表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ソイラテベンティとアメリカーノトールー十年の誤読ー  作者: fudo_akira


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/6

2025年6月 ― 冷めたという結論

 退院してから、しばらくのあいだ、ユキは何も決めなかった。


 決めない、という選択をしていた。


 身体は回復していく。

 声も戻り、日常の音が少しずつ輪郭を取り戻す。


 けれど、心は急がなかった。


 急いで答えを出すとき、人はだいたい間違える。

 ユキは、そのことを自分の人生で何度も学んできた。


 朝は娘を起こし、弁当を作る。

 受験を控えた娘は、以前よりも無口になっていた。


 参考書を開く背中を見ながら、ユキは思う。


 ――この子の一年は、これから決まる。


 ここで母親が揺れている場合ではない。


 たくまからの連絡は、控えめだった。


 「体調どう?」

 「無理しないで」


 それ以上、踏み込んでこない。


 その距離感が、かえってユキを落ち着かせた。


 返事はする。

 事務的すぎない、でも期待を持たせない文面。


 ユキは、少しずつ「終わらせる言葉」を準備していた。


 別れは、感情で切るものじゃない。

 生活の延長線で切るものだと、今ははっきり分かる。


 夜、ひとりになった時間。

 ユキはノートを開いた。


 書くことで、思考を整理する癖がある。


 ・たくまを嫌いになったか

 → いいえ


 ・愛しているか

 → たぶん、まだ


 ・一緒に生きたいか

 → いいえ


 答えは、矛盾しているようで、実は一貫していた。


 愛している。

 でも、人生の中心には置けない。


 それだけだ。


 「冷めた」という言葉は、嘘ではない。

 ただし、世間が想像する冷め方とは違う。


 激情が消えたわけじゃない。

 期待を下ろしたのだ。


 未来への期待を。


 六月の終わりだった。


 ユキは、リビングのテーブルにスマートフォンを置いたまま、しばらく動かなかった。


 娘は自室で勉強している。

 夫は仕事。


 今なら、誰にも邪魔されない。


 たくまの名前をタップする。


 これまで何度も見てきた画面なのに、

 今日は違って見えた。


 文章は、もう用意してある。


 何度も書き直した結果、

 感情を削ぎ落とした、短い文になった。


 『考えた結果、もう続けられないと思いました。

 気持ちが冷めた、という結論です』


 「ごめんね」も、「ありがとう」も書かなかった。


 どちらも、誤解を生む。


 これは謝罪ではないし、

 感謝で終わらせる関係でもない。


 送信ボタンを押す前、

 ユキは一度だけ、深呼吸をした。


 胸は痛む。

 でも、揺れてはいなかった。


 ――私は、これで人生を続ける。


 そう思って、送信した。


 返信は、すぐには来なかった。


 それでいい、とユキは思った。


 別れは、即時に共有される必要はない。

 受け止める時間が、相手にも必要だ。


 スマートフォンを伏せ、立ち上がる。


 キッチンで湯を沸かし、

 いつものように夕食の準備をする。


 生活は、止まらない。


 それが、ユキの選んだ別れ方だった。


 その夜、ベッドに入ってから、

 涙が出た。


 声を殺す必要はなかった。

 家族に聞こえても、言い訳はできる。


 でも、ユキは静かに泣いた。


 悲しい。

 失った。

 十年分の時間が、終わった。


 それでも。


 後悔はなかった。


 冷めた、という言葉の本当の意味を、

 ユキはようやく理解していた。


 それは、感情が枯れた状態じゃない。


 感情に人生を預けなくなった状態だ。


 翌朝、娘が言った。


「今日、模試あるから早い」


「分かった。お弁当置いておくね」


 何気ない会話。


 その中で、ユキは確信する。


 これでよかった。


 これが、私の選んだ人生だ。


 たくまを愛した時間は、嘘じゃない。

 でも、これから先を生きる理由にはならない。


 ユキは、静かに前を向いた。


 人生は、続いていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