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博祥院

  博祥院


 その日、撰真博斗郡の空は爽やかな青一色で染まっていた。

 周峰郡の壬晃から博斗までは、大人の足で三日ほどかかる。諒亮が周峰郡支庁を去って、ちょうど二日が過ぎた。同じくして月が変わり、恵治十六年も九月に入っていた。

 博祥院のある功道くどうまで残り半日という所、諒亮は裾緒の町で宿をとることにした。実は、病み上がりの諒亮の体調を気遣い、周峰郡支庁長永谷之博が、宿泊のための宿代を餞別として渡してくれたのである。野宿慣れしていた彼ではあったが、周囲の目に常に気を配らなければならない身の上から、安全のためにも人の多い裾緒の町を選び、夜を明かすことにした。

 時刻も遅かったため、諒亮はすぐに床に就いたが、なかなか寝付けず、すぐに布団から抜け出して窓際に腰を下ろし、かすかに秋が感じられる夜の風にあたって、夜空の星を眺めた。

 不眠は昔からだった。しかし牢部屋で過ごしたこの二ヵ月半の間、自分でも信じられないほど安心して眠りにつけていた。眠ることができず、寝床から起き出して空を眺める。そんな毎夜を迎えていた彼は、そのことをこの夜に初めて気づかされたのである。

 結局ほとんど眠らないまま、朝を迎えた。諒亮はまだ薄暗い頃に宿を後にし、博斗に向かって歩き出した。右手には、綾峰総馬に返す高額なお金を持っている。諒亮は周りに注意を払い、鋭い眼差しを四方に巡らせながら歩いた。

 諒亮が功道に着いたのはその日の夕方だった。不慣れな功道の町中を、諒亮は博祥院を捜して歩き回った。一つだけ覚えていたのは、小さな木彫りの看板が入り口の脇にかけてあったこと。常に患者の通院が絶えず、多くの人から信頼を受けている治療専所のわりには、あまりに控えめな看板だったので、ほとんど院内の様子を知らない諒亮にとっても、強い印象として頭の中に残っていたのである。

 博斗郡の各郷の中でも、功道の郷は比較的人口が多い。日が落ちてきても、町中にはたくさんの人でにぎわっていた。故郷を離れてからずっと人目を避けてきた諒亮は、あえて人には尋ねず、かすかな記憶を頼りに博祥院のあった場所を粘り強く辿っていった。

 しばらくして細い路地に入り込んだ時、諒亮は見覚えのある女性が視線の先に歩いているのを見つけた。諒亮はすぐに声をかけようと思ったが、一瞬戸惑い、しばらく女性の後姿を見送った後、もと来た道に戻り駆けていった。

 「今日は寄っていかないの」

 野菜売りの女に声をかけられたが、どこかへ急いでいるのか、その背が高く体格のよい女は、

 「今はいいわ。また明日ね」

と大きな声で言うと足早に商店通りを走っていった。

 博祥院は功道の郷・西商店通りを抜けて大通りに入り、ずっと先を行くと突き当たる博頂通りの中ごろに位置している。女が、商店通り先の大通りを、博頂通りに向かっていた時だった。突然、黒地の旅装束をまとい、帯帽を身に着けて目だけを出している背の高い青年が、小道から出て来て、女の前にゆっくりと歩み寄ってきた。女は少し警戒して、すぐに足を止めると、

