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名無し夏草

名無し夏草


 花弁に溜まった雫が瞬いて、紫陽花の花が月明かりに映えている。多雨の季節が過ぎて、数日振りの月明かりの眩い夜であった。恵治十六年初夏のことである。

 大成帝国随一の学問の国・統格の副都撰真省。一際学才高い博識人達を輩出してきた博斗郡の街中を、一人の青年が歩いていた。夜も遅く、街明かりは疎らに、その青年は細い路地を足元頼りなげに進んでいた。青年は時折、路地の壁に右肩を寄りかけてはうずくまり、しばらくしてまた立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。夜の闇に消されて見えはしないが、彼の顔色は蒼白であった。

 青年が路地の曲がり角までやっとの思いで歩いて辿り着いた時、数人の人影が彼の周りを囲んでいた。

 「おいおい。今夜は面白そうな獲物がいるじゃねえの。」

 彼を取り囲んだ一人が言った。

 青年は怪我をしているらしい。彼の首筋には、幾筋もの汗が流れている。まっすぐ立とうとはするものの、ひどくふらついていて、息も絶え絶えに、

 「誰だ…お前達。俺に、な、何の用だ。」

と言った。

 するとさっきから不敵な笑みを浮かべ一歩離れて青年の様子を伺っていた大男が近づき、

 「俺たちはねえ、暇なわけ。ちょっと付き合ってくれないかねえ。」

と、不気味に笑って言った。

 青年は何も返さない。ただ息苦しそうに肩を上下に揺らしている。

 「おいっ。てめえ、無視してんじゃねえよ。」

 痩せ男が怒鳴り散らして、青年の腕を掴み上げた。

 青年は腕を掴まれた瞬間に、急にびくりと反応し、痩せ男の腕を放そうとして、掴まれた左腕を振り切った。と同時に痩せ男の腕も軽く勢いをつけて宙に揺れた。

 不気味な冷静さで、口元を少し吊り上げて青年を見つめている大男とは異なり、痩せ男は相当な短気らしい。少し腕を振り切られただけで憤激し、

 「貴様あ。なんだその態度は。」

と大声を上げて青年に殴りかかった。

 痩せ男は力任せに青年を殴り飛ばし、蹴り上げた。初めから力なく、辛うじて立っていた青年である。殴られるがままに振り飛ばされ、地面に倒れこんだ。見境なく腹や背、頭や手足を蹴飛ばされても、青年は歯を食いしばり、一言も悲鳴をあげなかった。

 その態度にさらに腹を立てた痩せ男は、腰の刀を抜きかけた。すると、大男は痩せ男を制し、代わりに自分の腰に差した木刀を抜き、相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、

 「俺たちゃよ、優しいからよ、お前さんみたいな餓鬼を殺すような真似はしねえ。だからよ、年上にゃあよ、礼儀正しくしなきゃなあ。よおく覚えておきな、兄ちゃん。痛い目にあいたくなきゃよ、ほらあ銭。銭出せやあ。」

と言って、木刀を振り上げた。

 大男は気づいていた。青年はずっと左の肩を押さえている。何らかの原因で、青年は左肩に深手を負っている。大男は振り上げた木刀を、青年の左肩目掛けて振り落とした。

 大男の持った木刀は、左肩を抑えている青年の右手の上に直撃し、そのまま左肩ごと打ちつけた。青年が初めて悲痛の叫びを上げた。

 痩せ男が嬉しそうに、げらげらと汚い笑い声を上げる。青年を取り囲んだのは、痩せ男と大男を含めて五人。男たちはみな、あまりの痛みに顔を歪ましている青年を見て、奇声を上げて喜んでいる。青年は逃げたくとも、立つこともできず、必死に痛みに堪えている。

 大男は、手に持った木刀を肩に担ぎ、ふらふらと青年の側まで近寄り、しゃがみこむ。そして、分厚い大きな手で青年の懐を掻き回し始めた。

 「銭はどこかな。銭はどこかなあ。」

 しかし銭袋どころか、青年の身からは何も出てこない。

 「ちっ。貧乏草め。」

 大男は舌打ちをすると、すっと立ち上がって、青年を睨み下ろした。そして大きな手で青年を引っ張り上げ、無理矢理立たせようとした。大男は左手で青年の胸倉を掴み、右手に持った木刀を下げた。その瞬間だった。青年は大男の手から木刀を奪い、足で大男を突き飛ばした。大男は身体の安定を失い、後ろに倒れ込みそうになったが、なんとか足で身体を支え尻餅するのだけは避けた。しかし、青年は受身を取れなくなった大男に対して、一気に打ち込みを決めた。木刀は大男の腹に食い込み、横に真っ直ぐに抜き切られた。

