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05 小さな香り

それから数日が過ぎた。

ティスが屋敷の外へ出ることは、ほとんどなくなっていた。

机の上には何冊もの書物が積み重なり、その周囲には書き留めた紙が散らばっている。農法、土壌改良、治水、保存食――目につくものは片端から読み漁り、必要だと思ったことを書き留める。その繰り返しだった。

知識は確かに増えていく。

この土地でも取り入れられそうな方法。人手を大きく増やさずに済む工夫。少しずつではあるが、新たな案も形になり始めていた。

それでも。

「……」

小さく息を吐く。

前へ進めている実感だけは、どうしても得られなかった。

やるべきことは分かっている。

村へ行き、人と話し、少しずつ信頼を積み重ねること。

あの日、村長に退けられたとしても、その考えだけは変わっていない。

――それなのに。

立ち上がり、玄関へ向かう。扉の前まで来る。手を伸ばそうとして。

気づけば、足が自然と踵を返していた。

まるで見えない鎖が身体を引き止めているかのようだった。

脳裏によみがえるのは、あの日のやり取り。

村長の鋭い問い。ウェンの淡々とした指摘。父の言葉。

思い返すたび、頭の中で考えが絡まり、何から手を付ければいいのか分からなくなる。


(……だめね。)

分かっている。このままでは何も変わらない。

だが、答えも見つからない。

やがてティスは静かに本を閉じた。

乾いた音だけが部屋へ響く。

そのとき、控えめなノックが聞こえた。

「お嬢様。」

聞き慣れた声だった。扉が開き、ウェンが静かに部屋へ入ってくる。

「たまには外の空気に触れることも必要でございます。」

穏やかな口調だった。

だが、その言葉には、どこか決定事項のような響きも含まれている。

ティスは何も答えず、ただウェンを見つめた。

あの日の出来事など存在しなかったかのような、いつもと変わらぬ態度。

責めることも慰めることもしない。

ただ、いつもの執事として立っている。


沈黙を気にする様子もなく、ウェンは続けた。

「村とは反対側になりますが、小川沿いに花が群生している場所があるそうです。」

ほんの少しだけ声音が柔らぐ。

「よろしければ、お弁当をご用意いたします。メイドを一人お供につけますので、気分転換になさってはいかがでしょう。」

断らせない程度の自然さを持った提案だった。

ティスは小さく視線を落とす。

ここ数日、部屋に閉じこもっていたことは自分でも分かっている。考え続けても、何一つ前へ進まなかった。

(……気分転換。)

その言葉を胸の中で繰り返す。

ほんの少しだけ。外へ出る理由としては十分だった。

ティスは静かに頷いた。

その動きを確認すると、ウェンは一礼し、迷いなく部屋を後にする。

準備へ向かったのだろう。

扉が静かに閉まる。再び部屋は静寂に包まれる。

だが先ほどまでとは違っていた。

閉ざされた静けさではない。外へ続く道が、ほんの少しだけ開いたような気がした。



屋敷を出ると、ティスは村とは反対の道を歩き始めた。

背後には、昔から仕えるメイドが一人。

その手には、小さな籠が揺れている。昼食が詰められているのだろう。

この土地を知るという意味では、村の外を見ることにも意味はある。

(……確認できることは、まだある。)

