稽古刀を片手に勝手に素振りを始めてしまった。

 周晋としては、特に何か深い意味があって聞いたわけではなく、ただ昨晩なんとなく寝付けなくて寝所を抜け出し、広い流宗邸の中をそぞろ歩きしていた時に、奈緒の部屋の側で仙石が何をするでもなく、ただ呆然と暗がりに佇んでいたのを目にしたので、聞いたまでであった。しかし、仙石はそうとはとらなかったであろう。なぜなら、実は仙石は周晋の母奈緒に、良からぬ感情を抱いていたからである。

 仙石俊章は、自分の容姿に強い劣等感を感じて生きてきた。この年で四十八になっていたが、未だかつてまともな恋もしたことがなく、当然ながら一人身の生活を続けていた。専任の剣術師範であったため、道場内に住居が与えられており、衣食住には不自由ない生活ではあったが、嫁もおらず子もないというのでは寂しかろうと、十年前に永晋が見合いを勧めてきたことがあったが、仙石は顔面を蒼白にさせて断ってしまったのである。女遊びをしている気配もなく、道場の者からは女嫌いなのだろうと影では噂されていた。

 確かに女遊びはしなかったが、仙石もごく普通の男である。人間としての欲望に何ら他の者と変わりはなかった。しかし、仙石の場合は劣等感が勝り、女性を好きになることを恐れ自ら避けてきたのだ。

 奈緒に対する小さな恋心が芽生えたのは付き人として滋柳に残り、奈緒や潤晋と過ごす時間が増えてからであった。丞国道場に入門したころから、奈緒の美しさには惹かれていた。面倒見が良く、礼儀正しくて夫によく尽くす。その上美しい容姿を持ち合わせた奈緒を、仙石は自分とは全く異なる世界にいる存在として遠くの人と感じていたが、奈緒はよく稽古中も道場に顔を出しては門下生たちに労いの言葉をかけてくれ、仙石に対しても決して自分の醜い容姿を気味悪がることもなく、平等に接してくれた。

 周晋の付き人としての生活が始まってから、奈緒はあたかも家族のように仙石にも色々手を尽くしてくれたし、多大な信頼をよせてもくれた。しかも夫である永晋は今は側におらず、女気のない道場にいて、同じ敷地内で生活をともにし、他にも多くの剣術師範がいる中で道場主の子息の付き人である仙石と壱次雄大は、流宗邸への出入りも許可されおり、最も身近な存在の一人でもあったのである。仙石俊章が、奈緒に恋心を抱き男女の関係になりたいと願うのも何ら不思議なことではなかった。

 もちろん相手は己の師匠の愛妻である。手を出すことは許されるはずがない。しかし、仙石の奈緒への想いは強くなる一方で、自分の容姿に対する嫌悪感が蘇り増強され、その相互作用で禁断は禁断でしかないのが、その重さのようなものだけが仙石の中で度を増していった。もともと自分の感情を上手く表すことができない性格である。また、幼い頃から肩に乗せている劣等感と嫌悪感に振り回され自分自身さえも信じることができない男であった。

 そうなると人の心の中で、理性は影に潜み、感情は持ち主の制御から逸脱して完全に自己膨張を繰り返す。何が正しく、何が悪いことなのか。そんな分別は何の意味もなさなくなる。仙石俊章も、すでにその状態に陥っていた。

 仙石は、かろうじて残る自分の理性を必死に奮い立たせて、冷静な自分を維持することに最近では専ら集中力を消費していた。自分の苦労の甲斐もあって、周晋は最近やっと閉ざしたままであった心の扉の鍵を開けてくれた。そしてそのことによって奈緒や潤晋が自分によせる信頼もより一層大きなものへと変わっていた。また道場の仲間からは女嫌いとして見られていたことも知っている。自分の野心には誰一人気づいていない。そのことを確信できることだけが、安堵の理由であり、理性を保てる唯一の手段だったのである。

 ところが必死に理性を保とうとする仙石の努力をよそ目に、奈緒への想いは止まることを知らなかった。最近では夜も寝付けなくなり、周晋の夜遊びが収まったのと入れ替えに、仙石の夜歩きが始まった。仙石は流宗邸に忍び入り、奈緒の寝室の近くまで言っては、はっと我に返ったように身を翻して額に汗をいっぱいためて自室に戻るということを何度も繰り返していた。

