67 過ぎ行く嵐 『す』
本作は【次回】で完結です。
いろはかるたは「ん」=「む」で、最後は「京」または「す」です。
かるたは今回で最後で。
動画の影響は大きかった。
発売から半年も過ぎた今になって、『遠い日の落とし物』は売れ行きが大きく上向いたのだ。
百田さんは喜んでくれたが、時間差で桂木さんの言う『引き波』が私と桂木さんを叩き始めた。
桂木さんは「人の足を引っ張るだけの人の意見なんて、読む価値はない」と言う。けれど桂木さんのことが書かれているのではと気になって、今回はエゴサーチをして読んだ。ネットの中の反応は予想通りだった。
「両親の犯罪を利用して有名になろうとしている」
「たとえ十二歳まででも産み育ててくれた親を捨てて、幸せだと書ける神経がわからない」
「そのまま大人しく生きていればいいのに。犯罪者の子供が偉そうに」
私のことはいい。少し安心した。だが、第二波も来た。今度は週刊誌が私と桂木さんの両方を叩き始めた。
「著者の母親は結婚詐欺の前歴」
「著者は老人と養子縁組をし、家と土地を遺産として受け取った」
「著者の夫(K氏)は大変な資産家で、ニ十歳も年上」
「K氏は社長時代に社員を自殺未遂に追い込んだあの人」
「K氏は若い頃に女性との派手な噂が絶えず」
「結果、著者は大変な玉の輿で」
週刊誌が面白おかしく悪意のこもった記事を載せていた。
私は過去も今も不思議で仕方ない。世間はなぜ、顔も知らない無関係な他人にこれほど興味を持つのだろう。
「この手の記事を読みたがる人は、一定数いるからね。僕の個人情報を晒している件と事実無根の件は、然るべき法的措置を取りました」
「わかりました。お手数をおかけします」
桂木さんにそう返事をしつつも、結局は桂木さんに迷惑をかけたことが心苦しい。気がつくとため息をついてしまう。そんなとき、美幸さんからメッセージが届いた。
『これ読んだ? 私、思わず拍手したわ!』
添付されているアドレスはウェブ雑誌の記事だ。驚いたことに、あの小藤綾さんがインタビューに答えている。小藤さんは桂木さんが毎月お見舞いに通っていた元社員さんだ。
その記事を要約すると、こういう内容だ。
『私と元社長の間には、もうわだかまりはない。私を利用して元社長が悪者に仕立てられている記事はとてもつらく、迷惑だ。私は誠実に対応してくれた元社長に感謝している。今回、私のことで不快な思いをさせてしまい、とても申し訳なく思っている』
それを読んで、すぐに桂木さんの部屋に駆け込んだ。
「総二郎さん、この記事はもうご覧になりましたか?」
「読みましたよ。小藤さんから事前に連絡を貰いました。『あなたまで表に出なくても大丈夫』と引き留めたのだけど、『私を利用するのが許せない。私は幸せなのに』と小藤さんが引かなかったんです」
そこで桂木さんは遠くを見るような表情になった。
「総二郎さん?」
「以前の僕は女性に不信感……はっきり言えば、自分に近づく女性に拒否感や嫌悪感を持っていました。でも、そんな意識を紗枝さんが変えてくれた。今度は小藤さんが僕を守ろうとしてくれている」
桂木さんはそう言って私を見た。
「紗枝さん、生きていればこの先も、こんな感謝と感動を味わうのかな」
「はい。必ず。嫌なこともあるでしょうけど、嵐は必ず通り過ぎるものです」
私は何度も経験するうちに嵐のやり過ごし方を学んだ。
『過ぎ行く嵐を二人で見送る』
桂木さんと二人なら、吹き荒れる嵐をやり過ごすのもそこまでつらくない。
引き波は二か月ほどで姿を消し、週刊誌の話題は芸能人の不倫に移った。私と桂木さんの生活は、再び以前のように静かになった。
ケヤキの苗はしっかり根付いたようだ。
新芽を吹いている若い苗を眺めながら、私と桂木さんはベンチに座ってケヤキを眺めながらおしゃべりしていた。
「桂木さん! 紗枝さん! お久しぶりです!」
市道に車が停まり、車の窓から声をかけて来たのは深山奏。
「ああ、久しぶりだね。今日はどうしたの?」
「先日契約した件の報告がてら、カニを持って来ました!」
桂木さんが「くすっ」と笑い、つられて私も笑ってしまう。桂木さんが何度「別にカニが大好物というわけではない」と説明しても、深山奏はカニを買ってくる。
「甘いものよりいいかなと思って。かと言って、お酒は僕が買えないような高級品が備蓄してあるから」
「わかったわかった。別にカニに不満はないから。ありがたく頂戴するよ。三人で食べようか」
「はい!」
二人が仕事の打ち合わせをしている間に、カニを蒸して身をほぐした。カニ入り茶碗蒸し、カニのちらし寿司、カニコロッケにする予定だ。
料理ができあがるころに、チャイムが鳴った。
