9 力関係は最初が肝心
翌朝、五時半に起きて静かに階下へ。
一階には桂木さんの書斎と寝室がある。そこに入ったことはないが、今後は家政婦として入ることになる。
桂木さんを起こさないように静かに仕事を開始。
カーテンを開け、お米を洗って水に浸けた。その間にフローリングにモップをかける。テーブルや椅子も拭いて、朝の掃除は完了。
お味噌汁の具は何にしようかと冷蔵庫を開けてギョッとした。
業務用みたいに大きな冷蔵庫は、本当に業務用かもしれない。一人暮らしなのに! 食材が少しずつ品数は多く、ゆとりをもって入れられている。冷蔵庫のCMみたいな景色。
焼け出された日に振る舞われた食事が『冷蔵庫の掃除を兼ねている』と言っていたのは、私に気を遣わせないための方便だったわけだ。くぅ、大人ね。
ほうれん草と油揚げを取り出し、有名店の出汁パックで出汁を取り始める。
今朝はだし巻き卵と納豆、鮭の西京漬け焼きとブロッコリーの海苔ゴマ和えにした。
朝食の支度がほぼできたところで桂木さんが起きてきた。
桂木さんはパジャマ派らしい。暗い銀色のパジャマはテロンとしていて肌触りが良さそうだ。髪が少々乱れている。今まで隙がなさそうに見えていた桂木さんが油断している姿が微笑ましい。
「おはよう。鮎川さんは早いね」
「おはようございます。桂木さんはいつも何時ごろ起きるんでしょうか。それに合わせます」
「起きる時間はまちまち。でも朝食はたいてい六時半か七時かな。年寄りだから早く目が覚めるんだ」
「では明日以降は六時半に朝食にしますね」
「助かるよ」
「飲み物はなにがいいですか?」
「熱い緑茶で」
ラックの籠の中には緑茶だけでも三種類あった。裏の説明書きを読んで、熱く淹れるのに合っている茶葉を選び、熱湯を注ぐ。電気ポットは五度刻みで設定できるらしい。便利。
「熱い緑茶です。どうぞ」
「ありがとう。ああ、お茶が美味しい。誰かに淹れてもらうお茶はどうしてこうも美味しいんだろう」
「私もそう思います。自分以外の人が作ってくれるものなら、塩むすびでも美味しいです」
「仲間だね。そうだ、忘れないうちに、はい、これ。契約書」
差し出された契約書は完璧だった。私は一日三時間の家事労働で豪邸に間借りできる。これは申し訳ないぐらいありがたい。
炊飯器が蒸らしが終わったことをメロディで告げる。お味噌汁とごはんを器によそい、おかずを並べた。
「あなたも一緒に食べようよ。その方が美味しい」
「それではけじめがつきません。左手だけで食べるのが難しければ、私が食べさせて差し上げます」
「いや。スプーンを使うし、全部食べやすく切ってあるじゃない。わかった。じゃあ契約書を書き直して、食事は同時にって項目を加えるよ」
「ええっ? いえ、左手でそこまでさせるのはちょっと。では、一緒にいただきます」
「うん、そうしなさい。音声入力だから左腕もほとんど使わないけど、そのほうが助かる。ああ、美味しそうだ。ご馳走だな。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
私がそう言うと、桂木さんはちょっと驚いた顔になった。古臭い言い方だったろうか。家政婦が言うのは不適当な言葉だった? 読んだ本にそう書いてあったので私もそう言う習慣になっていたのだが。
「美味しいよ。鮭の西京漬けは焦げやすいのに上手に焼いてあるね」
「実は私も西京味噌漬けが大好きなので、焦がさずこんがり焼くのは得意なんです」
「西京漬けは、鮭の他には何が好き?」
「やっぱり最強は銀ダラでしょうか。銀ダラの西京漬けは最強のおかずです、って、駄洒落じゃありませんからね」
桂木さんが笑いをたたえた目つきで私を見たので、急いで否定した。駄洒落は嫌いなのに。失敗した。
「あれ? 海苔の佃煮なんてあったっけ」
「それは焼き海苔をちぎって煮ました。こちらのは湿気ってはいませんけど、湿気ってる海苔で和え物作るのが好きなもので」
「あなたはちゃんとした家で育っているんだね」
黙ってにっこりして鮭を口に入れる。
私は「親の顔が見てみたい」と言われるのがこの世で一番嫌いだ。だから『できる女の家事手帳』『上品な人に見える仕草と言葉』『いい育ち方をした女性の共通点』みたいなタイトルの本を読み漁った時期がある。
一年ぐらい夢中になってその手の知識を仕入れていたが、ある日突然(ここまでするのは結局親に支配されているのと同じでは?)と思ってやめた。
「桂木さん、片手で困ったことがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとう。そのときはお願いするよ」
そこで会話が尽きた。(深山さんがいたら間が持つのに)と思いながらお味噌汁を飲んだ。そういえば大杉港はよくしゃべる人だった。私の口数が少なくてもシンとすることはなかったな、と久しぶりに元彼を思い出した。
チャイムが鳴った。ドアホンの画面には爽やかな笑顔の深山さんが映っている。急いで開錠ボタンを押して「どうぞ」と声をかけた。深山奏、助かったぞ。