 周晋が偶然にも目撃したのは、そんな仙石の姿だったのである。周晋の何気ない一言で、何とか落ち着きを保っていた仙石の理性は、いよいよ行き場をなくしてしまった。

 仙石は、周晋に奈緒への密かな想いを気づかれたと勘違いしてしまった。

 仙石は手に汗を握り、自分が上手く呼吸ができていないことに気づいた。稽古を始めなければ。周晋は自分のことを軽蔑しているだろうか。周晋は奈緒にそのことを言うのだろうか。仙石は定まらない視線を周晋の横顔に向けた。周晋は、いつもと何の変わりもなく素振りを続けている。仙石は額を流れる汗を拭い、震える膝を手を押さえて、よろめきながらその場に立ち上がった。ところが仙石は上手く呼吸ができないことから、気分が悪くなり、頭下げて俯いてしまった。

 その様子に気づいた周晋は、しばらく仙石が顔を上げるのを待っていたが、いつまでたっても仙石が下を向いたままであったので、素振りの手を止めゆっくりと仙石に近づいていった。

 「おい。気分でも悪いのか」

 周晋は右腕の袖で汗を雑に拭ってから聞いた。

 ずっと上下に大きく揺れていた仙石の肩は、一度だけびくり大きく反応すると、より一層激しく震えだした。あまり人に気を遣う言葉をかけたことがない周晋は、規則正しい生活に努め、肉体鍛錬を欠かさず、病気などこれまで一度もしたことがない自分の付き人に対してどのように声をかけたらよいのか分からず、常に無表情の顔は珍しく困惑顔になっていた。

 「いや…。もういいよ。部屋に戻れよ」

 周晋は少し苛立ちながら言った。

 しかし周晋の声は仙石の耳には届いていなかった。というよりも聞こえてはいたが、その意味が頭に浸透していかなかった。指先が異様に冷たくなり、小刻みに震えている。仙石は、自分の心と肉体が、まるで別のものであるかのような感覚に捕らわれていた。喉は大きく音を鳴らし、瞼は何度も瞬きを繰り返している。次に何をしたらよいのか分からない。

完全に生きた心地を失っている仙石の体に何かが触れて、震えは少し治まり、その代わりに仙石は大きく咳き込み前のめりに倒れこみ両膝と両手をつくような姿勢になった。

仙石の横腹に触れたのは、周晋が手にしていた稽古刀だった。

 「おい。しっかりしろよ」

 周晋は今度は大きな声で強く言った。

 今度は、周晋の言葉がはっきりと近くに聞こえ、意味も理解し、仙石は膝をついたまま、

 「申し訳ありません。何でもありませんから」

と言うと、完全に色を失った顔を上げて周晋を見上げた。

 「おかしいよ、仙石。もういい。休んでろ」

 周晋は吐き捨てるように言って、仙石に背を向けると再び素振りを始めてしまった。

 「申し訳ありません。本当に申し訳ありません…」

 仙石はほとんど聞こえないかすれた声でそう言うと、足早に稽古道場を飛び出していった。



 「仙石殿が、私にそのような想いを抱いていると」

 奈緒は信じられないといった顔で潤晋の困惑顔を覗き込んだ。

 「本人に確かめたわけではありませんので、何とも言えないのですが。ここ最近の仙石次朗の言動といい、取り乱したような様子。まるで別人のようなのです」

 仙石は、夜な夜な奈緒の部屋の様子を伺っていたことを周晋に見られてからというもの、潤晋が言うように別人のようになっていた。常に周囲の目を気にするように目をぎょろぎょろさせて周りを窺い、人から声をかけられると異常なまでに驚き、体をびくりと反応させる。その上、稽古にも身が入らず、師範の立場でありながら一斉稽古の時間にも道場に顔を出さないことまであった。付き人として、周晋の指導と教育には特に目立った変化も怠慢もなかったが、周晋に対する態度は、非常にぎこちないものであった。

 これまでが生真面目で忠実な男であったがために、仙石の稽古の無断の休みはたちまち道場内の騒ぎとなっていた。不審に思った潤晋は、騒ぎ立てる門下生たちを落ち着かせ、一人仙石の居室を訪ねた。

