7 救急車
※ 鮎川紗枝視点に戻りました ※
客間の寝心地のいいベッドで目が覚めた。壁のシンプルな時計を見ると、もう七時だ。
今日もやるべきことが山盛りだ。起きて、客室にある洗面所で顔を洗う。洗面所が桂木さんと別なのは、宿泊客には嬉しい配慮だ。
「このドアはなんだろう」と顔を洗ってから洗面所の奥のドアを開けたら、なんとシャワールーム。シャワールームの右手にはタンクレスのトイレ、左手にはボタンを押すだけで洗剤投入から乾燥までこなしてくれるらしい全自動洗濯機まで置かれている。
「本物のお金持ちとはこういうものか」
この家は泊り客がそんなに頻繁にあるのだろうか。
それとも富裕層にとって、この程度の備えは当然なんだろうか。全くわからない。
自分の実家が豊かだったときでも、この家に比べたらスーパーのうなぎ弁当と高級専門店の特上うな重くらいの違いがある。
洗面所の鏡を見ながら軽く化粧をしなければと思ったところで、道具が全くないことを思い出した。昨日のショッピングモールで買うべきだった。
「私、やっぱり動転してたのね」
仕方なく洗面所にあるホテルのアメニティのような小瓶を手に取る。メイク落とし、洗顔クリーム、化粧水、乳液、美容液が揃っている。
「わ、ゲランだ」
ありがたくあれこれ使わせてもらう。これもいつかちゃんとお返しをしよう。
すっぴんで一階に下りると、リビングの奥にあるダイニングテーブルに朝ごはんが並べられている。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたかな?」
「はい。寝心地のいいベッドでした」
「それはよかった。さあ、食べよう。ちょうど今できたところだよ」
「これは……まるで高級旅館の朝ごはんですね。美味しそうです」
「それほどでもないよ。さあ、食べよう」
「はい。では、いただきます」
小さめの鯵の開きは皮がパリパリで身はふっくら。薄切りしたかまぼこにはイクラが数粒、柚子の皮と一緒にちょこんと載っている。お味噌汁はアオサがたっぷり。大根おろしにはシラス干しと削り節が載っている。それと半熟の目玉焼き。白身の縁がカリカリだ。和紙に包まれた味付け海苔もある。
「あり合わせばかりだけど」
「桂木さんの言う『あり合わせ』は、平民の豪華な食事ですよ」
「平民て。私だってしがない民草ですよ」
「民草って。ふふ、私たち、時代劇の人みたいですね」
「納豆食べる?」
「いただきます。それと、ごはんのお代わりってできますか」
「できるよ。どのくらい?」
「これと同じくらいはお代わりしたいです」
「食欲があるのはいいことだ。お代わりは何杯でもどうぞ」
「ではお代わりする予定でいただきます」
私はごはんとおかずが同時に食べ終わるように配分しながらもりもり食べた。どれも美味しくて満ち足りた幸せを感じる朝ごはんだ。
「美味しい食事って、大切ですね」
「大切だねえ。鮎川さん、私からひとつ提案があるんだが」
「なんでしょう。ここまでお世話になった以上、私にできることでしたら何でもおっしゃってください」
「家を建て直すにしても東京に戻るにしても、今後のことが決まるまでは我が家の滞在客になりませんか」
私は笑顔が一瞬固まってしまい、慌てて笑顔を再開した。驚いたことを悟られただろうか。
桂木さんの言葉を聞いたら、耳の奥に父の言葉が聞こえてきたのだ。
『いいか彩恵子、旨い話には必ず裏がある。掛け値なしの善意なんてものはこの世にはないんだよ。飛びつきたくなる話ほど用心しなきゃいけないよ』
そのとき小学六年生だった私は(詐欺師がなにを言ってんだか)と呆れながら聞いたっけ。自分を棚に上げまくってそんなことを言う父を軽蔑していたはずなのに、父の言葉は私の記憶にしっかり刻まれていた。今、そのことにとても驚いている。
「大変ありがたいお申し出ですが、そこまで親切にしていただいても恩返しができそうにありません。なのでお気持ちだけいただきます」
「鮎川さんを助けることが僕にとっては救いになるんだけど」
「ええと、救いの意味が……」
「そうだよね。朝っぱらから重い話で申し訳ないんだが、聞いてもらえれば僕の事情が少しはわかってもらえると思う」
「では、どうぞ。うかがいます」
そこから桂木さんは、自分の会社の社員が飛び下り自殺を図ったこと、桂木さんは立場上も人道上も強く責任を感じていること、燃える家を見ていた私の表情が自殺を図る前の女性社員に似ていたことを話してくれた。
「もうね、この歳になると、つらい後悔を増やしたくないんだ」
「桂木さん、ご心配いただいてとてもありがたいのですけど、私は自殺する気なんて全くありませんよ?」