 さっきまで冷静な態度で不敵な笑みを浮かべていた大男が、今では口から白い泡を吹いて横たわっている。

 男達は、

 「なんだてめえ。何しやがる。」

と喚き立てた。

 「悪いが…お、俺は。金な…ど持っていない。」

 青年は呟くように言った。

 男達は一斉に抜刀し、血相を変えて何やら喚きながら、次々に青年に斬り込んだ。

 鋭い青年の眼光。誰が見ても、今にも死にそうな面構えなのに。あまりに強く、心の内を見破ってしまいそうな鋭い眼差し。男達は何かに縛り付けられてしまったかのように、身体が硬直して動けなくなってしまった。

 「くそお…。なんなんだあ、お前。」

 痩せ男が、声を震わして言った。

 青年が半帽を纏っていたからだろうか、布の隙間から目だけが出ている。綺麗に澄んだその瞳の奥に垣間見れる鋭い闘志。彼は一体何者だろうか。

 「おやめ下さい。何をしているのです。」

 突然、後方から大声でこう言う者がいた。

 男達は驚いたように、はっと後ろを振り返った。青年も目だけを動かし、声のする方を見遣った。

 小柄で人のよさそうな顔つきをした中年の男が立っている。どう見ても剣士ではない。中年の男は、緊張しているようではあったが、とても穏やかな表情で、ゆっくりと一歩ずつ近づいて来る。

 「何があったんですか。お相手は一人。しかも刀をお持ちではない。そんな何人も寄って集って、ひどいことをなさる。」

 中年の男は気品溢れる上品な男だった。言葉遣いも丁寧で、きっと有名な学者か何かに違いない。

 「私で良ければ仲裁致しましょう。そんな物騒なものはおしまい下さい。」

 「うるせえ、おっさんよ、黙ってな。」

 男の一人が言った。

 「許してあげて下さいな。」

 中年の男は一歩ずつ近づくことを止めようとしない。男達は、中年の男と青年の双方を警戒して、落ち着きなくしている。その時、

 「それ以上近づくな。斬られるぞ。逃げろ」

 そう叫んだのは青年だった。仲介に入った中年の男を逃がすために、青年は木刀で男達に向かっていった。



 朝の優しい日差しが、身体に降り注いでいる。心地の良い空気が自分を取り巻いている。しかし、身体はあたかも自分のものではないかのように重い。腕も、頭も、脚も。瞼を開こうとするのだが、思うように上手く開けることが出来ない。どうやら、随分長いこと眠っていたようだ。よくよく考えてみれば、こんなにじっくりと眠ったのは本当に久方ぶりなのではないか。

 今、どこにいるのだろう。どこか遠くに朝の生活の音たちが、忙しそうに働いているのが分かる。自分の胸の奥で淡々と鼓動の響きだけが、耳の近くに聞こえていた。そして、また眠りにつく。

 「目が覚めましたか。」

 突然、誰かから声を掛けられた。どことなく懐かしい、優しい声だ。

 「…」

 右目の瞼だけをゆっくり開いて、声のする方を見た。

 「よほど、お疲れだったのですね。一日と半分。眠ってらしたのですよ」

 自分に話しかけているのは、耳の横から顎にかけて、少し白髪の混じった髭を生やし、優しく微笑む中年の男。白い覆衛衣を着て、自分が寝かされている寝台の横に座っている。

 中年の男は、前に横になっている青年の瞳をじっと見つめ、

 「これは、これは。ご挨拶が遅くなりました。私は、撰真博斗郡・博祥院の医師、綾峰総馬と申します。そしてあそこにいますのが、我が妻の秋登あきとでございます」

 綾峰総馬が指差したその先に、背が高く逞しそうな女性が立っている。秋登夫人は、大股で寝台に近づくと、

 「よろしく。秋登よ」

と、満面の笑みで言い、右手を青年に向かって差し出した。

 青年は一瞬だけその手に目を移したが、すぐに秋登の顔に視線を戻し、また首を少し動かして真っ直ぐ上を見つめてしまった。

 綾峰総馬と秋登は、互いに顔を見合わすと、少し困ったように微笑んだ。秋登は、差し出した手をそのままにして、

 「あら。私を怒らせると恐いわよ。うちには毎日毎日、たくさんの患者が訪れるの。私もそうだけど、この人は相当に忙しいからね。あんたの世話をするのは私よ。そんな態度をとっていいのかしら」

