63 笑顔は生まれるもの 『え』
私の手記を載せてもらっている月刊誌『フルブルーム』の百田さんから電話がかかってきた。
「百田です。来月で鮎川さんの連載が最終回になります。今のところ、四回分まで、全部が大変好評です」
「ありがとうございます。百田さんと編集長のおかげです」
「それでですね、こんなに多くの読者の関心を集めた手記を、このまま終わらせるのはもったいないという判断になりました。『連載した手記を軸にして、本にしたい』という声が出ているんです。鮎川さんの負担にならないのであれば、ぜひお願いしたいです」
本? 私の手記で? いやそれは……。
「百田さん、ご存じのように、私は短いインタビュー記事を担当してきて、今回の手記が一番長い文章でした。本一冊分なんて、私、全く自信がありません」
「それは安心してください。僕が引き続き担当します。二人で話し合って作り上げましょう」
「うーん……。お返事は今でしょうか」
「いえ。一週間後にお返事を聞かせていただければありがたいです。その前に決心がついたら、いつでも僕に連絡をください」
「考えてみます。お声をかけてくださって、ありがとうございます」
そこで電話を切ろうとしたけれど、百田さんが最後にこう言った。
「全国に鮎川さんと同じ境遇の人はたくさんいます。その人たちだけじゃない。気の毒な状況を傍観していた人、そういう子供の存在に気づかなかった人にも、この内容を読んでもらいたいと思っています。僕も鮎川さんの手記を拝読して衝撃を受けた一人です。鮎川さん、本にしましょう」
電話を切ってため息が出た。とても荷が重い。
『フルブルーム』に載った私の手記は、私にとっては間違いなく意味のある内容だ。
自分にはどうすることもできなかったことで理不尽な目に遭い続けても、私は反論しないで生きてきた。
山のように言いたいことがあっても、言ったところで周囲が変わるわけがないと口を閉ざしていた。
他人に期待しなければ傷つくこともないと諦めて、扉を閉じて自分を守っていた。
そんな私が「犯罪者の子供は、こんな気持ちで生きています。なんでもないふりをしていても、心はずっと血を流していました」と胸の内側を開いて見せたのだが。
私がそうできたのは桂木さんのおかげだ。私の手柄じゃない。
だから、同じ境遇で苦しんでいる人に向かって「もっと声を出していいんだよ。顔を上げて生きようよ」なんて、偉そうに言えるわけがない。自分の過去を正直にさらけ出すのと、他人に向かって行動しようと働きかけるのは全く別のことだ。
私が安心して笑って暮らせるようになったのは、桂木さんに出会った結果だ。桂木さんは屋根になり、壁になって私を守ってくれた。私が一人で勝手に強くなったわけじゃない。
『笑顔は生まれるもの』
笑顔はその人の中から生まれるものだ。外から「笑って生きましょう」と言われて笑うことに、果たして意味があるのか。
「やっぱり断ろう」
床にワックスをかけながらそう決めたら、私の目の前に桂木さんのスリッパが。ドキッとして顔を上げたら、穏やかな表情の桂木さんが私を見下ろしている。
「何を断るの?」
「あっ。私、声に出して……」
「僕には内緒の話かしら」
「いいえ、違います。聞いてもらえますか?」
「もちろん。こっちにおいで」
手を引かれてソファーに座った。手をつないだまま私が話し出すのを待っている桂木さんに、百田さんの提案を話した。
「書けばいいのに」
「私が生き方を変えられたのは総二郎さんのおかげです。私が一人で変わったわけじゃありません。それに、私は手記を多くの人に読んでもらえただけで十分満足しています」
「僕のことも書けばいいよ」
「そんなこと……したくないです」
「なんで?」
「総二郎さんに対して意地の悪いことを言う人が出てくるかもしれません。それは絶対に嫌です」
「いいじゃない、言わせておけば」
私はふるふると首を振った。
「嫌です。何も知らない人が総二郎さんの善意にケチをつけたりしたら、私、ものすごく後悔します」
「二十も年下の紗枝さんを丸め込んだ、とか? 言わせておけばいいよ。言われたら『いいだろう、羨ましいだろう』って言ってやるさ。僕はもう、紗枝さん以外に失って困るものはない。何を言われても痛くも痒くもない」
それでも私は黙っていた。本当に桂木さんに迷惑をかけたくない。
助けられ、励まされ、守られている私が、桂木さんに迷惑をかけるのは絶対に嫌だ。私にも守りたいプライドがある。
私が口を閉ざしていたら、桂木さんは「よしよし。そんなに唇を噛んではいけないよ。傷がついてしまう」と言いながら私の唇を指でそっと触れた。
美しい顔の人にそんなことされるのは、いつまでたっても慣れない。顔が赤くなっているのが自分で分かった。やめてほしい。
本の話はそこで終わって、夕飯の時間まで互いに仕事をして過ごした。夕飯のときに「紗枝さんのかるたは人に見せてもいいの?」と聞かれた。
「かまいませんけど、あれだけ読んでも意味が分からないのでは?」
「そうだけど、見たいと言う人がいたら、見せてもいい?」
「どうぞ。あんなのでよければ」
「わかった。ありがとうね」
桂木さんは舞茸と油揚げと鶏肉の炊き込みご飯を美味しそうに食べて、そのあとは仕事部屋にこもっている。
私は、本の話は断る覚悟を固めながら家事をしていた。
夜の八時すぎに百田さんからまた電話がかかってきた。日に二度もかかってきたのは初めてで、急いで電話に出た。
「はい。鮎川です」
「鮎川さん、桂木さんに『いろはかるた』を見せてもらったんですよ。あれはいい。ひとつひとつ説明を聞きたいです」
「かるた……。桂木さんが百田さんに? 見せたんですか?」
「鮎川さんの許可は取ってあると聞きましたよ」
「それは……はい。見せていいと言いましたけど、まさか百田さんに見せるとは思わなくて。だってあれ、その場その場の思いつきで作ったものですから」
そこから百田さんが熱弁をふるった。
「本はね、連載した手記を膨らませていこうと思っていたんだけど、あのかるたを読んで考えが変わりました。鮎川さんの過去をベースにしながら、鮎川さんがどう変わっていったのか、かるたを絡めながら桂木さんとの関りも含めて書きませんか? 桂木さんの了解は頂いています」
「それは、うーん、桂木さんと相談させてください。その上でお返事させてください」