「それはわかっている。君は食欲があるもの。だからこれはあなたのためというより、僕のためだと思ってくれないか」
「見返りなしでそこまで親切にしてくださるってことですか?」
「あなたがそれじゃ嫌だと思うなら、いろはかるた作りを協力してくれる? 僕はそれでいい」
そう言いながら桂木さんは緑茶を差し出してくれる。
適温のいい香りの緑茶。こんな美味しい緑茶、最後に飲んだのはいつだろう。
お茶の葉にこだわっていた母の言葉も甦る。
『彩恵子ちゃん、男ってね、七十歳になっても若い女の子に甘えられると、もしやこの子は俺に本気かな? って思える生き物なの。そう思って間違いないの。だから逆恨みされて刺されたりしないように上手に振舞うのよ』
結婚詐欺師として警察に知られていた母が言うのだから、本当なのだろう。私の両親は二人揃って詐欺師だ。母は、『結婚詐欺でお金を巻き上げようとして、初めて見破られたのがお父さんなのよ』と、笑い話として小学生の私に話していたっけ。母はそういう人。
さて、桂木さんは本当に『純粋な親切心』と『自分の抱える後悔を打ち消すため』に、私にここまで親切にしてくれているのだろうか。
詐欺師の両親に育てられた身としては、にわかには信じがたい。でも、ここまでして奪うほど価値があるものなんて、私には何もないものね。
「お世話になっているくせに、考えさせてもらうのは生意気ですよね」
「いいや。何日でも考えたらいいよ。知らない男と暮らすのが苦痛なら、いつでも好きにしていい」
「出て行っていい」と言わずに「好きにしていい」と言うところに桂木さんの人柄が垣間見えるような。
朝ごはんのお礼を言って二階に戻り、猛然と『桂木総二郎』について検索をした。
桂木さんは一年ほど前、自分の会社を同業他社に売り渡している。それより前のネットニュースで調べると、確かに女子社員の飛び下り自殺があった。女子社員は頸椎損傷だ。労災認定も下りていた。女子社員は過重労働によるうつ病を発症していたことから云々。
話は本当らしい。
「どうしようか」
父ならきっと『この家に住み込んで、桂木さんを生かさず殺さずの状態に持ち込め。吸い取れるだけ吸い取れ』と言うだろう。
母なら『桂木さんと結婚して不動産の名義を自分に変えてもらいなさいよ』と言うだろう。
どっちもお断りだ。
私はそんな両親との繋がりを消すためにかなり手間をかけた。会社を立ち上げたのだって、雇われの身だと何かの拍子に私の身元を知られそうだと思ったから社長になっただけ。
窓辺に立って海を見る。穏やかな海に漁船が浮かんでいる。
ふと庭に目をやると桂木さんが脚立を出して庭木の隣に立てていた。手には大きな剪定バサミ。
「危ないなあ。四本足の脚立は不安定なのに」
両親が海外逃亡をする前は、我が家にも定期的に庭師が入っていた。庭師のおじさんは背の高い三本足の脚立を使っていた。三本足が不安定に見えて、質問したことがある。
「おじさん、なんでそれ、三本足なの? 危なくないの?」
「お嬢さん、庭はたいてい平らでもなけりゃアスファルトみたいに硬くもない。そういう場所では三本足の脚立の方が安定するんだよ。四本足の背の高い脚立はね、案外倒れて大怪我する人が多いんだ」
それを聞いて以来、四本足の脚立は危ないものと思い込んでいた。なのに今、桂木さんは四本足の脚立に登っている。私は、桂木さんの様子から目が離せない。桂木さんはカエデの木の新しく伸びた枝を切りたいらしい。
一番上の段に乗り、剪定バサミを使い、大きなハサミを右手に持って下りようとして……
「うわあっ!」
叫んだのは私。階段を一段抜かしに駆け下り、靴を履くのももどかしくて裸足で庭に飛び出した。
桂木さんが一段下りた段階で脚立ごと横に倒れたのだ。
「やだやだやだっ! 生きててよっ!」
桂木さんは地面に倒れたままゴロリと仰向けになった。よかった、生きている。『飛び下り自殺を図った女子社員が頸椎骨折』というネットニュースを読んだ直後だけに、嫌な想像しか浮かばなかった。あの大きなハサミが喉や胸に刺さっているんじゃないかと最悪の予想をしてしまったけれど、血は出ていない。
「大丈夫ですか? お怪我は? 救急車を呼びますか?」
「大丈夫、ではないかな。右腕を動かせない。骨折したかも。救急車は、どうしようかな」
どうしようかな、じゃないわ。間違いなく救急車案件だわ。
私は家に全力で駆け戻り、スマホで一一九を押した。この番号を押すのは人生初だ。ワンコール鳴り終わらないうちに電話が繋がった。
『火事ですか、救急ですか』
「救急車をお願いします!」