中将お調べ書き
中将お調べ書き
その日、周峰の壬晃の町には、強い雨が降り注いでいた。多雨の時期は終わったとはいえ、もともと統格の西方は雨量の多い地域である。韓祥洋から流れ込む湿気を多く含んだ雲が、統格国を東西に分断している孫格山脈にぶつかり、雨を降らすためだ。
壬晃には、撰真省警察署周峰郡支庁(撰真省警察署本部は博斗にある)がある。
「雨ばかり。慣れたとは言え、やっぱり嫌なものよ。」
こう不平を漏らしているのは、周峰郡支庁勤番の警士官中将・永谷之博であった。永谷は、降り頻る雨を横目に、机の上の書類や書状を慌しく読んでいた。永谷之博は二月ほど前に、統格国都・格羅省警察署から異動となり、撰真省警察署勤めとなったばかりで、周峰郡支庁に移ってきたのはつい先月のことであった。生まれが雨とは無縁の駿星国であったためか、一年ほど前に家族ごと統格へ移り住んばかりの頃は、毎日のように降り続ける雨に呆れていたものだった。
雨雲に日光が遮られ、まだ三の刻だというのに、町はどんよりと暗い。永谷は支庁長室を出ると、さらに暗い廊下を大股で歩いていった。すると後ろから、部下の一人に呼び止められ、永谷は後ろを振り返った。
「中将。報告いたします」
「おう。どうかしたのか」
「たった今、格飛省の飛柳方面へと渡省しようとしていた浪人が捕らえられ、ここへ連行しているとの連絡が入りましてございます」
「ほう。浪人ね。してなぜ」
「はっ。早馬の報告では、見張りに出ていた野澤巡査官が省境で不審な青年を見かけ、素性を問いただしたところ何も答えず、その場を離れようとしたようでございます。怪しい男と、野澤が調べると、籍格(個籍認定格)を持っておらず、不法滞在あるいは不籍者である疑いで身柄を確保したとのことでございました」
「分かった。その男が着いたら呼んでくれ」
永谷はそう言って、また支庁長室へ戻っていった。
永谷が待っていたのは半刻ほどであった。野澤巡査官が到着したという報告が入った。
「お。もう着いたか」
以外に早い到着に、永谷はそう言うと、軍服を肩からぶら下げて、罪人などの取調べを行なう、施調書記所と呼ばれる部屋へ向かって行った。
永谷が施調書記所へ入ると、そこには雨で濡れた衣類を脱ぎ、着替えをしていた野澤巡査官の他に、数人の廻士と富木警事と武治警事が、何やら話し合っている様子だった。武治警事が永谷の姿に気づくと、さっと永谷の側により、
「支庁長。野澤が到着致しました。しかし、ちと問題が」
と、報告した。
永谷は、首の後ろを掻きながら、
「うん。そのようだな。問い質す相手がおらんからな」
と言って、大きな口をへの字に曲げた。
不籍の疑いで連行されたはずの青年の姿がそこにはなかったのだ。
すると今度は野澤巡査官が永谷の横まで歩み寄り、深く頭を一度下げて、
「中将。ご足労のところ申し訳ありません。連行した青年は、病人であるかと思われます。連行の途中も、歩くのもままならない状態でございまして、ここへ着いた途端に気を失って倒れてしまったのです。今、医務官殿のところへ連れて行ったところなのです」
と言った。
「病人。なぜ、歩くのもやっとな人間が…。何か事情がありそうだな」
永谷は腕を組んで首を傾げながらこう言うと、
「話はできるの」
と、野澤巡査官に尋ねた。
野澤巡査官は、少し困ったような顔をして、一度視線を泳がしてから、
「ええ。おそらくは…」
と言った。
「分かった。取り調べの日時は、その連行したやつの体調を見て決める。野澤、お前は着替えが済んだら先行報告に来てちょうだい。富木と武治、お前達も同席しろ」
永谷はそう言って、施調書記所を出て行った。
周峰郡支庁の医務室の一角。青年はそこで寝かされていた。滝でも浴びたかのように雨で濡れていた青年の衣服を脱がせて、医務官の吉次俊夫は、青年の体を拭いてやっていた。青年は高熱を出しており、意識もなく、呼吸も乱してうなされていた。脱がせた青年の見慣れぬ衣服を、吉次は珍しそうに眺めていたが、簡単に野澤巡査官から事情を聞いていた彼は、もう一度青年の衣服をよく見て、籍格がないか探ってみた。しかし、やはり籍格はないようである。不思議なことに、籍格どころか青年は何一つ所持品がなかった。
