Ep.4 「はじめと」
昼下がり、管理小屋。スーツに身を包んだ無精髭の男、円治は壁にかけられたホワイトボードの前で礼をした。
私たち二人は長いデスクに向かって席に座り、彼を見つめる。今までしたことのない視線の向け方に、私は少々戸惑いつつあった。
「二人とも、はじめまして」
「はじめまして」
「はじめまして」
円治は先ほどまでとは打って変わって、なにやら明るい雰囲気である。いや、暗さを無理やり照らしていると言うべきか。子どもの前では泣かないということが、大人の条件なのだろうか。
「今日から二人の担任になる加藤円治、52歳です。よろしくお願いします」
「52歳!?」
人生で出したことのない、喉の天井を擦るような声が出る。
「ま、円治さん、52歳なんですか……?」
「言ってなかったっけ?」
「そ、そんなふうには見えなかったので……」
無精髭、精気のない顔。私の彼に対する第一印象は67歳だった。思っていたよりも彼は若い。いや、私の3倍以上の歳なのだが。
彼はコホンと咳払いをして、話を戻した。
「今日は割合について勉強します。プリント配りますね」
「割合……?」
「ローゼちゃんは知らないようだね。澄嶺ちゃんはどう?」
「なんとなくは知ってます。10%とか、5割とかですよね」
「そうそう。じゃあ話は早そうだね。それじゃあホワイトボード見てください……」
それから、円治の授業が始まった。彼は日焼けして黄色くなった研究プリントを何度も確認しながら、ホワイトボードに説明を書き込んでいく。その姿はさながら、2時間も待ってようやくテーマパークに入場できた子どものようだった。
「よし、これで割合の初授業は終わりです。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがたうございました!」
授業が終わると、しばらくの間『放課』と呼ばれる休憩時間があるらしい。
ローゼはラジオがえらく気に入ったようで、今もまだ弄くっている最中である。
「先生、すこしいいですか?」
「どうしたの?」
休み時間に、聞きたいことがあった。
「シンギュラリティの前って、どんな感じでしたか?」
「……」
彼は困りつつも、言葉を選んでゆっくり答えてくれた。
「こんなふうに、毎日授業を受けて、部活して、ご飯食べて寝て……以外と、今と変わらないかもね」
「変わらない?」
「うん。僕らの真ん中は、きっと変わらないんだ」
それを聞いて私は、変な感情になった。自分の欠けたところに光が当てられ、白昼の下に晒されているような感覚。
なるほど、これを人は「羨ましい」と言うようだ。
「もう一つ、先生。なんでこの街は、こんなに人の匂いがするんでしょうか」
「あぁ……えっとね、あれは先生がやったんだ」
「え?」
「いやだから……まあ、いろいろあったんだよ」
円治は取り繕った顔でそう言った。
私は彼の心の奥を知っている。知っていたはずなのに、聞いてしまった。
だからそっと、無視してあげよう。
窓の外、コンクリートの割れ目の枯れ枝から、一つの若芽が萌えようとしていた。
────
夜。月が静かで良い夜だ。
私たちは川の字のようになって寝袋にくるまっている。私が右端、ローゼが真ん中、円治が左端だ。彼は今、昼の様子が演技だと思えるほど、安らかな表情で眠っている。
だが、私は眠れなかった。今日はいろいろありすぎたのだ。初めて見つけた“生存者”に、初めての授業。疲れというには贅沢な体験だった。
「ふぅ……」
深い溜息を天井に投げても、自分に返ってくるだけ。私の心に、重たいなにかが渦巻いていた。
ふと思い立ち、寝袋を脱いで扉を開けた。外に出ると、皮膚を細かく突き刺すような寒さだった。晩秋も深まり、冬の足音がすぐそこまで聞こえてきている。
鉄塔の足元に腰掛けて、体重を預けた。ひんやりとした骨組みが体温を奪ってくる、この感覚が心地良い。
「なんで、止めたんだろう……」
私の心を引っ張るのは、やはりそれだった。あの時、私は必死になって円治を止めた。まるで狼に狙われた鹿のようなスピードで、彼の首を絞めていた縄を断ち切った。
別に、彼は死んでもよかった人間だ。私とローゼはただ驚くだけで、特に変わらない日を送ることもできたはずだった。
じゃあ、なんで止めた?
単純に言えば、自分の前で死なれるのが嫌だったのかもしれない。いくら見慣れた死体と言えども、その光景を直に体験するのは憚られるだろう。
違う。私は目の前で鳥が死のうが鼠が死のうがなにも思わなかった……はずだ。人間も変わらない。
気になるのは、あの時感じ取った死の香り。
ああ、だからか。
拠点に帰ったとき、母が死んでいたことを思い出したんだ。だから必死になって止めたんだ。円治に死んでほしくないとか、そういうんじゃなくて、ただ自分の悲しみを掘り起こされたくなかっただけなのだ。そう、思いたかった。
「ははっ……」
私は失望した。自分が思いの外薄情だったから。けれど同時に安堵もした。これならきっと、もしもローゼが私より先に死んでも、上手く生きていける。
「どうしたんですか、澄嶺」
もの思いに耽っていると、ローゼが寝ていた小屋から出てきた。少々髪が乱れているが、紫色の長髪が月明かりに映えている。
「円治さんは?」
「まだ寝てますよ。スヤスヤです」
ローゼもまた私の隣に腰掛けて、同じように座った。
「今日は星が綺麗ですね」
「そうだねぇ……あ、オリオン座」
「オリオン座?」
「あの大きなな三つの星があるでしょ? それを中心にした砂時計のことだよ」
「ほんとです! ありました!」
見上げる星座は、黒洞洞たる夜の帳に張り付いて、私たちを見ている。
二人で星々をなぞるだけで、この時間が輝いているように感じた。
「澄嶺、お昼のとき星はどこに行ってるんでしょうか? 昼は星が見えないんです」
「昼間も同じ場所で光ってるよ。ただ太陽の光が強すぎて見えないだけ」
「そうなんですね」
「うん。こっちからは見えなくても、星からはきっと見えてる」
いつでも見守ってくれている──そう言いかけて辞めた。自分ですら自分を見失うのに、星に私が見えるはずがない。
ロマンチシズムに乗っかって、口からでまかせを言ってしまうのが私の悪い癖だ。
「澄嶺、手を繋ぎませんか?」
「い、いいけど……どうして?」
「なんとなくです。強いて言えば、寒いからでしょうか」
冷たくなった右手が、ローゼの左手と密着する。
穢れて救いようのない地上にも、一つの星座が浮かんでいるらしい。