と、悪戯っぽく笑って言った。

 夫である総馬は、始終微笑んでいる。

 「…」

 それでもとことん無口な青年は、黙りこくったまま宙を見つめている。誰もが見とれてしまいそうな、本当に澄んだ瞳をしていたが、青年は常に暗い表情を浮かべていた。

 秋登は、軽く溜息をつくと、

 「ま、いいわ」

と、明るく言って、

 「この部屋は、病室ではないから。私たちの住屋の部屋よ。周りは気にしなくていいから、ゆっくり休みなさい。私が時々様子を見に来るわ」

と言って、部屋から出て行こうと戸を開けかけたが、途中で手を止めてまた振り返ると、

 「あんたさあ。何があったのか知らないけど、死んでもおかしくなっかたんだから。そんな身体で無茶して。言っておくけど、しばらく外出なんか許さないから。しっかり休んで、しっかり食べて。分かったわね」

と元気良く言うと、また忙しそうな足音を立てて出て行った。

 総馬は後ろを振り返って、秋登が出て行くのを見送ると、そのまま窓の方に目を向けて、

 「ははは、あの妻は本当に男勝りな人でしてね。気は強いですが、とても優しい人です。頼りにしてあげて下さい」

と、優しく言った。

 綾峰総馬は統格国副都・撰真省博斗郡にある、治療専所博祥院の院長である。歳は今年で四十六。統格国だけに限らず、他国から遠方遥々患者が綾峰の治療を受けに来るほどの名医である。老若男女、身分に関わらず、傷や病に苦しむ病人の治療には、己の全てを賭けて臨むその姿勢と温厚な人柄が人の噂を呼び、一代で統格随一の大医院を築き上げた。その華々しい功績から、五年前に統格国王から勲章と特別帝位を受け賜わる機会があったのだが、綾峰は惜しげもなく、丁重に断ってしまったのである。そんな謙虚さもまた、綾峰が統格国民から好かれ、誇りに思われる一因なのだろう。

 生まれは撰真省の隣り、格飛省の格廉郡であったが、幼少の頃から学才高く、格廉で教師をしていた父千真が、総馬が十の頃に、博斗の著名な学者としてその名を知られていた大橋興善の許に預けたことがきっかけで、以降ずっと博斗で暮らしている。十の頃から親元を離れ、大橋興善の門下で成長した総馬少年は、日々勉学に励み、十八の若さで医学師位格を獲得している。二十歳の頃、師匠の大橋興善が亡くなった時に、大橋家が代々引き継いできた仙道章学院(学問所)を継いでほしいと望まれたが、結局章学院を去り、自ら小さな医学治療院を創立し、多くの命を救ってきた。


 「あなたは、剣士様ですか」

 総馬の急な問いかけに、青年ははっと我に帰ったように、視線を総馬の方に向けた。ひどく疲労していたこともあって、忘れていたが、青年は、総馬があの時仲裁に入ってくれた男であることを思い出した。

 「なぜ…」

 青年は言いかけてから、また黙った。

 「なぜ、何ですか。私が、あの時仲裁に入った理由ですか。」

 総馬は優しく問いかけた。

 青年は小さく頷いた。

 「理由などありませんよ。困っている人がいたら、手を差し伸べる。ただそれだけです」

 総馬はそう言って微笑むと、

 「私を助けてくれたのはむしろあなたです。私が危険な目にあっていたから、あなたは彼らに挑んだ。同じことですよ」

と、言い付け加えた。

 あの夜、総馬が仲裁に入った時、青年を襲った男たちは、総馬を斬ろうとした。我が身の危険など顧みず、仲裁に入った総馬である。当然のことながら、刀も武器もない。青年が逃げろと叫んだのと同時に、なんとか逃げようと、総馬が一歩後退りをした時だった。

 青年は、大男から奪った木刀で次々と男たちを倒していった。本当に一瞬だった。見事に腹や首元を打ち付けられた男たちは、全員その場で気を失った。総馬は息をすることも忘れて、ただ呆然と立っていた。

