8 間借り暮らしの始まり
桂木さんは、地元の総合病院に運ばれた。
「鮎川さん、私なら大丈夫です。あなたは自分の仕事をしてください」
救急車に乗せられながら、気丈にもそう言う桂木さん。顔は蒼白だ。額からは脂汗が流れている。どれだけ痛いんだろうと、こちらまでおなかが痛くなる。
これが私だったら。私はどうしてほしいだろう。
骨折の痛みを抱えて病院に一人。心細い。絶対に心細い。私と桂木さんの気持ちが同じかどうかはわからないけど、男の人の方が痛みに弱いような気がする。
「余計なお節介でもいい。付き添おう。こんなに親切にしてもらってるんだもの。ここで知らん顔はしちゃだめよ」
戸締りをしてからタクシーで病院へ。そこで私は個人情報の正しき守り手に行く手を阻まれた。
「さきほど救急車で運ばれた桂木総二郎さんはどうなりましたか」
「ご家族の方ですか」
「いいえ。桂木さんの隣の家の者です」
「そうですか。申し訳ありませんが個人情報保護のため、何もお教えできません」
そりゃそうか。私がストーカーの可能性だってあるわけだし。
桂木さんが今どの処置室にいてどんな処置を受けているのか、終わるのがいつなのかも教えてもらえなかった。
外のベンチに座り、膝に載せたノートパソコンで原稿を書きながら待つ。入院てことはあるだろうか。そのうち桂木さんからショートメールが来た。こんな状況で律儀にも「すっかりお世話になって」などとお礼が書いてあった。このメール、左手で打ったのか。
桂木さんが病院の出入り口から出てきたのは、病院に運ばれてから五時間後だった。
「鮎川さん! どうしたの! ずっとここにいたの?」
「ここ、居心地がいいんで」
「なに言ってるの。せめて中に入って待っていればよかったのに」
「パソコンを使うと機械を使っている方の迷惑になりそうで」
「迷惑をかけたね。申し訳ない」
「私は何も。骨折だけなんですよね? もう帰っていいんですね?」
「うん。帰っていいって。右上腕骨がポッキリ。受け身もできなかった。鈍くさいことだよ」
「剪定バサミで怪我をしなかったのは不幸中の幸いでした」
「そう言われたらそうだね。さあ、帰ろうか。疲れたでしょ」
「救急車で運ばれた桂木さんほどは疲れてません」
「ふふふ」
二人で乗り込んだタクシーの車内に、病院独特の匂いが漂う。
「桂木さん、深山さんに連絡しましたか?」
「うん、した。病院を出る前に連絡したから、そのうち家に来るんじゃないかな」
その言葉通り、桂木邸に戻って一時間ほどしたら深山さんが駆け込んできた。
「桂木さん、僕言いましたよね? 剪定は植木屋さんに頼んでくださいって。こうなる気がしてたんですよ!」
「面目ない。それほど高くない枝だからできると思ったんだよ。今後はプロに頼む」
「そうしてください。僕の方で介護の人を頼みますね。明日からはゆっくり養生してください」
「それはやめてくれ。僕が家政婦さんを入れない主義なのは知ってるだろう?」
「知ってますけど、今回はそうはいきませんよ。僕がお世話に通いたいですけど、仕事が立て込んでいるんです。家政婦、手配しますよ? そんな状態で動き回って、転ばれたら困ります」
「いや、ほんとにやめてくれ。これは命令だ」
「でも桂木さん!」
私はお茶を淹れながら二人のやり取りを黙って聞いていた。家政婦を入れない主義? この家、じゃあ誰が掃除してたの? 桂木さん? 深山さん?
