番外編
隣の総二郎さんが起き上がる気配で、目が覚めた。総二郎さんはベッドから下りて窓辺に立ち、カーテンを開けて窓の外を見ている。
「どうしました?」
「ああ、起こしてしまったね。赤ん坊の声が聞こえた気がするんです。でも、門はちゃんと閉まってるから、まさかね」
私は慌てて起き上がり、総二郎さんの隣に立った。
あちこちに埋め込んである常夜燈に照らされて、庭は海の底みたいに見える。海の底に変わった様子はなく、泣き声も聞こえない。
総二郎さんが大きな窓を少し開けた。秋の夜風が吹き込んできて、思わずブルっと震えた。
「僕の空耳だったかな。もう寝ましょう。まだ夜中です」
「ええ」
総二郎さんが窓を閉めかけたとき、はっきり聞こえた。母猫を求める子猫の、必死な声。
「猫! あれ、子猫の声です! 私、見て来ます!」
寝室を出て玄関まで走った。庭用のサンダルを履いてから自分を落ち着かせた。
(母猫が引っ越しの途中なのかも。他の子猫を運んでいて、あの鳴き声の子は順番待ちをしているのかも。でも、迷子だったら? 飢えて母親とお乳を求めているとしたら?)
ドアを開け、夜の庭に出た。子猫の声がはっきりと聞こえる。声は、総二郎さんが脚立から落ちた、あの木のあたりからだ。でもいきなり近寄るのはダメだ。様子を見よう。
ドアが開いて総二郎さんも出てきた。
「紗枝さん、なにをしているの?」
「様子を見てます。総二郎さんこそどうしたんです?」
苦笑した総二郎さんが私の肩をそっと抱いてくれた。
「可愛い奥さんが夜中に外に出たら、心配するでしょう?」
「あっ……すみません」
二人でひそひそ声で会話している間も、子猫は必死な声で叫んでいる。
「紗枝さん、行かないの?」
「だって、母猫が迎えに来るところかもしれませんから。外猫は人間がいたら近寄りません」
「そうですか。それで、いつまでこうしているつもり?」
「あと一時間ぐらい待って、母猫が来ないなら保護します。あっスマホがないと時間がわかりませんね」
「スマホなら持って来ましたよ」
「さすができる男」
私は総二郎さんが「なに言ってるんだか」と返してくるものと思ったのに、返事がない。うん? と思いながら隣を見上げたら、恥ずかしそうな顔がそこにあった。
「あれ?」
「紗枝さんができる男なんて言うのは珍しいから」
照れている総二郎さんに、私のほうが驚いた。
「類を見ない美しい顔で、すらりと背が高くて、家事全般をきちんとこなせて、会社を二つも立ち上げて、有能裕福な人でも照れるんですね?」
「やめなさいって」
よく考えたら、私は総二郎さんをこうして褒めることがなかったか。
そんなことを考えている間にも子猫は叫び続けている。ジリジリするけれど、(母猫、早く迎えに来い!)と念じながら待った。
でも、一時間待っても母猫は現れなかった。
「子猫、保護してもいいですか? いいですよね?」
「もちろんいいですよ」
私は静かに植え込みに近寄り、中を覗き込んだ。子猫が私に気づいて怖がって逃げ回る。思っていたより小さくて、思っていた以上に素早い。
「総二郎さん、向こう側に回ってください!」
「はい」
逃げ回る子猫を総二郎さんが上から捕まえて、そのまま胸に抱えて家に入った。真っ黒な子猫はブルブルと震えている。
そこから先、私たちは敏速に動いた。私はバスタオルを敷いた段ボール箱を用意し、水を入れた器を置いた。総二郎さんはコンビニまで車を走らせて子猫用フードと猫砂を買ってきた。猫は水を少し飲んだけれど、子猫用フードは食べない。トイレも使わない。
朝になるのを待って動物病院に行った。医師は子猫の全身を診てから話をしてくれた。
