Ep.12 「痛み」
「ただいま戻りました」
村に戻って弥富邸の戸を開ける。
結局手紙を届けることはせずに、今も封筒がポケットに入ったままだ。
廊下を歩きながら、弛んだ思考が堂々巡りに脳をかき乱す。
後悔はあった。
約束は果たせなかった。
「届けたことにして、上手く嘘をつきましょう」
ローゼはそう言っていた。
彼からすれば手紙が届いたか否かなんて確認がつかないのだから、嘘をついてもバレるはずはない。
弥富さんがいる部屋の前に立ち、作り笑顔を準備してから部屋に入る。
「弥富さ──」
「おう。おかえり」
そこにいたのはネグレだった。
部屋がやけに静かだ。
その理由は、白い布を顔に被せられた「彼」だった。
「え?」
視界がふっと地面に近づく。腰が抜けたと実感するまで数秒を要した。
彼はもう、死んでいたのだ。
「ネグレ、それは……」
「ああ。大往生だったと思うぜ」
「そんな……」
ネグレは迷いながらも口を開いた。
「……逝く直前、お前らには感謝してたよ。『これで妻と約束できた』ってな」
彼の顔は安らかだった。
その体に手を伸ばそうとしても、触れることができない。謝罪の言葉すら、喉でくしゃくしゃになって空気の振動を生むばかり。
血が滲むくらい唇を噛みしめる。やがて熱いものが瞳から流れ落ち、それが足元の畳を濡らした。
ポケットから封筒がひらりと滑り落ちる。
私の視線が、一点に吸い寄せられる。
「澄嶺……」
「ローゼ……私……!」
自分が嫌いになった。
弥富さんが死んだからではない。
自分が彼の思うほど、良い人間になれなかったことが嫌なのだ。
「ネグレ、他の村の方は?」
「来ねえよ。言っただろ、弥富のじいさんは村のやつらから疎まれてる。死に際にいたのは、私だけさ」
「優しい、ですね」
「はは。そんなんじゃねえよ」
二人の会話が終わる頃には、私の呼吸は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
大丈夫だ。大丈夫。
まだここには沢山の人間がいる。その人たちから好かれるように努力すればいい。だから、大丈夫だ。
そう思い込むことにした。
「澄嶺、その……」
「わかってる。私とローゼ、共犯だね?」
多分私は、今までしたことない表情をローゼに向けている。口角を不自然に保って、瞳孔を細めて。
「はい。澄嶺の涙は私の責任です」
「……うん、少し元気になった」
私の側から、また一人消えてしまった。人の死を間近で見るのは3回目だ。
「おい、澄嶺」
部屋を出ようとすると、ネグレが私を引き止めた。腕を組みながら、まるで説教の準備を始めているようである。
「どうしたの」
「お前……」
ネグレは拳を握りしめている。
私に何かを言おうとして、それが言葉にできない様子だ。
「お前な……!」
次の瞬間、ネグレの右手が私の頬に炸裂した。
「お前さ、弥富のじいさんに何か言うことあんじゃねえかよ」
「やめてくださいネグレ!」
激昂するネグレをローゼが制止する。もはや私は打たれた右頬をさすって、痛みを確認することしかできなかった。
「ローゼお前もだぜ。お前ら二人とも、届けなかったんだよな、あの封筒! 約束破るくらいならよ、最初からすんじゃねえよ!!」
怒号が主を喪った館に響く。
ネグレが怒る理由は、私の自己嫌悪と同じものだった。
「わかってる……けど、危険だったから──」
「危険? 最初に言ったよな、人工知能がうじゃうじゃいるんだぞって! それでも行くって決めたのはお前だろ!? 謝れよ……謝れよ!!」
怒っているというより、慟哭に近かった。
「じゃあ、ネグレだったらどうするって言うんですか」
「は!?」
「1日かけて山を下りて、自爆ドローンに特攻されて、奥さんの手がかりも一切ないのに……どうしろって言うんですか!!」
ローゼは怒っていた。泣きながら叫んでいた。あんな姿を見るのは初めてだ。
私は……どうするべきだったんだ?
沈黙が煩いくらいに場を支配する。
もう、いいんだ。
「……わりい、頭冷やしてくる」
「そうしましょう。私たちも、変わりますから」
ネグレはふらつきながら部屋を出ていった。ここにあるのは私の痛みと、ローゼの叫び、弥富さんの遺体だけである。
────
日が沈んでいる。山の端が橙色に染まって、過ぎ去った秋を思い出させるものだった。
私の側にローゼはいない。彼女の痛みに気づかなかったようだ。
「ネグレ……」
その中にひとつ、青い少女。
私は夕日を眺めるネグレに、やっとの思いで話しかけることができた。
「その……さっきは!」
「気にすんな。私も混乱してたさ」
座れ、とでも言うように、ネグレは側の土をポンポンと叩く。まるで初めて会った日の夜のようだった。
「ごめんな。私が怒る資格なんてなかったのに」
「そっちこそ気にしないで……私、悪いことしたってわかってるから」
私たちの影が長くなる。黄昏時はいいものだ。相手の輪郭が曖昧になって、言えないことでも言えてしまう気がする。
「いいや、お前の選択は正しかったよ」
そう言いつつも、ネグレは目を合わせようとしない。
「引き返さなかったら今頃は、夫婦水入らずの会話にお前が混ざってたかもしれねえ」
「ははっ、なにそれ」
「生きててよかったよ。お帰り、澄嶺」
「うん、ただいま」
夕日が完全に沈むと、空に少しずつ星が浮かび始める。今日は新月だ。星々の頼りない光が、慈雨のように振り注ぎ始める。
「……私さ」
この暗闇に溶けるように、ネグレは言葉を紡ぐ。
「弟がいたんだ。可愛くってなぁ……いつも一緒に遊んでたんだよ。けど村の外まで遊びに行ったとき、人工知能に……」
「わかったから、言わなくていいよ」
ネグレの中では今、弟との日々がフラッシュバックしているのだろう。
彼女は今日、2人分の死を経験している。
「思い出さないように、してたのに……弥富のじいさんが死んでから、ずっと、抱えてて……」
「本当に、お前らが帰ってきてよかった……」
「うん。私はここにいるから」
ネグレの肩に、そっと右手をまわす。
彼女もまた、大切な人を喪っていた。人間というのは思うよりも、似たり寄ったりなのかもしれない。
「なあ澄嶺」
「どうしたの?」
「お前は死なないよな? 私の思い出の中だけの命に、ならないよな?」
縋るような彼女の質問は、私が求めていたものだった。
「うん。きっと……ね」
私は苦し紛れの嘘をついた。
ネグレの言葉を何度も何度も脳内で反芻する。
結論は、まだ出ていない。




