65 持てるものには限りがある 『も』
「笹団子、乾く前にいただきましょう?」
「そうだね」
二人で黙々と笹団子を食べる。笹の青い香りが心を落ち着かせてくれる。
「私が本を書くことで人の好奇心を刺激して、総二郎さんのお父様のことが知られたら……メディアストーンが立ち行かなくなるかもしれませんよ?」
「僕はあの世界とは関係なく生きてきた。父はこの世にはいなくなってもう三十年近い。それでも僕や会社を叩くと言うのなら、僕は戦うよ。僕には戦うための時間も資金もある」
私が黙り込むと、桂木さんがおっとりと笑い出した。
「僕たち、『賢者の贈り物』を地でいってるね。知ってる? 妻は夫の懐中時計につける鎖を買うために美しい髪を切って売り、夫は妻が欲しがっていた鼈甲の櫛を買うために懐中時計を質にいれてしまう話。僕はそれを小学生のときに読んで、『少しの努力でこんなすれ違いは避けられるのに』って思ったな」
「大人びた少年だったのですね」
「そう? 今でもその考えは変わらないよ。紗枝さんが大切な物を手放して僕を守ったとして、僕がその犠牲を喜ぶと思う?」
「それは……」
視線を上げて桂木さんを見た。いつもの微笑みがなかった。
「本を書かないという判断が、あなたの優しさゆえなのはわかってる。子供のころから人に迷惑をかけないように生きてきたあなたにとって、それが正解で正義だからね。けれど忘れないでください。僕は紗枝さんの犠牲をありがたがるつもりはありません」
「違うんです!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて声のボリュームを落とした。
「私は総二郎さんに助けてもらってばかりじゃないですか。私にだって守りたいささやかなプライドがあるんです。お世話になるばかりでお返しもできない上に、迷惑をかける妻だなんて……」
「絶対に嫌だ」という強い言葉はどうにか我慢した。
「そうですか……。紗枝さん、散歩に行こうか」
桂木さんが立ち上がって私の手を引く。繋がれた手は乾いて温かい。地団太踏みたいような尖った気持ちが少し落ち着く。
靴を履く間も桂木さんは私の手を放さない。私が放そうとしたらギュッと強く握られた。
「嫌です。放しません」
「スニーカーを履く間だけですから」
「嫌だ」
「駄々っ子ですか」
「頑固な妻に対抗するには駄々っ子にだってなりますよ」
思わず笑ってしまった。
片手でスニーカーを履いて、外に出た。夏の夜空を眺めながら、海沿いの県道を二人で歩く。
聞こえるのは波の音、通り過ぎる車の走行音。塾帰りらしい高校生たちの話し声。
「いいよねえ」
「なにがですか?」
「一人で人生を終えると思っていたころとは、全ての音が違って聞こえるんだ。三十歳の紗枝さんと、五十歳の僕が見ている景色、聞いている音は、同じだけれど同じじゃない。一緒に暮らして同じ時間を生きているけれど、あなたは人生の夏を生きていて、僕は夏を終えて秋を生きている」
人生百年と言われる時代なのに。
「いずれやってくる人生の冬を『あのときこうすればよかった』と後悔しながら生きるのは恐ろしい。人生百年時代なんて言うけれど、それは心臓が動いているだけの時間もカウントすればの話です」
手をつないだままの桂木さんに導かれて、県道から夜の海岸に下りる。私がコンクリートの階段を踏み外さないように、桂木さんがエスコートしてくれた。
夜の海は黒くて、空との境目がわからない。足元に打ち寄せる波も、見えにくい。
「本の話も、僕が僕のために勧めていると思ってほしい。『僕は妻の支えにも防波堤にもなってあげることができた』、そう思わせてほしい。孤独に倦んでいた僕だけど、この先の秋と冬は大満足で生きていきたい。年の離れた妻を持った男の、切なる願いです」
その言葉を聞いて、鮎川シゲさんの言葉を思い出した。
『結婚なんて煩わしいだけと思っていたんだ。でもね、もうすぐ死ぬんだなと思ったら、子や孫に囲まれて死ぬ人がちょっと羨ましくなった』
シゲさんは、よくしてくれたお礼だと言ってあの家を私にくれた。
「私、強運なのかもしれませんね。詐欺師の子に生まれて、親のことで逃げ回って、数えきれないほど運のなさに落胆してきました。でもシゲさんに出会って、あの家をきっかけに総二郎さんにも出会って。差し引きゼロ、ううん、違いますね。大幅に黒字の人生って気がします」
桂木さんが「ふふっ」っと笑って私の肩を抱いた。
「僕が紗枝さんに引き寄せられるのは、あなたのそういうところです。あなたの口から、誰かを恨む言葉を聞いたことがない。ねえ、一杯ひっかけてから帰りませんか? この近くに穴場があるんです」
「この辺にお店なんてありましたっけ?」
「やっぱり気づいていないんだね。あるんですよ」
県道を渡り、山に向かってどんどん進んだ。住宅街の奥まった場所に、『煮込み 白川』があった。暖簾がなかったら、全く普通の民家だ。
カラカラと玄関の引き戸を開けて一歩入ると、コンクリートが打ちっぱなしの床にオレンジ色の樹脂製テーブル。緑の丸椅子。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
半袖の白衣と白い帽子の男性が声をかけてくれた。
「紗枝さん、日本酒でいいかな」
「はい。今夜は総二郎さんのお薦めを」
桂木さんがカウンターの男性に声をかけた。
「すみません、煮込みを二人前と、日本酒を。冷やで」
「はいよっ」
すぐに運ばれてきたのは、深鉢にたっぷりよそられたモツの煮込み。茶色に味が染みたお豆腐も入っている。たっぷりの刻み葱がまた美味しそう。お通しは乱切りされたナスの煮びたしとキュウリの浅漬けだ。
「美味しいよ。海辺の町でモツ煮込みもいいものです。僕は一時期はまってしまって、週に三回は来ていた。この煮込みは煮汁がすごく美味しい」
モツは脂が丁寧に取り除かれている。七味を振ってから、添えられているレンゲで煮汁を口に運んだ。思わず目を閉じてしまった。煮汁にモツの旨味と脂の甘みが溶けだしていて、生姜の香りが後からくる。
この煮汁を肴に日本酒を飲みたい。いや、白米が食べたい。
煮汁ごと熱々のモツを口に入れ、日本酒を飲む。「うーん」と唸ってしまった。
「夕飯も笹団子もいただきましたけど、白いごはんが欲しくなりますね」
「どうぞ、好きなだけ召し上がれ」
「……いえ。今夜はやめておきます。いくら総二郎さんがぷにぷに好きでも、今度にしておきます」
桂木さんが下を向いて「ふっ」と笑う。
「僕は紗枝さんのぷにぷにが愛しいのであって、誰のぷにぷにでもいいわけじゃないのに」
「明日も来ましょう。明日の夕飯はここで」
「いいですよ。本を書くと約束してくれたらね」
私は桂木さんの顔を見つめて、それからゆっくりうなずいた。
桂木さんは「嬉しい。本当に嬉しい」と繰り返しながら日本酒を飲み始めた。
食べて飲んで、ほろ酔いで手をつないで、私たちは笑いながら家に帰った。そしてすぐに百田さんにメールを書いた。
『本、書きます。書きたいです。全力で頑張りますので、よろしくお願いします。 鮎川』
『持てるものには限りがある』のが人生なら、私の一番は桂木さんだ。その上でまだ何かを手に入れることが許されるなら、私は……言葉の世界を旅するための切符が欲しい。
桂木さんに背中を押されて、私は人生で初めて欲張った。