 「何か用。急いでいるんだけど」

と威勢良く言った。

 青年は、一度頭を軽く下げると、

 「突然申し訳ありません。失礼ですが、博祥院の綾峰秋登先生ですね」

と女に尋ねた。

 女は、少ししかめっ面をしたが、すぐに底抜けの明るい笑顔を作って、

 「ええ、そうよ。泣く子も黙る名医、綾峰秋登は私のこと」

と大声で答えた。

 青年はそれを聞くと、今度は深くもう一度頭を下げると、

 「ご無沙汰しております。その節はお世話になりました」

と静かに言った。

 秋登は初め不思議そうに目を丸めて、首を傾げていたが、青年が被っていた帯帽を取り、顔をあらわにすると、

 「あ。あんた」

と声を上げてそのまま固まってしまった。

 「先日の無礼のお詫びを申しあげたいと思い参りました。ただ、博祥院の場所が分からず、歩き回っていたのでいくらか遅くなりましたが」

 諒亮が申し訳なさそうに言うと、秋登は少し涙ぐんだ目をして、首を強く何度も横に振った。

 「絶対に来てくれるって信じてたわ。うちの人もずっと待ってた。喜ぶわね」

 当然ながら秋登も、総馬から釈放金を支払ったこと、永谷中将と話し合わせたことも聞かされていた。青年は必ず博祥院に足を運んでくれる。そう総馬も秋登も信じていたのだ。

 諒亮は、秋登について博頂通りを博祥院へと向かった。博祥院に着くまで、秋登は何も言わなかった。諒亮は半歩後ろから秋登の背中を見つめていたが、やはり何も言わず、秋登の後に従った。

 その日も相変わらず、博祥院には大勢の患者が来院していた。秋登はあえて表門を避け、裏口に回り、裏の戸から博祥院へと入った。

 「さあ上がって。今日も診察が終わるのは遅いだろうから。少し待たせることになるけど」

 秋登がそう言うと、諒亮は頭を下げて中へ入った。二人は裏口すぐ右手にある階段を登り、二階の角の部屋に入った。入り込む夕明かりが、その部屋の石造りの壁を明るく照らしていた。

 「悪いけどしばらくここで待ってて。ゆっくりしてなさい」

 秋登は顔の半分を夕焼け色に染めてそう言うと、慌しく部屋を出て行った。

 遠くに聞こえる人の声。忙しそうな治療専所の音。どことなく懐かしく感じられた。諒亮は部屋の片隅にあった板台に腰を下ろし、耳を澄ましてその音に聞き入っていた。

 すっかり日も落ちて、いつしか部屋の中は真っ暗になっていた。諒亮は立ち上がり、部屋の窓から外を眺めた。さっきまで行列を成していた来院者の数も減り、左隅に見える表門の戸にも明々と火が灯っているようだ。気づけば通りの人数も随分と減り、周りの薬草院や学問所の明かりも小さく、博頂の通りを夜が包み込んでいた。諒亮は少しだけ窓を開けてみた。その時、表門の方から誰かの話し声が聞こえたので、見てみると、一人のおばあさんが何やら頻繁に頭を下げ、礼を言っているようである。礼を言われている白衣の男は、そのおばあさんの肩を優しく叩き、微笑みながら何か言葉を返しているようだった。

 「綾峰…先生」

 諒亮は呟いた。

 遠く表門のほうで帰っていく患者に労いの言葉を丁寧にかけていたのは総馬だった。総馬は最後の患者が遠く見えなくなるまで、ずっと見送っていた。自分もその綾峰総馬に助けられた身。諒亮は、改めて綾峰総馬という人間の大きさに心を打たれた。

 しばらくして、やっと総馬が門を閉めて中に入っていったのが見えた。それとほぼ同時に、階段を駆け上ってくる音が聞こえた。諒亮は戸の方を振り返った。戸を二度叩き、ゆっくりと開けて中を覗き込んだのは総馬の長男・紳作だった。

