出会いが空から降ってきて
女はバスを待っていた。
男は道に迷っていた。
「彼女」は空を見上げていた。
ありふれた街角の、ありふれた日常だった。
男は地図を片手にバス停へと向かった。
バスを待っている女に、道を尋ねるためである。
「すみません」
男は声をかけた。
「はい?」
女は振り返った。
2人の目があった。
その時、男と女の間に、何かが通り過ぎた。
上から下へ。
厭な衝撃音が響いた。
男と女が最初に感じたのは、目の前を落下する風と速度だった。
そして、顔にぶつかる液体の温度。
男は動けなかった。
足元に転がっているモノを見て、感覚が麻痺していた。
それは全裸の人間だった。
落下して地面に叩きつけられたのだ。
地面に衝突した姿勢のまま、全く動かない。
若い女性──、少女に見える。
「彼女」は俯せの状態で、顔を男の方に向けていた。
短い金髪の頭。
体と地面の間からは、どんどん血が流れ出している。
「彼女」が全裸で落下してきた事は異常だったが、さらに不死然だったのは、背中に白いシャツが一枚纏わり付いていた事だった。
きちんと着ているわけではなく、シャツの袖を背中から首の下にまわして結んでいるようだ。
(マントか?)
男が反射的に思った時、
ガツ!
ドォ
何かがぶつかる音がした。
地面に転がった「彼女」の向こうで、バスを待っていた女が倒れていた。
ショックで気を失ったのだろうか、倒れて、バス停のベンチに頭をぶつけたらしい。
横たわった女のこめかみから、血が流れていた。
男は「彼女」を飛び越えた。
女に駆け寄り、背広のポケットに入れていたハンカチで、女のこめかみを押さえた。
すぐにハンカチに血が染みこむ。
男は叫んだ。
「誰か!、救急車を!、誰か!」
野次馬が遠巻きに見守っている中、救急車とパトカーが、間を置かずにやって来た。
男は、ただ、女の傷にハンカチをあてているだけだった。
頭をぶつけた人間は、動かしてはいけない、とくに、頭部は動かさない。
その程度の、医学知識とも呼べない知識しか、男には無かった。
だから、真っ赤な手で、血を吸い込んだハンカチを、女のこめかみに当て続ける事しか出来なかった。
女はすぐに救急車に乗せられた。
「彼女」の周囲にはブルーシートが張られ、もう、「彼女」の姿は見えない。
男は、頭がぼうっとして、ただ突っ立っているだけだった。
「大丈夫ですか?」
すぐ近くで声がした。
男は、しばらく反応出来なかった。
「大丈夫ですか?」
2度目で、それが自分に向けられた声だと認識した。
「あ、はい、大丈夫です」
男は声のした方を向いた。
若い警察官だった。
警察官は、男の真っ赤な手や、服に飛び散った血を見て、ゆっくり、優しく話しかける。
「そのままでは、お話も出来ませんから、とりあえず、手を洗いましょう、近くの警察署までパトカーでお送りしますから」
男は自分の手を見た。
真っ赤な手。
女の血だ。
嫌悪感のようなものは無かった、だが、異常な状況だとは認識できた。
「お願いします」
男は、パトカーの後部座席に乗りながら、ハンカチを持っていない事に気づいた。
警察署で手や顔を洗い、自販機で温かい缶コーヒーを飲んだら、だいぶ落ち着いた。
通報者は、事件現場の向かいのアパートの住人だった。
たまたま、向かいの雑居ビルの屋上に、人が立っているのを見た。
全裸のようだった。
そして、次の瞬間には、その全裸の人は、屋上から落ちた。
しばらく、心と体が動かなかった。
「誰か!、救急車を!、誰か!」
外から聞こえてきた叫び声で我に返り、電話に飛びついた。
警察署での手続きを終えたところで、男は一人の警察官に呼ばれた。
現場で男に声をかけた若い警察官だ。
「救急車で運ばれた女性ですけど、意識が戻ったそうで、大事は無いと、あちらから連絡が入りました」
「そうですか、それは、良かった」
「はい、それで、あなたに、助けてくれたお礼がしたいと」
警察官が言うには、女は男にお礼がしたいが、頭を打った事による精密検査の関係で、しばらくは入院する事が決まった。
退院したらすぐにお礼に伺いたいので、警察経由で、連絡先を交換出来ないか、と言う事だった。
「それと」
「はい」
「あなたのハンカチは、洗っても血の染みは落ちそうにないので、弁償させてほしい、との事です」
「ああ、あのハンカチ、救急車に乗せられてたんですね」
「それで、どうしますか?、お名前と電話番号は預かってますが?」
「ええと、あの人は、明日も入院してるんですね?」
「そうですね」
