第11話 足りないもの
沙耶の呼吸がおかしいと気づいたのは、澪だった。
ほんの少し前まで、熱があるとはいえ受け答えはできていた。莉子が水を渡せば自分で飲み、航平のくだらない冗談に薄く笑うことさえあった。
それが、いつからか目を閉じたままになっている。
眠ったのだろうと、蒼真は思っていた。
「沙耶さん」
澪が頬を軽く叩いた。
反応がない。
もう一度、少し強く。
「沙耶さん。聞こえますか」
まぶたがわずかに動いた。
「……うん」
声は、息に混ざってほとんど形になっていなかった。
澪が額から首筋へ手を移す。
それから包帯を外した。
蒼真には傷の良し悪しなんて分からない。ただ、昨日見たときより赤黒い範囲が広がっていることだけは見て分かった。
澪の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬を見てしまうと、大丈夫だと思うのは難しかった。
「どうなの」
莉子が訊いた。
「もう少し水を飲ませたい」
「そうじゃなくて」
莉子は膝を抱えたまま澪を見た。
「治る?」
澪は答えなかった。
代わりに救急箱をもう一度開けた。
包帯。消毒液。鎮痛剤。止血材。
昨日から何度も見たものばかりだった。
底まで手を入れ、何もないことを確かめる。
「抗菌薬がない」
小さく言った。
「小屋にも?」
朱里。
「見た範囲では」
「探し直すしかねえな」
航平が立ち上がった。
三崎がすぐに言った。
「またあそこへ戻るのか?」
「じゃあどうすんだよ」
「戻れば薬があるって決まったわけじゃない」
「何もしないよりいいだろ」
三崎は返事をしなかった。
その顔には、昨日までのような露骨な苛立ちはなかった。ただ、何かを計算しているように見えた。危険と利益。残りの水。負傷者。人数。
人間を数字に置き換えないと、こういう場所では判断できないこともあるのかもしれない。
蒼真は、そう考えた自分が少し嫌だった。
「俺と朱里で戻る」
榊原が言う。
「二人?」
蒼真が聞き返した。
「人数が多ければ見つかりやすい。小屋の中を見るだけなら、それで足りる」
「俺も行く」
大庭が腰を上げようとした。
榊原が止める。
「機械を見るなら必要だが、薬を探すだけだ」
「年寄り扱いするなよ」
「してる」
大庭は一瞬むっとして、それから鼻で笑った。
「お前、もう少し言い方ってもんがあるぞ」
「ない」
航平が吹き出した。
その短いやりとりで、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
ほんの少し。
それだけだった。
沙耶が小さく呻いた。
笑いはすぐ消えた。
「俺も行く」
蒼真が言う。
榊原は何か言いかけたが、今度は止めなかった。
三人で小屋へ戻ることになった。
出発する直前、澪が蒼真を呼び止めた。
「これ」
水のボトルを渡される。
「まだある」
「持っていって」
「そっちの方が必要だろ」
「蒼真さんが倒れたら一人増えるでしょう」
昨日、自分が彼女に言ったのとよく似た言葉だった。
蒼真は何も言わず受け取った。
澪の腕には新しい包帯が巻かれている。
「そっちも無理するなよ」
「してません」
「昨日もそう言ってた」
澪が少し困ったように笑った。
その顔を見ていると、言いたいことが何かあったような気がした。
けれど結局、蒼真は何も言わなかった。
三人は林を進んだ。
巡回音を避けるため、蒼真が夜に聞いた間隔を頼りにする。
正確な時計はない。
太陽の位置と感覚だけ。
それでも、一度規則らしいものを見つけると、人間はそれに縋る。
本当に規則なのかどうかも分からないのに。
「来る」
朱里が足を止めた。
三人が木陰へ入る。
しばらくして。
遠くをロボットが通過した。
昨日の機体かどうかは分からない。
同じ姿をしている。
ガガガガガ、と規則的な音を残しながら、こちらに気づくことなく遠ざかっていく。
蒼真は息を吐いた。
「やっぱり、この辺を回ってる」
「巡回経路が決まってるなら使える」
榊原。
「でも昨日みたいに変えてくるかもしれない」
朱里が言った。
それで三人とも黙った。