 「やあ。よく来てくれたね。母上からあなたがいらっしゃっていると聞いて、とても嬉しく思いました」

 紳作は父親に似て、非常に温和な人柄の持ち主である。話し方も丁寧で、二十二歳とは思えないほど落ち着いた男だった。

 「お久しぶりです。先日は大変な失礼を致しました。本当に申し訳ありませんでした」

 紳作や次男の誠司も、諒亮が博祥院から姿を消した後随分と探し回ってくれたことも、永谷中将から聞いていた。

 「謝ることはない。あなたが戻ってきてくれただけで、私たちは嬉しいのですから。とにかく無事でいてくれてよかった」

 紳作は小さなえくぼを頬に作って、嬉しそうに笑った。

 「さあ。まだ父上には知らせていないのです。きっと驚かれるでしょうね。あなたからお声をかけてくだされば、一層父上はお喜びになると思います」

 そう言って悪戯に笑った表情は、幾分か秋登にも似ているようだった。

 紳作と諒亮は二階の部屋を出ると、治療専所で後片付けをしている総馬のもとへ向かった。


 「秋登。何か良い事でもあったのですか」

 総馬は一緒に片付けと明日の準備をしている秋登に聞いた。

 「え、どうして。私嬉しそうな顔してる」

 「ええ。とても。芦屋さんのお宅から戻ってきてからずっと嬉しそうな顔をしていますよ」

 「あったのよ。嬉しいことが」

 「嬉しいこととは何ですか。私にも教えて下さい」

 「後でね」

 総馬は少し困ったような顔をすると、一度小さく溜息をつき、

 「今日も…。あの子は来ませんでしたね」

と言った。

 秋登が返答に困っていると、すぐ側にいた清司が、

 「父さん。もうすぐ会えるさ。絶対あの子は来ると思う」

と、秋登に代わって言った。

 実は今日はずっと総馬の助手を努めていた清司も、諒亮が博祥院に来ていること知らされてなかった。

 片付けがある程度済むと、明日の支度を清司や弟子たちに任せ、総馬は居室の方へ下がろうとした時だった。

 「総馬先生」

 突然誰かに声をかけられて、総馬は後ろを振り返った。

 「あっ」

 総馬は自分を呼んだ人を見て、小さく驚きの声をあげると、瞬きも忘れて目の前に立っている人を見つめた。

 「戻ってきてくれたのですね」

 総馬の声は少し震えているようだった。

 諒亮はゆっくりと深く頭を下げ、

 「総馬先生。本当にご迷惑をお掛けしました。私の釈放のために周峰郡支庁に支払っていただいたお金をお返ししに参りました」

と言うと、両手に大事そうに持っていた袋を総馬に差し出した。

 突然の驚きのためか、あるいは嬉しさのあまりかもしれない。総馬はその袋を受け取る代わりに、諒亮の腕をしっかりと握り、腰を曲げて深く頭を下げた。総馬は自分の頭を両腕に埋めて、咄嗟に出てこない自分の言葉を必死に探っているようにも見える。

 諒亮は少し戸惑って、少し白髪の混じった総馬の後頭部をただ見つめていた。

 故郷を離れて以来、これほどまで自分のことを思ってくれた人に諒亮は初めて出逢った。警戒と不信の目を光らせ、人と言葉を交わすこともなく、絶望という重い荷物を抱えての旅の道を進んでいた諒亮にとっては、久しぶりに得た安堵感だったに違いない。

 「戻ってきてくれて、本当にありがとう」

と、やっと顔を上げた総馬が心から嬉しそうな顔をして言った。

 悪化した自分の古傷の治療を施し、看病をしてくれたのも、郡支庁で拘束されていたところを助け出してくれたのも総馬である。実際に礼を言いたいのは諒亮であった。しかし総馬は、郡支庁に世話になるような自分を、本来は疎まれても仕方がないのに暖かく迎えてくれ、さらに戻ってきたことを喜びさえしたのだ。

 諒亮は複雑な気持ちになった。周峰郡支庁長・永谷之博も総馬も、諒亮が自ら命を絶とうとしていたことに気づいている。諒亮もまた、周峰郡支庁を去る前に永谷中将から総馬との会話の内容を聞いていた。だから諒亮には総馬の言葉が、死なずに戻ってきてくれてありがとうという意味が込められているように感じた。

