空を飛ぶ夢を見た
産まれてから、幸福と呼べるものは一度も手に入らなかった。
檻の中で覚えたのは、殺し方だけ。命じられた手順どおりに、ロボットのように、ためらいなく。その繰り返しが、やがて噂を産んだ。
――死音。
音もなく命を刈り取る。痛みを与えず、気づいた時に絶命している
いつの頃からか伝説と言われ『死音』だけが有名になって言った
世界には、命を奪う術はいくらでもある。
だがオレが信じるのは一本のナイフだけだ。銃は便利だ。けれど現場でジャムでも起これば、次の一秒で死ぬのは自分だ。
ナイフは裏切らない。
重さ、刃の返り、手の内で踊る重心。研ぎさえ怠らなければ、いつだって同じ角度で、同じ深さへと滑り込む。
オレはこの手に馴染む一本だけを愛用してきた。手入れした分だけ応えてくれる、唯一の相棒として。
――二十歳の誕生日。
オレは決めた。飼い主を、全員殺す。
朝、砥石が低く唸った。
水に濡れた刃を指先で受ける。紙一枚ほどの薄い抵抗。充分だ。
柄に麻布を巻き直し、鞘を軽く叩いて収まりを確かめる。
呼吸は浅く、心は静か。訓練で植え付けられた自動運転は、いまやオレ自身の意志で走っている。
空は、馬鹿みたいに青かった。
かつて見上げた時と同じ、雲ひとつない空。
自由とは、あの一羽の鳥のように――境界線を知らないことだ。
昼時を狙った。
幹部連中がまとめて顔を揃える時間。食堂フロアへ通じるサービス廊下は、定刻の搬入で人が薄くなる。
見取り図は頭に焼き付いている。足音の消し方は身体が知っている。
冷たい影から温い影へ、影から影へ。
角を曲がるたび、ひとつずつ灯りを消すみたいに、警戒の視線が落ちていく。
目が合う。目が泳ぐ。喉元に細い線を引く。
声は出ない。床に当たる前に抱え、壁際へ滑らせる。
音は出さない。出せない。オレは“死音”だ。
重たい扉の向こう、笑い声とグラスの触れ合う音。
合図も宣言も要らない。
入る。
最初の一人は背中。二人目は脈。三人目は目。
叫びは短い。椅子が弾け、テーブルが軋む。
それでも、音は小さい。
生き残った奴の目に映るのは、刃の銀だけ。
恐怖は刃より速い。反射で撃つ腕、狙いは狂う。ここで銃は鈍器に変わる。
踏み込む。肘を折る。喉を塞ぐ。
落ちる。沈む。止まる。
終わるのに、時間は要らなかった。
血の匂いは鼻に残る。だが心は空だ。
オレが壊したのは檻だ。
ここにあった支配、命令、番号、訓練、監視。
全部、折れた。
最奥の部屋で、飼い主は震えていた。
あの日の首輪の鍵を、今も首から提げていた。
笑える。
オレは鍵を抜き取り、掌に転がしてから、ポケットにしまった。
そして、最後の一人を静かに眠らせる。
屋上へ出る。
扉を閉める時だけ、少し大きな音がした。
風がシャツを撫で、太陽が瞼を焼く。
遠くで鳥が鳴いた。
青は果てまで続いている。
自由は、誰かがくれるものじゃない。
自分で選び、自分で払う。
その代価が孤独でも、追跡でも、また血の匂いでも――構わない。
オレは手の中のナイフを見た。
刃は、空の色を映していた。
鞘に収める。
二十歳の誕生日、死音は生まれ直した。
音は、残さない。
風だけが、オレの通ったことを知っている。