 「次朗。いるのですか。私です。翔憲です」

 潤晋は、仙石の居室の戸を軽く叩き、中に向かって呼びかけた。

 すると、潤晋が想像していた以上に早く内からゆっくりと戸が開いた。戸を開けたのは当然仙石本人ではあったが、黙って訪れた人の顔を落ち窪んだ目で一度凝視しただけで、後は一言も発せず部屋の奥へと足を引きずる様にいってしまったその男は、わずか数週間の間にまるで別人のように窶れ、一気に老いてしまったように見えた。

 潤晋は一度息を飲んだ。そして、目の前の人に起きている非常な事態がどんなものであるか探るように、ゆっくりとした口調で、

 「次朗。何かあったのですか。いつも道場に一番に行っているお前が稽古を無断で休むなんて、ただ事ではありませんね。私で良ければお話を聞きましょう」

と言った。

 仙石は部屋の片隅で腕を力なく垂らして立っていたが、しばらく沈黙を続けた後で、やっと顔をあげて今では主人である潤晋の前まで歩を進めると、

 「ご心配をおかけして、誠に申し訳ありません、潤晋様。少し疲れてしまっただけですから」

と、低い小さな声で言った。

 「ここのところずっと顔色が悪かったですね。お前の様子がおかしかったのは気づいていたのですが。」

 潤晋は仙石を宥めるように言った。

 「十月に入ってから、母上の所にも顔を出さなくなったそうですね。たまに夕食をともにすることを母上は楽しみにされているのですよ」

 十月に入ってから、正確に言えば周晋に目撃された翌日から、仙石は一切奈緒の部屋には近づかなくなっていた。道場で声をかけられた時には普通に接していたが、奈緒からのお茶の誘いも、時折の相談相手も、その場しのぎで言い訳を言っては、奈緒のもとへ個人的に足を運ぶことは一切避けていた。そんな仙石の態度に、奈緒も違和感を感じてはいたものの、まさかそんな事情があるとは夢にも知らず、剣術の指導や周晋の教育に忙しくしているからであろうと勝手に思い込んでいたのである。

 仙石はこれ以上話が奈緒のことになるのを避けようとして、

 「流宗。誠に勝手ではございますが、しばらく暇をいただけないでしょうか」

と突然潤晋に願いでた。

 潤晋は腕を組んでしばらく悩んでいる様子だったが、道場や稽古のことよりも、周晋の世話のことのほうが気になったので、

 「次朗。言えるところまでで良いですから、理由を教えて下さい。何の理由もなく突然に師範仙石次朗はしばらく稽古や指導を休むとなれば門下の者たちに示しがつきません。それに…。次朗、お前も気づいているでしょう。永誠は最近やっとお前に信頼を示すようになったのです。次朗、お前の執念の賜物ではないか。私も心から感謝しているのです。それに父上が不在の中、信頼の篤い師範が一人減ってしまうのは痛手です」

と、さりげなく日常の勤めに戻るよう促した。

 しかし、仙石にとっては潤晋の優しい言葉が逆に身に沁みた。

 「いやしかし…。今の私に剣は扱えません」

 「何があったのです」

 「…」

 潤晋の問いかけに、仙石は答えようとしなかった。

 「分かりました。無理に聞くつもりはありません。体調が優れぬということでしばらく稽古を休むことを許しましょう。ただし、永誠の学問と礼儀はこれまで通り見て頂けますね」

 潤晋は、暇を申し出るはっきりとした理由を言いそうもない仙石を説得するように言った。

 ところが仙石はかすかに首を横に振って言った。

 「周晋様のお世話は他の者にお申しつけ下さい」

 「えっ。どうしてです」

 潤晋は耳を疑った。仙石が、周晋の付き人としての役目を父永晋から命じられたことを誇りに思い、強い執念と固い意志によってその役目を着実にこなしてきたことは、潤晋が誰よりも知っていた。その仙石が周晋の世話から手を引きたいと言うのは、まさにただ事ではなかった。

