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68 海辺の町で間借り暮らし

これまで応援いただき、ありがとうございました。来月に番外編を投稿する予定です。

 町内会のお祭りが始まり、空地はたくさんの人で賑わっている。桂木さんと会場を見て回っていると、丸山ベーカリーのご主人が笑顔で近づいてきた。


「桂木さん、おはようございます。おかげさまで大盛況です」

「よかったですね。私もお買い物が楽しみです」


 私が笑顔でそう応えると、丸山さんがレジ袋を差し出した。


「これはささやかなお礼です。うちの人気のパンを詰めました」

「あら、気を使わせてしまって。丸山さんのパンは大好物です。ありがたく頂戴しますね」


 袋の中には、美味しそうなパンが何種類も入っている。桂木さんが袋の中を覗いて笑顔になった。


「紗枝さん、そのチーズクリームが挟んである三角のパン、覚えていますか?」

「ん? あっ、これ……」


 食パンにチーズクリームを挟んで三角に切ってあるのは、火事の翌朝に食べたパンだ。

 袋から取り出して眺めた。あの日は遠い昔のように感じるけれど、火事は去年の十月下旬。まだ一年もたっていない。


「それはチーズクリームサンドで、うちの一番の人気商品です」

「私の家が火事で燃えた翌朝、夫がご馳走してくれたパンです。とても美味しくて、このパンに慰められました。でも、お店では見かけたことがなかったような」

「朝のうちに売り切れちゃうんです。そうですか。うちのパン、そんな大変なときにお役に立てたんですね」

「ええ。忘れられない味です」


 丸山さんは「いやあ、嬉しいなあ」と顔をほころばせ、「ゆっくり楽しんでください」と言って離れて行った。

 空き地にはテントが並び、各商店の品が売られている。パンの他に焼き鳥、総菜、和菓子、焼き菓子。靴下やハンカチ、手提げ袋などもある。

 

 集まった客たちは、食べ歩きをしたりパイプ椅子に座って休んだりしている。私が置いたベンチには、八十代くらいの老夫婦が座っていて、ベンチの前に立っている丸山さんと談笑していた。


 テントを順番に見て回ると、行きつけのお店の御主人や奥さんたちが「お! いらっしゃい」「毎度どうもね」「奥さんの好きなさつま揚げ、あるよ」などと呼びかけてくれる。私は自分が思っていた以上に、この町の住民として顔を覚えられているらしい。


 全部のテントを回り、たっぷり買い物をした。「そろそろ帰りましょうか」と桂木さんに声をかけて歩き出したときだ。


「すみません」


 市道に出る直前に、背後から声をかけられた。振り返ると、ベンチに座っていた老婦人だった。


「はい。なにか?」

「突然失礼いたします。もしかして、奥さんはこの本の作者さんではありませんか? あのおうちの方なのでしょう?」


 老婦人が道向こうの我が家を見てから、手に持っている手提げ袋から本を取り出した。私の『遠い日の落とし物』だ。さりげなく周囲を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。ホッとした。


「はい。そうです。お買い上げいただきまして、ありがとうございます」

「こんな場所で失礼かとは思ったのですが、どうしても先生にお伝えしたいことがありまして」


 無言で言葉の続きを待った。緊張で心臓の動きが速くなる。

 老婦人は濃い灰色の江戸小紋で仕立てたワンピースを着ていて、手提げ袋も着物の布で作られている。きちんとパーマをかけられた白い髪、手入れの行き届いた白い肌。

(攻撃的なことを言われませんように)と祈った。


「この本で先生のご苦労を読んで、私、何度も涙しました。実は私も……同じ境遇でした。先日の週刊誌の記事は、さぞかしご心痛だったでしょうね」


 私は返事に困って微笑むだけにした。


「でも、あの記事のおかげで先生のことを知ることができました。丸山ベーカリーは、私の孫がやっております。あの子が先生のご本に感動して、私に読めって薦めてくれたんです。ご縁だなと思いました」


