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母核が眠る地底深層——
そこはまるで呼吸をしているかのように、壁面の根組織が脈打っていた。
熱気と瘴気が混じり合い、普通の人間なら数分で意識を失う環境。
だが、蓮たちは既に限界を超えていた。
「……主任……だめだ……また……!」
血清を投与された技術員の足取りが、再び乱れ始めた。
腕の血管には、黒い筋が戻りつつあった。
「やはり……繋ぎの血清じゃ、核が近いほど侵食が速い……!」
武装班の新リーダーが舌打ちし、蓮を見た。
「主任……もう一度戻って、血清を……!」
蓮はかぶりを振った。
「戻る? 誰が? この深度で?
戻ったところで、完全版はまだ無い……!」
彼の手にはもう空のケースだけが残っていた。
「……ロッシ……聞こえるか……
もう血清は限界だ……!
どうすれば……!」
無線の向こう、イザベルの声は震えていた。
『……残る方法は……“根そのもの”を焼き切るしかない……!
あなたたちの命を代価にでも……!』
蓮は目を閉じた。
胸ポケットには志賀の腕章が、汗に濡れて重く貼り付いている。
「主任……俺、残ります……。
その間に、核を……!」
技術員が顔を青くして言った。
蓮は首を横に振った。
「誰も置いていかない。
志賀がそうしたように、俺もそうする……!」
周囲の根組織が唸り声のような音を立てて、無数の触手を蠢かせた。
蓮は静かにライフルを握り直し、仲間たちに振り返る。
「……核を焼く。
俺が突っ込む間、お前らは残りの爆薬を仕掛けろ。
時限でいい……。
いいか、誰一人ここに埋めない……!」
「主任、無茶です……!」
「無茶はここで終わりだ。
無茶を終わらせに来たんだ……!」
その瞳には、死ではなく“生”を繋ぐ意志だけが宿っていた。
地底の根の心臓へ——
蓮たちは最後の賭けに出た。
母核のある最奥の空洞は、呼吸する臓腑のように壁が蠢き、ぬめる音を立てていた。
根の中心に浮かぶ巨大な核組織——脈動するそれは、まるで意思を持つ怪物だった。
蓮は、隊員たちに爆薬ケースを配り終えると、ライフルを背負い直して空洞の奥へと一歩踏み出した。
「主任……! やっぱり一緒に——」
新リーダーが言いかけたが、蓮は振り向かずに手を上げて制した。
「指示通りにやれ。
これは“俺の仕事”だ。
お前らは志賀の意思を生きて繋げ……!」
巨大核の根組織が蓮の気配を察知し、無数の触手が一斉に伸びてきた。
「主任……絶対、戻ってください……!」
後方で誰かが叫んだが、蓮は応えず、手榴弾のピンを抜いて放り投げた。
轟音が根組織を裂く。
その隙間に、蓮の影が一閃のように飛び込んだ。
——同時刻。
通路沿いでは、爆薬設置班が血清切れの恐怖と戦いながら、手際よく高火薬を岩盤と根に括り付けていく。
「設置完了! タイマー起動!」
「次のポイント急げ! 主任が時間を稼いでる!」
誰もが心の奥で、蓮の生還など絶望的だと悟っていた。
それでも誰一人、声に出す者はいなかった。
「主任……どうか……どうか……」
祈りだけが坑道にこだました。
その頃——
巨核の奥深くへ踏み込んだ蓮の耳には、遠ざかる仲間たちの足音が微かに残っていた。
脳裏に志賀の笑顔が一瞬浮かんだ。
「……終わらせてやる……ここで……!」
握った手榴弾のピンを、蓮は無造作に引き抜いた。
根の洞窟の最奥。
巨大な母核が、鼓動のようにぶくぶくと泡立ち、壁一面に拡がった触手が蓮の行く手を阻んでいた。
腰のポーチには、残りわずかの爆薬と、志賀が使っていた小型の起爆信管。
(志賀……見てろよ……)
蓮は唇を噛み、すでに感覚の無い左腕に起爆信管を縛りつけた。
周囲の触手が一斉に蠢き、怒りのような低音を放つ。
「お前が……どれだけ知性を持っていようが……
ここで全部……終わらせる……!」
体の奥で血清の効力が切れ始めていた。
筋肉が痙攣し、視界が滲む。
だが足は止まらない。
蓮は肩に掛けたライフルを撃ち、弾切れになった銃を捨てると、
自分の体をそのまま母核の膨れ上がった中枢へ叩き込んだ。
ぐちゅりと音を立てて、根の肉壁が裂ける。
蓮は荒い息を吐き、触手に絡まれた体を無理やり引きちぎると、
信管のスイッチに親指をかけた。
(……ジュン……ロッシ……頼んだぞ……)
視界の端で、腐敗した根組織の奥に、かすかに光が差す幻を見た。
「——死んでも繋ぐんだよ……これが、志賀の……俺の……!」
親指がゆっくりと、しかし迷いなくスイッチを押し込む。
巨大な鼓動が一瞬だけ止まったかのように、根の洞窟が静寂に包まれた。
そして——
轟音。
地底深層を貫くような爆発が、坑道を駆け抜けた。
逃走中の設置班の背後に、崩落の地鳴りが追いかける。
「主任……!!」
誰かが泣き叫び、誰かが歯を食いしばり、それでも誰も足を止めなかった。
蓮の命が切り拓いた、帰還への一本道を——
彼らは生き延びるために、地上を目指して走り続けた。
イザベルのモニターに最後の信号が消える
研究施設・制御室。
厳重な隔離ガラスの向こうで、複数のモニターが地底深層からの通信データを映していた。
作戦開始から数時間。
爆薬班の生体信号は、地上に向かって確実に移動している——
ただ一つを除いて。
蓮のIDタグが示す座標は、坑道最奥で完全に固定されていた。
イザベルはヘッドセット越しに、何度も何度も蓮を呼んだ。
『——蓮、応答して!