「秋は春の次に子猫がたくさん生まれるんですよ。外猫の子供は車に轢かれたりカラスに食べられてしまうことも少なくなくてね。おい、ちびすけ、命拾いしたな」
医師が話しかけている間も、子猫は診察台の上でブルブル震えている。さぞかし怖い思いをしているのだろうと胸が痛む。
「健康ですね。生後三週間ぐらいかな。女の子です。子猫用のフードのサンプルを差し上げます。なにか心配なことがあったら、早めに連れて来てください。子猫は容体が悪くなると早いから」
獣医さんは親切だった。私と総二郎さんは、初めて猫を飼う人向けの冊子を貰って帰宅した。真っ黒な子猫にアズキと名前を付けて、冊子の通りに世話を始めた。
アズキは昼間はそれほど鳴かないのに、夜中になると鳴く。切ない感じに鳴き続ける。
母猫のお乳が飲みたいのだろうか。それとも一緒に生まれた兄弟が恋しいのだろうか。そのたびに私と総二郎さんが起きて、相手をしている。
寝たのか寝てないのかわからないまま朝になる日々が続いている。これはよくない。だから朝食を食べながら夜の間に考えたことを総二郎さんに伝えた。
「私、しばらくはあの子と一緒に二階で寝起きします」
「どうして? アズキが鳴くから?」
「はい。二人で寝不足になる必要もありませんし。アズキがここに慣れて落ち着くまで、私が二階で面倒をみます」
今日の朝ごはんは丸山ベーカリーのクロワッサンとクルミパン。コーヒーを飲みながらそう答えた。
パンを買ってきたのもコーヒーを淹れてくれたのも総二郎さんだ。アズキは、箱の中で眠っている。私は寝不足で頭がフワフワしていて、そんな私を総二郎さんが困ったような顔で見ている。
「紗枝さん、悪い癖が出てますよ」
「悪い癖って?」
「なんでもかんでも一人で抱え込んで解決しようとする癖です。私が我慢すればいい、そう思っているんでしょ?」
「だって総二郎さんは忙しいですし」
すると総二郎さんは首を横に振る。
「大変といえば大変だけど、二人でオロオロしながら育てるのが楽しいんじゃないですか。子猫はあっという間に大きくなってしまう。こんな小さな猫の世話をするのはそうそうないことだから、僕も楽しみながら世話をしたいんですよ」
「あー……ごめんなさい。気づきませんでした」
アズキの夜鳴きで総二郎さんを疲れさせないことが、私の役目だと思い込んでいた。
「紗枝さんだって働いているし、大変なときこそ助け合わなきゃ。夫婦って、そういうことでしょ?」
「うわぁ……」
「今度はなんですか」
「私に意見をしているときの総二郎さんのお顔、キリッとしていて美しいなあと思って」
「また唐突に」
眠くてぼーっとしていたから、思ったことをそのまま口から出していた。そして私の言葉で恥ずかしそうな顔になった総二郎さんもまた、美しい。
結局、アズキの居場所はリビングから動かさないことになった。夜鳴きが始まったら、今までどおりに二人が交代で相手をすることになった。アズキはすくすくと成長し、保護してから三週間ほどで夜鳴きをしなくなった。
今はソファーに座っている私の膝で、目を閉じたままゴロゴロと喉を鳴らしている。
私とアズキを眺めていた総二郎さんが話しかけてきた。
「紗枝さんは子猫に詳しいけど、実家で飼っていたの?」
「いいえ。施設で暮らしていたとき、子猫が施設の敷地に迷い込んできたことがあったんです。すごく可愛くて人懐こい子猫でした。飼いたいって思いましたけど、施設にはたくさんの子供がいますから。猫アレルギーの子もいて、飼うのはダメと言われたんです」
「ああ、そうでしょうねえ」
「子供心に『いつかここを出て一人暮らしをしたら、猫を飼いたい』って思ったんですけど、ほら、ペット可物件はお家賃が高くて」
