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遠い日、いつかあの日

その日、事件――と呼んでいいのか分からないが、確かに何かが起きた。


誕生日パーティーから一週間後。

いつものように庭でリオと追いかけっこをしていた。陽はやわらかく、草は甘い匂い。ボクは笑って、転びそうになって、振り返って――そこで世界がゆがんだ。


遠くで、リオの声がした。

「ルキウス様? 大丈夫ですか、ルキウス様!」


音が綿に包まれ、色が遠のき、頭の芯だけが真赤に熱くなる。次の瞬間、胃の底から何かが逆流し、ボクは草の上に吐いていた。鉄の味。涙が勝手にこぼれる。膝が震え、土が硬い。


リオの悲鳴、駆ける足音。

抱き上げられた腕の感触で、エドガーだと分かった。大きな手、揺れない歩幅。ボクは小さく丸まり、胸の奥で小動物みたいに呼吸を刻んだ。


そこからの一週間を、ボクはあとからリオの涙声で知ることになる。

目を覚ましては吐き、額の熱は下がらず、眠ればうなされ、うなされてはまた吐いたのだと。水の盃は唇に触れたまま冷え、タオルは何度も替えられた。


けれど、ボクには別の一週間があった。

眠るたび、前世の記憶が押し寄せたのだ。


ここではない世界。

砂の匂いと油の匂いが混じった空気。

幼い手に、初めて握らされた短い刃。

「やれ」と言った太い声。

刃が皮膚を割り、温い血が指の付け根に回り込む。小さな喉がひゅっと鳴って、それが止むまでの永遠みたいに長い数秒。

消えろ、と思う心。消えない、と思う心。

失敗すれば、躾。拳の雨。靴の底。石の床。

泣くな。声を出すな。感じるな。

ボクは機械に作りかえられていく。感情を剝がされ、顔を伏せ、命令の形に体を削られる。


夢から浮かび上がるたび、ボクは吐いた。

目の前の天蓋が揺れ、リオの声が震え、エドガーの手が背を支える。

「もう眠りたくない」と思うのに、五歳の体は眠気に勝てない。瞼が落ち、また砂の匂いと鉄の味に呑まれる。

恐怖は寝台の袖にまで滲み、ボクは眠ることを怖がる子どもになった。


何度目かの夜明け、ボクはうわ言みたいに言った。

「……教会、に……行きたい」


あの神様の声を思い出したのだ。

《たまには教会に行って祈りを捧げろよ。分かったな》

軽口みたいに言っていたけれど、今は、その言葉に縋りたかった。


リオが涙を拭い、エドガーが短くうなずいた。

「体はまだ万全ではありませんが……行きましょう。ゆっくりで」


午后、雲が薄く晴れたころ、ボクたちは屋敷を出た。

馬車の中、リオの手は温かい。エドガーは向かいに座り、窓の外を無言で見守る。その沈黙が、奇妙に心地よかった。


教会は城下の小高い丘にあった。白い壁、尖った屋根。

扉の前に立つだけで、胸の中で何かがざわつく。怖い。けれど、引き返したくはない。


「……入るよ」


自分でも驚くくらい、声は小さかった。エドガーが扉を押し開ける。冷えた空気が流れ込む。香油の匂い、蝋燭の明り、ステンドグラスの光が石の床に七色の破片を散らしている。


ボクは一歩、二歩、と進んで、前列のベンチに膝をついた。

掌を組もうとしたが、指が震えて上手く絡まらない。どう祈ればいいのか、ボクは知らない。


でも、来たよ、

ねぇ、ボクの声が聞こえてるなら答えて欲しい

この記憶が本当ならボクはどうしたらいいんですか?

教えて下さい。


事件、と呼ぶにはささやかすぎる出来事。

けれど、あの日の祈りから、ボクの“今世”はようやく始まったのだと思う。

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