 「助かりました。ありがとうございました。仲裁に入っておきながら、救っていただくなんて。本当に申し訳なかった」

 総馬は、喉に力が入って上手く話せなかったが、すぐにいつもの冷静を取り戻してこう言った。

 しかし、青年はあたかも総馬がそこに立っていることを知らないかのように、見向きもせず、総馬の横を通り過ぎて歩いて行ってしまった。歩いているというよりも、腰を曲げて、足を引きずるようにしている。医師である総馬の目には、その時の青年は、自分を助けてくれた恩人というよりも、ただの重病人にしか見えなかった。青年は左腕をぶらんとさせて、右手に持った木刀を地面に引きずって、ゆっくりと一歩ずつ進む。

 「あっ。もう夜も遅いというのに、どちらへ行かれるのです」

総馬は青年の後を追った。それでも青年は、一切総馬に対して反応を示さない。総馬は困ったが、しばらく一緒に歩いて話しかけてみようと思った。

 「旅人の方ですか。博斗へようこそお越しくださいました。今晩はこちらでお泊りですか。もしこの地が初めてなのでしたら、私がご案内致しましょう」

 青年が突然足を止めた。苦しそうに肩で息をしている。小さな呻きが聞こえたかと思うと、青年はそのまま崩れるように倒れてしまった。というわけで青年は総馬の治療院へ運ばれたのだ。


 「俺は剣士ではない」

 青年は答えた。

 「そうですか。でもあの刀捌きは見事なものでした」

 「…。剣士なんかではない」

 青年はもう一度つぶやいた。

 「さて。次はあなたの番です」

 「俺の…番」

 「ええ。次はあなたの自己紹介の番です。私たちは、あなたのことを何も知りませんからね」

 総馬は嬉しそうに、青年の顔を覗き込んだ。しかし青年は顔を背けると、

 「俺に名はない」

と、小さく言った。

 「ほお、そうですか。それは不便ですね。では、あなたの名前を考えましょう」

 総馬はこう言うと、すっと立ち上がり部屋の片隅においてある引出しの中から、白紙を一枚取り出し、筆を手にした。青年は少し戸惑ったように、総馬をじっと見つめていた。

 「そうですね。どのような名が、あなたに相応しいのでしょうかね。やはり、あなたのことをもっと知る必要があるようです」

 総馬が秋登と同じように、悪戯に笑う。

 「どうして、変に思わない」

 幾分、声を荒げて青年が聞いた。

 「あなたが言ったのですよ。お名前がないと。それなら今、つければ良いのです」

 総馬はそう言うと、腕を組んで考え始めた。青年は総馬のその横顔をじっと見つめた。すると、

 「あんたあ。そろそろ来るわよ」

と、秋登の声が聞こえてきた。

 博祥院の朝は早い。六の刻頃には、ぽつりぽつりと患者が戸を叩く。昼過ぎには、総馬医師に診て貰いたい患者が中に入りきらず、行列を成して外に溢れ返るほどなのだ。もちろん、医師は総馬一人ではない。副院長である妻の秋登。今年二十二になる長男の紳作。二つ下の次男坊、清司。他に、徳間宏治、野中俊幸、坂本卯之助、草間範人、銀城裕幸、石積正毅、村瀬鷲吾郎の七人の弟子で、日々忙しい診療をこなしていた。医師以外にも、多くの医学生や助手が総馬を支えていた。

 「すみません。そろそろ行かなければなりません。あなたのお名前、今晩一緒に考えましょう」

 総馬はそう言って、部屋を出て行った。


 大分陽が高くなってきたようだ。青年は、朝からずっと微動だにせず、寝台の上で横になっていた。目こそ瞑ってはいたが、意識はあり、時折瞼をゆっくり開いては、天井をじっと見つめ、また閉じた。

 昼過ぎの二の刻頃、突然誰かが力強く戸を叩いたかと思うと、その戸が勢いよく開かれ、秋登が入って来た。

 「どう。気分は」

と、青年に聞いた。

 秋登は、青年に昼食を運んできたらしい。盆の上に、湯気を立てた汁物と白米、他にも野菜などが並んでいる。

 「さあ、食事の時間よ。しっかり食べて、体力つけなさい」

 秋登はお盆を寝台の横にある小さな台の上に置き、

 「少し起きて座ってみる」

と言って、寝台の上から青年の顔を覗き込むように首を伸ばした。

 青年はまたしても何の反応も示さなかったが、秋登は強引に掛け布団を取り払い、青年の体を起こそうと、青年の背の下に右手を入れ、左手で青年の右肩を支えて引いた。青年は素直に体を預けて、ゆっくり起き上がり、体を横に傾けて脚を寝台から降ろした。ずっと横になっていたせいか、背中が少し痺れていた。青年はぐっと背に力を入れて伸ばし、ゆっくり一度だけ深呼吸をした。窓からは、初夏の優しい日差しが入り込み、部屋の空気を調度よく暖めてくれた。