「だったらもっと早くうちで子猫を飼えばよかったのに」
そう言われたらそうだが、それは違うのだ。
「こうやって縁のある子がよかったんです。漠然とですけど、私を必要とする子がいいと思っていました」
「そうでしたか」
総二郎さんは私とアズキを交互に見てうなずいている。
「総二郎さん、『元野良猫が本物の野良猫を保護したか』みたいな顔をしていますよ」
「そんなことは……ちょっと思いましたけど」
思わず笑ってしまう。そんな私を見て満足そうに微笑む総二郎さん。私の膝の上で『ん? なに?』と不思議そうな顔をするアズキ。(ああ、幸せだ)と思う。
「総二郎さん、私を保護してくれてありがとうございました。私、いまとても幸せです」
「どういたしまして。おかげさまで僕も幸せです。紗枝さん、アズキも落ち着いたことですし、今夜は外食にしませんか? アズキを保護してから、一度も外食していなかった」
「いいですね。どこにします?」
「加藤食堂は? 今頃はカキフライが美味しいですよ。加藤食堂のタルタルソースはピクルスが多めで僕の好みなんです」
「行きましょう!」
その夜、久しぶりに加藤食堂に向かった。波の音を聞きながら暖簾をくぐり、中に入った。
壁の短冊とメニュー表を眺めて、私はカキフライ定食、総二郎さんはお刺身定食、二人で分け合うことにして煮魚も頼んだ。熱々ジューシーなカキフライが美味しすぎて、最初はカキフライが五個じゃ足りないと思ったけど、煮魚と白いごはん、アラ汁を完食したら満腹になった。
「美味しかったね。さあ、帰りますか」
「アズキは初めてのお留守番、どうでしたかね」
「心配?」
「はい」
「僕もです」
せっかくの加藤食堂だったけど、私たちはお酒を頼まなかった。
帰宅して、いつもは総二郎さんと並んで歩いて玄関に向かうのに、今夜は思わず私が先に走って玄関ドアを開けた。
「あ!」
アズキが玄関の上り口に座って待っていた。私を見上げて文句を言うように「ミィィ」と鳴いた。胸がギュッとなって、思わず抱き上げてほおずりしてしまう。アズキもゴロゴロと盛大に喉を鳴らしながら、私の二の腕を踏み踏みする。
それがお乳を飲みながらする動作だと気づいた日から、アズキのことが何十倍も愛おしくなっていた。
「ただいま、アズキ。お留守番寂しかった? アズキは可愛いねえ。本当に可愛い。お母さんはアズキが大好きよ」
「ミィィ」
私の背後でドアが開き、腕の中のアズキが首を伸ばして入ってきた総二郎さんを見た。
「いい子にしていたか、アズキ」
そう言って総二郎さんがアズキの頭を撫でる。
私はアズキを抱いてリビングに入り、お留守番のごほうびのおやつを取り出した。アズキはおやつの袋を覚えていて、待ち切れない様子で私の脚に身体をこすりつけてくる。
アズキが食べる様子をスマホで撮影する。最近の私のスマホはアズキだらけだ。そんな私を眺めながら、総二郎さんが話し始めた。
「紗枝さん、さっきアズキにお母さんて言ってましたね」
「あは。聞こえちゃいましたか? アズキの世話をしていると、なんだかそんな気持ちになってしまって」
「紗枝さんはお母さんになりたい気持ち、今も全くないのかしら」
返事ができなかった。
少し前から、アズキの世話をしている時、今まで経験したことがない強い気持ちが湧き起こることに気がついていた。
(私はお母さんになりたいの? いやいや、やめておこうよ。私、いい母親になれる自信が全然ない。私の子供に、祖父母のことで苦労はさせたくない)
私はアズキと暮らすようになってから、ずっと自問自答を繰り返している。
「紗枝さんの気が変わったのなら……そこは本音を聞かせてね。迷っていることも含めて全部ね」
「まだ、わからないんです」