 「永誠と何かあったのですか」

 潤晋の質問に、仙石は肩を強張らせた。そして仙石は血走った目を見開いて、突然手をわなわな震わせながら、

 「周晋様にも、奥様にももう合わせる顔がないのだ」

と声を荒げて激しく言った。

 それから、結局仙石は稽古指導は完全に休むことになったが、周晋の付き人としてのお役目は通常通り受け持つことになった。周晋自身も当然突然の仙石の変わりように疑問を感じたであろうし、困惑もしたであろう。しかし、もともと他人にあまり興味を持とうとしない少年だった。違和感を感じつつも、仙石の講義だけをただ黙々と受けていた。

 潤晋は、仙石との話の内容を誰にも話さなかった。奈緒にも無用な心配をかけたくなかったので、しばらくは仙石は腕を痛め養生しているとつじつまを合わせることにした。そしてその間、自身の付き人であり、師範長である壱次雄大と示し合わせて、壱次に仙石の監視を行なうように命じていた。

 そんな経緯があり、稽古を休むようになってから再び再開された仙石の真夜中の異常な行動が、壱次雄大の目にも留まるようになったというわけである。


 「ああ。にわかには信じがたいことですね」

 奈緒はより一層不安の色を濃くして、少し俯いた。

 「私も同じ思いです。しかし母上。次朗が母上の寝所の側を真夜中に徘徊してることは間違いありません。壱次が次朗の姿を目撃したのは一度や二度ではないのです。大事な門下の弟子を疑うのは私も辛いです。次朗とはともに稽古に励んだ仲。しかし次朗も一人の男ですから、母上に危険が迫っているとすれば見過ごす訳にはいきません」

 潤晋は珍しく興奮して言った。

 奈緒はとても悲しそうな表情を浮かべていたが、

 「分かりました。それで潤晋殿、私に何かできることはありませんか」

と潤晋に聞いた。

 「とにかく母上は仙石次朗には近づかないで下さい。これからは母上の寝所の周りに警備をつけることにします。壱次には次朗の監視を続けさせます」

 「しかし潤晋殿。警備の者をつけたら仙石殿が疑われていることに気づいてしまうのではありませんか」

 「はい。その通りです、母上。次朗には真夜中の行動が誰かに見られていることを気づかせてやるのです。そうすれば人道を外れた考えは諦めて、誤った行動は踏みとどまってくれると読んでいます」

 「ええ…しかし。周晋のことはどうなるのですか」

 「はい。永誠の付き人としての任は解くつもりはありません。永誠に対する態度は何の変化も見られませんから。ただし、周囲の者に密かに監視はさせるつもりです。せっかく開きかけた永誠のここの扉が再び閉められてしまうのは辛いですから」

 潤晋はそう言って、右手の拳を胸の前に持っていき、強く握りしめた。

 「それから、父上にもお知らせするつもりです」

 潤晋と奈緒はそっと視線を合わせると、ほとんど同時に小さく頷いた。


 潤晋が奈緒に仙石次朗の異常な行動について明かした次の日から、奈緒の部屋の周りには常に数人の警備兵が立ち見張りをすることになった。その理由を知っていたのは極わずかな人間だけで、潤晋は何も知らない門下の達には、道場の近所で物盗りの被害が相次いでおり、その用心のためであると取沙汰することにした。

 それに気づいたからか、仙石が真夜中に寝所を抜け出すことは、警備兵を置くようになったその日からぴたりと止んだのだが、その代わりに時折仙石の寝所から激しい唸り声と物音がするようになった。しかし、夜が明けていつも通り周晋のもとへ挨拶をしに行くところから始まり、夕刻に道場の掃除を済ませて居室に戻るまでは、いたって正常に見えた。いや、実は見えていただけであり、すでに全ての人間に対して疑心暗鬼に陥り、理性も冷静も失っていた仙石は、狂気の魔の手に完全に心を奪われていたのである。嵐の前の静けさに、潤晋も壱次雄大も、奈緒までも、幾分拍子抜けしていた。そしてそこから油断が生まれ、悲劇を招いてしまったのである。