 そこで女性の夫が「ここでは出入り口を塞いでしまう。こっちで話したほうがいい」と出入口から離れた場所へ私たちを導いた。老婦人は「そうだったわね。私ったらつい興奮してしまって」と恥ずかしそうに笑った。そして意外な話を始めた。

 

「私の父親は私が七歳のとき、酔った勢いで殴り合いの喧嘩して……相手を死なせてしまいました。孫は、その父のことを何も知りません。それなのに、孫が先生のあの本を私に薦めてきたんですよ。『絶対に読んだ方がいい、いいお話だよ』って。本を読み進めて内容に気づいたとき、本当に驚きました」

「よかったら我が家にいらっしゃいませんか? 立ち話ではなく、うちで座って話を」


 遮ったのは桂木さんだ。だが老夫婦は「ここで十分です」「そんなお手間は」と口を揃えて断る。


「私の父は服役中に病死しました。私の故郷は山奥の村でしたし、人権なんて言葉を皆が知らない時代でした。父の服役中も死後も、言葉では言い尽くせないほどつらい目に遭いました。私と母は、私が中学を卒業するのを待って東京に出て、二人で必死に働いて暮らしました。そこから先は、先生と同じです」


 老婦人が哀しみが混じったような微笑みを浮かべ、私の本の表紙を大切そうに撫でた。


「どこかから父のことが知られると、もう職場にいられなくなりました。私も母も職を転々としました。お金がないのに引っ越しも繰り返しました。私は父と自分の運命を恨みながら暮らしていましたけど、そんなときにこの人に出会ったんです」

「偶然に出会ったことも、先生と俺たちは少し似ていたな」

「そうなのよね」


 老婦人がご主人に返事をしてから私を見た。思いがけないほど目に力があった。


「先生、私は何度も人生に絶望しましたけれど、この人と夫婦になってからは幸せです。そんな人間もいると、どうしても先生にお伝えしたかったんです。突然打ち明け話をいたしまして、申し訳ございません」

「いえ……励まされます。ありがとうございます」


 老夫人の肩に、ご主人がそっと手を置いた。思いやりが伝わる優しい仕草だ。


「私も夫も孫も、先生の文章がとても好きです。先生の次の作品を楽しみにしております。同じ気持ちの人が、きっと他にもたくさんいます。その中には、私や先生と同じ境遇の人もいるかもしれません。先生、どうぞたくさん本を書いてくださいね。先生のご本、楽しみにお待ちしております」

「ありがとうございます」


 老婦人は「突然すみませんでした」と言ってお辞儀をし、旦那さんと肩を並べて去って行った。ステッキをついている旦那さんの歩調に合わせ、ゆっくり歩いていく。その背中に、私も頭を下げた。


「何を言われるのかとちょっと肝を冷やしましたけど、紗枝さんのファンでしたね」

「はい」


 それからは二人とも無言になった。家に帰り、紅茶を淹れて買ってきたものでお昼にした。チーズクリームサンドをトースターで温めて食べた。火事の翌朝と同じ優しい味が、口の中に広がる。


 何十年も昔の山奥の村。父親は人を死なせている。

 今よりずっと人権意識が薄かった時代に、あの老婦人はどれほどつらい思いをしたのだろう。東京に出ても、用心に用心を重ねて暮らしたはずだ。目立たぬよう、反感を買わぬよう。それでも秘密はくっついてきて彼女を苦しめたのだ。


 あの老婦人が過ごした苛烈な歳月を思いやる。

 私が経験した苦労の比ではなかっただろう。彼女が耐えてきた心の痛みは、生きる気力さえ削られるようなものだったに違いない。

 

「紗枝さん? 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。あの朝食べたときも思いましたけど、美味しいものは癒されますね」

