62 白いケーキ 『し』
桂木さんに抱き締められてじっとしているのに、私の心臓の動きが速くなっていく。
(大丈夫。桂木さんとなら大丈夫。信じて大丈夫。きっと二人で笑って生きていける)
自分にそう言い聞かせて、桂木さんを見た。
桂木さんは私にツンと軽く口づけてから私を抱きしめていた腕をほどくと、「では今から市役所に行きましょう」と言う。
「今ですか?」
「今ですよ。紗枝さんの気持ちが変わらないうちに婚姻届を出しておかないと」
本気で言っているのがわかった。とたんに心の奥からブワッと桂木さんへの愛しさが湧き上がってくる。こんなに私を愛してくれる人は、この先もう現れない。
「私、よく考えてお返事したのに。気は変わりません」
「わかってますよ。ずいぶん待たされましたから。さ、紗枝さん、行きましょう。さあさあ」
ニコニコ顔の桂木さんはニコニコしたまま再び市役所まで運転し、用紙を貰うとすぐに家に戻った。家に帰るとすぐさま、「ハンコと身分証を持ってきて」と私を急かす。ハンコを持ってくると、「証人欄を書いてほしい人はいますか?」と私に尋ねる。
「いいえ。鯛埼町にいる総二郎さんのお友達でお願いします」
「ゴルフ仲間になってしまうけど、いいの?」
「はい。お願いします」
桂木さんはゴルフ仲間に連絡を取り、承諾を得てから友人の家に向かった。お友達夫婦にその場で証人欄に記入してもらい、お祝いの言葉を聞き終わるとすぐに市役所に再び車を走らせた。市役所で自分たちの名前を描きこみ、完成した婚姻届を職員さんに渡した。ここまでがあっという間だった。
受け取ってくれた窓口の女性が笑顔で「おめでとうございます」と言ってくれる。
私は軽く頭を下げただけだが、桂木さんは「ありがとうございます」と輝くような笑顔で返事をして、受付の女性の動きを止めた。
(お気持ち、わかりますよ。桂木さんの笑顔って、思わず動きを止めて見ちゃいますよね)
相手の動きを止めたことに気づいたのかどうか、庁舎を出た桂木さんは満足げだ。
「総二郎さん、結婚してしまいましたね」
「してしまいましたよ。既にあなたは僕の妻です」
「これでもう、総二郎さんが怪我をしても付き添えます。今、それが一番嬉しいかも」
「うん?」
桂木さんが脚立から落ちた日、私の立場では病院で会うことも様子を知ることもできなかったことを簡単に説明した。
「そんなことがあったの。僕はてっきりあなたが遠慮して院内に入らなかったのだとばかり……。気の毒な思いをさせたね。でも、これからは紗枝さんに病室まで来てもらえるし、あなたを法的にしっかり守ることができる。ああ、ホッとしました。ずっとモヤモヤしていたことの多くが、一気に片付いた」
桂木さんがなににモヤモヤしていたのか、おおよそは想像がつく。
マスコミやネット経由の世間のバッシングとか、刑期を終えたあとの父や母から私をどうやって守るか、だろうと思う。
以前の私は交際相手のそういう庇護欲から逃げてきた。なにかしてもらっても、私にはお返しができないからだ。
「極力他人に借りを作らず、逃げるべき時は素早く逃げ、自分のことは自分で対処する」
私はこれから、その生き方に縛られなくなる。桂木さんに甘えても許される、のかな。
桂木さんは帰る途中でケーキ屋さんに車を停め、「待ってて」と言って入って行く。そして袋を下げて車に戻り、家に到着した。
私はコーヒーを淹れてテーブルにカップを置きながら話しかけた。
「総二郎さん、これからの私は……今までよりも多少、甘ったれになるかもしれません」
「好きなだけ甘えてください。そうしてくれると仕事にも張りが出るというものです。紗枝さん、結婚式はどうしますか?」
私は黙って首を振った。
「ドレスを着た写真だけでも撮っておく?」
もう一度首を振った。すると「そう」と言って桂木さんがケーキの箱を開けた。私の好きなレアチーズケーキだった。それもホールの。
「たぶんそう言うような気がしたから、あなたの好きなチーズケーキを買ってきましたよ。真っ白なところが気に入ったんです。じゃ、これが僕たちのウエディングケーキね。美味しそうだ。カットしないでこのまま二人で食べようよ」
ちょっと泣きそうになった。だから笑顔を作ってお願いをした。
「普段着でいいので、お庭で一緒に写真を撮りませんか? そういう普通のなにげない写真が欲しいです」
「わかりました。そういえば、二人で写真を撮ったこと、一度もなかったね」
「ええ。そもそも私、写真を持っていないんです。総二郎さんと撮る写真が、私が持っている最初の一枚になります」
「えっ?」
驚くよね。一枚も自分の写真を持っていない三十歳って、そうそういないだろうし。
「保護施設に入るとき、自分の写真は全部ゴミ袋に詰めて捨てたんです。その後もスマホで写真を撮られるのが好きではありませんでしたし、友人が撮った私の写真を自分のスマホに保存することもなかったので。施設での集合写真や卒業アルバムも、みんな捨てました。私、写真限定のミニマリストですから。ふふっ」
本当はそうではない。過去の私は誰の記憶にも残りたくなかったし、自分の手元にも写真を残したくなかった。私は自分という存在を、ずっと愛せなかった。
桂木さんはきっと驚いただろうに、優しく微笑んだだけだった。そしてフォークでレアチーズケーキにフォークを入れて、私に「はい」と差し出した。
「はい、あーんして」
おとなしく口を開けて食べた。私もひと口分をフォークに乗せて差し出した。桂木さんは私の手を包んでケーキを口に運んだ。
「これから紗枝さんの写真をたくさん撮ってもいいのかしら」
「私なんかでよければお好きなだけどうぞ」
「よし、これで僕にも趣味ができた。趣味は? と聞かれたら『妻の写真を撮ることです』と答えよう」
「やめてください。想像しただけで冷や汗が出ます」
「やっぱり?」
桂木さんと二人で笑って、せっせとホールケーキを食べた。
白いケーキはどんどん私たちのおなかに消えていったが、半分ほど残った。
「残りは明日また食べます。私、今日から一番好きなケーキはレアチーズケーキになりました」
「僕もです」
「それと、泣いてもいいですか」
返事を待たずに泣いた。
真っ白なケーキを見たあたりからずっと泣きそうだった。両手で顔を覆って、声を出して泣いた。あとからあとから、涙がいくらでも生まれてきた。
私はもう、泣きたいときに泣いてもいいのだ。
『白いケーキに祝われる』
今日、八月一日が私たちの結婚記念日だ。