「盗人にでも襲われたのか」
吉次は何度も首を傾げては、青年の体を拭き続けた。
青年の体は、やつれてはいたものの、鍛えられていた。細身ではあったが、筋肉が引き締まり、背も高い。凛とした整った顔つきも、人を引き付けるものがあり、吉次には貴人か軍人にしか見えなかった。
「どこかお偉い方のご子息なんじゃないか」
吉次はぶつぶつ独り言を言いながら、青年の体を起こして服を着せてやった。
どことなく幼さが残るものの、その顔つき、体つきから、年は十八、九ぐらいのように思われた。しかし何より、人目を引き付けるのは、珍しい青銀色の髪であった。銀髪は、北方や西国に多いと言われている。遠目に見ると藍色を馴染ませたような青年の銀色の毛髪は、雨と高熱による汗によって、しなやかに横に倒れていた。
小さな物音がして吉次が後ろを振り返ると、永谷中将が入り口に立っていた。吉次は慌てて起立すると、一度敬礼し、
「さきほど連れてこられた男です。高熱があり、うなされておりましたゆえ、介抱をしておりました」
と言った。
本来、郡の治安担当警察部隊である護衛所を統括する省警察署郡支庁の長には、警士官の少将から中佐の位の人間が任命されることになっている。中将以上は、基本的に省警察署勤番であることが多いのだ。永谷のように、中将が郡単位の所属になることは異例であった。そのため、永谷には、部下たちも大きな尊敬を示しており、彼の統率力に引かれている部下も多かった。
永谷は、腕を組みながら熱にうなされている青年の側まで歩いてきた。
「こいつか。ほう、見かけぬ顔だねえ」
永谷を横目に、吉次はまだ背筋を伸ばして起立しし続けていた。
「それで、医務官。彼の具合はどうなのよ」
永谷は吉次に聞いた。
「はっ。青年の症状は重症であるように思われます。原因は分かりませぬが、このまま高熱が治まりませんと、命にも係わってくるかと思います。それから、左肩に深手を負っております。傷は塞がっておりますが、腫れ上がっております。熱も持っており、高熱は左肩に受けた傷からきているものかもしれません」
永谷は吉次の報告を聞くと、青年の胸元を捲って左肩を覗いてみた。吉次の言うように、青年の左肩は腫れ上がっていた。傷跡もかなり大きなもので、塞がった傷は皮膚で覆われ盛り上がっていた。
「まっ、無理にたたき起こす必要もないでしょ。目を覚ましたら呼びに来てよ」
永谷はそう言うと、医務室を出て行った。
永谷がそのまま自室に戻ると、すでに野澤巡査官と富木警事と武治警事が、姿勢を正して入り口前に肩を並べて待っていた。
永谷がひょいと右手を軽く上げると、三人が一斉に敬礼をする。永谷はそのままくるっと右を向いて部屋に入って行った。三人はそれに続き、部屋に入る前に一度礼をしてから足を踏み入れた。永谷は、椅子にどしっと腰を下ろすと、彼の癖である左ひじを机に立てて、頬杖をする姿勢をとって、
「ありゃあ、浪人じゃないね。不籍者でもない」
と言った。
永谷の発言に三人は顔を見合わせる。
「恐れながら、どのような理由から、そのように判断されたのでございますか」
こう聞いたのは富木警事だった。
「さて。なぜでしょう」
永谷は少しにやりと笑って、逆に三人に問いかけた。
この永谷之博は、少々変わり者で知られている。というのは、彼は全く偉ぶらないのである。もちろん立場上指揮も執るし、命令もする。しかし、一般的な高官軍人のような毅然とした、あるいは部下を圧迫するような迫力を持つ長ではなかった。というよりも、そのような態度をとる必要もないくらい、長の剣幕を常に持ち合わせている人物であるといった方が正しいかもしれない。同時に、人懐っこく、周峰郡支庁の部下たちだけでなく郡民にも人気があった。