まだ信号は生きてる! 戻ってきて……!』
しかし返答はなく、モニターに映る生体波形は、ゆっくりと……
消えた。
一瞬、室内のすべての機械音が止まったように感じた。
「……主任……」
隣でログを確認していたジュンが、声を殺して肩を震わせた。
イザベルは、震える指で蓮の信号ウィンドウをそっと閉じた。
「……ありがとう、蓮……
……必ず……あなたの血清を……完成させる……」
モニターの奥には、地上へ向かう仲間たちの残りのタグが、確かに動いていた。
蓮が刻んだ命の道を——
彼らは生きて帰るだろう。
その事実だけが、イザベルの瞳から零れ落ちた涙を、かすかに救っていた。
灰色の曇天が、崩落した坑道の非常口の上空に広がっていた。
崩れた岩塊の隙間をこじ開け、血まみれの作業服の影が一人、また一人と地表へと這い上がってくる。
誰もが血清の効果が切れる寸前で、呼吸は荒く、立つのもやっとだった。
それでも、彼らは生きていた。
非常口に集まった救助班と医療班の中で、
一番先頭に立っていたのはイザベルとジュンだった。
「主任……!
……主任は……!」
先頭の新リーダーが、顔を伏せて首を横に振った。
イザベルは理解した。
もう蓮のIDタグは、どこにも映らない。
それでも——
彼女は、血と泥で真っ黒になった生還者を一人ずつ抱きしめた。
「……よく戻ってくれた……
あなたたちが帰ってきてくれて……
それが……彼の願いだった……」
ジュンは堪えきれずに膝をつき、泣き崩れた。
その背を、帰還した技術員が震える手でそっと支えた。
坑道の入口の奥には、もはや暗闇はなかった。
代わりに、荒れ果てた岩肌に、かすかな陽光が滲んでいた。
蓮の命が切り拓いた光だった。
災害封鎖区域となった旧掘削施設の奥——
臨時に設けられた隔離ラボの光が、深夜の静寂に小さく灯っていた。
イザベルは白衣の袖を汚しながら、モニターに映る母核細胞の分解データを凝視していた。
蓮が命を懸けて採取した“核組織”。
それは血清の鍵となる成分を、確かに含んでいた。
「……志賀主任……蓮……」
机の隅には、志賀の隊章と蓮のタグが並べて置かれている。
イザベルは、未だに耳に残る蓮の最後の声を思い出すたびに、胸が軋んだ。
それでも手は止めなかった。
何百回目かの培養失敗のアラームが鳴ると、隣でジュンが寝ぼけた声を漏らした。
「ロッシ博士……少し休んで……」
イザベルは首を振り、微かに笑った。
「……まだ終わらないわ……
だって、彼は……ここまで繋いでくれたの。
私が止まるわけにはいかない……」
モニターのグラフが、かすかに安定した波を描く。
「あと少し……必ず、世界を繋ぐ血清を作る……
それが、私の……蓮への答え……」
眠り込んだジュンの背中に毛布をかけ、
イザベルは再び無菌手袋をはめ直した。
蓮のタグに、そっと触れて小さく囁く。
「——見てて。
必ず……完成させるから。」
後日譚――感染のない街並み
十年後。
再建された第七居住区の中心に、かつての地底掘削施設跡を記した小さな記念碑がある。
風に揺れる木々の下で、子どもたちが笑いながら走り回り、
高層のクリーンガラスのビル群が太陽の光を反射している。
空気は澄んでいた。
もう、瘴気も、根組織も、感染の兆しも存在しない。
世界は、守られた。
イザベル・ロッシの開発した完全型血清「R-K7」は、
感染源である母核型菌株を完全に死滅させる処理ワクチンとして、世界標準となった。
——その開発の礎に、蓮・志賀・木崎、名もなき者たちの犠牲があったことを、
街の誰もが知っているわけではない。
けれど、記念碑の前にはいつも誰かが立ち止まり、花を手向けていく。
ある日の午後。
小さな少年が母親の手を引き、記念碑に刻まれた名前を指差した。
「おかあさん、この“れん”ってひと、なにしたひと?」
母親は少し考えて、柔らかく微笑んだ。
「大切なものを、ずっと守ってくれた人よ。
あなたが今日を生きてるのは、きっとその人のおかげ。」
少年はその言葉の意味がよく分からないまま、
黙って花を一輪、碑の前に置いた。
少年が去ったあと、風に吹かれて花が静かに揺れた。
そのすぐ傍らに、小さな銘板が埋め込まれている。
"ここに眠る者たちの名を忘れずに——
彼らの犠牲が、あなたの今日を守っている"
陽は高く昇り、
感染のない世界に、穏やかな午後が流れていた。