 秋登は竹筒から水を注ぎ、青年の手に持たせた。

 「喉が渇いているでしょう。さ、飲んで」

 青年はしばらく水面の光を見つめていたが、一気にそれを飲み干した。

 秋登はそれを見て、にっと笑うと、

 「ほら。お腹も空いてるでしょう。食べな」

と言って、昼食を促した。

 ところが青年は手をつけようとはしない。ずっと自分の足元へ視線を落とし、何か考え事をしている態であった

 「遠慮なんかする必要ないのよ」

 秋登は、一向に何の反応も示そうとしない青年に、困惑顔で言った。

 しかし結局、青年は食事に手をつけず、秋登は一つ溜息をしてまた仕事へ戻って行った。

 再び部屋は静寂の空間へと戻る。青年はその静寂を楽しんでいるかのようだ。今度は座ったまま、瞼を閉じてじっとしている。博祥院の忙しさを他所に、彼の周りだけはまるで時間が止まってしまっているかのようだ。

 その様子を秋登から聞いた総馬は、少し不安を覚えていた。もしかして青年は死ぬつもりなのではないか。診療を続けながらも、そんな事が時折総馬の頭の中を過ぎり、彼にしては珍しく、いつもの微笑がどこかに行ってしまっていた。考えすぎかとは思ったものの、可能性は無い訳ではない。青年の態度にはどこか不自然なところがある。誰とも関係を持とうとはせず、表情には常に暗い陰りを落としている。総馬は、青年の口から何も聞いていない。しかし、青年は何か暗い過去を負っている。あるいは何か非常な状態に置かれている。総馬は、そんなことを読み取っていた。

 日もすっかり沈んで、夜の闇が博斗の町をすっかり包み込んだ九の刻。最後の患者が博祥院を後にしたと同時に、総馬は落ち着かない様子で、住屋の方へと向かった。

 「今日はずっとあのようなご様子で。父上にしては珍しいですね。」

 後片付けをしている秋登に、長男の紳作が言った。

 「あの子のことが気になるんでしょう。なんて言ったって、命の恩人だからね」

 「そうですね。でもあの青年、一体何者でしょう」

 「さあね。本当に無口なのよ。何も言いやしないのよ」

 「ここら辺では見かけない顔。浪人なんでしょうか」

 「分からないわ。今は何もね」

 あの夜、青年が気を失って倒れた時、総馬の住屋へ青年を運んだのは総馬と紳作だった。その時総馬は、秋登と紳作に、数人の盗賊に襲われたところをこの青年に救われたと話している。父を助けてくれた恩人に、紳作は感謝しているようだった。

 総馬が、青年が寝ている部屋の前まで来たとき、より一層不安を大きくした。戸の向こう側から、部屋に流れ込む風の音を聞いたからだ。総馬は慌てて戸を開けた。やはり、部屋はもぬけの殻だった。青年は、寝室の窓から部屋を抜け出し、どこかへ消えてしまっていたのだ。

 総馬はすぐに窓に駆け寄り、首を出して外を見渡した。希望がないのは分かっていたが、もしかしたらまだ近くにいるかもしれない、そんな淡い期待を抱いて。しかし、青年の姿はどこにも見当たらなかった。

 総馬はすぐに診療所へ戻り、秋登と伸作にも、青年が消えてしまったことを告げた。

 「大事ね。これ」

 秋登も深刻な顔つきで呟く。

 「父上。すぐに後を追いましょう。あの子を探して、連れ戻さないと」

 伸作はこう言って、飛び出して行った。

 しかし、総馬は紳作に続かなかった。

 「秋登。なぜあの子は、出て行ってしまったのでしょう」

 総馬は肩を落とし、開け放された戸の向こうに広がる夜の闇を見つめた。

 「あの子とはたった二日のお付き合いです。それにあの子は何も語りませんでした。それなのに。あの子には人を引き付ける何かがありました」

 秋登も外の方を見て、小さく頷いた。

 総馬が青年を診たとき、青年の左肩に古傷を見つけた。完全な貫通創ではあったが、治療を受けた跡が見られた。しかし、その傷が悪化したのか、左肩は熱を持ち、腫れ上がっていた。ひどい貧血状態に陥り、心拍も早く、疲労困憊の状態であった。総馬の診断では、少なくと貧血の症状が軽くなるまで、安静にしていなければ、命に係わってくる。しかも、青年の寝台横に置かれた昼の食事には、一切手がつけられていなかった。すなはち、この二日間青年は何も食べていない。いや、もっと長い間飲み食いしていなかったのかもしれない。いよいよ事態は深刻に思われた。

