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特別章:再会と約束の味

 かつて、記憶を失った少女として迷い込んだあの寂れた駅。歳月を経て、大人の女性へと成長した千沙子は、再びその場所に立っていた。

 霧の中から、地を這うような轟音を立てて現れたのは、あの日と同じ漆黒の「神霊列車」である。千沙子は迷うことなく、その鉄の檻へと足を踏み入れた。


1.再会と、お弁当の切符

 客車の入り口では、新調した白磁の仮面を被った無貌の車掌が、音もなく立ち塞がった。

「……おや。無賃乗車ですか。ここは生きた人間が、二度も訪れる場所ではありませんよ」

 頭の中に直接響く砂嵐のような声。しかし、今の千沙子は怯むどころか、手に持った大きな重箱の蓋を、勢いよく跳ね上げた。

「いいえ、これが私の切符です。神様たち、お腹を空かせているでしょう?」

 瞬間、重箱から溢れ出したのは、現世の豊かな実りと、千沙子が数年をかけて磨き上げた調理の技術、そして何より深い愛情がこもった芳醇な匂いだった。

 車掌が呆気に取られている間に、千沙子は軽やかな足取りで次々と車両を回った。不機嫌そうに炎を散らしていた阿には、出汁の効いた黄金色の卵焼きを。

「阿さん、この出汁巻き卵は『本物』ですよ! 心と反対のことしか言えないあなたでも、頬が落ちるくらいは言えるでしょう?」

 隣で静かに佇む吽には、じっくりと味が染みた根菜の煮物を。かつて出会った神々が、次々とその味に相好を崩し、千沙子の通行を黙認していく。神々の満足げな吐息が、列車の石炭代わりとなって夜空へと汽笛を響かせた。


2.変わらぬ用心棒、黒錆との邂逅

 千沙子が辿り着いたのは、最後尾の展望デッキだった。

 そこには、数年前と変わらぬ姿で、紺色の着流しを夜風に翻す男――黒錆が立っていた。

「……バカな。なぜ、また戻ってきた」

 狐面の奥から漏れる声が、驚きと動揺でわずかに震えている。千沙子は彼の目の前まで一気に詰め寄り、最後の一つ、手のひらで大切に温めていたおにぎりを差し出した。

「黒錆さん、私、お嫁に来ました。だからこのおにぎりを食べて、私の名前を、私という存在を、永遠に覚えていてください」


 黒錆は絶句した。数多の理不尽な神々と渡り合ってきた彼が、一人の人間の娘の言葉に、完全に言葉を失っていた。しかし、千沙子の真っ直ぐな瞳に根負けするように、彼はゆっくりと、長年己の顔を隠してきた狐面を外した。

 その頬に刻まれた「黒錆色の痣」は、あの日、千沙子が触れた瞬間から、沈まぬ夕焼けのような温かい琥珀色を保ったままであった。


 黒錆は、震える指先でおにぎりを受け取ると、一口、ゆっくりと噛み締めた。

「……味がする。神の罰で焼けて、何を食べても砂を噛むようだった喉が、こんなに熱い」

 おにぎりを飲み込んだ瞬間、奇跡が起きた。彼の頬の痣から、パラパラと鉄錆が剥がれ落ち、その下から数百年ぶりに、傷一つない綺麗な肌が覗いたのだ。

 神々への供物(お弁当)と、千沙子の揺るぎない想い。それが、永劫と思われた罪の鎖を、ついに解き始めたのである。


3.特別編:蒸気と熱に浮かされる夜

 神々を満足させ、正式に「用心棒の妻」として認められた千沙子。

 喧騒が去り、夜の静寂が戻った車内。客室の一角にある黒錆の私室は、蒸気機関の微かな振動と、ランプの灯火に包まれていた。

 狭い室内には、黒錆が長年愛用してきた古びた文机と、新しく用意された二人分の布団が並んでいる。千沙子は、丁寧に結んでいたおさげ髪を解き、しどけなく肩に流していた。緊張でふっくらとした頬は、ランプの光を吸い込んで、より一層赤く染まっている。


「……そんなに畏まるな。さっきまでの威勢はどうした。神を黙らせた勇気はどこへ行った」

 黒錆は紺色の着流しを脱ぎ、晒が巻かれた逞しい上半身を露わにした。狐面を外したその素顔は、驚くほど男らしく、けれどどこか照れくさそうに視線を泳がせている。

「だって、黒錆さんが……そんなに、熱い目でじっと見るから」

「……お前が勝手に乗り込んできたんだろう。今さら逃がすつもりはない。一生、俺の隣で飯を炊いてもらうぞ」


4.重なり合う鼓動

 黒錆が千沙子の隣に腰を下ろすと、畳がわずかに軋んだ。

 彼が伸ばした手は、戦いと罪で鍛えられた節くれ立った大きなものだったが、千沙子の肩に触れるときは、まるで壊れやすい硝子細工を扱うように繊細であった。

「お前の体は、いつも温かいな。……神霊列車の凍てつく空気に慣れきった俺には、眩しすぎるくらいだ」


 黒錆の指先が、千沙子のうなじから、解かれた長い髪へと滑り落ちる。

 千沙子は震える手で、彼の胸元の晒をそっと掴んだ。布越しに伝わってくるのは、かつては死人に等しかったはずの彼から響く、力強く、そして速まった鼓動。

「私の熱……黒錆さんに、全部あげます。あなたの冷たい時間を、私が全部、溶かしてあげたい」


 千沙子の言葉に、黒錆の理性という名のことわりが、ぷつりと音を立てて切れた。彼は千沙子の腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐように強く抱きしめた。

「……千沙子。お前を愛することは、神を裏切るよりも深い罪になるかもしれない。だが、もう止められん。この命、お前の熱に焼き尽くされても本望だ」


 重なり合った影が、ランプの炎に揺れる。

 黒錆の唇が、千沙子の震える唇を優しく、けれど貪るように塞いだ。

 冷たい鉄の香りがするはずの彼の体からは、先ほど食べた「おにぎり」のような、確かな生の温もりが溢れていた。


 窓の外では、夜の銀河を走る列車の汽笛が、祝福の鐘のように遠くで鳴り響いている。

 それは二人が、ただの「用心棒と人間」ではなく、魂を分かち合う「夫婦」となった、最初の夜であった。

 蒸気機関の黒煙に混じって、現世の美味しそうな匂いを振りまきながら、神霊列車は「家族」となった二人を乗せて、どこまでも続く夜空を駆けていくのであった。

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