永谷の問いかけに、三人は全くの困惑顔で互いに目を見合わせている。永谷はすっと立ち上がると、机に腰を下ろして腕を組んだ。そして眉間に皴を寄せて、難しい顔をしながら、
「勘さ」
と言って、一人で大笑いした。
三人は初めきょとんとしていたが、永谷につられるようにして笑った。
「まあ気長に待ちましょうか」
永谷はもう一言言ってにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「吉次くんはねえ、結構危険な状態だったって。あの青年」
「はっ。私が声をかけた時もただならぬ様子でした」
野澤が答えた。
「彼の具合が落ち着くまでは、依田医務長と吉次君に預けることにする。医務長には、取調べを受けられるようになったら連絡するように伝えた。一応、彼の担当は、そうね、俺。ということで」
と、永谷が言った。
「支庁長自らですか」
何か事情があって、郡支庁にしろ郡護衛所にしろ、拘束された人間には、担当の巡査官が付くが、支庁長自らが担当になることなど前代未聞である。起立の姿勢を保っていた三人が、身を乗り出すようにして聞いた。
「最近、大きな事件もないからね。俺もさあ、人間を見極める力が弱っても困るわけだ」
永谷が言った。
「しかし。支庁長が、囚人の世話をすると言うのはいかがなものかと」
渋い顔をしてこう言ったのは、富木警事だった。
しかし永谷は富木の発言をそのまま聞き流すようにして、
「というわけで、補佐を頼んだ。以上」
と大きな声で言うと、再び机の人となって、後は書状などを読むのに集中してしまった。
富木、武知警事と野澤巡査官は、それ以上何も言えず、結局、
「承知致しました。支庁長。失礼致します」
と声を揃えて言うと、敬礼をして支庁長室を出て行った。
永谷支庁長は一体どういうおつもりなのだろう。三人は首を傾げていた。
「おい。武知。支庁長が自ら囚人を見るなどということを聞いたことがあるか」
富木警事が後ろを歩く武知警事に聞いた。
「いや。ないね。でも富木。あの青年は、まだ囚人と決まった訳ではない」
富木に比べて、大人しい武知が言った。
「それはそうだが。支庁長は日々お忙しいではないか。取調べがなくとも、他の務めがあるというのに」
神経質な富木は、なんだか腑に落ちない様子でずっと首を傾げている。
「何かお考えがあるのでしょう。とにかく、あの青年の意識が戻るまでは何もできないことに変わりはありません。我々も他の務めに徹し、待ちましょう」
野澤巡査官は、二人の警事を宥めるように言った。
結局青年は、意識が戻るまで周峰郡支庁で身柄を預かることになった。青年の意識が戻ったのは、周峰郡支庁に連れて来られた日の翌日だった。
側には吉次医務官がいた。
「お、目が覚めたか」
吉次俊夫は青年の顔を覗き込んだ。
「ここは周峰の郡支庁だ。私は医務官の吉次。昨日からお前の看病を任されてる。気分はどうだい」
「郡…支庁」
「そうさ。そのう、不籍者として捕らえられたわけだ。ところがお前さんが、野澤巡査官に連行される途中、倒れてしまったからね。ここに運ばれてきたんだよ」
「…」
「それにしても何があったんだ。その左肩の傷。誰かから狙われたのか」
「…。昔の傷です」
「そのようだな。傷は塞がってはいるが、完治せぬまま放っておいたのだろう。随分と腫れている」
「大したことありません」
「大したことないとはね。下手すれば命にも関わったんだぞ。怪我を軽く見てはいけない」
「こんな命。消えるのなら、それはそれでいい」
「えっ」
吉次は青年の言葉に驚いて黙った。
「俺は…どうなるのですか」
青年がゆっくり体を起こし、吉次に尋ねた。
「いや、私は医務官だから。お前がどうなるのか知らない。そのうち取調べが始まるだろう」
「取調べ?」
「それはそうだろう。籍格を所持してなかったのだから。しかもお前は、野澤巡査官から質問をされても何も答えなかったそうではないか。それはまずい」
