第二章:嘘つきな神様
「ぬおおお! 腹が立つ! 腹が立って、腹が立って……最高に気分が良いぞおおお!」
現れたのは、全身から真っ赤な炎を吹き上げる巨神、阿。 彼は心と反対のことしか言えない呪われた神。彼の「最高に気分が良い」は、すなわち「今すぐ世界を滅ぼしたいほどの絶望」を意味していました。
「吽の野郎がいない世界はなんて素晴らしいんだ! 二度と戻ってこなくていい! 俺はこのまま、この列車ごと灰にしてやる!」
阿の怒りに呼応し、列車の壁が赤熱し、千沙子の足元まで火が回ります。 黒錆が舌打ちし、霊剣を構え直しました。
「厄介だな。おい、『名無し』。そこに伏せていろ。この神は今、孤独で理性を失っている」
しかし、千沙子は伏せるどころか、ふっくらとした手で懐をまさぐりました。
「孤独、なんですね。わかります。私も、さっきまでひとりぼっちでしたから」
阿の放つ紅蓮の熱気が、千沙子の頬を焼き、おさげ髪を揺らします。 しかし、彼女は一歩も引きませんでした。差し出された掌の上で、真っ白な塩むすびが湯気を立てています。
「食えと言っているのか、この俺に! 人間の腐った汚物など、見るのも忌々しいわ!」
阿は咆哮し、丸太のような太い指で、叩きつけるように塩むすびを奪い取りました。そして、それを怒りに任せて口の中へ放り込みます。 黒錆は剣を構えたまま、息を呑んでその光景を見つめていました。神が人間の供物を口にする――それは、この列車において極めて異例な事件でした。
「……ッ!!」
噛み締めた瞬間、阿の全身がビクンと跳ねました。 米粒のひとつひとつに閉じ込められた、瑞々しい現世の記憶。そして、千沙子が込めた「誰かを想う熱」。 嘘を吐くことでしか自分を保てなかった阿の喉に、その純粋な塩気が突き刺さります。
「……マズい。吐き気がするほど、マズいぞッ! こんなもの、砂を噛んでいる方がマシだ!」
阿の目から、大粒の涙が溢れ出し、赤熱した床に落ちてジュッと音を立てました。 「マズい(=美味しい)」、「死にたい(=生きていてよかった)」。 阿の叫びは、もはや悲鳴に近い賛辞でした。
「……せいせいするわ! 吽がいなくなって、俺は自由だ! あいつの静かすぎる寝息も、説教臭い声も、青白い顔も、思い出すだけでヘドが出る! あんな奴、どこかの溝で腐り果てていればいいんだ!」
阿の叫びと共に、車内の炎がさらに激しく燃え上がります。 しかし、千沙子は気づいていました。炎が激しくなればなるほど、阿の体が震え、その霊気が小さく窄まっていくことに。
「嘘。全部、嘘ですね」
千沙子は、熱風の中に手を伸ばし、阿の巨大な指先にそっと触れました。
「阿様。あなたは今、『寂しくて、今すぐ吽様に会いたい』って言っています。このおむすびが、そう教えてくれました」
「なっ、何を!? 貴様ごときが……!」
「『仲良く食べるのが、一番美味しい』。……そう、思い出したんです。私の苗字は……『神野』。神様と一緒にご飯を食べる、そんな場所で育った気がするから」
千沙子の胸元に刻まれた「神野」の文字が、黄金色の光を放ちます。 その光に導かれるように、列車の汽笛が夜空を切り裂きました。
「――おやおや。随分と賑やかな食卓ですな」
冷ややかな、けれどどこか安堵を含んだ声。 客車の扉が開き、そこには真っ白な着物を纏い、静謐な冷気を纏った双柱の片割れ――「吽」が立っていました。
「う、吽! 貴様、どの面下げて戻ってきやがった! 二度とその不細工な顔を見せるなと言っただろうが!」
阿は顔を真っ赤にして叫びますが、その足は既に吽の方へと駆け寄っていました。 吽は、泣きじゃくる阿の肩をそっと抱き寄せ、千沙子と黒錆に深く頭を下げました。
「失礼した、番人。そして、名もなき……いや、神野の娘よ。阿の『ひねくれた愛』を受け止めてくれたこと、感謝する」
列車の熱気が、一気に心地よい微温へと変わっていきます。 阿は吽の胸に顔を埋め、「大嫌いだ! 消えてなくなれ!」と、一生分の「愛してる」を叫び続けていました。
黒錆は、ゆっくりと霊剣を鞘に収めました。 狐面の奥で、彼は隣に立つ少女を――自分を恐れず、神をも変えた「神野千沙子」を、射抜くような眼差しで見つめていました。
「……神野、か。やはり、ただの迷い子ではなかったようだな」
黒錆の手が、千沙子の頭に不器用に置かれます。
「だが、そのお節介がいつまでも通用すると思うな。ここから先は、もっと業の深い奴らが待っている」
「……はい、黒錆さん」
千沙子はふっくらした頬を緩め、まだ見ぬ終着駅の先へと、力強く一歩を踏み出すのでした。