自分へ言い聞かせるように歩き続ける。

半刻ほど進むと、人の気配はすっかり消えていた。

耳に届くのは風が草を揺らす音と、小川のせせらぎだけ。


そのときだった。

「……いい匂い。」

思わず立ち止まる。

風に乗って、甘く優しい香りが流れてきた。

視線を落とせば、小さな紫色の花々が一面に咲いている。

傍らには、小川が穏やかに流れていた。

「まあ……本当に咲いているのですね。」

後ろからメイドが嬉しそうに声を漏らす。

「来る途中で少し見えただけでしたから。」

「ええ。」

ティスも静かに頷く。

しゃがみ込み、一輪を見つめた。

「……ポルテ草。」

本で読んだ記憶が蘇る。香りが強く、加工すれば香油や香水の材料にもなる植物。

「ご存じなのですか?」

「ええ。本で少しだけ。」

そう答えながら辺りを見回す。

ふと、別の草が目に留まった。特徴的な葉を見間違えるはずがない。

「あちらにはヒリン草もあるわ。」

「まあ、薬草ですか?」

「ええ。煎じれば軽い傷や疲労に効くはずね。」

「それは便利そうですね。」

素直な感想だった。

だが、そのあとメイドは少し考えるように視線を花へ向けた。

「村の方々も、ご存じなのでしょうか。」

ティスは少しだけ考え、ゆっくり首を横に振る。

「どうかしら。」

知っているのかもしれないし、知らないだけかもしれない。あるいは――知っていても使う余裕がないのかもしれない。

そこまでは口にしなかった。

ティスは指先で花へそっと触れる。

ふわり、と香りが広がる。

その瞬間。胸の奥に溜まっていた重たいものが、ほんの少しだけほどけた気がした。

「……きれいですね。」

メイドが静かに呟く。

「ええ。」

それだけで十分だった。

二人はしばらく何も話さず、その景色を眺め続けた。


やがてメイドが籠を持ち上げる。

「少し早いですが、お昼にいたしましょうか。」

「そうね。」

ティスは草の上へ腰を下ろした。

籠の蓋が開き、丁寧に作られた昼食が並べられる。

風が心地よく吹き抜けていった。

「屋敷へ来られてから、少し慌ただしかったですね。」

メイドが遠慮がちに口を開く。

「少し……急ぎすぎたのかもしれないわ。」

ティスは苦笑した。

その笑みには、自嘲が混じっている。

「お嬢様は、頑張りすぎでございます。」

優しい口調だった。けれど、その言葉にはメイドなりの実直さが込められていた。

「そう見える?」

「はい。」

即答だった。

「私たちも少し心配しておりました。」

一度言葉を区切る。

「この土地を何とかしたいというお気持ちは、皆分かっています。でも、その分、ご自分を追い込みすぎておられたように思います。」

ティスは静かに俯く。

(……ああ。)