 結局、連絡待ちとして秋登が博祥院に残り、総馬と次男の清司も、青年を探しに夜の町へ出かけて行った。


 日付も変わり、夜もすっかり更けた頃、最初に博祥院へ戻ってきたのは紳作だった。秋登も寝ずに待っていた。

 秋登が紳作に心配に満ちた視線を向けると、紳作は浮かばない表情で首を横に振った。その後も、二人は何も言葉を交わさずに、父と弟の帰りを待っていた。

 紳作が博祥院へ戻った頃、総馬と清司は分かれて、手分けして青年の行方を探っていた。

 博斗郡の東方には、珠玖川しゅくがわという小さな川が流れている。博斗郡から隣の周峰、晋博へ行くには、この珠玖川に沿って伸びている街道を通るのが主流である。青年が、この土地に明るくないとすれば、この街道を通って博斗を出た可能性が高い。そう考えた総馬と清司は、周峰へ向かう高久街道を総馬、晋博へ向かう晋宮街道を清司が行き、青年の後を追うことにしたのである。

 周峰方面に向かって伸びる高久街道を、総馬は足早に進んでいた。手に持った球灯の火がゆらゆらと揺れている。総馬は時折、

 「おうい。誰かいませんか。」

と、一寸先も見えない暗闇に向かって叫んだ。何といっても、探している相手の名が分からないのだ。総馬は少し、もどかしさを感じていた。

 どれくらいの時が過ぎただろう。総馬は額に汗を滲ませて、まだ歩いていた。名前も分からぬ探し人を呼ぶ声も、いつの間にかしゃがれていた。高久街道はぴたりと珠玖川に張り付いて伸びているため、総馬は珠玖川に沿ってずっと歩いていたが、川辺にも、寝静まった町中にも、人影を見つけることはなかった。

 さすがに歩き疲れてしまった総馬は、東の空に日の出の予感が見えてきた頃、ふと足を止め、柔らかい雑草が広がる川辺へ下りていった。ふっと球灯に息を吹きかけて明かりを消し、ゆっくりと座った。総馬は、さらさら流れる珠玖川の音に耳を傾け、組んだ腕と膝の中に顔を埋めた。そしてそのまま眠り込んでしまった。

 目が覚めたとき、日はすっかり顔を出し、幾分か強くなった日差しが、総馬の身体を照らしていた。

 「あ、いけない。眠ってしまいました。戻らなければ」

 総馬は独り言を呟き、ゆっくりと立ち上がった。その時、自分の肩から何かが滑って落ちていったのを総馬は気づいた。振り返って下を見てみると、小さな布きれが落ちていた。総馬はその布きれを拾って広げる。見覚えがあった。その小さな布きれは、青年が首に巻いていたものだったのだ。

 「やはり高久街道を行ったのか」

 総馬は急いで川辺から街道の方へ走って行き、遠くを眺めてみた。どうやら青年は、高久街道を進んだらしい。

 数刻前、博斗郡の雅久がくという町に、青年はいた。何も飲まず、食べず、重い体を引きずって博祥院を抜け出した青年は、夜の中を周峰の方へ向かって、高久街道を歩いていた。途中何度も川辺で休んだが、眠ることなく一晩歩き通していたのだ。青年は、総馬が追ってくること予想していた。追いつかれまいと、息を切らして歩き続けたが、雅久の辺りを通った頃、ついに歩き続けることが困難になり、川辺に倒れこんで、そのまま動けなくなっていたのだ。しかし、しばらくして青年は遠くに人の声を聞いた。すぐに、総馬だと分かった。青年は急いで地を這って膝で歩き、少しだけ背丈の高い雑草の群れの中に姿を隠した。まだ暗かったかららだろう。総馬は青年には気づかず、そのまま行ってしまったのである。

 総馬が通り過ぎて行ったのを見送ると、青年は元来た道を戻りかけたが、やはりやめて総馬の後をゆっくりゆっくり追っていたのだ。そして、総馬が川辺で居眠りを始めると、総馬の肩に首巻をかけてやり、そのまま高久街道を進んでいった。青年なりに感謝の意を込めたのかもしれない。



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