第三章:万華鏡の瞳を持つ男、銀朱
男は首から、使い込まれた黒漆塗りの大きな木箱を下げていた。
すらりと細身の体躯に、千沙子と同じ人間の姿をしていたが、その存在感はどこか現実味に欠けている。名を、銀朱。
彼が千沙子の顔を覗き込んだ瞬間、鼻先をかすめたのは、古い書物と干からびた果実が混ざったような、奇妙に甘苦い匂いだった。
「いらっしゃい、いらっしゃい。お嬢さん、お一ついかがかな? 『想い出の味』を詰め合わせた、特製の駅弁だよ」
銀朱の瞳は、瞬きをするたびに万華鏡のように色を変えていた。深紅、瑠璃、黄金。決して焦点の合わないその瞳に射すくめられ、千沙子は足がすくむのを感じた。
「代金は、あんたの持っている『一番辛かった記憶』一つで構わない。それが俺たちにとって、何よりのご馳走なんだ」
隣に立つ黒錆が、即座に千沙子の肩を強く掴んで引き寄せた。着流しの下から、剥き出しの殺気が立ち上る。
「よせ、神野。こいつは『記憶喰らい』だ。下手に取引をすれば、名前を思い出すどころか、自分が誰だったかさえ真っ白に消されるぞ」
黒錆の低い声が、警告として千沙子の耳を打つ。だが、その忠告よりも先に、千沙子の体は抗いようのない飢えを露呈させた。
「ぐぅ……」
静寂を裂いて、情けないほどに大きな音が鳴り響く。
先ほどの阿との騒動で、彼女は己の精神と体力を使い果たしていたのだ。足元はふらつき、視界がちかちかと明滅する。
銀朱はその隙を見逃さなかった。彼は細長い指先で、木箱の中から一折の竹皮包みを取り出すと、わざとらしくその紐を解いてみせた。
その瞬間、暴力的なまでの「温もり」が鼻腔を突き抜けた。
神霊列車の凍てつくような冷気とは正反対の、懐かしい匂い。
「……あ、これ。お母さんの、焼きおにぎりの匂いだ」
醤油が熱い火に炙られて焦げた、芳ばしい香。炊き立ての米から立ち上る、甘く柔らかな湯気の匂い。その匂いだけで、千沙子の瞳からは堰を切ったように涙が溢れそうになった。
千沙子が誘われるように震える手を伸ばすと、銀朱はひょいと軽やかにそれをかわした。
「おっと、交換だよ。あんたが今、心の隅っこに抱えている『寂しくて胸がキリキリする記憶』……それを一粒、俺に寄越しな」
黒錆の掴む指に力が入る。行くな、という無言の圧力を感じながらも、千沙子はゆっくりと首を振って一歩前へ出た。
「……いいですよ。この寂しさが、誰かの空腹を満たすなら」
千沙子は覚悟を決め、そっと瞼を閉じた。
脳裏に呼び起こしたのは、幼い頃、夕暮れ時の人混みで独りぼっちになり、世界がすべて自分を見捨てたかのように思えて泣きじゃくった、あの氷のような孤独の記憶だ。
銀朱が千沙子の額に指を触れると、ひやりとした感覚と共に、胸の奥を締め付けていた重石がふっと軽くなった。
彼の掌の上で、小さな鈍色の光が明滅している。銀朱はそれを満足げに眺めると、愛おしそうに口の中へ放り込み、喉を鳴らした。その瞬間、彼の万華鏡の瞳が、千沙子と同じ柔らかな茶色に一度だけ染まった。
「ごちそうさん。……さあ、約束の弁当だ」
渡された竹皮包みを開け、茶飯の焼きおにぎりを大きく頬張った。
噛み締めた瞬間、醤油の香ばしさと米の甘みが口いっぱいに広がり、鼻を抜けていく。それと同時に、脳裏に鮮やかな色彩が弾けた。
カサカサと鳴る黄金色の稲穂。秋の終わりの乾いた風の匂い。そして、自分を呼ぶ、慈しみに満ちた低い声。
「――千沙子、よく頑張ったな。さあ、一緒に帰ろう」
ふっくらとした自分の小さな手を包み込む、温かくて、節くれ立った大きな手。
「……お父さん」
喉を通る温かさが、そのまま胸の奥へと染み渡っていく。
ポロポロと涙を流しながら、夢中で弁当をかき込む千沙子の姿を、黒錆は呆れたように眺めていた。だが、その瞳に宿る鋭い光はいつの間にか消え、千沙子の背中に添えられた大きな掌には、確かな熱がこもっていた。
「……ったく。自分を切り売りしてまで飯を食う人間があるか。だが、その顔を見る限り……少しは『楔』が強まったようだな」
千沙子の右腕。そこには、消えかかっていた文字が、淡い琥珀色の光を放ちながら浮かび上がっていた。
「神野……千沙」
ようやく取り戻した二文字。名前という名の「呪い」であり、この世界と自分を繋ぎ止めるための「鎖」。
千沙子は涙を拭い、顔を上げた。
「行きましょう、黒錆さん。私、もっと探したいです。この列車の、その先まで」
不夜城の紅い明かりが、彼女の瞳に小さな決意を宿していた。