胸の中へ、ゆっくりと言葉が落ちていく。

自分だけが苦しかったわけではない。

周囲もまた、自分を見守りながら心配してくれていた。

それなのに、自分は周りの景色をちゃんとは見えていなかった。


「……ごめんなさい。」

思わず零れた謝罪に、メイドは慌てて首を振る。

「謝ることではございません。」

穏やかな笑みを浮かべる。

「少し休むことも、大切なお仕事です。」

その言葉に、ティスは小さく笑った。

「……そうね。」

空を見上げる。白い雲がゆっくりと流れていく。

急がなくてもいい。焦らなくてもいい。

そんな当たり前のことを、ようやく思い出せた気がした。


ティスの表情が、ほんの少しだけ柔らいだ。その変化に気づいたメイドは、安心したように小さく微笑む。

「……少し、お顔の色が戻られましたね。」

穏やかな声音だった。

ティスは一度だけ瞬きをし、不思議そうに首を傾げる。

「そう?」

「はい。先ほどまでより、ずっと。」

そう言ってメイドは辺りを見渡した。

風に揺れる紫色の花々。絶え間なく流れる小川。

そして、この場所を満たす穏やかな香り。

「もしかすると――この花の香りのおかげかもしれませんね。」

少しだけ冗談めいた言い方だった。

けれど、その言葉は不思議と胸へ落ちた。

ティスは再び花へ視線を落とす。

そっと指先で触れると、ふわりと優しい香りが立ち上る。胸の奥へ溜まっていた重たいものが、ゆっくりほどけていくようだった。

「……そうかもしれないわね。」

素直な声音で、小さく答える。


二人の間を風だけが静かに吹き抜けていった。

やがてメイドが静かに口を開く。

「でしたら……少し、お持ち帰りになられてはいかがでしょう。」

押しつけではない。自然と思いついたことを口にしたような提案だった。

ティスは少しだけ考え、ゆっくりと頷く。

「そうね。持って帰りましょう。」

再びしゃがみ込み、花へ手を伸ばす。

茎を傷めないように。摘みすぎないように。一輪ずつ、丁寧に花だけを摘み取っていく。

「入れ物はこちらへ。」

メイドが籠の蓋を開く。敷かれた布の上へ、紫色の花が少しずつ並べられていく。

「……思ったより、きれいに持ち帰れそうね。」

「はい。香りも、しばらく楽しめるかと思います。」

やがて籠の中には、試すには十分な量の花が収まった。

ティスは静かに頷く。


「これで十分ね。」

立ち上がる。足元の感覚が、来た時とは違っていた。

理由を説明することはできない。それでも、心は少しだけ軽くなっている。

メイドが籠を抱え直し、一歩後ろへ下がる。

「では、戻りましょうか。」

「ええ。」

ティスは静かに歩き始めた。

屋敷へ続く道。

吹き抜ける風が背中をそっと押してくれるようだった。

その足取りは、ここへ来た時よりも確かに軽くなっていた。



屋敷へ戻る頃には、胸の奥へ張り付いていた重苦しさは幾分薄れていた。

風に当たり、花の香りに包まれ、誰かと言葉を交わす。

それだけのことで、人は少しだけ前を向けるものなのだと初めて知る。

ウェンの言っていた「気分転換」は、確かに間違っていなかった。

だが――思考が整理されたわけではない。

村長の視線。投げかけられた問い。ウェンの冷静な指摘。

どれも消えたわけではなく、胸の奥に静かに残っている。

(……でも、今は。)

無理に答えを探すことはやめよう。

そう決めると、ティスは机へ向かった。


書棚から一冊の本を取り出す。

農法でも治水でもない。香料について記された書物だった。

「せっかくだもの。」

籠からポルテ草を取り出す。量は決して多くない。

だが、一度試すには十分だった。

書物を読み返しながら、一つひとつ工程を確認していく。

幸いにも道具は領都から持ってきていた、

花を細かくほぐし、丁寧に砕く。ゆっくりと蒸し、香りを引き出す。

それを油へ移し、時間をかけて香りを染み込ませる。


工程そのものは難しくない。だが、どれ一つ急ぐことはできない。

雑に扱えば、それだけで香りは損なわれる。

自然と目の前の作業へ集中していた。

余計なことを考える暇がない。その静かな時間が、今のティスには心地よかった。

いつの間にか時間は過ぎていく。

やがて最後の工程を終え、小さな硝子瓶へ移し替えた。

作れた液体はわずかだった。

ティスは瓶を持ち上げる。

うまくできただろうか。

少しだけ緊張しながら蓋を開く。

ふわり。

部屋の空気が変わった。

あの花畑で感じた優しい香りが、静かに広がっていく。

「……できた。」

思わず声が漏れる。

決して高級品ではない。それでも、確かに香水として形になっていた。


ティスは目を閉じる。

穏やかな香りが胸いっぱいに広がる。

自然と口元が緩んだ。この地へ来てから初めて、自分の手で何かを形にできた。

そんな小さな手応えだった。

そのとき。

「ほう。」

低い声が背後から聞こえた。振り返ると、そこにはオルティスが立っていた。

「何をしているのかと思えば……香水か。」

ゆっくり近づき、小瓶へ目を向ける。

「はい。少しだけですが。」

ティスは瓶を差し出した。

オルティスは受け取り、軽く香りを確かめる。

ほんのわずかに目を細めた。

「ポルテの香りか。」

静かな声で呟く。

「上質な香りだ。悪くない。」

短い評価だった。

それでも、ティスは少しだけ嬉しくなる。

「……そうですか。」

自然と声は小さくなった。

オルティスは娘を見つめる。

「村のことは、諦めたのか。」

不意に投げかけられた問い。

ティスは言葉を失う。視線が静かに落ちる。答えられない。

その様子を見ても、オルティスは追及しなかった。

代わりに小瓶を軽く掲げる。

「こういうもので、気分が変わることもある。」

それだけ言うと、瓶を返し、静かに踵を返す。

部屋の扉が閉じられたあとも、ティスはその場から動かなかった。

手の中には、小さな香水瓶。

そこから立ち上る穏やかな香りを感じながら、小さく息を吐く。

(……気分が変わる。)

父の言葉を胸の中で繰り返す。その意味は、まだ分からない。

それでも。花畑で感じた風と同じように、その言葉は静かに心へ残り続けていた。

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