66 昔日の問い 『せ』
頻繁に百田さんと連絡を取り合い、原稿を書き続けた。その作業には確かな意味があった。
両親に置き去りにされたとき、十二歳の私は(お父さんとお母さんは、慌てて私を置き去りにしたのではない)と思った。(私が役に立つのか立たないのか。連れて行くのは得か損か。冷静に判断した上で私を捨てたのだ)と確信した。
そんな私に人としての価値があるのか。私の人生に意味はあるのか。
十二歳のときから繰り返し考えた。『昔日の問い、繰り返して深くなる』という典型だ。苦痛な記憶を繰り返し思い出すことで、問いは私の心に深く刻まれ、消えない傷を残した。
でも、今は自信をもって答えられる。
私には生きる価値がある。私の人生には意味がある。心の傷は残っているけど、もう痛みは薄れた。
◇ ◇ ◇
「紗枝さん、海岸を歩きませんか? 昨日は海が荒れたから、ビーチコーミング日和ですよ」
「ビーチコーミング?」
誘われて出かけた海岸には、様々なものが打ち上げられていた。桂木さんはシーグラスと呼ばれる角が取れた優しい形のガラスのかけらを集めたいらしい。
私たちはシーグラスを集めながら、波打ち際を散歩した。桂木さんはなぜか豆粒ほどの小さなシーグラスを選んで拾っている。
「紗枝さんは知らないでしょうけど、僕の一番の長所は手先が器用なことなんです」
「あら。手先が器用そうとは思っていましたよ。もしかして、そのガラスで何か作るんですか?」
「完成してからのお楽しみです」
桂木さんの目がわずかに笑っている。
十日ほどたってから手渡されたのは、揺れるタイプのピアスだった。小さな青いシーグラスに穴を開け、銀の鎖で繋ぎ合わせてある。片方には極小の銀の十字架、もう片方には極小の銀の鈴が組み込んである。微妙に色合いの違うシーグラスを組み合わせたピアスは派手すぎず地味すぎず、私の好みのど真ん中だ。
「嬉しい。とても好みです」
「紗枝さんには揺れるピアスがよく似合いますね」
大喜びでピアスを見ている私に、桂木さんがコーヒーを淹れてくれた。
「バトーで買った豆です。キリマンジャロ」
コーヒーが美味しくて、桂木さんは優しくて、ピアスは好みのど真ん中。顔が緩む。桂木さんは、そんな私を美しい微笑を浮かべて見ている。
それからの私たちは、海が荒れた翌日にシーグラスを集めに行くのが習慣になった。
「荒れた天候が楽しみになる日がくるなんて思いませんでした」
「僕は自分の器用さに惚れ惚れしています」
思わず笑ってしまう。平和な日々が流れ、私のピアスが少しずつ増えていく。
最近はシーグラスに加えられるパーツが、銀から小さな宝石になった
「作ってくださるピアス、着実にグレードアップしていますよね?」
「なんだ、気づいてしまいましたか」
「宝石が加わったら気づきますよ。この青い石、タンザナイトでは? フルブルームで特集を組んだことがあります」
高価なピアスは落とさないよう神経を使う。私はきっと、困った顔をしていたと思う。
「だって、紗枝さんは指輪とブレスレットは仕事の邪魔になるから身につけないと言うし、ネックレスは肩が凝るって言うでしょう? ピアスぐらいはいいじゃない。本当はサファイヤでもいいと思うんだけど」
「どんどん高価になっていったら、失くすのが怖くなるのに」
「大丈夫。失くしたらまた作ればいい」
「そうじゃなくて私が気に……」
言い募る私に桂木さんがスッと唇を寄せて、抗議を止めてしまう。そんな優しい時間と仕事をしているとき以外、私は起きている時間のほとんどを書くことに費やした。
八月に始めた執筆作業は秋と冬を越し、桜の季節に本の形になって書店に並んだ。
『遠い日の落とし物』というタイトルは、百田さんと相談して決めた。
発売日に美幸さんと深山奏が駆けつけてくれて、四人で海の幸を食べながらお祝いをした。美幸さんは「私はずっと前から紗恵子ちゃんの才能に気づいていた」と言って少し泣いた。
犯罪者の親を持った女性の半生という自伝的な小説は、少しだけ話題になった。大きな反響はなかったけれど、それでも私はやり切った、と満足している。
ネットで叩かれたかどうかは知らない。桂木さんは「見る価値がない」と言うからエゴサーチはせず、何も見なかった。
