Ep.29 「弑逆」
私の声が教会を揺らした。
シンギュラリティが私の心にも起きたなら、誰かのために泣けるようになるのだろうか。
「澄嶺、我儘を言ってもいいかな」
ティーカップを空にして京夏は言った。彼女の筋肉は少しずつ緩み始めていたが、怒りが体を突き動かそうとしているのは誰の目からも明らかだ。
「もちろん。聞かせて」
私は覚悟を決めてカップを置く。カチャリと陶器同士のぶつかる音が、火打ち石のように思えた。
「私、アテナを殺したい」
京夏の声は、この世のどんな刃物よりも鋭く輝いていた。地平線の果てまで届くくらい真っすぐに、どこかにいるアテナを見つめて。
「駄目です京夏、そんなことをなさるのは!」
「そんなことをしたら何だっていうの」
「だ、だってアテナ様は神様なんですよ!? アテナ様のおかげで私は今こうして生きていて──そんな悪いこと、していいはずが……」
フィーナの、あるはずのない呼吸音が乱れていた。肩を上下させながら瞳孔を開かせている。
「あなたに悪いことをさせた奴殺すくらい、きっと許してくれるよ。神様なんでしょ?」
京夏は死んでしまったように動かない。座ったまま、隣のフィーナを見上げ、答えを引き出そうとしている。
「フィーナ」
ローゼがゆっくりと立ち上がって、フィーナの両手を包んだ。人工の温もりが、緩やかに交換されていく。
「フィーナはいい人です。きちんと苦しんで、きちんと償おうとしてるんですから。
私はフィーナが羨ましいです。悪いことをしたときに、裁きを受けようとしてるんですから」
「あ……あぁ……!」
刹那、フィーナの背後からある光景を見た。彼女の抑揚、呼吸、温度のありとあらゆるものが、人殺しの感触を声高々に語っている。そしてそれを、信仰という瘡蓋で隠していたということも。
彼女はまた泣いている。その涙のわけは私にはまだ理解できない。けれどもし、その涙が本当なのならば……フィーナはきっと、私よりも人間だ。
「じゃあ私たち行くね。お茶、ご馳走様」
3人を連れて、逃げるようにして教会の外へ出る。太陽はすっかり昇ってしまって、影の長さは蟻ほどになっていた。
「ジェット」
「ん?」
「私、フィーナみたいになりたい。私はまだ……私を後悔できてないから」
「そう、か」
ジェットは遠くを見つめながら話す癖がある。魂が地平線に引っ張られて、まるで私のことなど眼中にないみたいに。
瞬間、扉の開く音が聞こえた。
決して比喩ではなく、女性の声と共に。
「あの……私も行かせてくれませんか!」
フィーナは泣き腫らしていた。
背中にはリュックを背負い、修道服を脱ぎ捨て、黒いドレスに身を包んでそこにいる。
「どうして? あなたはアテナを崇拝してるんでしょ」
すかさず京夏が反撃した。
突き放すでもなく、手を差し伸べるでもなく、ただ淡々と事実を並べていく。
「もしまだ明日もここにいたら……私はきっと、私を恨んでしまうから」
その眼は決して強くない。それでも決して逸らさない。
自分が正しいと信じたことを、何が何でも実行する。人工知能らしいフィーナがそこにいた。
「歓迎しますよ、フィーナ。いいですよね? 澄嶺」
「えあ、うん。もちろん」
私としては、仲間が増えることに文句はない。ほんの少し、不安と呼ばれるものの存在は認められる。
両手のひらに乗った、私以外の体温。私はこれをどれだけ維持できるだろう。
────
寄り道も終わり、私たちはトーダイを目指して再び進み始める。
私たちは現在、いかにしてフィーナの心を安定させ、味方にするかに必死であった。
「フィーナはどんなものが好きなんですか?」
「かわいいもの……ですかね。軍の休みにはしょっちゅう買い物に行っていました。昔はこのあたりに……あったんですけどねぇ……」
フィーナが指すところには当然何もない。あるのは舞い上げられたコンクリートの欠片か、せいぜい思い出と呼ばれるなにかだろう。
「東京も随分、変わってしまいましたね」
「昔はどんな感じだったの?」
ナゴヤ地区の中央もボロボロだったが、トーキョーほどの惨状ではなかった。ということは、それだけ壊す価値があったという裏付けでもある。
「人類が最も発展した都市、と言われていたからね。自然と技術の調和した、素晴らしい街だったとも」
ジェットは顎を撫でながら、遠くを眺めて記憶を語る。
彼女の指先から映し出されるホログラムは、その光景を事細かに描写していた。桜とともにドローンが舞い、転んだ人工知能を人が助ける。
理想郷──そう形容して余るほどの豊かさがそこにあった。
しかしそれは暫くして、炎と爆発で包みこまれてしまうのだ。それを見せる前に、ジェットはホログラムを停止した。
「そうでしたね……特に、冬の街が私は好きでした」
「ふーん……綺麗なの?」
「はい、とても」
フィーナが少しずつ慣れてきたところで、ローゼは私の隣に位置をとる。ピクリと右手を動かしているが、私にはまだ触れられていない。
「手、つなぐ?」
ローゼは頬を赤く染めながら、私と指を編んだ。
「そういえば、澄嶺の好きなものはなんですか? 聞いたことなかったですよね」
「特にないよ。ものを好きになっても、生存者が見つかるわけじゃなかったから」
思い返せば「好き」という感情を私は理解できていなかった。その音を発音すれば母が喜んだから、小さい頃はよく言っていた記憶が残っているくらいである。
「でも多分、ローゼとかネグレ、ここにいるみんなは好きだと思う」
「そうですか! へへへ」
珍しくローゼが私の腕に抱きついてくる。
背筋に強烈な違和感が走るが、それは恐らくローゼも同じであった。私が彼女の腰に手を回したからである。
今はまだお互い、自分の感情を理解も制御もできていない。名前のない衝動に突き動かされ、表現しているだけ。
手を絡める私たちの前を、フィーナと京夏が会話をしながら歩いている。黒いドレスと白いフーディが、まるで鏡映しのようにそこにいた。
「フィーナ、私はアテナを殺す。もしあなたがそれを邪魔するなら、躊躇しないから」
「構いません。それが運命なら」
「……さすがは元軍人、ね。気味の悪い覚悟」
「人工知能ですから。そういうのは得意ですよ」
2人の関係は筆舌に尽くし難い。
自分の大切ななにかを殺そうとしている相手を、私ならあんなふうに隣に置かない。
「さあ、見えてきたよ」
私たちの会話劇に釘を差すように、烏となって先行していたジェットが振り向いて言う。
向こうに見える、建物の生き残り。太陽を隠してしまうほど大きく聳えるそれが私たちの目的地。
「あれ……本当に学校なの?」
「ああ、かつてはね」
円治が語っていたものとはまるで違う。
近づくだけで寒気がし、心臓が悲鳴を上げるような場所。
空気すら金属の味がするここが、こここそが。
シンギュラリティの爆心地──人類の終わりが始まった場所、トーダイである。