「答えることはなにもない」
「おいおい。まさか黙秘を続けるつもりではないだろうな。罪が重くなるだけだ」
「それでも構わない」
青年はすっと立ち上がり、窓辺まで数歩歩いた。綾峰総馬によって博祥院で看病を受けた時よりは、足取りはしっかりしているようだった。
「名は。名は何と言う」
「籍格を持っていない者に名はない」
青年は冷たく言い放った。
吉次は青年の少し無礼な態度に腹を立て、
「お前、それが一晩中面倒をみてやった私に対する態度か。別に今すぐ暗箱まで引っ張って行ってもいいんだぞ。私も伊達に医務官をしてるわけではない。お前がまだ本調子でないことは、顔色を見ればわかる」
と、むきになって言った。
青年は、何か言い返そうとしたが、ふと吉次の後ろの人影に気づき口を噤んだ。
「なんだ。大きな声を出して」
吉次が後ろを振り返ると、医務長の依田良毅が腕組をして立っていた。
「あっ、医務長」
吉次は依田医務長が苦手だった。依田が来た途端、肩を竦めてしまった。
「おうおう、気がついたみたいだな」
依田医務長は吉次の横を素通りして、青年の前に立った。
この時、吉次は初めて青年の背が自分より高いことに気がついた。依田医務長は元々警事準仕官だった男である。体格が良く、とにかく腕が太い。背丈は百九十糎を超している。今、依田医務官と向かい合って立っている青年を見比べてみると、おそらく百七十糎は超しているなと吉次は思った。
「名はなんと言う」
「…」
青年は依田を少し警戒しているのか、じっと目を見つめたまま微動だにしない。
「わしはここの医務長、依田徳一良毅だ。目が覚めたとあらば、色々聞きたいことがある」
「何も話すことはない」
「お前がなくとも、こちらが聞きたいことは山ほどあるのだ」
依田は口調を強めて言った。彼は警事準仕官だった頃は、施調書記の担当官だった。取調べの鬼と言われ、彼の前で隠し事を隠し通せる者はいないとまで言われていた。
「まず名を名乗れ。礼儀であろう」
「名はない」
「ははは。よくある言い逃れだ。そんなものわしには通用せん。素直に言ったほうが身のためだぞ」
依田は、筋肉に覆われた太い首を一度鳴らした。
「好きにしろ。殴るか。斬るか」
青年は依田を睨みこう言った。
「嫌でも言わせてやる」
依田は突然、青年の足を払い、左腕を掴み上げ地面に青年を押し付けた。
「医務長。おやめ下さい。負傷者です」
吉次は慌てて依田を止めに入ったが、依田はにやりと笑って、
「安心しろ。分かっておる。手加減しておるわ」
と言った。
下に敷かれてしまった青年は、身動きが取れなくなったが、どういうわけか抵抗しなかった。
「左肩。痛いだろう。早く名を言え」
「…」
青年は少しだけ顔を歪めてはいたが、何も言わず床に伏せていた。
「強情な奴には慣れている。忍耐勝負なら負けん」
依田は青年の左肩を引き上げ、背中を押さえつけながら、しぶとく質問を続けた。
「どこの国の者だ」
「俺が存在する国はない」
「年はいくつだ」
「俺はもう死んだ」
「なぜ周峰にいる」
「理由などない。偶然通りかかっただけだ」
「飛柳に渡り何をしようとしてた」
「目的などない」
「どうしても言わないつもりか」
「…」
「言えぬ理由はなんだ」
依田の手にだんだん力が入ってくる。青年は必死に堪えている。依田は長年の経験から、青年はすぐには自分の事を話すことはないだろうと感じていた。
「さあ、もう一度聞く。お前の名はなんだ」
青年は完全に口を閉ざした。少しだけ呼吸が乱れてきている。
「よし、こうしよう。次の質問に答えたら、腕を放してやる。答えなかったら、腕を縛り上げ牢に放り込んでやる。どうだ」
依田は強引に言った。
「…」
それでも青年は何の反応も示さず、ただ歯を食い縛っている。
「まあいい。そら、質問だ。お前は剣士か」
依田は低い声に凄みをきかせて、自分の下に敷いている青年の顔を覗き込むようにして聞いた。