「本当に大丈夫ですか? あの話、ショックだったんじゃない?」

「ショックというより……あの方がどれだけ苦しんだのだろうと思うと、この辺りが苦しくて」


 そう言って鎖骨の辺りをさする私に、桂木さんが労わりのこもった目を向ける。


「あなたはまず人のことを思いやってしまうから」

「お話を聞いて少し苦しくなりましたけど、今のあの方が幸せそうで……ほっとしました」

「夫婦仲が良さそうだった」

「たくさんの嵐を、ご夫婦で乗り越えてきたんでしょうね」


 桂木さんは返事をせずに私を見ている。


「私の文章が好きだって……次の本を楽しみに待っているって」

「そう言っていましたね」

「本を書く前は、そんな言葉をかけてもらえるなんて思ってもみませんでした。とても……嬉しかったです」


 嬉しいのに胸が締め付けられて、泣きそうになる。


 ティッシュを差し出され、目に当てながらパンを食べた。彼女の「たくさん本を書いてくださいね。先生の文章がとても好きです」という言葉が繰り返し耳に甦る。


 立ち上がって、小さな本棚から自分の本を取り出した。表紙には海を背景に向かい合う男女のイラスト。私と桂木さんをイメージして描かれたイラストだ。

 椅子に戻り、あの老婦人と同じように表紙をそっと撫でる。


「あの人は隠し続けてきた秘密を打ち明けてまで、応援してくれたんですね」

「そうだね。驚きました」

「総二郎さん。私、次の本を書こうと思います。今回のことで、正直『総二郎さんがいてくれるだけでも十分幸せなのに、欲張った罰が当たったな』って思っていたんです。でも、私が本を書くことで誰かを元気づけられるなら、書きたいと思いました」


 桂木さんがゆっくりと笑顔になった。


「そうですか。よかった。僕もこれで終わったら残念だなと思っていたんです」

「ほんとに?」

「ほんとです。言えば重荷になるだろうと我慢していました。何を書くか、もう決まっているの?」


 紅茶のカップを手に取り、うなずいた。夢として心の小箱にしまっていた話がある。戦乱の時代を舞台に、惹かれ合う男女が困難を乗り越えて結ばれる物語だ。

 本を書くことが叩かれることとイコールなら、もう本を書くのは終わりにしようと思いつつ、捨てるに捨てられないで抱えていた物語。


「書いてみたいお話が、ひとつあります。今度は純然たる創作です」

「そうですか。楽しみだなあ。大きな楽しみができた」


 総二郎さんが私の顔を覗き込む。


「このあと、お散歩に行く時間はある? 腹ごなしに海岸を散歩しませんか?」

「行きます。歩きながら次のお話について、語ってもいいですか?」

「もちろん。ぜひ聞かせてください」


 二人で玄関を出て、門まで歩く途中で振り返った。二階の窓をじっと見る。

 あの部屋で始まった海辺の町の間借り暮らしは、私を変え、私の人生も大きく変えた。


「総二郎さん」

「なんですか」

「この町に来てよかった。総二郎さんの家で間借り暮らしができて、本当によかった」


 桂木さんは華やかな笑みを浮かべると、無言で片手を差し出す。

 夫になった桂木さんと手を繋ぎ、私は海に向かって歩き出した。

  

✤本日、カバーイラストを、活動報告とX(旧ツイッター)で公開しております。美しい桂木さんと、けなげな紗枝さんを、ぜひご覧ください。

✤この作品はヤンチャンwebさまにてコミカライズ企画が進行中です。詳しくは以下のページでご覧ください。

✤なろう活動報告はこちら  https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/466465/blogkey/3199806/

✤守雨のXはこちら  https://twitter.com/shuu_narou


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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― 新着の感想 ―
[一言] 平易な文章で読みやすい、しかし退屈ではなくドラマチック モチーフ繰り返し波のように寄せては引く 面白かった
[良い点] 完結、おめでとうございます! 善意が丁寧に書かれていて、ありがたい作品でした。 心に栄養をもらえました。 ありがとうございます。 [一言] 守雨さんが書くそばから読める。 良い時代です。
[一言] 素敵な物語をありがとうございました。 とても心の為になりました。 次のお話も楽しみにしています。
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