最終章:黎明の別れと、約束の痣
列車が長い汽笛を鳴らし、ゆっくりと停車した。
そこにあるのは、天空に浮いたような一本のホームと、現世へと続く光のゲートだけであった。
「さあ、行け。ここを潜れば、お前が忘れていた『日常』が待っている」
黒錆はホームに降り立つと、千沙子の方を向かずに言った。彼は再び狐面を深く被り、紺色の着流しを夜風にたなびかせている。
千沙子は、ふっくらとした手で自分の胸元を確かめた。そこには、光り輝く『千沙子』という名前が、しっかりと彼女の魂に刻まれていた。
「黒錆さんは、一緒に行かないんですか?」
千沙子の問いに、黒錆は短く鼻で笑った。彼はゆっくりと狐面をずらし、あの錆びた焼き印を露わにする。
「言っただろう。俺は神の宝を盗んだ罪人だ。この痣が消えない限り、俺はこの列車という檻から出ることは叶わない。……お前とは、住む世界が違うんだよ」
だが、千沙子は迷わず黒錆の元へ駆け寄った。そして、彼が拒む間もなく、そのゴツゴツとした大きな手を、自分の両手で包み込んだ。
「黒錆さん。この名前を取り戻せたのは、あなたがいたからです。……だから、これは私からの『お礼』です」
彼女が祈るように力を込めると、胸元の名前の光が、彼女の手を通じて黒錆の皮膚へと移っていった。それは、彼女の記憶の断片――「家族の温もり」や「炊き立てのご飯の匂い」、そして「誰かを信じる心」を分けた、純粋な生のエネルギーであった。
「なっ! お前、何を……!」
驚く黒錆の手元で、鉄のようだった黒錆色の痣が、一瞬だけ柔らかい琥珀色に輝いた。完全に消えることはない。しかし、その焼き印はもう、彼を苛む呪いではなく、一人の少女に守られた「記憶」へと変質していた。
列車の発車を告げる鐘が、黎明の空に響き渡る。車掌の冷たい視線が背中に刺さる中、黒錆は千沙子を光のゲートへと力強く押し出した。
「お節介な奴だ。だが、この温もりは……悪くない」
狐面の奥で、黒錆が初めて小さく微笑んだような気がした。
「行け、千沙子! 二度とこの列車には乗るなよ!」
「黒錆さん! 私、忘れません! あなたの名前も、その手の温かさも!」
千沙子の体が光に包まれ、視界が白く染まっていく。最後に見たのは、紫色の朝焼けの中で一人、漆黒の列車を見送る用心棒の、凛とした後ろ姿であった。
*
気がつくと、千沙子は山奥の古い神社の境内に立っていた。
辺りは鳥の囀りに満ち、柔らかな朝日が木漏れ日となって降り注いでいる。つい先ほどまでの、冷たい鉄と霊気の匂いが嘘のようだった。
「あ……」
千沙子は自分の掌を見つめた。そこには、小さな狐の面の根付けが握られていた。黒錆がいつの間にか忍ばせてくれたものだろうか。
彼女はそれを大切に胸に抱き、自分の名前をもう一度、静かに口にしてみた。
「千沙子……」
記憶の霧は完全に晴れ、彼女は確かな足取りで山道を下り始める。
いつかまた、あの不思議な汽笛が聞こえたとき。あるいは、自分が誰かのために温かなおむすびを結ぶとき。
あのかさついた、けれど何よりも温かかった大きな手に、再び触れられる日が来る。
千沙子は根付けを握りしめ、一度だけ振り返った。そこにはただ、青い空が広がっているだけだったが、彼女の心には琥珀色の光がいつまでも優しく灯り続けていた。