「じゃあ、こちらから、お見舞いに行くと伝えて下さい、明日の午前中にでも」
「はい、しばらくお待ちください」
警察官の表情が、少し優しくなった気がした。
「彼女」は自殺だった。
複数の人間が、「彼女」が雑居ビルの屋上に一人でいるのを見ていた。
裸の「彼女」が、錆びた金網をこえるのを見ていた人もいた。
「彼女」は、一人で、屋上の縁を蹴り、落ちた。
雑居ビルは4階で、屋上は5階部分に相当する。
それよりも高い建物は周りには無く、屋上から落ちる「彼女」を下から見上げた人達は、一瞬、「彼女」が空に駆け上がるように見えたと言う。
警察が雑居ビルの屋上に駆けつけると、そこには、畳まれた「彼女」の服と下着と、綺麗に揃えられた靴が並んでいた。
遺書と思われる物が、服のポケットに入っていた。
翌日、男は病院に向かった。
女の名前と病室は、警察経由で受け取っていた。
病室の入り口から中を覗くと、窓際のベッドに昨日の女がいた。
頭に包帯を巻いた女が、ベッドの上で上半身をおこし、新聞を開いている。
「おはようございます」
男は歩きながら、窓際の女に声をかけた。
女は振り向く。
女は男の顔を見て、少し考える表情をした。
すぐに、男に向かって微笑んだ。
「昨日の人、ですね?」
女は新聞を畳んだ。
「はい」
男は応える。
「昨日は、ありがとうございました」
男の方へ体を向け、頭を下げる。
「いえ、大した事は」
女が顔を上げた。
男は言葉がつまった。
女が、泣いていたからだ。
女の両の目から、涙が溢れていた。
「あれ?、どうしたんだろ」
無理やり作ったような笑顔で、女がポロポロと涙を流している。
「あれ、んんう、う、う、ぅう、あ」
「大丈夫ですよ」
男は優しく声をかける。
「ああぁ、うぁぁぁあ!」
大声で女が泣き出した。
「大丈夫、大丈夫」
優しく、優しく声をかける。
目の前でわんわん泣いて女を見ながら、この人は、自分にとって、特別な人だと、男は思った。
運命の出会いだと思った。
新聞によると、自殺した少女は16才で、定期的に精神科へ通院していたらしい。
少女が飛び降りた雑居ビルは、取り壊しが決まった、ほぼ無人のビルで、誰でも屋上に上がる事が出来たと言う。
女が退院してからも、二人はたまに会って話をした。
やがて話すだけではない仲になり、半年を過ぎた頃には、互いの両親への挨拶も済ませていた。
二人は、二人の明るい未来を見ていた。
二人で結婚式の式場と日取りを決めた。
全てが順調に進んだ。
結婚式が間近に迫った頃、男は女との出会いを思い出していた。
二人の間に「彼女」が落ちてこなければ、この出会いは無かった。
結果的に二人を結ぶきっかけになった「彼女」は、自ら死を選んだ。
その間近にいた自分達は幸せなり、結婚しようとしている。
男の中には、小さな小さな罪悪感のようなモノがあった。
なぜ「彼女」は死を選んだんだろう……
男はこの機会に、初めて、「彼女」に線香を上げようと決めた。
あの事件の後、「彼女」の親から、謝罪の手紙を警察経由で貰っていた。
そこに、住所や電話番号も書いてあった。
電話でアポイントを取り、翌日、一人で「彼女」の家に向かった。
この事は女には内緒にしていた。
「彼女」のコトは、あの日、病室で女が大泣きした後も、あえて話題にはしていなかったからだ。
その家は、立派な屋敷だった。
上品な両親が、男を迎えてくれた。
男は仏壇に手を合わせた。
仏壇には「彼女」の写真が立てられていた。写真の「彼女」は笑顔で、少し浮き世離れしたような美少女に見えた。
軽い世間話になった。
そこで男は、あの時の女と結婚する事を話した。
「彼女」の両親は、少し驚いた様子で顔を見合わせた。
父親が頷いた。
母親は仏壇の引き出しから、封筒を取り出し、男の前に置いた。父親は男を見た。
「読んでもらえますか?」
「これは?」
「娘の遺書、です、あの日、あの娘のポケットに入っていました」
「いいんですか?」
「はい、是非あなたに読んでほしいんです」
男は封筒を手に取って、中から便箋を取り出した。
両親を一度見て、畳まれていた便箋を開く。
丸い字でこう書いてあった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
私は天使になる
私は天使になって天国にいくの
空にいくの
私は天使になって
愛のキューピッドになるの
ーーーーーーーーーーーーーーー
男はしばらく便箋を見つめた後、小さく呟いた。
「あのシャツは天使の羽根だったのか…」
「出会いが空から降ってきて」
終




