2025年4月 ― 咽頭浮腫・緊急手術
最初は、ただの違和感だった。
朝、目が覚めたとき、喉の奥に薄い膜が張ったような感覚があった。
風邪の引き始めだろう、とユキは思った。
四月。
年度が変わり、生活のリズムが少しだけ前にずれる季節。
娘は受験生になり、家の中の空気もどこか張りつめている。
体調不良に構っている余裕はなかった。
だが、昼過ぎになる頃には、声が出にくくなっていた。
飲み物を口に含むと、喉が狭くなったような感覚がある。
嫌な予感がした。
ユキは、自分の身体の変化に敏感な方だ。
楽観しない。
様子を見る、という選択をほとんどしない。
夕方、近所の内科を受診した。
医師は喉を覗き込み、少しだけ表情を変えた。
「これ、すぐ大きな病院行った方がいいですね」
その言い方で、深刻さが伝わった。
紹介状を書かれ、タクシーで総合病院へ向かう。
窓の外の景色が、異様に遠く感じられた。
――ああ、こういうとき、人は意外と冷静なんだ。
ユキはそう思った。
怖くないわけじゃない。
でも、感情が先に立たない。
頭の中で最初に浮かんだのは、娘の顔だった。
今、何時か。
今日は塾がある日か。
誰に連絡すればいいか。
たくまの名前は、出てこなかった。
病院では、あっという間に話が進んだ。
咽頭浮腫。
気道が腫れ、呼吸ができなくなる可能性がある。
「このままだと危険です。今から処置します」
説明は簡潔だった。
選択肢を与えられる余地はない。
ストレッチャーに乗せられ、天井のライトが流れていく。
ドラマで見るような光景だが、現実は驚くほど淡々としている。
ユキは、自分が「患者」になったことを、どこか他人事のように受け止めていた。
ICUに入る直前、医師が言った。
「ご家族に連絡は?」
その瞬間、ほんの一秒だけ、たくまの顔が浮かんだ。
声をかけてくれるだろうか。
駆けつけてくれるだろうか。
――きっと、来る。
でも。
ユキは首を横に振った。
「娘と、家族には連絡しています」
それだけで十分だった。
自分でも、不思議なくらい迷いがなかった。
手術前、麻酔が入るまでの時間。
ユキは天井を見つめながら、考えていた。
もし、ここで意識を失って、もう戻れなかったら。
そのとき、誰の名前を最後に呼ぶだろう。
答えは、最初から決まっていた。
娘。
それだけだ。
たくまを思い出さなかったわけじゃない。
思い出した。
でも、縋りたいとは思わなかった。
それは冷たさでも、強さでもない。
ただ、順番の問題だった。
人生には、非常時に呼ぶべき人と、
日常を支えてくれた人がいる。
たくまは後者だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
麻酔が効き始め、視界が白くなる。
ユキは、最後に一つだけ思った。
――私は、もう選んでいる。
目を覚ましたとき、喉には管が入っていた。
声は出ない。
身体も重い。
ICUの静かな機械音。
時間の感覚が曖昧になる。
しばらくして、家族の顔が見えた。
娘は、不安を隠そうと必死だった。
ユキは、目で「大丈夫」と伝えた。
その瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
生きている。
戻ってきた。
それだけで、十分だった。
回復は、思ったよりも早かった。
だが、身体が元に戻っても、意識は変わっていた。
病室のベッドで、ユキは考え続けた。
もし、あのとき、たくまを呼んでいたら。
もし、彼がそばにいてくれたら。
きっと、優しかっただろう。
きっと、「そばにいる」と言っただろう。
でも、それは救いではない。
それは、混乱を延ばす行為だ。
この人は、非常時にまで寄りかかる相手ではない。
それを、身体が先に理解してしまった。
頭で考える前に。
退院の日。
病院の出口で、春の風が吹いた。
世界は何も変わっていない。
だが、ユキの中では、はっきりと線が引かれていた。
たくまとの関係は、
「続けるか、終わらせるか」ではない。
人生の中心に置くか、置かないか。
答えは、もう出ている。
ユキは、スマートフォンを取り出し、
たくまの名前をスクロールで通り過ぎた。
今は、連絡しない。
それが、最も誠実な選択だった。
この手術は、別れのきっかけではない。
優先順位が、確定しただけだ。