青年の腕に一瞬力が入る。依田は青年の反応を待った。しかし青年は何も言おうとしない。
「臭くて暗い牢に閉じ込められたいのかっ」
依田が怒鳴る。今度は容赦せずに青年の、まだ腫れの引かない左腕を思いっきり捻った。
青年は激痛に耐えかね、一度大きな呻き声を上げた。そして、
「離せっ。俺は剣士なんかではない」
と、絞る様な声で言った。
依田はすぐに青年の腕から手を離してやった。
「まあ、嘘か真かはどっちでもいいとして、思い知ったろう。人の質問には素直に答えたほうがいい」
依田はそう言って立ち上がろうとしたが、突然青年に胸倉を引かれ、思わず両手を床につけてしまった。青年はその勢いで、少しよろめきながら立ち上がると、依田の上を飛び越え、依田の後ろに立っていた吉次を跳ね避けて、医務室を飛び出した。
「あっ、あいつ。吉次追え。逃がすな、逃がすな」
吉次はしっまたと叫びながら青年を追った。依田もすぐ後ろから青年を追った。
青年は廊下が向かう方向へ、そのまま必死に走った。凄まじい速さである。途中、数人の廻士に見つかり、それから逃げるように何度も戻ったり曲がったりしていたが、なかなか外に脱出出来そうな戸も窓もなく、遂に突き当りまで追い込まれてしまった。青年は左肩を押さえ、肩を息をしていたが、やむを得ず突き当たりにあった部屋の戸を、力を振り絞って蹴り破り、中に飛び入った。
「騒がしいね。用があるなら返事をしてからにしろ」
青年に向かって急に話しかけてきた男がいる。支庁長永谷である。そう、青年が入り込んだのは支庁長室だった。しかし青年には知る由もなく、
「そこをどけ」
と叫んで、永谷の後ろ側に見えた格子窓に向かって走った。
咄嗟に、永谷は刀を抜いた。青年はそれに反応し、咄嗟に横に一歩飛び退いた。
「おう。素早いねえ。ま、大人しくしてちょうだい。悪いようにはしないから」
永谷がいつもの軽い感じで言った。しかし刀の構えを崩してはいない。そこに青年の後を追った依田と吉次も、ようやく追いついてきた。
「中将閣下。昨日捕らわれてきた青年です。突然逃げ出しました」
と、依田は息を切らせて言った。
「そのようだな。元気そうじゃないか。しかし逃げるとはな。ははは」
永谷は陽気に笑った。青年は警戒を解かず、永谷を睨みつけていたが、結局十数人の支庁兵にも囲まれ、袋のねずみとなってしまい再び依田の膝下に捻じ伏せられてしまった。青年が身動きができなくなったことが分かると、永谷は刀を鞘に納め、青年の前まで来て物珍しそうに青年を眺めた。
「こいつめ、何を聞いても答えないのです。これからじっくり搾り出してやろうかと思った矢先、少し目を離した瞬間に逃げ出したのです」
依田が荒々しく言った。
「まあ、逃げられるくらい回復したってことだな」
永谷はそう言うと、急に厳しい表情をした。
「さて。しばらく大人しくしてもらうよ。依田くん。彼を離してよ」
「いや、しかし」
依田は青年を警戒し、なかなか離そうとはしなかった。
「依田くんを怒らせてしまったみたいだな。仕方がない。そのままいこうか」
永谷は青年の前にしゃがみ込み、青年の顔を覗き込むようにして言った。
「依田くんは取り調べの鬼と言われていてね。まず逃げられはしない。諦めた方がいい。ちなみに黙秘を続ければ、それ自体が罪になる。素直になってちょうだい」
永谷は面白そうに一度笑みをこぼし、後は一気に話を始めた。
「自己紹介がまだだったね。お前のことを知りたいのだが、まず初めに俺自身のことを話しておこう。それが礼儀だからね。俺は周峰郡支庁長警士官中将、永谷史人之博だ。生まれは駿星国修城省。雨がめったに降らなくてねえ。どうだいここの雨。周峰は良い町だが、雨にはいささか憂鬱な気分だ。年は四十。子もいる。二人の息子と、娘が一人。嫁は俺より七つ若い。自分で言うのもなんだが美人なんだ。俺が省警察に入ったのは二十七の時でね。まあ、少し遅いかな。二十二の時に地方軍務仕官の試験を受け、駿星国の護衛隊準士になった。俺は剣道の道は究めていないが槍術は得意でね。わずか一年で護衛隊中尉までなった。いや、官位の自慢話ではないよ。昔結構なやんちゃでねえ。恥ずかしい話だが、わずか二年余りで喧嘩沙汰を起こして護衛隊を追い出された。それから三年余りはいろんな仕事をしてぶらついていた。そんなとき今の嫁に出会って、一緒になったというわけね。それで二十七の時、改めて軍務仕官として勤めるようになった。俺が周峰に来たのは二月前だ。これぐらいかな。どうだ、何か質問はあるか。何でも答えるぞ」