「おはようございます。あっ、朝からいい匂いがしていると思ったら」
「一緒にいかがですか?」
「これから僕の分を作らせるのは申し訳ないんで、大丈夫です」
「実は深山さんがいらっしゃったときのために三人分作ったんですけど」
「えっ?」
深山さんと桂木さんが同時に驚いた声を出した。
昨日の様子では、深山さんは必ず今日も来ると思っていた。朝食時に来なければ私が昼に食べればいいやと思って三人分用意しておいた。そんなに驚くことだったろうか。
深山さんが食べ始めるのを見ていた桂木さんが感心している。
「なるほどねえ。できる人はこういう事態もちゃんと予測するものなんだね」
「できる人って。大げさですよ。昨日の深山さんの心配ぶりを見ていたら、朝一番にいらっしゃることぐらい誰にだって予想がつきます。上司思いのいい部下ですよね、深山さん?」
「そうです。こんないい部下は滅多にいませんよ? 桂木さん」
桂木さんは苦笑しているだけ。
深山さんのおかげで気楽に朝ごはんを終えることができた。仕事をしようとして階段を上っているときに、居間から少々大きな声が聞こえてきた。
「でも桂木さん、家政婦は要らないって言ってましたよね?」
「言ったね。でもさ、深山君。鮎川さんは人の世話になるのが嫌いな人なんだよ。僕は僕のために彼女の助けになりたいのに断られてしまう。家政婦としてなら僕の手助けを受け入れてくれるっていうから」
「でも桂木さん!」
そこからは声が聞こえなくなった。二人とも声を抑えたのだろう。
そうよねえ。こんな大金持ちで独身でイケオジの家に、焼け出された貧乏そうな女が住み込むなんて事態、有能な部下としては避けたいよね。
「早くここを出られるように頑張ろう」
締め切りが迫っている原稿をさっさと送信し、着替えた。モヤモヤするときは運動するに限る。Tシャツの上からジャージの上下に着替えて静かに玄関に向かう。ジョギングシューズを履き終えてからリビングに向かって声をかけた。
「桂木さん! ちょっと走って来ます!」
「はーい、気をつけて!」
桂木さんの声に送られて、私は海沿いの道を走り出した。
ここは観光地からは距離がある。釣り客用の民宿や小規模なホテルはあるけれど、道で出会うのはほぼ地元の人と地元の車。
最初は歩き、徐々にスピードを上げて左手の海を見ながら走る。
すぐに身体が温まって、もっとスピードを上げたくなる。だけどしっかり朝ごはんを食べた後だ。六割程度の速さに抑えて走った。三十分ほど走っていたら、由緒のありそうな神社を見つけた。
「お邪魔します」
石段を登り、参拝し、道路より少し高い境内から海を眺める。潮風が気持ちいい。心のモヤモヤはだいぶ晴れた。そろそろ帰って洗濯をして、原稿を書かなくちゃ。石段を下りて、また走り出した。
あと二キロほどで桂木邸、というところで対向車線の車が停車し、クラクションが鳴らされた。
「鮎川さん!」
深山さんだ。汗だくなのに。人に会いたくなかったけど仕方ない。せめて車に乗れと言われないことを願いながら、私は彼の車に近寄った。深山さんの車はアリア。なかなかお高い車じゃなかったか。稼いでいるんだね、深山さん。
「乗ってください」
「私、ジョギングの最中なので、ご覧の通り汗だくです。立ち話でもいいですか?」
「乗ってください。僕は気にしませんから」
「いえ、でも」
「……乗ってくれるかな? 落ち着いて話がしたいんだ」
深山さんの口調が微妙に変わり、圧が生まれた。たいていの女性なら(怒らせたり喧嘩になったりするよりは)と思って言いなりになる感じの口調だ。カチンときた。私にはこの人にこんな言い方をされて従う理由はない。
今引いたら、今後の私と深山奏の関係はずっとこれが基本になる。人間関係を後から修正するのは大変な労力がかかるか、修正不可能なことは経験済みだ。
今、はっきりさせておこうか、深山奏。
私は目が三日月の形になるように、そして口もきれいな弧を描くように意識して笑顔を作った。
「深山さん、私は桂木さんと契約書を交わした上で家政婦として雇われましたが、あの家に滞在することも家政婦の件も、桂木さんから言ってくださったことです。私から桂木さんに縋ったわけじゃありません。火事の後に泊めていただいたことも、何度も辞退した上でのことです。誤解なさらないでね」
深山奏が知っている私は、感じが良くて控え目で『大人しそうな女』だったはずだ。
その私が作り笑顔と慇懃無礼な口調で話し始めたことに、彼は驚いた様子。ダメ押しをするなら今だ。
「勘違いなさってるご様子なので、はっきりさせておきますね。私は桂木さんと契約した家政婦ですが、あなたの部下ではありません。なので部外者のあなたに私が命令されるいわれはないの。汗をかいている身体で他人様の車に乗るのは『私が』嫌なんです。私と話をしたいと言うのなら、『あなたが』車から降りてください」
にっこり。ただし目の奥は笑わない。
勘違いするなよ、深山奏。君がどんなに優秀でどれほど桂木さんを尊敬しているとしても、あなたが私に威張っていい理由は、どこにもないからね。