 諒亮は、嬉しそうに微笑む総馬の目を見ることができず、横に目を反らした。それに気づいた総馬は、一層笑みを大きくして、

 「大丈夫。何も言わなくていい」

と優しく言った。

 総馬は諒亮の腕から手を離すと、そっと背中に腕を回し、

 「さあ。疲れたでしょう。少し休みませんか」

と言って少し背を押し、居室へと招いた。

 諒亮は促されるがまま居室へと足を運んだが、ふと手に持っていた銭袋のことを思い出し、総馬の顔の前にそれを突き出すと、

 「すみません…。このお金はお返しします」

と無造作に言った。

 総馬は、しばらくその銭袋を見つめていたが、両手でそっと包むように受け取った。

 「あなたの命はお金では買えない。そうですよね」

 総馬は、視線を銭袋からゆっくりと諒亮に移して聞いた。

 思いがけない問いかけに、諒亮は背筋を強張らせた。

 「私も、永谷中将様も、分かっていましたよ。あなたはお金を返すために、ここへ戻って来られるとね」

 総馬の表情から、ついさっきまでの笑顔はなかった。

 「とりあえずこのお金は返して頂くこととしましょう」

 総馬はこう言うと、諒亮の後ろに立っていた紳作に銭袋を渡し、

 「紳作。しまっておいて下さい」

と小さく呟いた。

 紳作は少し戸惑ったが、

 「父上、分かりました」

と言って後ろを振り返ると、さらに後ろの方で様子を窺っていた秋登と目配せを交わし、秋登とともに別の部屋へ下がっていった。

 少し薄暗い廊下に総馬と諒亮だけが残された。残暑厳しい九月ではあったが、廊下は幾分涼しさをかじることができた。二人の間に沈黙が流れる。諒亮はただうつむいていたが、総馬は天井を見上げて、ゆっくり目を閉じた。

 「…お名前。ああれからずっと、あなたのお名前を考えていたのですよ」

 総馬は目を閉じたままそっと言った。そしてそのまま、居室の方へ入っていった。

 「さて、明日からどこかへ行く当てはあるのですか」

 居室から声だけが聞こえてきた。

 諒亮は、居室の方に背を向け、一歩だけ歩を進めた。

 「自分にも、分かりません。俺が行くべきところはあるのか」

 諒亮の声は、廊下の空気の中で静かにこだました。

 「そうですか。それでは私にもきっと分かりませんね。あなたが行くべきところがどこなのか。でもね…、あなたが居ても良い場所はあります」

 「俺が居ても良い場所…」

 諒亮は総馬の言葉を繰り返すように呟いた。

 「はい。そうです。ここですよ」

 突然、総馬の声が大きくなった。諒亮がはっとして後ろを振り返ると、総馬は居室から顔だけ出して、諒亮の方を見つめていた。そして、総馬の右手が、こちらに来て下さいと言っているかのように、ゆっくりと諒亮を招いている。

 「せっかくこの世に生まれてきたのです。もったいないとは思いませんか」

 総馬は続けた。

 「ここにいたら、もしかしたら生きたいと思うかも知れません。行くべきところが見つかるかも知れません。はっきりと答えを出していないのに、諦めてはいけません。生きたいと思っていても、生き続けることができなかった人。行きたい場所があっても、行けなかった人。私は、そんな人たちをたくさん見てきました。生きるか、死ぬか。それはあなた自身が決めることです。しかし、できれば生きてほしい。そう願っているのは私だけではありません。それを、忘れないで下さい」

 総馬はこう言って、もう一度微笑んだ。

 「道志。あなたのお名前。相応しいとおもいませんか。道を志す。あなたにぴったりです」

 総馬は、諒亮に新しい名前を与えた。自らの命に見限りをつけながらも、諒亮の澄んだ瞳の奥には、何か大きな道を志しているような闘志が見られたのだ。

 「ねえ。この博祥院で、道志として暮らしてみませんか。新しい名を得て、あなたは今から新しい人生を歩み始めるのです。背負うべき過去はないはずです」

 諒亮は一度大きく息を吸い込んだ。そして深く頭を下げると、

 「綾峰先生。ありがとうございます。しばらくの間…先生のお言葉に甘えさせて下さい」

と言った。

 諒亮の目にはうっすらと光るものが見えていた。


 周峰郡支庁を去って数日後、博斗郡の博祥院に無事たどり着いた諒亮は、綾峰総馬から道志とうじという名を貰い、その日から博祥院で居候することになった。表向きには、時之道志という秋登の甥っ子が医学生として郷里から学びに来ていることにした。時之は秋登の旧姓である。しかし、偽名であることから籍格の取得はできず、不自由な生活を強いられることになった。それでも故郷壮樹を離れてからずっと当てもなく放浪の旅を続けてきた諒亮にとっては、新天地で得た有難い自分の居場所だったに違いない。

 その後、時之道志は再び款成諒亮として博斗を離れ旅へ出ることになる。実質、道志が博祥院で過ごした時間は半年余りではあったが、綾峰総馬との出逢いは彼の人生に大きな影響を及ぼしたことに変わりはない。