 気温も下がり、秋の訪れが十分に感じられた十月二十二日。日中に仙石を監視していた弟子らの報告によると、その日も特に異常な行動は見られず、周晋が稽古で汗を流している間は側でその様子を見守っているか、自身の居室で静かに書物を読んでいたという。また昼前と夕方に一回ずつ、周晋に講義を行っているが、いったて物静かに淡々と進め、周晋も退屈そうではあったがよく堪えて聴いていたらしい。潤晋は、自分たちの思惑通り仙石が心を入れ替えけじめをつけてくれたのだと思い始めていた。

 この日の警備の当番は、次期剣術指南役候補であった二十六の坂内政太と、児童指南補佐で二十四になる三笠昌太郎の二人であった。

 この日は奈緒も早く床に就いたのであろう。寝所からは灯りは漏れていなかった。奈緒は灯りを消す前に、夜通し警備をしてくれる門下生たちに、

 「すまないですねえ。どうかよろしくお願いしますね」

と労いの言葉をかけた。

 道場内は寝静まり、真っ暗な暗闇の中に坂内と三笠が足元に置いた灯火だけが、時折ぱちぱちと音を鳴らすだけで他には何の気配も感じられなかった。さすが時期指南役候補生と児童指南補佐である。無駄な言葉は交わさず、腰にしっかりと刀剣を携えて背筋を正し、直立不動の姿勢で警備の任務を全うしていた。

 数刻が経った頃、天候が次第に悪くなり、風が強くなってきた。坂内や三笠がふと空を眺めると、いつの間にか重たそうな雨雲が風に流されて夜空の三日月を徐々に覆い尽くしていた。薄い月明かりが影でに変わり、二人の視界が一気に暗闇に変わったその瞬間だった。

 まだ暗闇に慣れない三笠昌太郎の視野に、突然何かが小さな光を放ち、下から上に向かって凄まじい速さで移動したかと思うと、それはあっという間に三笠昌太郎のすぐ目の前まで近づいてきた。三笠昌太郎は咄嗟に刀を抜こうと柄に手を当てたが、それとほぼ同時に目の前を走った刀の閃光が三笠の体を斜めに突き抜け、そのまま三笠昌太郎は小さな呻き声と共にその場に倒れこんだ。

 同じく暗闇で周りが良く見えない坂内政太は、自分たちに起こった突然の異変に感づきすでに刀を抜いてはいた。

 「何者っ」

 坂内が力の限りこう叫ぶと、暗闇の中ですでに屍となった三笠昌太郎の側に佇み上から見下ろしていた大きな人影がゆっくりと坂内の方を振り返り、近づいてきた。坂内は、刀を構え暗闇の中の人影を睨み付けた。

 「何者なのか、聞くまでもあるまい。分かっていたのだろう。坂内」

 暗闇の人影は低くそして暗い声でこう言った。坂内は当然のことながら、その人影の正体が誰であるか見当がつくはずもなかった。警備兵たちは警備を置く理由は物盗りに用心してと聞かされている。

 しかし坂内政太にはその声に聞き覚えがあった。

 次第に目が慣れてきて、そしてほんのわずかではあったが雲の重なりの少ないところから漏れた月明かりが、坂内に一歩一歩と近づいてくる人影を照らし始めた。

 「我が名は仙石次朗俊章。今宵を死期と見定め、あの世の道連れに麗しき奥様のお迎えに参った次第。お前も共をしてくれるのか」

 薄い月明かりに半分だけ照らされた仙石の顔はこの世のものとは思えないほど恐ろしい形相を帯びていた。坂内政太は訳が分からず言葉を失っていたが、仙石の右手に持たれた長い刀から赤いものが滴れ落ちているのを見て、これが夢ではなく現実のものであることを理解した。

 「何を…、何をおっしゃっているのですか、仙石師範。なぜ、なぜ三笠を斬ったのです。死期とはどのような意味なのですか」

 坂内は全身に力を入れてやっとの思いで叫んだ。

 すでに仙石に斬られ絶命している三笠昌太郎も、坂内政太も、仙石が稽古をつけてやっていた弟子であった。無口で無愛想で何を考えているのか分からない師範ではあったが、指導の仕方が丁寧で、感情の起伏がなく黙々と稽古に付き合ってくれる仙石を、二人は心から慕っていた。

