64 日照りの荒野 『ひ』
桂木さんの部屋に入り、「どうして百田さんにかるたを見せたんですか?」と尋ねた。詰め寄った、と言ったほうがいいかもしれない。
桂木さんはいつもの心情がわかりにくい微笑を浮かべて私を見ている。
「私が本を書くことで迷惑をかけたくないって、そう言ったのに。総二郎さんのことを本に書いてもいいって、百田さんに言ったそうですね」
「怒ってるのかな?」
「怒ってはいません。なぜ? と思っています」
「リビングに行こう。僕がお茶を淹れる」
返事をせず、黙って桂木さんの後ろを歩いた。私は苛立っていた。桂木さんがリビングのソファーに座るよう手で示した。
「あの古い家が燃えた翌日。紗枝さんは疲れて動揺していたけど、それを僕に見せまいとしていた。頑なだったよ。だけど、パンを食べているときと、かるたの話をしているときだけは、目に力が宿った。だから美味しい食べ物と言葉が紗枝さんを元気にするんだなと思った。紗枝さん、言葉の世界がせっかくあちらから近づいて来たんだよ?」
「でも!」
「あなたが勇気を出して生い立ちを語ったからチャンスが回ってきたんです。なのに、せっかく開いた扉を自分で閉めてしまうの? もったいないよ。しかも扉を閉ざす理由が僕なんでしょう? 大切な人が僕を守ろうとしてみすみすチャンスを逃すなんて。それ、僕にとって、結構つらいことだ」
桂木さんは冷凍してあった笹団子を解凍して、緑茶と一緒に私の前に置いた。笹の青い香りが漂ってくる。笹団子を縛っている井草をほどきながら考え込んだ。
桂木さんを守ろうとしたら、つらいと言う。
だけど私が桂木さんのことまで本に書くことで、今まで世間に隠していた父親のことを知られたら? 労災のことをまた叩かれたら? 女遊び云々の嘘記事がほじくり返されたら?
笹をむいただけで眺めていたら、桂木さんが笹団子を手に持ったまま話を始めた。
「あのね……。僕はお金に苦労したことはあまりなくて、それは間違いなく恵まれていた。会社を立ち上げた後も、僕の仕事は順調だった。でも、それ以外はろくなことがない人生だった。紗枝さんを助けて、やたら親切だったのは、世間から見れば下心ありの行動に見えるかもしれないけど、そうじゃない。あのとき、僕は自分を救いたかったんだと思う」
桂木さんが長くきれいな指先で井草をほどき、笹をはがす。私と同じように眺めるだけで食べない。
「あなたは心配性だから言わないでいたけど、あの頃、僕は生きることに疲れていた。この先何年こうやって生きるのだろうと、先の長さにうんざりしていたんだ。働いてお金を稼いで、家や車にお金をかけても満たされない。常に喉が渇いていてヒリヒリするような。でもね」
桂木さんが私をまっすぐに見た。
「燃える家を無表情に眺めて何時間も外に立っていたあなたを見て、僕は必死になった。同じ失敗をしたくない、この人が命を絶つようなことになったらもう耐えられないと思った。しばらくして紗枝さんに『私は死んだりしない』と言われて、気がついたんだ。僕は自分を救いたくて必死なんだなって。あなたを助ける振りをしながら、本当は『まだ死にたくない。自分にはこの人を助けて守る役目がある』って思いたかったんだ。今思えば、だけどね」
桂木さんは指先で持っていた笹団子をそっと小皿に戻した。
「僕は母から『絶対にお父さんのことを他の人に言ってはだめ』と言われて育った。普段は物静かな母が、そりゃあ怖い顔で言うんだ。だから……学校で友達が父親のことを話題にして、家族旅行で海に行ったとか、父親が鬱陶しいとか厳しいとかいう話を始めると、僕は笑顔でそっと口を閉じた」
桂木さんが自嘲の笑みを浮かべた。
「僕の父は全身に刺青があるとか、母は四番目の愛人なんだとか、言えるわけがないからね。友達には『お父さんはもう死んじゃった』と言っていた。父は月に一度来るか来ないかで、家族で出かけることがない家だったから。それで通用したよ」
「総二郎さん……」
「自分が世間に対して負の存在だと、成長するにつれて正確に理解する。これはね、思春期の子供にはなかなかきついことだった。母を憐れな人だと思ったのは中学一年のとき。僕の母は、この世に父と僕しかいないかのように生きている人だった。そんな憐れな人に反抗する気にはなれなかった。父と縁を切ってほしかったけれど、父を失えばこの人は死んでしまうだろうと思った。だから僕は父にも反抗しなかった。実際、母は父を見送ってすぐに病気で亡くなったんだ」
そう言ってお茶を飲んだ。私もひと口飲んだ。お茶は冷めている。
「僕が二十代のときに父が病で亡くなって、母と二人で初めて父の家に行ったんだ。ごつい男たちがみんな泣いていて、父の周囲で綺麗な女性が何人も泣いていた。お見舞いを許されずにいた母は遺体を見るなり泣き崩れた。そんな母と息をしない父を見ながら、僕だけは泣けなかった。母子ともども養ってもらってた恩は理解していたんだけどね」
初めて桂木さんの口から家族への思いを聞いた。桂木さんが泣けなかったときにどんな気持ちだったか、私にはわかった。
「僕がなにに苦しんできたか、誰にも言うわけにいかない。そんな生き方を五十年だ。父のことだけじゃない。次々と女性に執着されて苦しんだのもそう。人に言えないことだらけ。そこに紗枝さんが現れて、あなたの両親のことを聞いて、僕はあなたの痛みを理解できた」
桂木さんの声がわずかに震えている気がして、視線を上げた。桂木さんの目が少しだけ赤い。
「僕が上手いことすり抜けた地獄を、あなたは歩いていた。それも子供のときからずっとだ。泣きもせず、人を恨みもせず、この人は地獄を歩き続けている。そう思ったら……たまらなかった。ああ、ごめん。同情じゃないんだ。同情しただけみたい聞こえるかも知れないけど、違うんだよ。あなたのことを心から大切に思っている。だけど僕は紗枝さんみたいにうまく言葉を選べない。本を書くこともできない」
「はああ」と桂木さんが息を吐いた。
「紗枝さん、本を書いてよ。あなたの役に立てることが僕は嬉しいんだ。僕のためにチャンスを逃さないでよ」
『日照りの荒野で見つけた木陰』
桂木さんは、私を守って癒す木陰だ。