永谷は早口で自分の話をすると、息継ぎ代わりに青年に質問を促した。しかし、青年はまだ警戒を解かず、口を堅く結んだままだった。
「どうだ。趣味でもいい。好きなものとか。そうか、ないかあ」
永谷は大袈裟に大きな声で言うと、すっと立ち上がり腕を組んだ。
「次はお前の番だ。俺がお前に聞きたいことは三つだ。お前には、これから向かうはっきりとした目的地があるのか、ないのか。お前は籍格を落としたのか、盗られたのか、捨てたのか。そして、お前の左肩にその傷を付けた人間はまだこの世にいるのかだ」
青年ははっとしたように少しだけ顔を起こして永谷を見つめた。依田を含め昨日から自分に素性を問い質してくる者は皆、名前や生まれ、身分や職業などを聞いてくるだけだった。しかし、今目の前にいるこの永谷という男だけは違っていた。青年はしばらく永谷の表情を窺っていたが、
「離して…下さい。抵抗はしない」
とはっきりとした声で言った。
依田はちらっと永谷の方を見た。永谷は大きく頷いた。依田は、
「いいな。下手な真似をしたただではおかんぞ」
と怒鳴ると、青年の腕を離し、彼の身体からそっと離れた。
青年はゆっくりと立ち上がると、永谷と向き合うようにして立ち、深く頭を下げた。
「大変失礼しました。看病を受けたにもかかわらず、無礼な態度をとったことお詫びいたします」
青年はそう言って、今度は依田の方を向き頭を下げた。
「質問には答えてくれるのかな」
永谷は優しく聞いた。青年はしばらく床を見つめた後で、
「答えられません」
と言った。
「ううん。残念だ。君の答えによっては、釈放しても良いと思っていたんだがね」
「釈放…」
「ああ。俺は分かってる。お前さんはちゃんと籍を持っている。持っていたというのが正しいかもしれないけどね。それに剣士だね」
「…」
「どうだい。正解だろう」
「俺は…剣の心得はない」
「籍は持っているね」
「国は捨てた」
「なるほど。二度と戻らぬ旅に出たってことね。ついでに籍格も捨てた」
「国だけではない。名も、すべてを捨てた」
「すべてというのは」
「存在そのものだ」
「ははは。それは無理さ」
突然永谷は腹を抱えて大笑いし、
「こりゃあいかん。やはり釈放はあり得ないなあ」
と言った。
「読めた、読めた。お前は死ぬ場所を探していて、たまたま周峰を通った。そうだな少なくとも統格国より北だね。お前が捨てた国というのは。お前が着ていた装束、この国では見かけない。痩せてるが体格は悪くない。それに先ほどの動きからして、武術の心得がある。それからお前の左肩の傷痕ね。再び悪化したという感じではあるけど、一度はちゃんとした治療を受けてる。医師であったかは分からんが、それほどの治療を施せる人間だ。そこ等の凡人ではない。籍格を持っていないことを見ぬ振りをして見逃すのは同罪だ。医師であれば必ず籍格を確認し記録を取っているはずだね。お前がその傷を負わせた相手から逃れるために、どこかへ向かおうとしているのなら、ここの郡支庁の護衛をつけて送ろうと考えていたんだけどね。死のうとしている奴を釈放してしまうほど俺は未熟な長ではないよ」
永谷は笑ってこそいたが、その目には鋭さがあった。
青年は顔色も変えず、黙って永谷の言葉を聞いていたが、自分の鼓動が少し早くなっているのを感じた。永谷が言っていることはすべて正しかったからである。
実は青年は、自分の死に場所を捜し求めていた。