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誰かの感染兆候と血清投与の試練
地下深層へ続く坑道は、空気の色が地上とは違っていた。
腐敗した根組織が壁面を覆い、地熱でわずかに湯気が立つ。
チームは狭い裂け目を抜け、断層沿いの湿った空洞へ足を踏み入れたところだった。
「主任、反応あり! 熱源複数……!」
ドローン班の一人が小型タブレットを掲げ、赤い反応点を示す。
蓮が制止する間もなく、先頭を歩いていた若い武装隊員が壁の菌糸に足を取られ、
そのまま転倒した。
「おい! 伏せろ!」
変異体の触手のような菌糸が彼の脚に絡みつき、神経に沿って這い上がっていく。
「っ……い、痛い……熱い、熱いッ……!」
ジリジリと肉に染み込む侵食音。
隊員は震えながら、腕の内側の血管が黒く変色していくのを見た。
「主任! ダメです、速い……進行が速い……!」
他の隊員が顔を背ける。
誰もが心の奥で思った。
——撃って楽にしてやるしかない、と。
蓮が血清のケースを取り出した。
「下がれ! 誰も手を出すな!」
菌糸をナイフで断ち切り、感染した血管の直上に血清用の太い注射器を押し当てる。
「主任、ダメだ、こんな……もう手遅れだ……!」
誰かが呻いた。
「黙れ! 志賀の血清だ! 繋ぐって決めたんだ……!」
蓮の声が、坑道の腐臭の中に響く。
注射針が血管に食い込み、血清が流れ込むと、黒く変色した血管がわずかに色を取り戻し始めた。
感染者の息が荒く、目が涙で濡れている。
「……主任……生き……生きて……」
「喋るな。生きろ。」
蓮は息を吐き、顔を上げた。
「見ただろ。志賀の血清は効く……!
まだ戦える。行くぞ……!」
チームの目に、恐怖の奥に火が灯った。
地底の心臓に、再び一歩、踏み込む覚悟を携えて。
「主任……熱が……」
進行ルートの途中、小さな空洞で一時の休憩を取った一行。
感染した隊員——木崎の呼吸は、さっきより浅く速くなっていた。
「血清が……切れかけてる……のか……?」
木崎の首筋には、さっきまで退いていた黒い筋が、またゆっくりと浮かび上がってきていた。
その様子を見ていた隊員たちの顔色が、暗がりの中で一斉に沈んだ。
蓮はイザベルに通信を繋ぐ。
「ロッシ……木崎の感染が再燃してる。
血清は……一回じゃ抑えきれないのか……!」
無線越しのイザベルの声は、ノイズ混じりに低く震えていた。
『……分かってたわけじゃないの。
でも予想してた……あれは“完全抑制”じゃない。
一度だけ進行を止めて、免疫が勝つ時間を稼ぐだけ。
宿主の体力次第で、再燃する……!』
蓮が木崎の肩に手を置く。
「おい、聞こえるか……次を打つ……持つか……!」
木崎は笑った。
「へへ……すみません主任……
もう一回……あの注射を……。」
蓮は腰のケースを開き、残りの血清カートリッジを確認した。
——残り、三本。
この坑道には、あと数百メートル先に母核が待っている。
「ロッシ……残り三本だ。
ここから、何人感染するか分からない……。」
無線の向こうでイザベルが唇を噛む音がした。
『……補充は無理。
あなたたちが本核を採取して戻るまで、何もできない……!
ごめんなさい……蓮……』
蓮は短く息を吐き、血清を木崎の腕に再び打ち込んだ。
「泣き言は後だ。
必ず戻る……志賀もロッシも……全員の想いを、ここで潰させるな。」
木崎の荒い呼吸が徐々に落ち着いていく。
暗い坑道に、一瞬だけ希望が灯った——
だがその背後で、また別の隊員が、己の首筋を押さえていた。
一時避難に入った空洞の奥で、蓮は最後の血清カートリッジを手にしていた。
木崎はすでに二度目を投与されたが、まだ体を震わせていた。
そして、もう一人——若いドローン班の技術員が、首筋を覆い、肩で息をしている。
まるで悪夢の連鎖だった。
「主任……俺も……多分……ダメっす……
喉の奥が焼ける……見てください……」
技術員は、首筋に黒い血管を晒した。
他の隊員たちが声を失う。
蓮の手元には、残り一本の血清。
「くそっ……」
蓮は無線のチャンネルを開き、イザベルに声を投げた。
「ロッシ……血清を届ける方法は無いのか!
上空から投下でも何でもいい!」
『無理よ!
この深度じゃ、GPS信号もドローンもロストする!
あなたが“核”を取って戻らなきゃ……私たちが血清を作れない!』
返答の苛立ちの奥に、イザベルの嗚咽が混じった。
木崎が呻きながら、蓮の腕を掴む。
「主任……いいです……俺は……ここで……
その血清は……こいつに……」
技術員が泣きそうな顔で木崎を見た。
「でも、先輩……!」
木崎は微かに笑った。
「志賀さんも……主任も……
俺らが繋がなきゃ意味ねえだろ……
……生きて、終わらせてください……!」
坑道に、誰かの嗚咽が響いた。
蓮は震える指で、最後の血清を取り出し、技術員の腕に刺した。
「……必ず終わらせる。
志賀も……お前も……無駄にはしない。」
木崎は苦笑しながら、背負っていたライフルを外して蓮に押しつけた。
「こいつは主任に貸します……
最後の門番は……俺にやらせてください……。」
蓮は何も言わず、ただ木崎の肩を強く叩いた。
数分後、血清を受けた技術員を支え、蓮は生き残った隊員と共に母核が待つ坑道の奥へ歩を進めた。
背後で、木崎のライフルの安全装置が外される音が、小さく響いた。
坑道奥へ向かう蓮たちの背中を、木崎は静かに見送った。
ライトの光が遠ざかり、闇と熱と腐臭だけが残る。
「……へへ、主任……
ちゃんと……生きて帰ってくださいよ……」
感染は肩から首へ、そして脳へとじわじわと浸食していた。
木崎は苦痛で歯を食いしばりながらも、ライフルのボルトを引き、
坑道の狭い出入口を睨んだ。
ぐずぐずと音を立てて、天井から崩れ落ちた根組織が蠢き、
その奥に、変異体の群れの影が見えた。
「……来やがれ……クソが……
一匹たりとも……行かせねえ……」
脳が熱く、意識が霞んでいく。
それでも引き金を握る指だけは、決して離さなかった。
変異体の先頭が根組織の間から這い出した瞬間——
木崎の銃口が閃光を吐いた。
一発、二発、三発——
群れの中核を撃ち抜き、叫び声と共に黒い血飛沫が散る。
「っは……はっ……まだ……だ……」
意識が落ちそうになるたびに、頬を自分で殴り、血を吐き、
それでも撃った。
不意に、自分の左腕が意思と無関係に痙攣を始めた。
(……もうすぐ……限界か……)
視界の端で、変異体の巨体が突進してくるのが見えた。
木崎は最後の力でマガジンを叩き込み、
自分の身体ごと巨体の口に銃口を突き刺した。
「——志賀隊長……俺も……行きます……!」
轟音が坑道の奥を震わせた。
蓮たちが遠ざかる坑道の奥に、その銃声は確かに届いていた。
誰も言葉にできなかった。
ただ、その命が作った時間を、絶対に無駄にはしないと——
チーム全員が心に誓った。