 突然突きつけられた悲惨な状況に、坂内は動揺を隠し切れず、刀を握る手は小刻みに震えている。

 「しらばっくれるのはよせ、坂内」

 仙石は鬼のような恐ろしい声で荒々しく言い放った。

 「流宗の指示か。それとも壱次殿か。お前たちも私の正体をすでに知り、陰でこそこそと私のことをつけまわしていたのであろう。昔私のことを白い目で見ていたあの者たちのように、お前たちも陰では私のことを蔑み、私の醜い顔や醜いこの心を軽蔑していたのであろう」

 再び仙石の長身の体を暗闇が包み込んだ。小さな雨粒が仙石と坂内の髪を少しずつ濡らしていく。

 その時、奈緒の寝室からほうと小さな灯りが点ったかと思うと、ゆっくりと戸が開き、奈緒が顔を覗かせた。

 「奥方。危険です。こちらへ来てはいけない」

 坂内は咄嗟に叫び、刀を振り上げて仙石に向かって行った。二人の刀は交わる度に高い音を発し、ぎりぎりと軋む音は離れてその様子を窺っている奈緒の背筋にも響いて、不快な振動を伝えていた。

 「もうお止めなさい。誰か、誰か」

 奈緒は必死に叫び助けを呼ぼうとしたが、生憎の雨風によってその声はかき消されてしまった。

 「今宵を選んだのだ。三笠は幼き頃から私が稽古をつけてきた愛弟子だ。私のような愚かな師範を持ったのが運の尽き。しかし三笠も喜んで死出の旅をともにしてくれよう。お前はどうなのだ、坂内。気が乗らぬとあれば命だけは助けよう。しかし止めるのなら斬る。お前も分かっていよう、お前ではまだ私を斬ることはできない」

 坂内政太は、長身で逞しい仙石の太い腕の前で、仙石の刀を抑えながら、必死に次の返し手を考えていた。

 「仙石師範。どうして…」

 坂内は何も分からず混乱の中で、悔しい感情を爆発させていた。自分は今日この場で自分の師範である男に斬られ命を落とす。そのことに気づいたからである。

 「仙石殿。どうして昌太郎を斬ったのです。あなたが欲しているものは私なのでしょう。もうお止めなさい。これは命令ですよ。旦那様への恩義を忘れたのですか。お前はこのようなことをできる人間ではありません。目を覚ましなさい。どうしても斬るというなら私を斬れば良い」

 仙石と坂内の睨み合いの中を、奈緒が体を張って止めに入った。

 「奥方。いけません、お逃げ下さい」

 坂内は奈緒を逃がそうと、奈緒の背を強く押した。しかし、その隙をつかれ仙石に右肩から腹にかけて斬り抜かれた。坂内は一度大きな悲痛の声を上げたが、血と雨で出真っ赤に染まった手でその場に座り込んでいた奈緒の肩を掴んで立ち上がらせると、流宗邸の中庭を出口の方に向かって走り出した。

 「坂内…。お前、そのように深手を負っておるのに」

 奈緒は、自分を庇う様にして走る坂内を心配して言った。

 ところが仙石はすぐには追ってこなかった。坂内は、何度も後ろを振り返り、まるで呪文か何かの様に、

 「早く…。早く。逃げてください」

と何度も何度も繰り返して呟いた。

 次第に坂内は歩けなくなり、今度は奈緒が腕を坂内の背に回して支えるようにして歩いた。何とか広い表口にたどり着くと、坂内はさっと奈緒から離れて、

 「私はもう駄目のようです。奥方…。私が、ここで仙石師範を食い止めます。その隙に逃げて、助けを請う下さい」

と言って、片膝を地に付けた。

 奈緒は首を振って、坂内の袖を引っ張ったが、坂内は動こうとはしなかった。

 「奥様」

 奈緒がはっとして振り返ると、仙石が少し離れた場所で佇んでいた。

 「奥方、早く逃げてください」

 坂内の悲痛の声を聞いて、奈緒はついに坂内をその場に残して、重い門を開け道場の方へと駆け出そうとした。

 青銅でできた流宗邸の門が、軋む音を上げてゆっくりと開く。奈緒は、いつの間にか大降りになった雨に打たれてしなびた長い髪を一度大きく掻き上げて水飛沫を立てて走り出した。


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