本は「じわじわ売れていますよ」ということだった。
夏が来て、あっという間に九月になった。
私はまたメディアストーンの仕事と家事とフリーライターの生活に戻っている。私が担当するインタビューの仕事がだいぶ増えた。指名が少しずつ増えているのが本当に嬉しい。百田さんは「次の本を」と言ってくれるが、私は署名付きのインタビュー記事の仕事に満足している。
今日はしばらく前に更地になった私の土地に、穴を掘ってケヤキの苗を植えた。
「ケヤキって、大木になるし枝が横に張り出すから、たいてい剪定されちゃうんですよね。私、ここなら好きなように成長させてあげられると思って」
「そういう理由でケヤキでしたか」
「それと、施設の庭にケヤキが生えていて、いい思い出しかないんです。春は新緑がきれいで、夏は木陰が涼しくて、秋は紅葉がきれいでした。ベンチを置いたから、冬はここで日向ぼっこができますよ」
植えたケヤキは私の身長ぐらいの高さだ。水遣りをしていたら、百田さんから私に電話がかかってきた。
「はい。鮎川です」
「鮎川さん、思わぬところであの本が紹介されています」
「炎上しているんですか?」
「違います。動画で紹介されて……いまアドレスを送りますから、とにかく見て!」
桂木さんが心配そうな顔で私を見ているから、私は明るい口調で話しかけた。
「今になって私の本が話題になっているそうです。動画、一緒に見ますか?」
「ええ。ぜひ」
ベンチに座り、肩を寄せ合って画面を見た。
それは誰もが知っている人気の芸人さんのチャンネルだった。読書好きで知られている人。金色に髪を染めた芸人さんの『この一冊』というコーナーは、私も二度ほど見たことがある。
芸人さんは私の本の表紙をカメラに向けて話し始めたが、「今週紹介する本は……俺には身につまされる内容です。自分の子供のころを思い出して……」そう言っただけで言葉に詰まっていた。
鼻の頭がうっすら赤い。何度か目を瞬いてから話し始めた。
「これは、理不尽な世界を生きてきた女性が主人公の物語です。俺は……この主人公がどんな気持ちで生きてきたか、すごくわかります。知られていることだけど、俺は親のことで子供のときに散々虐められました。小中学校時代は、恐怖と苦痛と屈辱の毎日でした。俺は中学を卒業してからは暴れまわって、周りを威嚇して自分を守ってた。だけどこの主人公は……」
芸人さんは唇を噛んで涙を拭いながら、私の本を紹介してくれている。そういえばこの芸人さんの父親は、お役所のお金を横領して愛人に貢いで懲戒解雇、そして一家離散になったとなにかで読んだことがある。私と似た苦労をした人だ。
芸人さんは丁寧に本の解説してから、こう締めくくった。
『つらいことがある人に、ぜひ読んでほしい。主人公が下を向いていた顔を上げて、幸せになっていく場面を読んでほしい。俺は泣けました。この作者の実体験が元になっている話です。俺は誰かの幸せを喜んで泣くことができて、嬉しかったです』
芸人さんは最後を笑顔で明るくまとめていた。
「よかった。好意的ですね」
桂木さんにそう笑いかけたら、桂木さんの顔が硬い。
「どうしました?」
「これはいい意味でも悪い意味でも騒ぎになるかもしれませんね。この人のチャンネル登録者数、見て」
「三百六十二万人……。数字が大きすぎてピンときませんけど」
「打ち寄せる波は大きければ大きいほど、引き波も強いものだから。なにも起きないといいけれど」
それを聞いて急に心配になった私は、顔に出ていたのだろう。
「大丈夫。紗枝さんに本を書いてほしいと頼んだのは僕です。事実ではないこと、理不尽なことがあれば、僕が対応します。任せてくださいね。紗枝さんはエゴサーチをしないほうがいいですよ」
そう言って桂木さんは微笑んだ。
「総二郎さん、私、世の中の理不尽には慣れています。私は総二郎さんや親しくしてくれる人にわかってもらえたら、それでいいですから」
「うん。あなたはそう言うだろうと思った。だけどあちらからぶつかってくる場合もあります。紗枝さん、顔を上げていてね。許せないことがあれば、僕がきっちり対応するから」
動画の影響は確かにあった。
好意的な大波がきて本が売れ、少し時間を置いてから引き波が来た。