学習している。
まだそう決めたわけではない。
それなのに一度その可能性を知ると、以前と同じ行動を取ること自体が危険に感じられた。
小屋に着いた。
荒らされた形跡はない。
ロボットが中を調べた様子もなかった。
朱里と榊原はすぐに棚を探し始めた。
蒼真も床下まで見る。
何度探しても。
薬らしいものは出てこなかった。
「何で消毒液はあるのに抗菌薬がないんだ」
蒼真が呟く。
朱里が救急箱を見た。
「普通の非常用なら、処方薬を置かないこと自体は変じゃないです」
「じゃあ俺たちのために用意されたわけじゃない?」
「そこまでは」
朱里は言葉を切った。
机の下に何か見つけたらしい。
「これ」
薄い金属製の箱。
昨日は机の奥へ押し込まれていて気づかなかった。
中には薬ではなく、工具が入っていた。
特殊なレンチ。
細いワイヤー。
小さなテスター。
電気工作に使うような部品。
「何に使う」
榊原。
朱里が一つ手に取った。
「機械を触る人なら使います」
「ロボットを?」
「それは分かりません」
蒼真は棚を見る。
水。
食料。
救急用品。
ナイフ。
工具。
必要なものが揃っているようで。
必要なものが足りない。
何でもあるわけではない。
むしろ、
何かをさせるために、選んで置かれているように見えた。
蒼真は首を振った。
考えすぎだ。
どこかで線を引かなければ、落ちている石ころにまで意味を感じるようになる。
「戻ろう」
榊原が言った。
「薬は?」
「ないものは持って帰れない」
その言い方は冷たかったが、急いでいるのは誰より榊原だった。
三人は帰路についた。
戻ったとき。
最初に見えたのは、林の端に立っている航平だった。
こちらを見つけるなり走ってくる。
顔を見れば。
訊く必要はなかった。
それでも蒼真は訊いた。
「どうした」
航平は息を切らしたまま、何度か口を開こうとして。
やめた。
「……澪さんが呼んでる」
それだけだった。
沙耶は横になっていた。
澪がそばに座っている。
包帯が赤い。
昨日よりずっと。
「また出血した」
澪が言った。
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
「止めたけど……たぶん、思ったより深かった」
沙耶の顔は白かった。
目は開いている。
でも焦点が合っていない。
莉子が手を握っている。
「薬なかった」
朱里が言った。
澪は一度だけ頷いた。
「そう」
それだけ。
蒼真は、自分の手にまだ水のボトルを持っていることに気づいた。
帰り道で半分飲んだ。
なんとなく。
そのことがひどく申し訳ないことのように思えた。
「水」
沙耶の唇が動いた。
莉子がボトルを取る。
澪が首を振った。
「少しだけ」
布を濡らし、唇へ当てる。
沙耶は目を閉じた。
「三崎さん」
突然呼んだ。
三崎が少し離れた場所から見る。
「何だ」
「昨日」
声が途切れる。
莉子が耳を近づける。
沙耶はそれでも三崎を見ていた。
「……逃げたこと」
三崎の顎が固くなる。
「今、その話するのか」
「ごめん」
「何でお前が謝る」
沙耶は少しだけ笑った。
「逃げるよね」
三崎は答えなかった。
「私でも……逃げると思う」
三崎が何か言おうとした。
でも声にならなかった。
沙耶の目がゆっくり澪へ移る。
「助かる?」
澪の手が止まった。
ほんの少し。
「今できることをします」
沙耶はその答えを聞いて、何か分かったようだった。
「そっか」
それから。
誰も、何を言えばいいのか分からなくなった。
時間だけが過ぎた。
風が吹いた。
木の葉が揺れ。
どこかで鳥が鳴いた。
こんなときでも、外の世界は何も変わらない。
沙耶の呼吸が次第に浅くなる。
莉子が何度も名前を呼んだ。
澪は脈を取ったまま動かなかった。
やがて。
その指がゆっくり離れた。
莉子が首を振った。
「違うよね」
澪は答えなかった。
「ねえ」
もう一度。
その声で。
全員が分かった。
十人いた人間が。
九人になった。
三崎は少し離れた場所で立っていた。
最後まで近づかなかった。
ただ、ポケットの中で強く握った拳だけが、ずっと震えていた。