モニターには近所の商店の御主人が二人並んで映っている。丸山ベーカリーさんと佐々木生花店さんだ。桂木さんが対応に出て、すぐにその二人がリビングに入ってきた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。この界隈の個人商店でささやかなお祭りを開きたいのですが、隣の空き地をお貸し願えたらと思いまして。これはご挨拶代わりに、どうぞ」
佐々木生花店の御主人が花束をくれた。桂木さんが(どうするの?)と言うように私を見る。
「どうぞ使ってください。あの場所がお役に立てるなら、私は嬉しいです。すてきなお花をありがとうございます」
「そうですか! 助かります! この辺の店は、どこも駐車場がせいぜい二台分くらいでしょ。人を集めるにも場所がなくて。公園は少し遠いし、あそこなら人を集めやすいと思ったんですよ」
私と桂木さん以外の人に使ってもらえることが嬉しい。ベンチを置いて水飲み場も設置したけれど、誰も入ってこないから、「休憩場所としてご利用ください 桂木」の札を立てようかと相談していたところだ。
「少し早いですけど、よかったらお昼を一緒にいかがですか? たくさん作りましたので」
丸山さんと佐々木さんはどちらも三十代後半ぐらい。最初は「いきなり来てそんな」と遠慮していたが、桂木さんが「そうおっしゃらずに」と取り皿とお箸を置いた。
私は追加の料理を作りたくなって台所に立ち、男性四人には先に食べてもらう。深山奏はさすがの営業力で、場を盛り上げつつ楽し気に会話に参加している。
肉味噌とマヨネーズを載せて焼いたナス味噌焼き。具沢山冷奴にはミョウガ、細ネギ、おろし生姜、刻み海苔をこんもり載せた。明太子を巻いた玉子焼きも作った。私も会話に加わり、賑やかに食べ、お祭りの話題で盛り上がる。
秋祭りの話が終わっても海釣りの話、地元のお店の話、民宿の話で会話が続いている。ひたすら下を向いて生きていたころの私は、こういう場に参加したことがほとんどなかった。
会社員時代は派遣だったのもあるが、お酒の席で私の実家の話題が出たらと思うと不安で、お誘いは笑顔で全て断っていたからだ。
(ああ、楽しい)と思いながら笑う私がいる。
「じゃ、そろそろ」と店主二人が立ち上がったが、丸山さんが急に恥ずかしそうな顔になって、セカンドバッグから私の本と油性ペンを取り出した。
「あの、作家さんにいきなりお願いするのは失礼かと思ったんですが、サインを頂けませんか? この本、大切に飾っておきたくて」
絶句した。なぜ私が作者だとわかったのか。
「奥さんがこの本の作者さんですよね?」
「……はい、そうです」
「やっぱり! 絶対そうだってうちの女房とも言い合っていたんです。サイン、お願いできませんか?」
「ええ、はい。喜んで。サインは初めてなのですが、私の名前を書けばいいですか?」
「はい。できれば『丸山省吾さんへ』と」
佐々木さんが「丸さん、感動したって繰り返し言ってたもんな」と言う。
「私が作者だって、どうしてわかりました? 顔写真は載せていなかったのに」
「買ったのは動画で話題になったからなんですが、読んだら地名店名は変えてありましたけど、まんま鯛埼町の景色や店や料理が出てくるでしょ。もうびっくりしたんですよ。そのうち……週刊誌に旦那さんが資産家で、年齢差の夫婦って書いてあったので。その上火事で燃えた家って言ったらもう、こちらの話だなとわかりました」
「それ、他にも気づいた人がいるんでしょうかね」
穏やかな桂木さんの声に、わずかに警戒心が滲んでいる。深山奏も感じ取ったらしく、笑顔を崩さないまま桂木さんを素早く見た。
「どうでしょう。実は私、桂木さんのお名前は出しませんでしたが、店のお客さんに本の宣伝をしたんです。『この小説はこの町が舞台だよ。間違いないよ』って。買って読んでくれたお客さんはみなさん『間違いなくこの町が舞台だね。読んでよかった。いい本を教えてくれてありがとう』ってお礼を言ってくれました。鼻が高かったですよ」
「そうでしたか」
二人が帰ってから、桂木さんに頭を下げて謝った。
「ごめんなさい」
「なんであなたが謝るの」
「地名も店名も全部変えて書いたから、気づかれないと思っていました。火事だって全国で毎日起きているし。そもそも本があんなに売れるなんて思わなかったから……。私がうかつでした」
「いまだに我が家はなにも実害がないでしょう? それがこの町の人たちの答えですよ」
「そうだといいんですけど」
それまで黙っていた深山奏が口を挟んだ。
「お祭りには地主として顔を出したらいいですよ。ここで怯えて引いたりせずに、ドーンと構えて顔を出せばいいんです」
「深山君の言うとおりです。紗枝さん、二人でお祭りに参加しましょうね?」
「はい」
正直、かなり気が重い。だけど私は顔を上げて生きると決めたじゃないか。
◇ ◇ ◇
お祭りの日がきた。何でもないような顔をしながらも、私の指先は緊張で冷たくなっている。
「さあ、行きましょうか」
桂木さんに促され、私たちは人が集まりつつある空き地に向かった。