 博祥院は撰真省に数多くある治療専所の中でも一、二の規模を持っている。それに名医と謳われる総馬の知名度の高さも助けて、各地から数え切れないほどの多くの患者が博祥院へと集まってくる。恵治の時代に入り、大成帝国は再び大乱世を迎えていたので、博祥院に訪れる病人、負傷者の中にはとんだ乱闘騒ぎを起こす者、問題の種を運んでくる者、そして抱えている問題の解決だけを押しつけていつの間にか逃げ去ってしまう者など、博祥院医師たちにとっては招かざる患者もいた。それでも院長総馬の方針により、何人たりとも来院を断ったりすることはなかった。そのためか、何度か警察郡支長の世話になったこともあった。

 「刀を突き出されてしまうと、私など全く敵いません」

 与えられた部屋にある広い机に向かった道志の横顔を覗き込みながら総馬が言った。道志の、なぜどんな事情を持つ患者でも受け入れようとするのかという質問に対する返事だった。

 「本当に流血の絶えない時代になりました」

 総馬は少し悲しい表情をして言った。

 「やはりここへ足を運ぶ人の中には軍人も多いのですか」

 道志が深刻な眼差しで聞いた。

 「ええ。日を増すごとに増えているようですね」

 総馬は道志の横に腰掛けながらゆっくりと言った。

 道志はその日ずっと読み耽っていた医学書に再び目を落とし、

 「この町もいずれ戦渦に巻き込まれる」

と、独り言を言うように呟いた。

 総馬は一瞬の沈黙の後、

 「尊い命がいとも簡単に斬り捨てられてしまう時代です。命と向き合うべき医師が、命の差別化をしたり、傷を負っている者から目を背けたら、この帝国は滅びます。これで答えになりますか」

と言った。

 道志は一度ゆっくりと頷いた。

 「あなたのような人間が多くいれば、この帝国も変わるかもしれません」

 「道志。あなたは医師になりたいですが。今度は私からの質問です」

 総馬はいつもの微笑を浮かべて聞いた。

 「まだ何も分かりません」

 道志は少しだけためらいを見せて答えた。

 「そうですね。焦ることはありません。ゆっくり考えていけば良いのですから」

 「はい」

 「博祥院には毎日色々なものを背負った患者さんが訪れます。道志。あなたもその一人だったかもしれません。病気や怪我に限ったことではないのです。心に深い傷を負った人、生きる望みを失った人。残念ながらほとんどの場合、私にその傷を治すことはできません。それでも一人でも、二人でも、救うことができるかもしれません。ですから、私は決して諦めません」

 総馬は道志の左肩にそっと手を置いた。

 「この傷は完全に治ることはありません。私には治すことができません。道志、あなたの心の傷はどうでしょうか。それもきっと私には治すことはできないでしょう」

 「諦めるのですか」

 「いいえ」

 総馬は垂れていた首を持ち上げ力強く答えた。

 「勘違いしないで下さい。あなたには自分自身で傷を塞いでいく力がある。医師の勘です。でも無理だけは禁物ですよ」

 総馬は道志の目の前で右手の親指を立てて見せた。


 居候生活が始まってから、道志は一日の大半を机のまで過ごし、医学書を読むことに没頭していた。総馬が単身創設した博祥院の敷地は広く、居室側には医学生や住み込みで働く医師のために、多くの部屋が用意されていた。しかし道志は本人の希望もあり、病室から一番離れた小さな離れの部屋の一室が与えられていた。日中はあまり外に出ることはなかったが、早朝や閉院後には時々居室に顔を出し、総馬や秋登の手伝いをすることもあった。

 そんな生活が始まって一月が過ぎると、道志もやっと綾峰家に打ち解け始めた。しかし元来無口な性格で、いつもよくしゃべる秋登や清司の話を黙って聞いていた。一方、総馬や紳作は毎晩道志のいる離れまで足を運び、医学を教えたり、左肩の治療を施したりしていた。

 この頃、道志はちょうど成長期にあったため、急激な身長の伸びや体格の変化に伴って骨の成長が著しかった。そのため左肩に激痛が走り、寝床から起き上がれない日も続いていた。

 痛みと孤独。款成諒亮にとって、それは死にもつながる耐え難い苦痛以外の何物でもなかったが、少なくと時之道志は孤独ではなかった。光のない真っ暗闇の旅路の途中で、道志は優しく腕を引き導いてくれる存在に出逢った。目をつぶったままでも歩いてゆける、そんな安心感と自分の居場所をやっと見つけることができたのかもしれない。


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