私は無表情を意識していたが、桂木さんが私に説明をしてくれる。
「私は家に人を入れるのが苦手でね。家政婦は頼まないことにしているんだ。自分で掃除するのが好きなんだが、それ以上に深山君がきれい好きだから、ここに来るたびに掃除をしてくれているんだよ」
「そうでしたか。家中どこを見ても掃除が完璧なので、私はてっきり有能な家政婦さんが通っているんだと思っていました」
深山さんが嬉しそうな顔になった。
「わかってもらえました? 僕、掃除が好きというより完璧にきれいな状態の家が好きなんです」
「わかります! 階段の隅にホコリが全くないし、蛇口周りが全部ピカピカですね。すごいです」
「おっ、嬉しいです。鮎川さんは掃除好きなんですね?」
「そうですね。いっときは掃除の仕事で食いつないでました」
「え?」
桂木さんが驚き、私も(あっ)と言いそうになった。今そんなことを言ったら雇ってくれと言わんばかりだ。
私は『しまった』という顏にならないよう全力で平静な顔を保ったが、桂木さんがなんとも微妙な顔になって質問してきた。
「家政婦の経験者なの? それともビルかなにかの清掃業?」
「ええと、家政婦です。いつでも人手が不足している業界ですので、仕事を得やすいんです。お金がないときは助かりました」
「そうでしたか」
そこからは桂木さんが黙り込み、深山さんが今後の仕事のことをあれこれ話をしていた。桂木さんが出向く必要のある仕事は先延ばしするとか、自分が代わりに出るとか。聞いているのも気が引けるので、私は二階に戻って原稿を書くことにした。
今書いているのはボランティアの世界に身を投じている女性のインタビュー記事。
私の両親のように詐欺が楽しくて仕方ない、好きでたまらないという人もいれば、他人の役に立つために尽力する人もいる。
「人生、いろいろ」と思わず歌謡曲のタイトルのようなことを独り言ちてしまう。
深山さんの車が出て行く音がして、(使った湯飲みを洗うかな)と一階へ下りて行ったら食洗器が動いていた。
「そうでした。この家にビルトインの食洗器がないわけないですよね。では私は部屋に戻ります」
「鮎川さん、ちょっといいかな」
「はい。なんでしょう?」
桂木さんが手で『どうぞ』と指し示すソファーに座る。
この家のリビングも客室も、ソファーはグレーのシンプルな布張りのソファーなのだが、座ればわかる高品質。イタリア製なのだろうなと思うが知識がなくてメーカーまではわからない。
「ちゃんと報酬は払うから、家事を手伝ってもらえないかな」
「報酬は不要です。家賃代わりに働きます。働かせてください」
「ほんとに家政婦を引き受けてくれるの? 家政婦をやってたことを隠してたぐらいだから、この家でそういうことはやりたくないのかと思ったんだが」
「お返しができそうもないので、お部屋の件はお断りしていたんです。自分がこんなにお世話になっているのに、利き手が使えない桂木さんを一人で置いて出るのは気が引けます。家事でお返しができるのでしたら、お世話にならせてください。私もこの先の生活をどうしたらいいか、時間をかけて考えられる機会をいただけるのですから助かります」
桂木さんはいい笑顔でひとつうなずいた。
「よし! 決まりだ。じゃあ鮎川さんに家事を頼みます。一日一時間でよろしくお願いします」
「いえ、では一日三時間は働きます。それでだいたいの家事は終わると思うので。こちらこそよろしくお願いします。それと、これはお願いですが、使用人らしい部屋に移動させてください。家政婦が客間に住むのではけじめがつきません。お願いついでに契約書もお願いします。キーボードを打つのが大変なら口述してくれれば私が打ちます」
「契約書? ああ、鮎川さんはそういう形式にこだわりたい人なんだね」
そう言って桂木さんはしばらく天井を眺めた。私は黙っている。
「わかったよ。じゃあ、契約書は明日には作っておきます。部屋は、客間の右隣の部屋に移ってくれますか。そこ以外は貸せる部屋がないんだ。この家、ゆったり暮らしたくて部屋数は少なくしたものだから」
「わかりました。では右隣のお部屋をお借りします」
そう言ってぺこりと頭を下げ、二階へ。どんな部屋かとドアを開けて絶句した。今使っている部屋と全く同じ広さと家具が置いてあり、室内の配置が左右逆になっているだけだった。
「なんで!」
思わず声に出してしまった。とたんに階下から桂木さんの楽し気な笑い声が聞こえてくる。
からかったのか。もう。
思わず私も笑ってしまった。そして階下に向けて声を張り上げた。
「桂木さぁん! 部屋の引っ越しはやめときます!」
「うん、それがいいよ! じゃ、おやすみ! 僕はもう寝るからできれば静かにしてね!」
「わかりました!」
大声でやり取りしたあと、桂木さんのお茶目っぷりに笑ってしまう。
こうして私は海辺の町で間借り暮らしを始めた。