総二郎さんが近づいてきて、おやつを食べているアズキの背中を撫でた。
「迷っていても、子は持ちたくないと決めても、子を持つと決めても、僕の紗枝さんへの気持ちは変わらないんです。それだけは絶対に忘れないでね」
「今すぐにははっきりお返事できません。ごめんなさい」
「謝るのはやめましょう。いろんなことがあったから、迷うのは当たり前です。慌てずに。僕は子供まで望むのは贅沢すぎると思っていたけど、あなたが子供を望むなら、その返事も嬉しいですよ」
それから私はずっと迷っている。迷うことすらなかった以前とは、もう自分が違ってきていることはわかってる。だけど……。
アズキはどんどん大きくなり、今では生後三ヶ月の元気な若猫だ。今はおもちゃで遊んでいる。アズキを眺めながらコーヒーを淹れていたら、美幸さんから電話がきた。三十分も世間話をした最後に、驚きの報告をされた。
「私ね、入居者さんのお孫さんと結婚することになったの。毎週のようにおばあさんのお見舞いに来ている人。優しい人だなあと思って立ち話をしていたんだけどね。立ち話が外でお茶を飲みながらの話になってさ。だけど、まさか結婚を申し込まれるとは思わなかったわ。少し迷ったけど、こんな優しい人と夫婦になれたら幸せかなと思って、オーケーしたの」
「うわ! おめでとう! 美幸さん、ほんとにおめでとう!」
家族以上の存在の美幸さんが結婚する。もうそれだけで嬉しすぎて泣けてしまう。
美幸さんは「結婚なんてしたくない」と言い続けていた。「男も結婚も夫婦も、全部信じられない。仕事とお金の方がよっぽど信じられる」と繰り返し言っていた。
「私は一生結婚なんてしないと思ってたけど、一歩踏み出してみたら、案外違和感がなかった。穏やかで平凡な家庭、私にも作れるような気になったんだよね。交際している間にその人が私を変えてくれたの。不思議だよね、この歳まで結婚を頑なに避けてたのにね。タイミングもあったのかもね」
「美幸さん……」
「彩恵子ちゃんたら、そんなに泣かないでよ、もう。でも、ありがとう。私ね、昔のことは頭から追い出して、幸せになる。そう決めたの。幸せな家庭を知らないで育った私たちだって幸せになれるって、意固地になってた自分に見せてやるの」
「うん……」
子供のときから、美幸さんはいつも正しくて強かった。いつだって顔を上げて生きていた。美幸さんは、私が母親になるのを怖がっていることも、知っている。
「彩恵子ちゃん、人生は自分のものだからね? 本当に欲しいものがあったら、自分で手を出して取りに行ってよ? 我慢はだめだよ?」
「うん……」
「私が言いたいのはそれだけ。結婚式には絶対に来てね!」
私は急いで話しかけた。
「美幸さん、私、よく考えてみる。自分が望んでることがなんなのか、自分でもわからなくて」
「本を書くこと以外にも、欲しいものは欲しいって願っていいんだよ。欲しいものを無理にひとつにしなくていいんだからね?」
「……うん」
「じゃあね。式の日にちが決まったら連絡するね」
電話を切って、深呼吸をひとつ。スマホを置いて考えた。考えていたらコーヒーはすっかり冷たくなってしまった。
(私の人生は私のもの。欲しい物を無理にひとつにしなくてもいい。私の人生は……私のもの。私……本当は、やっぱり……)
総二郎さんの部屋に向かい、ドアをノックした。「はい、どうぞ」といういつもの優しい声に励まされてドアを開けた。仕事中だった総二郎さんは眼鏡をかけていた。アズキが走ってきて、総二郎さんの膝までよじ登った。
「紗枝さん? どうしました?」
「総二郎さん、私……私本当は……」
本日、本作の書籍が発売されます。
どうぞよろしくお願いします。